少年プリズン

まさみ

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十四話

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 イエローワークは嫌われ者の溜まり場。

 他の部署の奴らにはそう揶揄されている。あながち穿った見解でもない。自分で認めるのも癪だが前述の言葉は事実である。危険度では火や危険物を扱うレッドワークが最上級だが、単純な肉体労働による体力消費量ではイエローワークに旗があがる。
 イエローワークにまわされるのは一般に罪が重いものだといわれている。複数人に対する殺人罪や五件を越す強盗罪などの凶悪犯罪を犯した少年たちが、それに見合った罰として最も過酷な部署に配属されるわけだ。
 最も、それは表向きの話。裏事情はまた異なる。
 種明かしをしてみれば、イエローワークにまわされるのは看守の覚えがよくない者ばかり。看守に反抗的な態度をとったり刑務所内で暴力事件を起こしたりなんだりで素行不良と見なされたガキたちの矯正所としてイエローワークは認知されているのだ。
 イエローワークの仕事は厳密に二分される。炎天下の砂漠で穴を掘り続ける苦痛な作業と、ビニールハウスの中でトマトや苺を栽培する平和でのどかな作業。前者の仕事に就かされるのは何かにつけ看守に反発して罰点をくらった奴ばかり、待遇のいいビニールハウスでの仕事に派遣されるのは贔屓されてる囚人たち。賄賂を送って要領よく看守に取り入った囚人たちのほかに、少年愛好癖のある看守を体でたらしこんだツワモノもいる。
 もちろん、俺は前者だ。威張れたことでもないが。
 自分ではそんなに反抗的な態度をとってるつもりもないが、何故か一方的にイエローワークの主任であるタジマに目をつけられている。タジマは俺が生理的に気に食わないらしく、これまでさんざん不条理な嫌がらせと理不尽な仕打ちをしてきた。半年に一度の部署移動でサムライはブルーワークに移されたのに、俺はイエローワークのまんまだ。いたぶり甲斐のある獲物を手放すのが惜しくなったタジマが俺の部署移動を裏で妨げたんじゃないかと邪推したくなる。タジマならやりそうだ。あいつは性根が腐っているからな。
 タジマの裏工作の真偽はさておき、ビニールハウス外のイエローワークの仕事はさまざま。畑に引く用水路を工事する連中もいれば二人がかりでリヤカーを引いてひっきりなしに資材を運搬する連中もいる。
 俺の班の仕事は「井戸掘り」で、実態は「砂掘り」だ。
 用水路に引く水を確保するため、運良く地下水脈にぶちあたることを期待してざくざく砂を掘り続けるのだが、砂漠のど真ん中に人工のオアシスが沸く確率はとてつもなく低い。天文学的確率。看守ら主導の地質調査の後、地下水脈が流れてる可能性がある箇所に当たりをつけて囚人を作業にあたらせているらしいのだが本当かどうか怪しい。何故なら俺がこの作業に就いてずいぶん経つが、一向に水が沸いてこないのだから。可能性はあくまで可能性、現実化する見込みは絶望的に低い。俺はこれが囚人への最たる嫌がらせのひとつではないかと疑っている。水が沸く可能性は皆無だとわかっていながら、体罰が怖くて看守に逆らえない囚人たちは黙々と穴を掘り続けるしかない。

