少年プリズン

まさみ

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十七話

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 凱に殴り飛ばされたガキが6メートル後方のガキと接触しそこでまた小競り合いが勃発、敵を殴ろうと振りかざした肘が横のガキの頬げたに入り、瞬き三回後には取っ組み合いの様相を呈する。どさくさ紛れに乱闘圏内から脱しようとした俺の足をだれかが踏み、別のだれかが脇腹に肘鉄を食らわす。
 カッとした。
 反射的に横の奴を殴り返し、足を踏み返す。「痛えっ、」「この野郎!」語彙の乏しい悪態とともに浴びせられるのは鉄拳と蹴りの嵐、拳が鳩尾に入り、胃袋が圧縮される。口腔にこみあげてきた酸っぱい胃液をその場に吐き、片手で腹を庇った俺の中で何かが切れた。
 常識者は馬鹿を見る。俺はいつも損ばかりしてる。
 頼まれもしねえのにクソ生意気な鍵屋崎を助けて凱にとっつかまって殴られるわ蹴られるわ髪の毛毟られるわ強姦されそうになるわ、今もこうしてボロ雑巾のように揉みくちゃにされてる。
 「……―没有意思東京監獄(メイヨウイ―スートンチンチエンユィ)」
 「何?」
 俺の隣、おなじく乱闘の巻き添えになって髪やシャツを揉みくちゃにされながら鍵屋崎が聞く。
 俺と凱の発音を正確に聞き取れる鍵屋崎がわざわざ問い直したのは、罵声と騒音にかき消されて発言の内容がとらえにくかっただろう。
 だから俺は言ってやった。深呼吸して、この場のだれの耳にもしっかり届くような大声で。
 「東京プリズンはつまんねえところだって言ったんだよ!!」
 言いざま、俺の正面にいた奴に頭突きを食らわす。鼻血を噴きながらよろめいた相手が怒号を発して拳をふるう。いいさ、もうヤケだ。ここが東京プリズンなら東京プリズンの流儀に乗っ取って暴れてやろうじゃねえか。常識者が損を見るのが世の常ならそんな常識なんか便所に流して捨ててやる。
 人が変わったように暴れ出した俺を見て鍵屋崎が一瞬目を見張ったが、その背にどんと誰かがぶつかる。メガネを失い平衡感覚が狂っていた鍵屋崎はかくんと地に膝をつく。起き上がろうとしたそばから「邪魔だ!」と手の甲を踏まれ太腿を蹴られぐしゃりと地に突っ伏す。 
 ガキどもの足元に沈んだ鍵屋崎を慮り、取って返すような愚は今度こそ犯さなかった。
 鍵屋崎がどうなろうが知ったことか。
 やるだけやってやったんだからあとは自分でなんとかしやがれ、軟弱な日本人め。 
 「何をやってる、貴様ら!」
 「即刻持ち場に戻れ、さもないと独居房送りにするぞ!」
 砂埃の中でもつれあっていた俺たちの元に、遅ればせながら看守が仲裁に入る。が、単純な力勝負なら腕っ節の強い囚人に利がある。看守の多くは日頃権威を嵩にきて威張り散らしているが、その実態は腰抜けのエリート揃い。威嚇の警棒と胸のバッジがなければ囚人を呼び捨てにもできないタマナシどもだ。
 そして頭に血が昇ったガキの大群の前じゃ、警棒もバッジもまったくの無力だ。
 過激に潰しあう囚人どもの渦中に身を投じた看守の何人かは、どさくさ紛れに日頃の恨みを晴らそうという悪意ある意図によりリンチの制裁を受けていた。タコ殴りにされた看守が鼻血を流しながら遁走し、恐怖で腰が抜けた看守がシャベルを盾に縮こまっている。
 視界の隅を赤毛が過ぎる。リョウだ。最前列にいたリョウは不可効力で乱闘に巻き込まれたらしく、苺を手に抱いたまま右往左往していたが、だれかにどんとぶつかられた衝撃で苺を落としてしまった。砂にまみれ、めまぐるしく立ち位置を入れ替える囚人どもの足裏にすりつぶされた苺を見下ろし、リョウがぽつんと呟く。
 「―ぼくの苺」
