少年プリズン

まさみ

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十話

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 初めてベルトで殴られたのは四歳の頃だ。 
 それまでも平手で叩かれるのはしょっちゅうだったが、さすがにあの時のことはよく覚えてる。忘れようったって忘れられない鮮烈な痛みの記憶。骨の髄にまで刻みこまれた強烈なベルトの味。癖になる苦痛。

 きっかけはささいなこと。食事中のよくある出来事。

 その日、俺はお袋とふたりきりで夕飯を食べていた。 
 粗大ゴミ置き場からかっぱらってきた一枚板のテーブルを挟み、差し向かいで黙々と箸を動かす。お袋は飯を食べている時は一切しゃべらない。よくは知らないが、台湾にいた頃に相当厳しく躾られたのだろう。お袋の箸の使い方は惚れ惚れするほど美しかった。左手を椀に添え、右手に箸を握り、神前の儀式のように粛々と飯粒を口に運ぶ。
 正面から正視したお袋は、すこぶるつきの美人だった。
 光沢のある睫毛の下の切れ長の目はいつもしっとりと濡れていて、一瞥で男を虜にする媚びた艶を含んでいた。
 秀でた額は白磁のように滑らかで、肉の薄い鼻梁はおそろしく端正に整っていた。品よく尖ったおとがいに見え隠れする傲慢なまでの気位の高さと白鷺のように華奢な首筋の痛々しいまでに儚げな風情が渾然と溶け合い、薫り高い花の如く浮華で放埓なアジアン・ビューティーを創造していた。お袋は非の打ちどころがない美人だった。貧にかかった後れ毛さえ、お袋の色気を増す役割を果たしていた。
 だが、当時四歳の俺にとって食事中の最大の関心事は目の前のお袋などではなく、食事を終えた後に待っている長い苦行だった。
 飯を食べ終えると同時に、お袋は痣になるとほど強く俺の手を掴んでぽいと戸外に放り出す。そして、バタンとドアを閉ざす。戸外に締め出された俺はアパートの廊下に独り、途方に暮れて立ち尽くす。わんわん声をあげて泣き喚いてもドアはびくともしない。無関心な沈黙。ドアがふたたび開くのは客が訪ねてきた時だ。

 客。男。お袋の体目当てに来た客。 
 
 お袋は俺と二人暮しのアパートで客を取っていた。俺が物心ついた時にはもうこの商売に就いていたと思う。ひょっとしたら俺が腹にいた時も客を取っていたのかもしれない。日本人の客には妊婦マニアの変態も多いからあながち否定できない。俺に胎児の頃の記憶がなくて本当によかった。
 客がノックすると素早くドアが開く。客が滑りこむが早いか、バタンとドアが閉じる。ふたたびの沈黙。中で繰り広げられているのは俺の預かり知らぬ男女の痴態だ。
 朝方にドアが開くまでの間、俺は高層アパートの廊下で膝を抱えてひたすら待つしかなかった。けばけばしいネオンが散り咲いたスラムの夜景を眺めながらドアに凭れてぼんやり座りこんでいると、背中からお袋のよがり声が響いてくる。
 俺にとっては苦行でしかなかった。
 だから俺は、できるだけぐずぐずと食事をとった。のろのろと箸を動かし、のろのろと飯粒を口に運ぶ。一粒の飯粒を咀嚼するのに最低でも二十秒はかけた。食後に決まって訪れる苦行を一分一秒でも先に引き延ばしたいと思うのは当然の心理だろ?
 だが、この作戦は裏目にでた。お袋の怒りを買ったのだ。ガキの考えてることなんてはなからお見通しだ。お袋は一分一秒でも早く食事を終わらせて、準備万端客を連れこみたかったのだ。それなのに、俺がぐずぐずしているせいでいつまでたっても夕飯は終わらない。
 テーブルに頬杖ついたお袋が、目を三角にして俺を睨む。不作法なポーズ。あんなに行儀正しく箸を扱えるのに台無しじゃないか。幼心にも、漠然とそう思う。
 箸を指に預けたまま、お袋の右肩のあたりをじっと見る。派手な色合いのキャミソールの肩紐がはずれ、二の腕にまで落ちている。キャミソールの紐がひっかかっていた部位に白い線が走っていた。薄く日焼けした肌から仄かに浮かび上がる一筋の白が妙になまめかしい。赤いマニキュアを塗った指でキャミソールの肩紐をいじくるお袋。その顔に過ぎるのは、万事につけ要領の悪い息子に対する嫌悪と侮蔑、御しようのない苛立ち。お袋が怒ってるのはわかった。お袋の全身から立ちのぼる怒りの波動が、テーブルの板の上をさざ波のように走ってひしひしと押し寄せてきたからだ。 
 
 けど、この時の俺になにができた?

