少年プリズン

まさみ

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六話

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 「きたぞ」
 サムライに促され、前を向く。カウンターの前に並んだ囚人たちがすり足で移動し、漸く僕らの順番が巡ってきた。隅に重ねられたトレイを手に取り、アルミの食器を置いてゆく。
カウンターの内側で給仕しているのは、清潔な白衣に身を包んだ無表情な看守が十人余りこの少人数で倍近い数の囚人たちを相手にしているのだ、道理で要領が悪いわけだ。納得した僕の皿の上でお玉を振り、マッシュポテトの塊をこそげ落とす看守。ワカメの浮いた味噌汁を一すくい、あとは目玉の潰れた目玉焼きだけ。なんとも貧相な献立だが文句をいえる立場にない囚人たちは、むすっと押し黙ってカウンターを後にする。
トレイを胸の前で掲げた僕はキョロキョロと混雑した食堂を見回す。飢えた囚人たちが行儀作法など全く無視し、犬のように飯にがっついている。アルミの皿を抱えこみ音をたてて味噌汁を啜り、味気ないマッシュポテトを咀嚼して飲み下す。ものを咀嚼する旺盛な音に空腹を刺激され、口の中に唾液が沸く。
 ぼんやりと食堂を見渡していた僕の隣に並んだサムライが、顎をしゃくる。
 「あちらだ。ついてこい」
 とっつきにくい見た目に反し世話焼きなサムライは、地理に不慣れな僕のために食堂を案内してくれるつもりらしい。サムライの好意に有難く甘えることにする。罵声とフォークが喧しく飛び交う中、周囲の喧騒をものともせずにサムライは歩を進める。サムライの背に促されるがまま、あてもなく足を前後させていた僕の視界の端を、眩い光が射る。

 反射的に目を細め、光が射した方角を見る。

 等間隔に配置された巨大なテーブルの一隅に、青年が座っている。金と茶の中間色の髪をうなじで括ったその青年は、一見して混血児だとわかる外見的特徴を有していた。肌の色は東南アジア系の出自を示す滑らかな褐色、しなやかに伸びた手足とすらりとした体躯が中性的な雰囲気を醸している。
 顔だちは出来過ぎなほど整っていた。形よく尖った顎を備えた顔には、涼しげな切れ長の目と日本人離れして高い鼻がバランス良く納まっている。
あえて荒を探すなら皮肉げな角度に吊った唇が人によっては不愉快な印象をもたらすだろうが、面食いの異性を前にすればそれすら野卑な魅力に転化できるだろうことは想像に難くない。何より目を引くのは、両の耳朶に連ねたピアスの数だ。右耳に5個、左耳に6個……計11個。
 僕の目を射た光の正体は、青年が耳朶に嵌めたピアスの反射光だった。
 僕の視線を感じたのか、青年がふいに振り向く。おもむろに手を挙げ、席を立つ青年。ぎょっとした僕の鼓膜に、音吐朗々と滑舌のよい声が響く。
 「こっちだ、サムライ!」
 理解した。青年が認めたのは僕ではなく、背後にのっそりと佇んでいるひょろ高い影ーサムライだったのだ。サムライと青年は面識があるらしく、サムライはとくに警戒するでもなく青年のもとへと歩み寄る。仕方なく、後に続く。一つ結いの青年はにやにや笑いながら僕とサムライを出迎えた。
 片手で頬杖つき、片手でフォークを弄びながら初対面の青年が言う。
 「空いてるぜ。座れよ」
 
 空いてる?
 
 青年の前後左右は余す所なく先客で埋まっている。空席などどこにもないではないか。困惑した僕をよそに、一つ結いの青年がぐるりと視線を巡らす。刹那、劇的な変化が生じた。青年と目が合った囚人たちが食べかけのトレイを持ち、そそくさとテーブルから引き揚げ始めたではないか。我先にと競うように席を後にした囚人たちを愉快げに見送り、頬杖ついたまま青年が笑う。
 「な、空いたろ」
 良心の呵責など一片もない爽やかな笑顔。あきれる。サムライはとくに咎める様子もなく、青年の対面に腰掛ける。僕は躊躇した。
 「お前も座れ、カギヤザキ」
 テーブルの向こう側からサムライに声をかけられても、僕は所在なげに立ち尽くしたまま、次の行動を迷っていた。この場合はサムライの隣に腰掛けるべきだろうか。しかし、いくら同房者とはいえ馴れ合うのは煩わしい。サムライの隣に座った場合、僕がコミュニケーションを図ろうとしていると誤解され万が一にも一方的な友情など抱かれてしまったら困る。とはいえ、この茶髪の青年の隣に腰掛けるのも気が引ける。
 一瞥で周囲の席を占めていた囚人たちを退かせた事実から察するに、彼は優男の見かけによらない刑務所内での実力者なのだ。そんな危険人物の隣に腰掛けて、万一トラブルに巻き込まれでもしたらー……
 