 無為な作業、無為な日々。はっきり言って拷問だ。肉体的に、というより精神的な。 

 「-痛っ、」
 おもわずシャベルをはなす。手の豆が潰れていた。血と汗の滲んだ汚れたてのひらを見下ろし、舌打ち。五本の指は豆だらけで酷い有り様。皮膚がふさがる間もなく次の豆が潰れる悪循環の繰り返し。忌々しげにてのひらを見下ろしていた俺の横顔に視線。振り向かなくても看守に睨まれてるのがわかる。二度目の舌打ちをしたくなるのをこらえシャベルを振り下ろし作業再開。
 俺が今いるのはイーストファームAの2番地の砂漠。足立区と同規模の面積を誇る東京プリズンの東区画にある不毛の砂漠。班のメンバーは俺を含めて十三人。不吉な数字。
 鍵屋崎と別れた俺は他のメンバーにまざり、黙々とシャベルで砂を掘り返していた。そばで監視しているのは三十代の看守。タジマじゃないぶんいくらかマシだが、それでも性根が腐っていることに変わりない。今も脅すように警棒を振りながら、直径5メートルの穴の中心にいる俺を陰険な目でねめつけている。一刻も早く看守が去ってくれるよう祈りながら柔らかい砂にシャベルを突き立てる。抵抗のない砂はシャベルの先端を押し込んだそばからザラリと崩れて沈んでゆく。砂を汲んだシャベルを肩口に掲げ、せいやと後方へ放る。穴の周縁にうずたかく漏られた砂のせいか、蟻塚の底にいるみたいな錯覚をおぼえる。
 ザクザク。威圧的に砂を踏み鳴らす足音が去り、ほっと胸を撫で下ろす。他のメンバーの仕事ぶりを監督しに看守が去って行ったのをいいことに、俺はシャベルを握る手を休めた。シャベルの柄にぐったりともたれ、荒れた呼吸を整える。額から滴り落ちた汗がぽつぽつと砂へしみこんでゆく。砂漠に点々と穿たれた黒い汗シミを見下ろしていたら、聞き捨てならない単語が耳にとびこんできた。
 「今日はどっちに賭ける?」
 「レイジVS昇厘だろ?勝負になんねえよ、相手は東棟の王様だぜ」
 「わかんねーぜ、無差別なら。聞いたか?昇厘が靴の裏に鉄板仕込んで今日の試合にそなえてるって噂」
 「鉄板だけじゃねえぞ、俺はこの目で見たんだ。昇厘の奴、靴のつま先に鑢で砥いだ鉄片仕込んでる。飯食ってる俺のそばを通り過ぎたとき、食堂の床に落ちてたキュウリの薄切りが昇厘の足にさくっと刺さったからまちがいねえ。それにいつも使ってる鉄パイプじゃ芸がねえしレイジにゃかなわねえから、今日はヌンチャク装備してくるそうだ」
 「キリエは西棟だっけ。じゃ昇厘に賭けるの?」
 「悩んでんだよ今。西棟の住人としちゃ昇厘に勝ってほしいのが本音だけど、賭け金張るならシビアにいかねーとな。一歩間違えりゃ大損だ」
 「七対三でレイジの勝ちだろ」
 「辛いな。六体四にしとけよ」
 背中越しのやりとり。俺と同じ穴の底でこそこそ私語を交わしているのは同じ班の奴。片方は西棟、もう片方は南棟の住人。居住区が違うため個人レベルでの交流はないが、同じ班で一定期間仕事してれば嫌でも面識ができる。
 「八対二」
 ぼそりと呟いた俺のほうをはじかれたように注目する二人。西棟のガキは今はじめてそこに俺がいることに気付いたような顔をしている。南棟のガキはシャベルを脇に挟んだままポンと手を打った。
 「そっか、お前東棟だっけ」
 貴重な情報を収集したと南棟のガキが顔を輝かせる。西棟のガキは不満そうだ。
 「八対二はねえだろ。昇厘だって西棟じゃ有名な……」
 「レイジの強さは桁外れだ」
 虚を憑かれたような間抜け面の囚人ふたりを等分に見比べ、もったいつけて諭す。
 「レイジは本で人を殺せるぞ」
 「―は、はは。冗談」
 南棟のガキがひきつった笑いを浮かべる。俺の発言を冗談ととったようだ。ごくりと生唾を飲み下し、西棟のガキが念を押す。
 「マジで?」
 「大マジ」
 俺はレイジが本で敵を倒す瞬間を目撃したことがある。ちなみにその時使用した本は世界最大のベストセラー、聖書だった。
 罰があたるぞ。
 俺の発言が本気も本気だと理解した西棟のガキが薄ら寒そうに身を引く。南棟のガキは半信半疑。不信感のこもった目で俺を見つめている。無理もない、実際レイジの近くにいなければ奴の凄さはわかりにくい。同じ棟の同じ房で同じ空気を吸ってる俺には、だれよりも正確にレイジの凄さがわかる。黙り込んだ囚人ふたりを余裕たっぷりに見比べ、俺は予言した。
 「俺が口挟むことじゃねえけど、レイジに賭けたほうが賢いと思うぜ。八対二ってのはお前らをびびらせねえよう割り引いたんだ。本音は九対一でレイジのKO勝ち」
 南棟のガキと西棟のガキが顔を見合わせ、どちらにどれだけ賭けるかの不毛な議論を続行する。我関せずと作業に戻った俺は、ざくざく砂を掘り返しながら考える。
 こいつらは俺とレイジが同房だって知らない。もし知ってたらレイジの強さの秘訣や今宵の試合の行方など根掘り葉掘り詮索してくるだろう。答えるのは面倒くさいし、第一レイジの強さの秘訣など俺にもわからない。毎日千回腕立て伏せと腹筋をこなしているわけでもなし、馬鹿げた量の飯を胃袋につめこんでるわけでもない。なのにあの細い体で連戦連勝ときた。謎。
 「おーい、この砂捨ててきてくれ!」
 頭上から声。
 はっとして顔をあげると、穴の縁からこちらを覗きこんでいる人影。逆光に黒く塗りつぶされた人影の顔に目を凝らすと同じ班の奴だった。俺の後ろの奴らはまだ「鉄板はレイジだけど大穴で昇厘の可能性も捨てきれねえ」「俺は今夜の試合に賭ける!西棟のプライドに賭けて!」と喧喧轟々やりあっている。
 「俺がいく」
 ため息。シャベルをその場に投げ捨て、穴の斜面をよじのぼり地上に立つ。穴の底では俺がいなくなったことにも気付かないめでたい囚人たちが、「儲けた金でドラッグを購入するか、缶ビール1ダースを購入するか」の論争を続けていた。主旨変わってんじゃねえか。
 「じゃ、頼む」
 俺の前に立ってた囚人が変によそよそしい口ぶりでそう言づて、足早に立ち去ってゆく。いまさらショックも受けない。黄色い肌のアイツは中国系か、もしくは台湾系のグループに属しているのだろう。どちらにしろ憎い仇の血が混じった俺となかよしこよしを演じるつもりはないらしい。
 穴のそばに砂の詰まれたリヤカーが放置されていた。そんなに量が多くないから一人でも運べそうだ。わざわざ人の手を借りる必要はないだろう、と周囲を一瞥。周囲の人間も俺に手を貸す気はさらさらないようだ。はいはい、シカトですか。
 リヤカーの柄を掴み、ぐっと力をこめる。車輪が軋み、ゆったりとリヤカーが動き出す。リヤカーを引きずって歩きながら、なんともいえず嫌な気持ちを味わう。
 