 俺はお世辞にも箸の扱いが上手くなかった。当たり前だ、まだ四歳のガキだ。箸よりは匙のほうが手に馴染む年頃だ。だがお袋は、早々に俺から匙を取り上げた。いや、そもそも匙を使っていた期間があったのだろうか。物心ついたときから箸と悪戦苦闘していた気がする。
 ひょっとしたらお袋の教育方針だったのかもしれない。子供には早いうちから箸の使い方を叩きこめっていう先祖代代ありがたい教え。だけどちょっと無理がある。自慢じゃないが俺はもともと器用なほうじゃない。いや、回りくどい言い方はよそう。俺は天性の不器用だ。手を使ってできることといえば人を殴ることぐらいで、その他は得意じゃない。お袋のスパルタ教育の成果で箸だけは操れるようになったが、この時の俺はまだ四歳。はっきり言って、あんな細長い棒で飯粒をつまめるわけがない。物理的に不可能だ。
 だが、箸を放り出して犬食いするわけにもいかない。そんなことしたらお袋にぶん殴られる。お袋はとんでもないアバズレだったが、躾にだけは妙に厳しかった。台湾の女は皆そうなのだろうか。俺にはわからない。俺の半分は台湾人だが、もう半分は中国か韓国かどっかそのへんだ。
 仕方ないので、俺は手からずり落ちそうになるたび箸を持ち直し、顔を伏せて食事を続けた。視線はお袋の右肩に固定していた。お袋と目を合わすのは怖かった。硬質な美を宿した黒曜石の目。愛情の片鱗もない目。潰れた空き缶でも見るかのような無関心な目。
 食事時は緊張していた。お袋と二人きりの食卓。会話はない。沈黙。その晩の献立は茄子の漬物と白い飯、焼き魚。茄子の漬物を齧る。ポリポリシャクシャクシャキシャキ。小気味良い音が単調に流れる。

 事件は茄子の漬物に箸を伸ばしたときに起こった。

 不器用に箸を操り、小皿に盛られた茄子の漬物をつまむ。箸の先で漬物を挟み、口に運ぼうとした刹那。
 
 ポトリ。

 口に達する直前、漬物がこぼれ落ちた。
 なんともあっけない末路。俺はぽかんとした。茄子の漬物から染み出した汁が、床に敷いたカーペットに染みてゆく。このカーペットだってどっからかかっぱらってきた安物にちがいない。擦り切れて色褪せた粗末なカーペットで、今更シミ一つ増えたって目くじらたてることはない。

 そのはずだった。俺は楽観していたのだ、間抜けなことに。

 ガシャン!!

 お袋がキレた。
 唐突だった。不測の事態。皿を薙ぎ払い、髪振り乱し、金切り声で喚き散らす。華奢な拳でテーブルの板をバンバン叩き、薄い肩を激しく震わせて絶叫する。何?何を言ってるのかわからない。俺の知らないとんでもなく汚い台湾語のスラングを連発し、天を罵り地を呪う。次なる矛先は、テーブルを挟んで対岸に座していた俺だった。
 お袋の怒りの源、諸悪の根源たる俺。
 お袋が俺を睨む。凄まじい目。業火。燐光。頭から冷水を浴びせられた気がした。背骨が凍りつま先が強張り、椅子から飛び下りることもできない。失点一。俺は一刻も早く避難すべきだったのだ。お袋の怒りがおさまるまで、アパートの外廊下にでも身を潜めているべきだったのだ。何時間でも、何日でも。
 華奢な拳が何度も上下し、テーブルの天板を打つ。バンバンバンバンバン。白い拳は傷だらけ。血が滲んで酷い有り様。
 あの手で男を抱くのか。あの手で男の髪をなでるのか。あの手で男のペニスを扱くのか。
 お袋の手が箸を鷲掴みにした。あっと叫ぶ暇もなかった。お袋の手の中でボキリと箸が折れた。嫌な音。俺の耳小骨が砕かれた音にも聞こえた。二つに折れた箸を力任せに投げつける。避けなかった。体が硬直して避けられなかったのだ。箸は俺の胸にあたった。
 俺はきょとんとしていた。お袋がなぜそんなに怒るのかわからなかった。もとから汚いカーペットに今更シミが増えたぐらいで、あれほど怒り狂う必要がどこにあるのか。
 椅子を蹴倒し、憤然と踵を返すお袋。髪振り乱してテーブルを迂回し、つかつかとクローゼットへと歩み寄る。粗大ゴミ置き場からかっぱらってきたクローゼットの扉を荒々しく開け放ち、何かに憑かれたように中の洋服を漁る。激しく上下するお袋の肩が、ハンガーに吊られた大量の服の狭間から垣間見えた。クローゼットに頭を突っこみ、中腰で服を漁るお袋の姿は、袋を破いて残飯をついばむカラスのように滑稽だった。
 お袋が頭を抜いた。俺に背を向けて立ち尽くす。無言。お袋が何かを手にしている。お袋の手元に目を凝らす。
豆電球の光を弾いてギラリと輝いたのは、くすんだ銀の金具。
 お袋が両手に捧げ持っていたのは、黒皮のベルトだった。
 お袋はベルトを探していたのか。でも、なぜ?
 胸騒ぎがする。喉が渇く。でも、その場から動けない。椅子から足を垂らしたまま、魔性に魅入られたようにお袋の背中を凝視する。
 痩せた背中。薄い肩。うなだれたうなじ。