 「文句あんのか赤毛チビ」
 苺をすり潰した囚人が悪びれたふうもなく聞き、リョウがにっこりと笑う。
 テレビの中から笑顔を広めにきた、天真爛漫な子役のほほえみ。
 「大ありだよこの××××野郎」
 スラングに慣れ親しんだ俺すらぎょっとするような悪態をつき、リョウが手首を一閃。次の瞬間、リョウの苺を台無しにした奴がどしゃりと膝をついてくずおれる。白濁した泡を口角に噴き、痴呆じみた面で虚空を見つめてる囚人を見下ろすリョウの手には、ポケットに仕込まれていたのだろう注射器が握られていた。
 あの注射器の中身がなにか知りたくない。
 「よそ見すんな!」
 「!?ちっ、」
 VS野次馬の死地を突破し、単身沸いてでた凱が俺の頬げためがけて拳を繰り出す。素早さにかけては自信がある俺はさっと身をかわし、軌道をいなす。と、拳に気をとられてる隙に凱の膝が鳩尾に叩き込まれる。これは効いた。仰向けに倒れた俺の上に凱がのしかかり留めの一発を放とうと腕を振り上げたが、間髪入れずその鼻面に頭突きを見舞う。ただでさえ醜い凱の面が鼻血でさらに醜くなる。
 「殺してやる。お前の死体をレイジに送りつけてやる」
 「死体の腹の中に防腐剤仕込むの忘れんなよ」
 凱の神経を逆撫でするとわかっていながら、レイジを真似てふてぶてしく笑ってやる。凱のこめかみの血管が膨張し、首に回された手に力がこもる。気道が圧迫され酸素が詰まる。苦しい、洒落にならねえ。凱の腹に蹴りを見舞おうとしたがひょいとかわされ、ますます手に力がこもる。
 視界がちかちかと明滅し、薄ら笑いを浮かべた凱の顔が急速にぼやけてゆく。 
 周囲の喧騒が遠ざかってゆく中、頭蓋骨の中に懐かしい声がこだまする。

 『あんたなんか死んじまえばいいのに!!』
 女の金切り声。頭蓋骨の中の暗闇にぼうっと浮かび上がるのは、俺に背を見せて泣きじゃくる女。なにがそんなに哀しいのか腹立たしいのか、寝台の真ん中にしどけなく横座りした女はドンドンとマットレスを叩いている。白い拳をめちゃくちゃに上下させてベッドに八つ当たりする女の姿は正視に耐えないほど痛々しく、そして、常なる神経の持ち主の理解を拒むほどに美しかった。
 薄い肩を嗚咽のリズムで上下させながら、女はベッドをたたき続けていた。女がベッドを殴りつけるたびにただでさえ傷んでるスプリングが軋み、粗末な寝台が撓む。
 ベッドに身を投げ出した女は、息子の代わりにベッドを殴りながら延延と呟いていた。
 『あんたがいなければ、あんたがいなければ私だって台湾に帰れるのに……』 
 いつか見た光景。いつか聞いた台詞。
 実際お袋はベッドより俺本人を殴ってることのほうが遥かに多かったが、この時の俺はおそらくお袋の目の届かない場所―たとえばクローゼットの中とかーにいたんだろう。ガキの頃の記憶だから心許ないが、お袋の折檻を恐れて逃げこんだクローゼットの扉の隙間から見たのは、俺の知らないお袋の悲願。故郷に帰りたいという弱音。
 その時俺は、生まれて初めてお袋をかわいそうだと思った。
 ただ単純に純粋に、寝台の上で泣いてる女が哀れだった。自分が折檻されてる時は痛みを堪えるのに必死でそれどころじゃないか、クローゼットの中の安全圏から客観的に見てみると、寝台の上で背を丸めてヒステリックに泣きじゃくっている女は、風が吹かなければはばたくこともできない、観賞用の美しさだけが取り得の無力な蝶のように見えたのだ。
 風が吹かなければ海を越えられない。海のむこうにある故郷に帰れない。
 俺という枷がなくなればお袋は台湾に帰れるだろうか。お袋のための風が吹くだろうか。
 俺の上に跨った凱の顔がだんだんと見えなくなり、頭蓋骨の中にこだましてたお袋の声も消えてゆく。喉が破裂しそうな息苦しさをおぼえながら、俺は心の中でこのくそったれた地獄に別れを告げた。