 台湾と中国は十五年前に戦争をやらかした。
 
 もともと台湾と中国は、俺が生まれる遥か昔から「どちらが本当の中国か」でもめてたんだそうだ。頑として本家の主張を譲らない互いを苦々しく思いつつもそこそこ平和にやってきた台湾と中国だが、二十年ほど前から急激に両者の関係が悪化。当時の中国・台湾の政治的トップが揃いも揃って右派のカリスマで、国レベルでも個人レベルでもお互いを目の敵にして、公的な会議の場でも徹頭徹尾論理武装した熾烈な舌戦を繰り広げた。最初は国の総統同士の個人間闘争だったのが、争いがはげしくなるにつれ国民にまで飛び火。とうの昔に終息したはずの「どちらが本当の中国か」論争まで再燃し、中国でも台湾でも相手国を非難して自国を正当化する大規模なデモが連日繰り広げられる始末。

 国同士の喧嘩の決着は戦争にまでもつれこんだ。

 十五年前に起きた戦争は東シナ海海上と中国・台湾沿岸部を舞台に展開され、両軍あわせて一億人の死者をだした。当時の日本人総人口に匹敵するってんだから随分派手にやりあったもんだ。核兵器とか使われなかっただけマシだが、なまじ高性能の魚雷や戦艦やミサイルが開発されてたため被害は拡大した。その頃にはすっかり衰退してた国連が重たい腰を上げたときには民間にも八千万を越す犠牲者がでていた。国連の介入により戦争自体は強制終了されたが、両国の遺恨まで消えるわけではない。
 以降、冷戦状態にある中国・台湾は、東シナ海を挟んでいつ終わるともしれない睨み合いを続けている。
 近年日本に流れ込んできた中国・台湾双方の難民の中には、十五年前の戦争で親類縁者を失った者がたくさんいる。そもそも非合法・合法の手段を問わず利用して奴らが日本に流れこんできたのも、戦争の後遺症で経済が麻痺し国土が疲弊し、街には失業者と義足義手の怪我人があふれかえった祖国の現状に絶望したからだ。
 
