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五話
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サムライの口調は著しく抑揚を欠いていた。
その淡白な物言いから推量するに、僕の身を案じているわけでもないらしい。床に膝を折って正座し、背筋をぴんと伸ばし、切腹に挑む武士のように厳粛な面持ちで木刀と向き合っている。丹念に磨かれた木刀は飴色の艶を帯び、サムライの掌中にしっくりと納まっている。
サムライの横顔を観察する。鋭い陰影に縁取られた顔の輪郭、そげた頬と尖ったおとがい。酷薄な印象を与える薄い唇は、最前から一文字に引き結ばれて沈黙したままだ。
妙な男だ。
暗闇で対峙した時の得体の知れない威圧感は、今は感じられない。凪のように深沈と鎮まった光は柔和な光を宿し、慈しむように木刀を磨く手の動きには一切の無駄がなく、もはや職人芸の域に達している。寡黙なサムライは無駄口を好まないらしく、甚だお節介な忠告とやらを発した後は己の掌中の身に全神経を傾注している。
新参者と必要以上に馴れ合う気はなさそうだ。
心中深く安堵する。人付き合いを苦手とする僕にとって、初対面にもかかわらず友人面して馴れ馴れしく話しかけてくる他者の存在は苦痛にほかならない。無知で無能な愚者の発言は例外なく癇に障る、知能指数が劣る人間と喋っても得られるのは疲労感のみ、時間を浪費するだけで益はない。目の前の男は異論を挟む余地のない変わり者だが、ダイスケとは違いちゃんとそこらへんを理解しているようだ。
サムライをじっくり観察する余裕が出てきた僕は、この風変わりな男に純粋な興味を覚え戯れに質問を投げる。
「君はこの刑務所に入って何年になる?」
サムライは木刀を磨く手を休めず、記憶の襞を探るように目を細めた。
「……三年だ」
「何歳だ」
「今年で十八歳になる」
「十八歳?」
驚いた。おもわず反駁した僕にも格別反応を示さず、サムライは淡々と続ける。
「老けて見えただろう」
図星だ。無精髭の散った細面はどう贔屓目に見ても十代には見えない。ここが未成年の受刑者を収監する少年刑務所であることを鑑みればサムライが十代であることは疑うべくもない事実なのだが、それでも僕は一抹の疑念を捨てきれない。脂じみた黒髪が額に被さり、やつれた面に影を落としているせいだろうか。頬のそげた生気に乏しい顔は、骸を積んだ戦場から帰還した歴戦の武者のように凄惨な年輪を刻んでいた。
「……お前も人を殺したのか」
下唇を舐め、慎重に問う。サムライの手が止まる。ネジを巻かれた人形のようにぎこちなく首をあげ、尖ったおとがいを巡らし、振り返る。サムライの目には底知れない空洞が穿たれていた。その目に墨汁を一滴垂らしたように波紋が浮かび、理性の光が点る。
「……お前もか」
理性の光を宿した瞬かない目が、僕の動向を探るように鋭く光っている。曇った豆電球の下、薄暗い照明におぼろに浮かび上がるのは、垢染みた囚人服を着た姿勢のいい男。サムライと距離をとり、対岸のマットレスに浅く腰掛けた僕は、氷針めいた視線の圧力に屈して首を折る。額に落ちた前髪の下、目尻に醜い皺が寄るのが顔の筋肉の動きでわかる。