 堂堂巡りする思考を遮ったのは、風変わりな名字を小耳に挟んだ青年だった。
 
 「へえ、お前カギヤザキっての?へんな名前」
 「失敬だな」
 思ったことを口に出す。青年が目をしばたたいた。次の瞬間、はじけるように笑い出す。前出の会話のどこに笑える要素があったのか理解できない。椅子に反り返り、大口開けて笑い出した青年のもとへ、性急な足音が近づいてくる。
 「お前の笑い声を聞くと飯が不味くなる」
 足音は僕の隣で止んだ。
 そちらに目をやると、傍らに小柄な少年が立っていた。癖の強い黒髪の下で輝いているのは、人慣れぬ野良猫をおもわせて警戒心の強い双眸。小造りに整った顔はまだ少年の域を脱しておらず、若干のあどけなさを残している。成長期の途上にあるのだろう骨格は華奢で、囚人服の袖から覗いた手首には間接の尖りが目立っていた。肌は黄色人種のそれだ。見た目は日本人と変わらないが、言葉の端々に覗く独特のイントネーションから察するに、出自を辿れば台湾系に行き着くのだろう。
 黒髪の少年はけたけた笑い転げる青年を、ついで、その背後に立ち尽くす僕をうろんげに一瞥する。
 「座んねーの?」
 少年が顎をしゃくったのは、こともあろうに青年の隣の席だった。逡巡しなかったといえば嘘になるが、これ以上空腹に耐えられそうになかった。言われるがまま、今しがた先客を追い払ったばかりの席に腰を落ち着ける。椅子を引き、目の前にトレイを置く。笑い声が止む。ようやく笑いの発作が終息した青年は高い天井を仰いで深呼吸すると、僕の頭越しに件の少年へと声をかける。
 「おそかったじゃねーか、ロン。ナンパでもされてたのか?」
 「箸とフォーク、刺すならどっちがいい?」
 黒髪の少年が乱暴に椅子を引き、僕の隣に腰掛ける。期せずして初対面の囚人二人に挟まれる形となった僕は、なんとも居心地が悪い。正面へと目を転じれば、サムライはそしらぬ顔で味噌汁を啜っていた。箸を握った瞬間に僕の存在など忘れ去ったのだろう。僕は努めて無表情にフォークを繰り、味の薄いマッシュポテトを口に運ぶ。必要以上に時間をかけてマッシュポテトを咀嚼していた僕は、横顔に注がれる不躾な視線に辟易し、うんざりとため息をつく。
 カチャン。
 食器とフォークを置いて振り向く。最前から僕の横顔を断りもなく凝視していた主は、右隣に腰掛けた一つ結いの青年だった。線の細い端整な顔立ちの中、かっきりと弧を描いた眉の下で色素の薄い茶色の目が性悪なチェシャ猫のように笑っている。目を弓なりに反らせた青年は悪びれた様子など全くなく、にやにや笑いながら僕の顔を覗きこんでくる。
 ……不愉快だ。
 一体この男はなにを考えているんだ。思考が読めない。男を無視して食事を再開しようとしたが、横顔に注がれるなぶるような視線に嫌気がさし、ため息とともに食器をおろす。これは一言あるべきだろう。表情を改め、青年の方へと向き直る。とうに食事を終えた青年は、僕と目が合うと愉快そうに片眉を動かした。器用な芸当をしてみせた青年に特に感情を表に出すでもなく、淡々と言い放つ。
 「吐き気がするほど図々しい男だな」
 片手に頬を委ねた青年が虚を衝かれたような顔をする。咳払いし、ふたたび顔を上げる。要領を得ない顔をした青年と面と向かい、続ける。
 「食事が終わったのなら可及的速やかにこの場を立ち去り、ほかの者に席を譲れ。君に注視されている僕は非常に不愉快だ。食欲も失せる」
 僕は冷静に事実を指摘したまでだ。言い終えた後、周囲が水を打ったように静まり返っていることに気付き、違和感をおぼえる。食器とフォークが奏でる金属音が止み、椅子の脚が床を擦る乾いた音も全くしない。何事かと辺りを見回す。僕と同じテーブルに居合わせた囚人たちが固唾を呑んでこちらを凝視している。
 否、正確には僕ではなくその背後の人物を。
 一身に注視を浴びていたのは、リラックスした姿勢で僕の隣に腰掛けた青年だった。左手で頬杖つき、空いた右手でフォークを弄ぶ青年。その唇には、薄く笑みが浮かんでいた。青年の掌中でフォークが旋回し、銀の弧を描いてまた手元へと戻ってくる。