 再見東京監獄。地獄からおさらばした先がまた地獄なんてぞっとしねえけど。

 ところが俺は、またしても地獄の一歩手前で引き戻されてしまったようだ。
 突如乱入してきた足音と、一発の銃声によって。

 しんとした。
 砂埃が晴れるまでの間に完全な沈黙が落ちる。囚人服をしわくちゃにして取っ組み合ったガキどもが敵に馬乗りになったりなられたりした体勢で、銃声がした方角を凝視する。虚を衝かれたガキどもの耳に届いたのは足音。ザッザッザッと砂を踏み鳴らす律動的な足音が徐徐に近づいてくるにつれ、威圧感が増大する。
 「幼稚なお遊戯はそこまでだ」
 砂丘を踏み越えて登場したのは、一筋の反乱も許さず撫で付けたオールバックの男―安田だ。顔を見るのは一年ぶりだがよく覚えていた。三つ揃いのスーツを一分の隙なく着こなしたスマートな風体は、俺やその他の囚人が毛嫌いしてる奢り高ぶったエリートの典型だ。
 安田が天に翳していたのは一挺の拳銃。銃口からは今だ硝煙がたちのぼっている。
 天へ向けて発砲した安田は、銀縁眼鏡の奥の双眸をスッと細めて砂漠の惨状を見渡した。眼下にはタコのようにもつれあった囚人と看守、武器に代用されたシャベルや鍬や警棒が一面に散らばった戦場の光景。
 予想外の闖入者に、凱の五指から力が抜けてゆく。緩んだ五指から襟首がすりぬけ、俺の後頭部が砂に没する。窒息寸前で気道を解放された俺は身を二つに折って激しく咳き込む。涙でぼやけた視界に映ったのは逆光にぬりつぶされた安田の姿。
 砂丘の頂に立った安田は感情の窺えない目でぐるりを見回していたが、やがて静かに口を開く。
 「この地区の責任者はだれだ?」
 感情の水漏れしない平板な口調で、問う。回答者を指定したわけでもないだろうが、安田のいちばん近くに這いつくばっていた看守が「タ、タジマはんれす」と半泣きで訴える。囚人に殴られて鼻骨を折ったらしく、顔面は血まみれだった。
 「それで、タジマはどこにいる」
 冷然と問いを重ねた安田の目が、遥か遠方へと馳せられる。地に転げ伏した囚人と看守もつられてそちらを仰ぎ見る。50メートル後方からこけつまろびつ駆けてきたのは肥満体の看守―タジマだ。腰にさげた警棒がベルトの金具と触れ合ってカチャカチャと音をたてている。その音が次第に大きくなり、みっともなく息を喘がせたタジマが安田の足元へと馳せつける。
 「これはこれは安田さん、ようこそ……視察の一環ですか?毎度ご苦労さまです」
 にぎにぎと揉み手しながら挨拶するタジマ。卑屈に媚びへつらった態度からは囚人に対した時に見せる横柄な振る舞いなど消し飛んでいた。他の多くの看守がそうであるように、下には当り散らしても上には絶対服従を誓うのが東京プリズンの悪しき体制なのだ。
 タジマの愛想笑いを冷然と見返し、安田が聞く。
 「そのつもりだったんだが……この惨状はなんだ?」
 銃をスーツの懐におさめた安田の言葉に、タジマの笑みがひきつる。無理もない、この状況では言い逃れできないだろう。イーストファームAの2番地でこそ絶対的権力をふるう主任看守のタジマだが、安田はタジマの上司にあたる。一部の囚人の暴走行為を放任していたのが上にバレてしまったら最後、厳重な処罰が下るのは免れない。
 さらにタジマにとってやばいのは。
 「酒臭いな」
 安田がかすかに不快げに眉をしかめ、タジマの肩がぎくっと強張る。よく注意してみてみればタジマの顔はほんのり紅潮し、息にはアルコール臭が混じっていた。ここまで匂ってきたタジマの息の臭さに鼻をつまんだ俺をよそに、安田が淡々と続ける。
 「但馬看守、職務中の飲酒は規律に反する。後に署長に報告し、厳重な処罰を下してもらう。まず減棒は免れないだろうな」