 そんなわけで、戦争が終わったわずか三年後に互いが互いを目の敵にしてる台湾人と中国人の間におぎゃあと生を受けた俺は非常に肩身が狭い。平たく言えば、台湾人の女と中国人(たぶん)の男が「家族を殺した敵でもいったん好きになってしまえば関係ない」と、祖国愛より快楽を優先して乳繰り合った結果の産物=俺なのだ。 
 
 脳裏に無節操な母親の顔を思い描く。父親の顔は覚えてないから思い描けないが、俺は紛うことなき母親似だ。性格まで似てないのだけが救いだが、顔は本当によく似ている。男と見れば股を開いてくわえこむ、あの淫乱女は今頃どうしているだろう。11の時家を出てからさっぱり会ってないが、今も変わらず男をくわえこんでいるのだろうか。

 くだらないことをつらつら考えつつ、たった一人でリヤカーを引いていると50メートル前方に砂捨て場が見えてきた。俺と同様、リヤカーを引いてきた奴らがせわしく出入りしている。中央に築かれているのは砂の小山だ。
 小山の裾野に群れている囚人たちのもとへ急ごうとした俺の足を止めたのは、不審な物音。
 「?」
 振り返る。目線の先にあるのは粗末なプレハブ小屋。鍬やシャベルなどの作業用具を保管するために造られた安普請の小屋だ。物音は小屋の中から聞こえてきた。いやな予感。即座に回れ右したくなったが好奇心に負けた。リヤカーをその場に放置し、足音を忍ばせて小屋に接近。トタンの壁を迂回して、矩形の入り口を覗きこむ。
 