今の僕はきっと、醜く歪んだ笑みを浮かべていることだろう。
「……ああ。そうだ。奇遇だな」
組んだ膝の上に手をおき、胸にこみあげてきた苦汁を吐き捨てる。自虐的な台詞に触発されたか、両親を殺した時の映像がフラッシュバックする。ごぼりと泡音をたてて血を吐き出した口腔の粘膜、恐怖と苦痛に歪んだ断末魔の顔。最期の力を振り絞って伸ばした五指で虚空をかきむしり、後ろ向きに倒れてゆく両親の姿。
視界を染める一面の赤、これは……血だ。
両親を刺したときの感触が、まざまざと手に蘇る。ナイフの切っ先が肉を抉るおぞましい感触。弾性のある筋肉組織をひきちぎり、脂肪の層を裂き、柄の近くまで深々と胸に埋まったナイフ。傷口から迸った鮮血がしとどに手首を濡らし、じわじわと袖に染みてゆくー……
「ああ」
日も浅い殺人の記憶を反芻していた僕は、鼓膜を打った声にはっとして顔を上げる。悪循環に陥った思考を遮ったのは、蒸した茶葉のように渋いサムライの声。床に正座したサムライは、死期を間近に控えた老人のように表情の削げ落ちた顔を虚空に向けていた。目に宿るのは飽和した光、視線の先にあるのは点々とシミが浮き出た壁。
殺風景な壁に視線を固定し、サムライが口を開く。
「……まったく、奇遇だな」
刹那、サムライの表情に変化が訪れた。目を伏せたサムライの顔を過ぎったのは、複雑な色。後悔、自責、悔恨、諦観……平板な声の底でさざなみを立てているのは、混沌と渦巻くさまざまな感情。薄く含み笑ったサムライの顔は、救い難い悲哀を帯びておのれの過去に思いを馳せているかに見えた。
あっけにとられた。
ほんの一瞬だけ鉄板の仮面がめくれ、サムライの素顔がかいま見えた気がした。コイツ、こんな人間らしい表情もできるんじゃないか。頭の片隅で感心した僕は、意識的に唇を綻ばせる。
おもしろい。
君はおもしろい男だ、サムライ。
唇の端を歪め、サムライへと視線を投げる。瞬き一つ、常と変わらぬ無表情を取り戻したサムライは手首を捻り、磨き終えた木刀を左右に傾げて検分している。磨き抜かれた木刀に映ったおのれの顔に、満足げに頷く。この男は変わっている。ただの変人ではない。もっと深いものを内に秘めている。知的好奇心を刺激された僕は、この先待ち受けている単調な刑務所生活の中で、殆ど唯一ともいえる娯楽を発見したことに狂喜していた。
サムライは格好の観察対象だ。見ていて飽きない。
人間観察は物心ついた時分からの僕の趣味であり、自己を防衛するために培った習性だった。僕の知的好奇心を充足させてくれるのはダイスケのような短絡的な馬鹿でも、食物連鎖の最底辺に位置するリュウホウのような惰弱な人間でもなく、サムライのように僕の理解を超え共感を拒絶する者ー……僕と全く異なる生育歴を持ち、全く相容れない価値観を基盤とした存在でなければ物足りない。
一人ほくそえんでいた僕に水をさしたのは、衣擦れの音。釣られるように視線を前方に向ける。木刀をベッドの下にしまい、膝を払って立ち上がるサムライ。垢染みた囚人服を羽織っているというのに、その洗練された所作には一種の風格さえ漂っている。
サムライは天井を仰ぐと、小声で呟いた。
「くる」
なにが?