 「ご、誤解ですよ安田さん。俺の顔が赤いのは風邪気味だからで、息がアルコール臭いのはさっき呑んだクスリのせいです。俺は病身を押して職務にあたったんですがコイツら粗野で野蛮な囚人どもときたら、いつのまにか作業をほっぽりだして喧嘩をおっぱじめて……監視が行き届かなかった部下の失態は認めます、こらっ、てめえのせいで安田さんがお怒りになられただろうが!土下座して謝れ!!」
 逆上したタジマが横に跪いていた若い看守を蹴り倒す。部下に非をなすりつけようって魂胆か、腐った奴め。
 取り乱したタジマを無視し、安田がサクサクと砂丘を降りてくる。その一挙手一投足が国会議事堂に登庁するエリート官僚のように洗練されている。他者を圧する高潔な存在感に、その場に居合わせた全員が看守・囚人の別なく距離をとる。
 「看守一同に命じる、この乱闘の首謀者をすみやかに拘束、独居房に送致しろ」
 「「は、はい!」」
 安田の命令で我に返った看守らが迅速に行動を開始する。腰にさげた警棒を構え、この騒ぎの核にいた連中を次々に組み伏せひっ捕らえてゆく。抵抗する囚人はいなかった。署長につぐ権限をもつ安田が出張ってきた以上、抵抗は無意味だ。凱だけは今だ怒り冷めらやらぬらしく、警棒で背を殴打されても暴れるのをやめなかった。
 「さわるな政府の犬、もうちょっとでコイツの息の根止められたのに、畜生っ!!」
 太い手足を振って発狂したように暴れる凱を大柄な看守が二人がかりで押さえ込み、後ろ手に手錠を嵌めて連行してゆく。看守に挟まれて砂漠を遠ざかってゆく凱と振り向きざまに目があった。

 『下一個殺(シアイーガ、シャー)』 

 凱の唇が無言で動く。「次は殺す」―無音の殺人予告だ。
 安田の介入により、周囲は俄かに慌しくなった。騒ぎの主犯格たる凱一党がもれなく警棒の連打を食らい、手錠を嵌められて強制連行されてゆく。巻き添えになった囚人の何人かも看守に殴られ、がっちり羽交い締めにされて拉致られてゆく。目に痣をつくり頬を腫らし肘を擦りむいたガキどもが、砂漠に幾条もの尾をひいて砂丘を引きずられてゆく大移動の光景をぼけっと見送っていた俺の肩に衝撃。
 よろけた俺の背に全体重をかけてのしかかってきたのはタジマだ。安田の前で失態を演じたタジマは、その怒りの矛先を俺へと向けてきたらしい。隣では鍵屋崎が別の看守に押し倒されていた。
 「なに澄ました面してんだ、てめえらも独居房行きだ!」
 「!なっ……、」
 目の前が暗くなる。
 独居房行き。窓がひとつもないコンクリートの房に拘束着を着せられて放置される罰。便所なんて上等なもんはそこにはない。三畳もないコンクリートの密室には便所なんて上等なもんはなく、尿意をもよおしたら拘束着の尻に開いた穴から糞便を垂れ流すしかない。糞尿の悪臭たちこめるコンクリートの棺の中に四肢を拘束されて監禁される罰の期間は最低三日、最高一週間。
 だが、最短三日で独居房からでてきた奴は全員人が変わっちまってる。変わらないのはよほど神経が図太い奴か最初から頭がいかれてる奴の二種類だ。独居房行きを喰らった人間はまず人と話さなくなり人の目を見なくなり暗闇を異常に怖がるようになり、仕事中と食事中以外は房の隅っこで膝を抱えて鬱々と塞ぎこんでるようになる。そして人と口をきかなくなるかわりに、だれもいない虚空にむかってブツブツ話しかけるようになる。
 一週間後に出てきた奴は―……大概、その足で首を吊りにいく。出される前に房の中で死んでる奴も多いが。
 「先にふっかけてきたのは凱たちで俺らは関係ねえだろ、言いがかりもいい加減にしやがれ!」
 「騒ぎを拡大したお前らも同罪だ!」
 無茶な。抗議しようとした俺の手首にがちゃりと手錠が嵌められる。鍵屋崎の手首にも銀の光沢の手錠が輝いている。俺の腕を掴んで強引に引っ立てたタジマが、耳朶に熱い吐息を吹きかける。