 『…………で』

 か細い声が漏れた。
 お袋の声だった。耳を澄ます。静寂。

 『なんでなんでなんでなんでなんでなんで』

 意味のない繰り返し。意味のない呪文。

 おかしい、おかしいよおかあさん。何をそこまで怒るんだ?
 叫びたかった。でも、声は出なかった。一言一句も漏らさないように、舌が喉を塞いでいたのだ。
 お袋が振り向いた。美しい面立ちに般若の形相を映す。
 お袋の手の中でベルトが撓る。鋭い音が鳴る。ビクッとする。憤怒の形相の上に能面のような無表情を被り、俺の方へと歩を進める。椅子の背凭れにぴったりと背を密着させ、できるだけお袋から距離をとろうとする。無駄な努力。椅子の足が床を擦る。ギシギシ。軋り音。 喉が渇く。目が乾く。俺の目に映っているのは、着々と接近してくるお袋の姿。
 キャミソールの肩紐が二の腕に垂れ、緩やかな曲線を描いた肩があらわになる。左右対称の鎖骨とその下の豊かな胸。キャミソールの薄い生地越しに乳首が透けて見えた。ノーブラ。
 お袋の歩みが止まる。頭上が翳る。おそるおそる顔をもたげる。目の前にお袋がいた。
 電球が投じる心許ない明りを背に、俺の脳天を見下ろしている。豆電球の薄明かりが鋭角的な顎の線を際立たせる。
 びゅっ。耳元で風を切る音。お袋の右手が空を薙ぎ、ベルトが振り下ろされる。避ける?そんな発想ははなからなかった。お袋から逃げられるわけないじゃないか。俺を産んだ女だぞ。
 乾いた音が鳴る。右腕に鋭い痛み。ガタン、椅子から転げ落ちる。受身もとれず、もろに背中を強打する。カーペットが敷いてあっただけまだマシだ。正直、背中の痛みより右腕の痛みのほうが強烈だ。薄赤く染まった右腕を一瞥し、眼前のお袋を仰ぐ。お袋が右手を翳す。二打目。今度は左肩。革のベルトで容赦なく鞭打たれ、瞼の裏側で火花が爆ぜる。芋虫のように身を縮め、片手を床について後ずさる。カーペットをかきむしって距離を稼いだ俺を、お袋が冷たく嘲笑う。芋虫を見下すアゲハ。
 三打目。脛を打たれた。悲鳴をあげた。痛すぎる。視界がぼやけてお袋の顔が歪む。笑っている。心底楽しそうに笑ってやがる。そんなに俺を苛めるのが楽しいのか?舌が正常に機能するなら盛大に罵ってやりたかったが、恐怖と苦痛に占められた頭では悪態の一つも捻り出せなかった。
 四打目からは数えるのをやめた。打たれた箇所が赤く染まり、みみず腫れが縦横に走る。右肩、左肩、右腕、左腕、右手の甲、左手の甲、右脛、左脛、背中。シャツから露出している部位は全滅。露出してない部位も全滅だろう。お袋はやるとなったら徹底的だった。徹底的に俺を痛めつけた。容赦なし。途中からは意識が混濁してきて、ベルトが肌を打つバチンバチンという音も他人事のように聞いていた。脳天が痺れるくらい痛いのにしぶとく理性は居残っていた。頭の片隅、ひんやりと冷めた理性で考えた。
 