 小屋の奥にたむろっていたのは囚人服のガキが六人。皆よほどムショ暮らしが長いのか、囚人服の汚れ具合に年季が入っている。肉体労働で鍛えた腕には堅固な筋肉が盛り上がり、肩幅は広く分厚い。骨格は既に華奢な少年のものではなく、屈強な成人男性のものだ。
 中の一人、こちらに背を向けている人物に見覚えがある。
 頭抜けて発達した体格と筋骨隆々とした毛深い腕。囚人服の襟から生えた首は図太く、耳の後ろにまで毛が生えている。やけにゴツゴツとした不恰好な後頭部の、あれは……
 「昨日はおたがい残念だったな」
 声で確信した。凱だ。
 今思い出したが、凱も俺と同じイエローワークだった。班が違うから顔を合わす機会もないしこれまで気にしてこなかったが、未成年を名乗るのが詐欺におもえるあの巨体を見間違えるわけがない。
 なんで凱がこんなところにいるんだ、とか今更そんな当たり前のことは思わない。人目の届かないプレハブ小屋の中でやることといえば二つ。
 リンチかレイプか。
 後者であれば出歯亀になるのは遠慮したい。俺はこそこそとその場を立ち去ろうとした、が。
 「『おたがい』?参考までに指摘してやるが、日本語の文法が間違ってるぞ」
 偉そうな声。
 嫌味な言い回し。確かめるまでもない。
 (鍵屋崎かよ……)
 案の定、プレハブ小屋の隅に追いつめられていたのは鍵屋崎だった。自分より体格の秀でた連中にぐるりを取り囲まれているというのに余裕で腕組みまでしている。
 「『おたがい』というのは両方とも、自分も相手もその点についてはまったく同感だという事実を前提にした言葉だ。君たちはどうだか知らないが、僕は昨夜の行為に関してなんら快感をおぼえなかったし残念だとも思わなかった」
 「強がるなよ。あのまま続けてればお前だって勃ってたはずだ。サムライが邪魔したせいで本番はお預けくらったがな。―まあ、お前の体とおなじくモヤシみてえに貧相なアレが勃ったところで、ケツにぶちこまれるの専門なんだから使い道ねえが」
 凱に追従して取り巻き連中が下品に哄笑。
 「―反吐が出る」
 「なんだと?」
 笑い声が止む。うろんげに眉をひそめた凱を見上げ、鍵屋崎は淡々と繰り返す。
 「反吐が出る。食べたもの飲んだものを吐き戻す。「反吐が出る」はその活用形の慣用句。意味は―……」
 一拍おいて、言う。
 「不愉快だ」
 「―先輩に対する口のきき方がなっちゃねえ、てんでなっちゃねえ。同房のサムライ崩れやお友達のレイジくんは、先輩への口の聞き方や媚の売り方を教えてくれなかったのか?」 
 「他人から教えてもらうことなどなにもない。すべては……」
 鍵屋崎が自分のこめかみをつつく。
 「ここに入ってるからな」
 「なるほど、頭がいいのはわかった。そんだけ舌が回んのは多少なりとも頭がいい証拠だろうしな。だがなメガネ、」
 バン、プレハブ小屋が振動する。鍵屋崎の顔の横に平手を叩きつけた凱が、三白眼に憤怒の炎を灯して凄む。
 「東京プリズンで役に立つのは頭じゃない―……拳だ」
 「……それで?作業中の僕をわざわざここに連行してきた理由を端的に聞きたいのだが」
 「時間の無駄」といわんばかりにきざったらしくメガネのブリッジを押し上げた鍵屋崎に、下劣な笑みを湛えた凱が鼻息荒く迫る。
 「昨日の続きをしようぜ」
 鍵屋崎の顔の横に手をついた凱が前屈姿勢をとり、鍵屋崎の耳元でねっとりとささやく。耳朶を湿らす吐息の不快さに鍵屋崎が顔をしかめる。
 「入り口はこいつらに見張らせておく。コトが終わるまで立入り禁止のプライベートルームだ。まあ全員ヤれりゃ上出来だが、俺独りでもかまやしねえ。今こなしておけば夜には使いやすくなってるだろうしな」
 「ちげえねえ」と取り巻き連中が爆笑する。俺が言えた義理じゃないが、本当に下品な奴ら。
 「作業はどうする?看守に見つかればただでは……」
 「ちっちっちっ」
 凱が舌打ち。顔に唾が飛んだらしく、鍵屋崎がこの上なくいやな顔をする。
 「俺をだれだと思ってんだ?看守連中にも顔が効く東棟の凱さまだ。育ちのいいお前は知らねえだろうが、クリーンな刑務所なんてキレイな公衆便所くらいありえねえ。俺の班の担当はぺーぺーの新人で囚人相手に毎日びくびくしてるタマなし野郎で、ちょっと睨んで小突いてやったら半泣きで『お好きにどうぞ』だとよ。ほかのダチは担当の看守に賄賂を渡してここにきた。最低30分はここに看守がやってこない取り決めになってんから、思う存分俺たちとヤ……」
 「断る」
 瞬殺。
 あざやかに一本を極めた鍵屋崎は勝者の自覚も奢りもなく、あっけにとられた取り巻き連中と凱とを見比べて口を開く。
 「汗と砂と精液でまみれた不潔な手で体中をまさぐられるなんて想像しただけでおぞ気が走るな。品性も卑しければ言動も容姿もすべてが卑しい。最悪だ。君たちのような人間が未だに呼吸してるなんて人類全体の恥だ。君たちの脳はどこまで退化してるんだ?北京原人か、クロマニョン人か、原初の海の中を漂ってるカンブリア期の藻類か?いや、君たちと比較対照するなんて藻に失礼だ。水中の藻は光合成の摂理で、人間やその他の陸上生物が排気した二酸化炭素を酸素に還元してくれる非常に効率的な種だからな。察するに……」
 最高学府の教壇に立ったが如く淘淘と自説を述べ立て、鍵屋崎が結論する。
 「君たちは藻以下だ」
 