 『安心しろ、あとで独居房に見舞いに行ってやるよ。黒くて堅いプレゼントもってな』
 タジマの意図を察し、肌が粟立つ。
 手錠から逃れようと半狂乱で身を捩りだした俺を連れてゆくようタジマが命じ―……
 「待て」
 俺と鍵屋崎を拘束した看守を制したのは、意外にも安田だった。涼しげなまなざしで俺と鍵屋崎を見比べ、安田が指示する。
 「彼の言葉に嘘はない。手錠を解いてやれ」
 「しかし……、」
 「ロン。君は中国・台湾のハーフだったな?」
 突然質問を向けられ、狼狽を隠して俺は頷く。眼鏡のブリッジを押し上げながら、安田が淡々と指摘する。
 「さっき連行されていったのは東棟で最大規模を誇る中国系派閥のボスの凱とその一党だ。少なくとも六人いたな。対して、こちらは昨日入所したばかりの新人と刑務所内で孤立してる台中の混血児。どちらが喧嘩を吹っかけたかは明らかだろう。職務に私情を挟むのは感心しないな、但馬看守」
 眼鏡の奥の双眸がタジマの愚鈍さを哀れむように侮蔑をこめて細められる。体の脇で拳を握りこんだタジマが屈辱に歯噛みし、部下に命じて手錠を外させる。手錠を外され、どんと背を突かれて安田の前へとよろばいでた俺と鍵屋崎を見下し、安田が聞く。
 「鍵屋崎、眼鏡はどうした?」
 「壊されました」
 鍵屋崎が敬語を使うのを初めて聞いた。周囲の人間全てを見下してるような傲慢なコイツでも、安田には一目おいてるらしい。ただ、次に鍵屋崎が発したのは副署長に対するものとはとてもおもえない不敬きわまる暴言だった。
 「僕は今まで重大な勘違いを犯してました。僕は今まで日本は法治国家だと認識してたのですが、どうやらこの刑務所内では司法が適用されないようですね。まがりなりにも彼らは看守だ、六法全書の精神を学んで試験を通ったはずなのにその実態は唾棄すべき低劣さ。主任看守は職務中に飲酒をし囚人間のリンチを黙認し、所内では大手を振って賄賂がまかり通っている。待遇の優劣が賄賂によって左右されるなんて、拝金主義の政治家たちが国民の血税をつぎこんで無益な応酬を繰り広げる国会と変わりないじゃないか。貴方も副署長の自負があるなら刑務所の体制改革に乗り出したらどうですか?世界最大の規模と収容人数を誇る東京少年刑務所の実態が世間に知れれば、顕示欲旺盛な人権保護団体が騒ぎ出しますよ。国連の監査が入ったら面倒だ、日本の恥が露呈することになる。ただでさえ……」
 そこで言葉を切り、鍵屋崎が笑みを浮かべる。怜悧というより冷徹、コイツには人肌の体温がないんじゃないかと疑わせる氷点下の笑み。
 「ただでさえ、日本最高の頭脳の持ち主をこんな劣悪な環境下に放りこんだことで貴方がた政府の正気が疑われてるんだから」
 「なっ……、こっ……、」
 タジマの顔色が赤から白、しまいには青へとめまぐるしく変わる。鍵屋崎の頭上に警棒を振り上げたタジマを片手で制し、安田が顎を引く。
 「君の言うことも一理あるな。私も環境改善にむけて一応の努力はする」
 「まずは日本国憲法を看守に暗唱させてください。第11条 国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。ここの看守はそれすら知らない低脳揃いだ。小学校とはいわない、卵子と精子の結合の段階からやりなおしたらどうだ?」
 「鍵屋崎、君は憲法第十八条を知ってるか?」
 眼鏡の奥の目に試すような色を覗かせ、安田が言う。
 「第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
 「…………馬鹿にするな。それ位知っている」
 むっとした鍵屋崎を冷ややかに見下し、当たり前の口調で安田が告げる。