お袋はなんて楽しそうに俺を打つんだろう。ほとんど狂喜してやがる。

 客と二人きりになった時も、嬉々としてクローゼットから革のベルトをとりだしてくるんだろうか。そして、客の全身を嬉々として殴打するのだろうか。
 そんなお袋の姿は見たくなかった。息子として当然の心理。でも、目の前のお袋はどうだろう。肩を喘がせ呼吸を喘がせ、狂気に憑かれてベルトを振り下ろすお袋はどうだろう。
 壮絶の一言に尽きる。
 バチン。太腿を打たれた。焼けるように痛い。熱を孕んで赤く疼く。肌の至る所に醜いみみず腫れが生じ、全身が火照る。体のあちこちで小爆発を繰り返す火種。苦痛の凝縮。骨身に染みる苦痛ってのはあのことだ。喉の奥が塩辛い。涙と鼻水が一緒くたになって食道を濡らしているのだ。俺の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。みっともない。お袋の足元に這いつくばって慈悲を乞う。太腿に縋りついて哀願する。

 ごめんなさい許してくださいもうしませんもうぶたないでくさい。

 謝罪の羅列。頭の中は真っ赤。苦痛の信号はなぜ赤いのだろう。革のベルトが肌を叩くたびに、視界が赤く点滅する。瞼の裏側を走る毛細血管が発火してるのかもしれない。だから目玉が熱いのだろうか。……いや、違う。目玉が熱いのは泣いてるからだ。涙腺が焼ききれそうだ。哀しくて泣いてるわけじゃない。単純に痛くて涙が出るのだ。
 お袋が俺を見下している。右手にはベルトを下げている。低く流れる嗚咽。俺の嗚咽。横隔膜の痙攣が止まない。全身が痛い。床に尻餅ついてしゃくりあげる俺を見て、お袋はようやく溜飲を下げたらしい。折檻が止んだ。憑き物が落ちたようにお袋の表情が凪ぐ。無造作にベルトを放り出し、俺の方へと歩み寄る。お袋が両手を伸ばす。びくっとする。お袋の手が虚空で静止する。憂いを含んだ黒い目で、哀しげに俺を見つめる。
 お袋の手が俺の頬を包む。赤く腫れた頬を愛しげに撫でる手。たった今まで、その手でベルトを振り下ろしていたのに。たった今まで、その手で我が子を殴打していたというのに。
 俺の頬を掌で包み、胸元へゆっくりと導く。お袋の胸に顔を埋める格好になった俺は、掌がじっとり汗ばむのを感じていた。ねっとりした不快な汗だ。お袋の胸は安物の香水の匂いがした。吐き気がこみ上げてきたが、お袋の胸をゲロまみれにしたら体裁が悪いので堪える。
 俺の後頭部に腕を回し、お袋が囁く。
 『わかったでしょう、ロン』
 
 呪詛。

 『これからはもう、お母さんを困らせるためにわざと漬物を落としたりしちゃだめよ』
 わざと?わざとじゃない。あれは事故だったんだ。悪気なんてこれっぽっちもなかったんだ。
 身を捩って拘束から逃れ、咄嗟に反論しようとした。目でお袋に訴える。俺は悪くない。あんたを困らせるつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ。
 お袋の目に俺が映る。俺の顔が絶望に暮れていく。幻滅。お袋に言葉は通じない。唾をとばして道理を説いたって通じやしないのだ。お袋はそういう種類の人間だ。己の価値観をテコでも譲らない。己が腹を痛めて産んだガキにも杓子定規な価値観を強制しようとする。
 俺を産んだ女は、そういう種類の人間だ。
 お袋は微笑んでいた。一種聖性を帯びた官能的な微笑。
 『さあ』
 お袋の視線がカーペットを滑り、テーブルの下をさす。お袋が視線で促した先には、茄子の漬物が落ちていた。俺が生まれて初めて革のベルトで打たれる原因になったブツ。
 『食べなさい』
 耳を疑った。
 が、お袋の目はマジだった。微笑の圧力。無言の強制。逆らえない。ベルトで殴られた部位がひりひり疼く。極限の苦痛を舐めた直後に、はたして何人の人間が無体な要求に逆らえるだろうか。お袋の言ってることは全く理不尽だ。理解できない。だからなんだ?お袋はいつだって理不尽だ。理解できなくても従わなけりゃならない。