 凱がキレた。 

 ―「るあああああああ!」―
 巻き舌の恫喝とほぼ同時に繰り出された拳が鍵屋崎の右の壁を穿つ。鍵屋崎が回避できたのは幸運だった。トタンの壁を穿った拳を穴から引き抜き、気炎を吐きながら鍵屋崎へと向き直る凱。
 「藻?藻だあ?しかも以下だあ?上等だよメガネ、レイプよりリンチがお望みときたか」
 凱に目配せされた取り巻きが阿吽の呼吸で鍵屋崎の周囲を取り囲み、退路を塞ぐ。壁際に身を竦めた鍵屋崎はこの期に及んでもまだ平静を保っていた。メガネのレンズに映っているのは理性が蒸発した凱の目とぐるりを包囲した取り巻き連中のにやにや笑い。
 最終的にこうなるだろうなとは思っていた。
 奴らにとってはリンチでもレイプでもかまわないのだ、目的を達することさえできれば。凱たちの目的は精神的にも肉体的にも自分より弱い奴を腕力でねじ伏せ屈服させ屈従させ、小暴君の優越感に酔うこと。サディスティックな本性を全開にして心ゆくまで獲物を痛めつける口実なら、リンチだろうがレイプだろうがかまわない。
 じりじりと間合いを詰めてくる凱と取り巻きに逃げ場をなくした鍵屋崎は、正面の凱に視線を固定したままスッと片腕を伸ばす。鍵屋崎が腕を伸ばした先には壁にたてかけられたシャベルがあった。鍵屋崎の手元に注意していた俺はいち早く気付いたが、多勢の優位を武器にした凱と取り巻きが気付く気配はない。
 「口がきけるうちに聞いとくぜ」
 大股に踏み出した凱が腕を脇にひきつけ、節くれだった五指を内に握りこむ。
 「そのメガネ、伊達か?」
 「―この刑務所の連中はなぜそんなにメガネのことを気にするんだ」
 自分が窮地におかれていることよりメガネへの関心が勝ったらしく、鍵屋崎が不思議そうに問う。
 「教えてやるよ、今!!」
 凱が大きく腕を振りかぶる。入り口付近の俺の位置にまで風圧が作用し、前髪がめくれた。

 ガキン!!

 耳を聾する鈍い音。反射的に閉じた目を開けてみれば、そこには予想外の光景が広がっていた。
 顔の前にシャベルを立てた鍵屋崎。シャベルの背に進行を妨げられているのは、凱の拳。金属のシャベルに拳をうちこんだ凱の顔筋が不自然に痙攣する。
 「ひぐっ……、」
 絶叫。
 「ひぎゃああああああああああっ!!」
 「て、てめえ!!」
 手の甲をかばって膝をついた凱の仇と、血気さかんな取り巻きの何人かがシャベルを手に取り振りかざす。一撃目は防げたが、鍵屋崎ひとりで五人を相手どるのは分が悪い。鍵屋崎の右腕を掠めたシャベルが壁に突き刺さり波形の裂け目が生じる。
 シャベルで破かれた衝撃で鍵屋崎がもたれていた壁が後ろ向きに倒れ、砂地に埋没。濛々と舞い上がった砂埃のせいで視界が曇り、取り巻き連中が混乱する。
 今だ。
 脱兎の如く飛び出し、砂に尻餅をついている鍵屋崎の腕を引いて立ち上がらす。されるがままに立ち上がった鍵屋崎は片手にシャベルをさげていた。
 凱の拳を砕いた凶器のシャベル。
 「逃げるぞ!」
 鍵屋崎が何か言おうと口を開きかけたが、無視して走り出す。背後の騒ぎが大きくなり、50メートル遠方に集っていた砂捨て場の囚人たちが野次馬根性丸出しでこちらにやってくる。砂に足をとられながら逃げる俺の背後で憎たらしいほど落ち着き払った声。
 「作業はいいのか?」
 「してる場合か!」
 つっこんだのは脊髄反射だ。
 このメガネは頭がイカれてる。今作業に戻ったら凱一党に見つけ出されて確実になぶり殺される。命は助かっても膝の靭帯を切られるくらいは覚悟しなければならない。
 「おい、」
 「火に油を注ぐしか能のねえ口は閉じてろ!」
 俺に腕を掴まれたままさらに言葉を続けようとした鍵屋崎を一喝しようとした瞬間―


 世界が暗転。 
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