 「君たちが今強いられているのは、『犯罪に拠る処罰の一環の苦役』だ。憲法に反してはないだろう?」
 たしかに、建前じゃ反してない。
 腑に落ちないものを感じながらも憮然と押し黙った俺の視線が、安田の目から隠すよう体の脇にたらされた鍵屋崎の右手に吸い寄せられる。無数のガラス片が埋まったてのひらは出血こそ止んでいたものの、ぱっくりと開いた傷口からは赤い生肉が覗き、その痛々しさといったらなかった。相当痛いだろうに平然とした風を装ってる鍵屋崎の、異常なまでのプライドの高さにあきれる。
 こうまで強がるのもしんどそうだ。
 「君たちも怪我をしているな。作業はいいから、とりあえず医務室へ行け。そんな手じゃシャベルも握れないだろう」
 あっさりと怪我を見抜かれ、鍵屋崎がひどくばつの悪そうな顔をする。言うだけ言って立ち去った安田を見送り、俺は胸を撫で下ろす。
 とりあえず、今日も死なずにすんだようだ。凱たちにリンチされて全身腫れ上がった俺の死体が、井戸掘りにかこつけて砂漠のど真ん中に埋められるのは正直ぞっとしない。
 隣の鍵屋崎がどこへやら歩き出す。ざくざくと歩き出した鍵屋崎の肩を掴んで制止したのは、タジマ。
 「どこへ行く?作業を再開するぞ、とっとと持ち場に戻れ」
 「医務室へ行けと安田に言われた」
 鍵屋崎が不審そうな顔をする。甘い。甘すぎる。
 案の定、なぶり甲斐のある獲物を手中に掴んだようにタジマが嘲笑う。
 「『あとで』な。今は作業中で、責任者は俺だ。安田の若造なんか関係ねえ、お前ら囚人は俺の言うことだけ聞いてりゃいいんだ」
 鍵屋崎がなにか言おうと口を開き、また閉じた。唇を引き結んだ鍵屋崎はほんの一瞬苦渋に満ちた表情を昇らせたが、すぐにポーカーフェイスの虚勢を取り戻す。もうタジマの方は見ずに自分の作業場へと戻ってゆく鍵屋崎に追いつき、耳打ち。
 「お前、効き手は?」
 「右だ」
 てのひらに刺さったガラス片を苦心惨憺取り除きながら、鍵屋崎が吐き捨てる。ピンセットでも困難な作業が指でできるわけがない。ガラス片の大半はてのひらに埋まったまま、微細な傷口からはじくじくと新しい血が染み出している。
 「……ご愁傷様だな」
 聞いているのかいないのか、上の空の鍵屋崎はしつこいほどに右手の甲をズボンの腰にこすりつけていた。凱の小便の匂いがまだとれないらしい。手の甲が赤く擦れてもまだ止めようとしない。
 「吐き気がする。手を洗いたい、一刻も早く」
 「井戸が沸いたら洗えるよ」
 「井戸はいつ沸くんだ?百年後か?僕はたぶん死んでるな」
 「たぶん俺も死んでるよ。………おい、どこ行くんだ?」
 あさっての方角にふらふら歩いてゆく鍵屋崎を呼び止める。ふと立ち止まった鍵屋崎がうろんげに振り向く。
 「お前6班だろ?6班の持ち場はこっちだ」
 俺の指示に従い、鍵屋崎が方向転換。どこか覚束ない足取りでこっちに歩いてきたが、小高い砂丘の中腹でどしゃりと膝をつく。
 砂丘の半ばで力尽きた鍵屋崎を見て、奴の視力が途方もなく悪かったことを思い出す。それこそ、歩行に代表される日常生活にさしつかえるほどに。
 死ぬほど面倒くさかったし鍵屋崎を放り出して持ち場に戻りたいのが掛け値なしの本音だったが、一緒に死にかけたよしみでとりあえず声をかけてやる。
 「目が見えねーなら手でも引っ張ってってやろうか、日本人」
 「我自己來(自分でやれる)」
 何度もつまずき転倒し、脳天からつま先まで汚れ放題になっても手で砂を掻いて立ち上がり、一歩ずつ着実に足を運んでゆく鍵屋崎の姿を遠めに眺め、俺はため息をついた。

 俺の生き方も決して器用とはいえないが、アイツの生き方ほどじゃない。
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