 俺はまだ死にたくないのだから。地獄を覗き見るのはごめんだ。
 
 カーペットに手をつき、膝をつく。四つん這い。犬のような格好。目の端でお袋の顔を窺う。無表情。早くしなさい。唾を呑む。腕を見下ろす。縦横に交差したみみず腫れ。四肢がひりひりする。カーペットに掌をついて上体を支え、膝で這って進む。テーブルの下に頭を突っこむ。目の前に萎びた茄子。途方に暮れて茄子を見下ろす。口内に唾液が沸いてきた。お袋は相変わらず俺を見つめている。振り向かなくてもわかる。うなじに視線が注がれているのが産毛がちりちりする感覚でわかる。 

 監視。観察。

 おそるおそる首をおろし、茄子に顔を近づける。匂いを嗅ぐ。無意味な行為。そうやって時間を稼ぐ。犬の真似をするくらいなんだってんだ。たいしたことじゃない。賢明に己に言い聞かせる。たいしたことじゃない。たいしたことじゃない。カーペットに顔を擦りつけ、下顎で茄子をくわえる。不自由な体勢。口を動かし、舌の上に茄子を乗せる。漬物の味が口内に広がる。咀嚼する。飲み下す。あとに残ったのはカーペットの染み。
 『舐めなさい』
 口を拭って振り向く。お袋は無表情だった。
 『舐めなさい』
 無表情で命じられ、混乱する。何?何を言ってるんだ。舐めろ?舐めろってなにを?カーペットの染みを?舐めてどうしようってんだ。
 俺の顔に浮上した疑問符を汲み取り、お袋は至極当たり前の道理を説いた。
 『あんたが汚したんだから、あんたが綺麗にするのが当然でしょう』
 衣擦れの音。お袋が焦れて立ち上がる。俺の傍らに膝を折り、耳元で囁く。
 『なにぐずぐずしてるの。手伝ってあげるわ』
 頭の上に乗せられた白い手。ぐいと頭を押され、カーペットに顔を押しつけられる。毛羽立ったカーペットが頬を擦ってくすぐったい、なんて悠長なこと考えてられたのは一瞬だった。後頭部を押す手の圧力が増す。グイグイとカーペットに押し付けられる。あの細腕のどこに有無を言わせぬ怪力を秘めているのか、お袋は終始無表情に徹して拷問を継続する。抗おうにも顔面をカーペットに押しつけられ、身動きができない。カーペットに唾液が染みてゆく。窒息寸前。胸が苦しい。耳元でひゅーひゅーと音が鳴る。死神の口笛かと思ったら、切羽詰った呼吸音だった。てことは、頭蓋骨の裏っ側で銅鑼のように鳴り響いているこの音は、カウントダウンを刻む心臓の鼓動か?いよいよ死期が近いみたいだ。

 再見おふくろ、再見この世。

 ところが俺は死ななかった。
 窒息する寸前、お袋の手が離れた。頭の上から重しが取り除かれる。途端に呼吸がラクになる。カーペットに大の字にひっくり返り、胸を喘がせて殺風景な天井を仰ぐ。拡散していた焦点が次第に定まってゆく。
 俺の危機を救ったのは、不躾なノックの音だった。
 カーペットに寝転がったまま緩慢に顔を傾げ、ドアの方角へと視線を放る。小走りにドアに駆け寄るお袋。ノブを捻る。ドアを開く。来訪者はランニングシャツ一枚の肥満漢。お袋は華のような笑顔で客を出迎えると、男の二の腕を掴んで半ば強引に中へと引きこむ。
 今気付いたが、キャミソールの肩紐が外れているのも客の歓心を買う演出かもしれない。案の定、男はお袋の右脇に目をやって脂下がっていた。だが、室内に一歩足を踏み入れた刹那、鼻面に皺を寄せて不快感を表明する。男が早口で何事か叫んでいる。俺を指さして何か言ってる。大方、なんでこれからことをおっぱじめようって時に我が物顔でガキが寝転んでいやがるんだとか、そんなとこだろう。声高に非難され、お袋は鼻白んで肩を竦める。
 颯爽と踵を返し、俺の方へと歩み寄るお袋。肩紐をいじくりながら、俺の上に屈みこむ。
 『とっとと出てかないと殺すわよ』

 それだけ。
 息子を殺しかけてそれだけかよ。

 急速に薄れゆく意識の彼方で、俺はおいおいと嘆いた。おいおい、そりゃないだろお袋。
 フェイドアウト。
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