 異変は唐突だった。

 ガタン。椅子から腰を浮かした青年が、残像すら見えぬ速度で僕の額にフォークの先端を擬したのだ。僕の額にフォークを突きつけた青年はゆったりと微笑んでいる。魅惑的と評してもいいだろう、透明度の高い微笑だ。硝子玉めいて色素の薄い瞳に映っているのは、瞬きすら忘れて硬直した僕の顔。フォークの先端は僕の額、紙一重の虚空に固定されている。もう少しフォークを進めれば、尖った先端が額の皮膚に食いこむだろうことは非を見るより明らかだ。

 場が緊迫した。
 空気が凍結する。

 テーブルを囲んだ囚人たちは、握ったフォークと手にした食器の存在も忘れてこちらを見つめている。彼らの顔に浮かんでいるのは紛れもない怯えー恐怖。彼らは一体何に怯えているのだろう。

 答えは明白だ。彼らはこの得体の知れない、優雅に微笑した青年に怯えているのだ。

 ぎくしゃくと首を巡らし、青年と視線を絡める。
 吸い込まれそうなほどに透明度の高い茶色の瞳に魅入られそうになる。だが、彼の手に握られているのは凶器のフォークだ。フォークで人を殺せるとも思えないが、目の前の男には警戒を促す何かがある。
 時が停滞したような沈黙を破ったのは、荒々しい舌打ちだった。
 舌打ちがした方角に目を向ける。左隣に座っていた黒髪の少年が、フォーク片手に僕を睨んでいるのだ。行儀悪くも椅子に片膝立てた少年は手にしたフォークを一転させると、凄みを効かせた三白眼で僕をーその背後の人物を威圧する。
 「いい加減にしろよレイジ。新人をからかって何が面白い?」
 おさまりの悪い黒髪の下、軽蔑しきったように目を細めた少年の仲裁に、青年は恐れ入ったようにフォークをおろす。額から外れたフォークに安堵したのも束の間、青年がどこか安定を欠いた笑い声をあげる。
 「ジョーダンだってロン。マイケル・ジョーダン」
 「だれだそれ」
 「昔いたバスケットの選手。知らねえ?」
 「知らねーよそんなの。何十年前の話してんだ」
 ほとほとあきれたように首を振った少年は、椅子から腰を浮かせた不自然な体勢で凝固している僕をチラリと見ると、マッシュポテトをつつきながら面倒くさそうに告げる。
 「お前もとっとと食っちまえよ。トロトロしてっともってかれるぞ」
 「もってかれる?」
 少年が顎をしゃくる。通路を五本隔てた遠方のテーブルに一際柄の悪い集団が陣取っている。数にして十人前後だろうか、いずれ劣らぬ凶悪な人相をした少年たちの上座を占領しているのは、頭抜けて体格のいい男である。おそらく彼が首領各なのだろう。無個性な囚人服に包まれていてもよく鍛えられた厚い胸板と固く隆起した上腕二頭筋は一目瞭然だ。気のせいか、彼は腕組したまま微動だにせず、眼光鋭くこちらを見つめている。
 「凱だ」
 マッシュポテトの山を突き崩しながら、少年が気のない素振りで吐き捨てる。フォークに乗せたマッシュポテトを口に運びつつ、疲れたようにかぶりを振る。
 「レイジを目の敵にしてなにかとつっかかってくる年中脳味噌不足気味欲求不満気味のインポ野郎ども。お前も俺らと一緒にいるとこ見られると、奴らのターゲットにされるんじゃねえか」
 少年の目が凱たちと同じテーブルの端へと向けられる。テーブルの隅、肩身が狭そうに縮こまっている人影には見覚えがある。覇気に欠ける貧弱な背中と世界の不幸を一身に背負っているかのような撫で肩は忘れもしない、僕とともにここに護送されてきたリュウホウである。喧騒から疎外されたテーブルの隅にひっそりと身を寄せたリュウホウは、至極のろのろした動作で終始伏し目がちにマッシュポテトをついばんでいた。一口ずつ咀嚼して飲み下す、延延とその繰り返し。そんなリュウホウのもとに足音荒く歩み寄ってきたのは、荒んだ雰囲気を漂わせた囚人数人。素早く連携してリュウホウを取り囲むと、抗議する暇を与えずにマッシュポテトを盛った食器を掠め去る。最も、気弱なリュウホウのことだ。もう少し反射神経に恵まれていたとしても、腕っ節の強い囚人たちから食器を死守できたか怪しい。現にリュウホウはにやにや笑いを顔にはりつかせた囚人たちを見上げ無力に手をつかねているだけで、食器を奪回しようという素振りは一向に見せない。
 途方に暮れたリュウホウの姿を注視しているのが忍びなくなり目を伏せた僕の耳に、フォークの先端が食器を打つ甲高い音が響く。
 「ところで新人、自己紹介がまだだったよな。俺はレイジ。よろしく」
 瓢々と名乗りを上げたのは、先刻、僕にフォークを突きつけたのと同一人物である。明るい茶髪を襟足で一括りにした青年は、好青年の最大公約数のように爽やかに笑う。一拍ほど迷ったが、無視すると後々禍根を残しそうなので仕方なく口を開く。
 「僕は鍵屋崎直だ。今日東京プリズンにきたばかりで、そこの彼……サムライと同房になった」
 先刻から一言も発さず、周囲の騒音にも無関心に味噌汁を啜っていたサムライを顎で示す。レイジと名乗った青年はトレイをどかして卓上に片肘乗せるや、図々しくも僕の方へと身を乗り出してくる。
 「ナオちゃんか、かわいい名前。女みたい」
 「野郎口説いてどうすんだよ」
 黒髪の少年が皮肉げに笑う。僕の肩越しに少年の顔を覗き込んだレイジは、さも心外そうに眉根を寄せる。
 「かわいければ男でも女でも関係ナイね、博愛主義者の俺には」
 「単に無節操な変態がよく言うぜ」
 「ひょっとして嫉妬か?」
 「てめえの腐れ目ん玉にフォーク刺して死ねよレイジ」
 どうやらレイジと名乗るこの青年と黒髪の少年は、よほど親しい間柄にあるようだ。両者憎まれ口を叩き合ってはいるが、一触即発という危うい雰囲気は微塵もない。レイジは愉快そうに口の端をつりあげ、黒髪の少年を促す。
 「お前も自己紹介しろよ」
 「ロン」
 自己紹介というにはあまりに素っ気ない口ぶりで、少年は名を名乗った。ロン。龍と書くのだろうか。すみやかに食事を終えたロンは、空のトレイを持って席を立つ。去り際、僕の背後で立ち止まり、
 「ひとつ忠告してやる。お前の隣に座ってるその男には気をつけろ。いつ寝込みを襲われても知らねーからな。朝起きた時に下半身になにも穿いてなかった、なんて目にはあいたくねーだろ」
 「……あったのか?」
 「なに?」
 眉間に縦皺を刻んだ少年を仰ぎ、素朴な疑問を音声化する。
 「今述べた内容を以前体験したことがあるのか」
 刹那、タガが外れた笑い声が炸裂する。鼓膜を叩いた笑い声の主は、右隣に座るレイジだった。ロンの顔が恥辱に歪むのを見逃さなかった。目を過ぎった激情の余波を鉄面皮の下に覆い隠し、あっさり踵を返すロン。僕の背後を大股に横切ったロンは、レイジの椅子の脚に容赦なく蹴りを入れる。脚に加わった衝撃は椅子を転倒させるのに十分な代物だった。バランスを崩した椅子が派手な音をたてて横転し、馬鹿笑いしてたレイジの体が逆しまに床へと投げ出される。床に尻餅をついたレイジは「いてててて……」と泣き笑いの表情でうめいている。満員御礼の食堂で醜態を晒したレイジを鼻で笑い、すたすたとカウンターへ向かうロン。
 「……図星か」
 さしたる感慨もなく呟く。僕の予想は当たったわけだ。ロンが去った後、レイジの笑い声が急速に萎み、食堂にはフォークとアルミ皿が奏でる喧騒が舞い戻る。強打した尻をさすりつつ大義そうに椅子を起こしたレイジは、雑踏に紛れたロンの背を見送りかぶりを振る。
 「まったく、照れ屋さんなんだから」
 「照れているわけではないだろう」
 味噌汁を啜りながら冷静に指摘してやる。レイジがこちらを向き、先を促すように眉を跳ね上げる。アルミの椀をトレイにおき、音をたてぬようフォークを端に寄せる。空の食器を眺めて満腹感に浸りつつ、続ける。
 「彼はきっと君の存在が煩わしいんだ」
 レイジが世にも情けない顔をする。滑稽きわまりないほど意気消沈したレイジがテーブルに顔をうつぶせ、「……見かけ以上にきっつい性格だな、お前」と嘆じる。テーブルに突っ伏したレイジ、その後頭部を冷めた目で見下ろし、トレイを抱えて席を立つ。食事を終えればゴキブリが這いずり回る不衛生な食堂になどもう用はない。一抹の未練なく踵を返し、カウンターにトレイを返却しようとした僕の背を間延びした声が引き止める。
 「お前、カギヤザキってゆーんだよな」
 「……そうだが」
 動揺を糊塗するために殊更ゆっくりと振り向く。肩越しに振り向いたレイジは、記憶野を漁るように目を右上方に向けて黙考している。レイジの眉間に寄った皺を眺め、沈黙を守る。その間も心臓の拍動は不規則なリズムを刻み、腋の下には粘液質の汗が滲み出している。

 僕の名字を聞いて何か勘付いたのか?

 拍子抜けもはなはだしく、レイジはにっこりと微笑んだ。
 「んじゃ、これからお前のことキーストアって呼ぶわ」
 「……は?」
 間の抜けた声で反駁する。今何と言った?鍵屋崎=鍵屋=キーストアか。非常にわかりやすい、安易かつ短絡的な連想だ。トレイを捧げ持った僕は、疑い深く念を押す。
 「……用件はそれだけか?」
 「それだけ」
 「本当にそれだけか?」
 「なんだよ、それだけだよ」
 レイジが鼻白む。目前の対象に興味を喪失したレイジは、椅子の脚を鳴らして正面を向くと、背後に突っ立ったままの僕にぞんざいに手を振る。
 「もう行っていいぜ」
 釈然とせぬまま歩行を再開する。カウンターにトレイを返却し食堂を後にする間際、いまだテーブルに頬杖ついたままのレイジを振り返る。フォークを口にくわえたレイジは、茫洋とした目を虚空に向けて物思いに耽っている。顔立ちが出来過ぎなほど整っているためだろうか、たったそれだけの動作が絵筆を銜えて画架と向き合う前衛画家のように様になっていた。

 妙な男だ。またひとつ観察対象が増えた。

 おもわぬ収穫に嬉々としつつ、人で賑わう廊下へ出る。食事の後は就寝時刻まで自由時間と決まっている。だが、僕の足は一日の労働を終えてもなお余力を温存した囚人たちがたむろする娯楽室の前を素通りし、自身に割り当てられた房へと向かっていた。
 元来た廊下を逆に辿り、無事房へと帰還する。鉄扉を押し開け、房内へと足を踏み入れる。中は薄暗かった。明かりもつけずに未使用の左のベッドへと倒れこむ。固いマットレスに受け止められた体が軽く弾み、今日一日の出来事が映写機で上映される古いフィルムのようにカタカタと脳裏を巡る。
 瞼を閉じ、セピアがかったフィルムの記録を反芻する。百八十度見渡す限りに広がる茫漠たる砂漠、砂利道を疾駆するジープの不景気なエンジン音、不毛の荒野のど真ん中に忽然と現れた有刺鉄線と夕空を圧する巨大な威容の建造物。空調の整ったビルの屋内で出会った安田と、僕らを品定めするような視線を向けてきた横柄な所長。屈辱的な直腸検査、そして……

 サムライ。

 不思議な男だ。口数は少なく、喜怒哀楽にも乏しい。感情表現は下手に見えるが、その実、時折目を過ぎる殺気走った光には常人の背筋を凍らせるものがある。
 暗闇で木刀を突きつけられたとき、まだ実際にはサムライの顔を知る前から、僕は彼に非常な興味を持っていた。これからこの房で二人きりの生活が始まる。自分の生活圏内に他人がいると思うと息が詰まるが、いるのかいないのかわからないほど気配を抑制しているサムライが同居人ならば一日のサイクルを乱されることもなさそうだ。

 先刻の会話を思い出す。

 『お前も人を殺したのか』
 『お前もか。奇遇だな』

 あの時、サムライは笑った。剃刀のように鋭い笑みを閃かせたのだ。

 サムライも人を殺したことがある。
 サムライはだれを殺したのだろう。

 それは、血の繋がった肉親なのだろうか。それとも全く関係のない、通りすがりの赤の他人なのだろうか。

 僕が殺したのは血の繋がらない両親だった。
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