答えはすぐにわかった。次の瞬間、廊下にけたたましいベルが鳴り響く。廊下の左右に並んだドアが弾けるような勢いで開け放たれ、囚人たちが歓声とともに溢れ出す。何事だ一体。鉄扉上部の格子窓へと顔を寄せた僕は、ふと気配を感じ横を向く。いつのまにか隣に来ていたサムライが、囚人たちで溢れ返った廊下を気のない目で眺めて付け足す。
「夕餉の刻限だ」
なるほど。さっきのベルは夕食の開始を告げるものだったのだ。理解した途端、空腹を覚えて腹に手をやる。半日かけて未舗装の砂利道をトラックの荷台に揺られてきたのだ。その間与えられたのはミネラルウォ―ターと味けない乾パンだけ。半日前にとった食事はとっくに消化されている。
「……食堂に案内する」
僕の顔色を見て何か察したのか、サムライがノブを捻る。蝶番が軋み、鉄扉が開く。サムライに続いて廊下にでた僕は、白と黒の洪水に取り巻かれて眩暈を覚える。白と黒の洪水と錯覚したのは、二桁を超す囚人たちが身に付けた格子縞のシャツだった。怒涛の勢いで押し寄せた囚人に揉まれ、鼻先を塞いだ囚人の背に危うく窒息しかけながら、向こうに見え隠れするサムライの後頭部を追って洪水を抜ける。岩場を避けて泳ぐ魚のように、囚人たちを回避するサムライの足取りは澱みない。たいして苦もなく雑踏を抜けると、背後で息を切らした僕を悠然と振り返る。
「この先だ」
言葉少なく、サムライが廊下の奥を指さす。サムライにわざわざ教えられなくても、囚人たち全員が同じ方向を目指していることから容易に推理できる。プライドを挫かれた僕は歩調を速めてサムライに追いつくと、彼の方を見もせずに吐き捨てる。
「まるで動物園だな」
周囲を取り巻く囚人たちに目を馳せ、致死量の毒を含んだ声で揶揄する。どいつもこいつも下卑た面をして、野太い濁声でさかんに叫び交わしている。品性のカケラもない。低脳の集団に囲まれていると息が詰まる。おもわず顔をしかめた僕の鼓膜を、場違いに澄んだボーイソプラノが叩く。
「あれっ、新人さん?」
鈴を振るような朗らかな響きを備えたその声は、変声期を迎える前の少年のものに相違なかった。反射的に振り向く。僕の右手に立っていたのは、150センチあるかないかの小柄な少年。既存の囚人服が余ってしまうほど手足は細く、汚れたスニーカーをひっかけた踝は砂場で遊ぶ女の子のように華奢だ。スニーカーを踏んづけた踵から、体の線に沿って視線を上昇させる。貧弱な体躯を囚人服の中で泳がせていた少年は、折れそうに細い首の上に小さな顎を乗せ、にこにこと微笑んでいた。額に被さった赤毛の下、愛嬌たっぷりの翠の目が好奇心旺盛に輝いている。銀幕を飾るに相応しい稚気と愛嬌を兼ね備えた少年は、天真爛漫な笑顔で僕を覗きこむ。
じいっ。
執拗に顔を凝視され、居心地が悪い。気圧されたように腰を引いた僕を無視して、図々しくも間合いに踏みこんでくる少年。鼻の頭が接するほどの至近距離に童顔を突き出し、少年が訊く。
「……その眼鏡、伊達?」
は?
予期せぬ質問に狼狽した僕を前に、ご機嫌な猫のように喉を鳴らす少年。からかわれたのか?不愉快だ。顔の前でさかんに手を振り、邪険に少年を追いやる。たたらを踏んで後退した少年を一瞥、眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
「……伊達ではない。自慢ではないが僕の視力は0.03だ」
「わるっ」
赤毛の少年がずっとんきょうに叫ぶ。アメリカのホームドラマにでてくる子役のようなオーバーリアクションに辟易する。不躾に僕の顔を覗き込んでいた少年は、何事か腑に落ちたようにサムライに目をやると、人懐こい童顔にいやらしい笑みを広げる。
「はあーん、なるほど。つまり、そういうことか」
「?」
何を言ってるんだ、この低脳は。そういうことってどういうことだ。当惑した僕をよそに、耳年増の中年女のように一人合点した少年はふんふんと頷いている。
「サムライにもやっと春が訪れたってわけね」
なにか誤解しているようだ。反駁しようと口を開きかけた僕を遮り、少年が続ける。
「メガネくん、サムライをよろしくね。そいつちょっと無口で変わってるけど、いざって時は頼りになる男だからさ。酒もクスリもやんないし、潔癖すぎて面白みには欠けるけど」
腰の後ろで手を組み、したり顔で頷く少年。満面にあどけない笑みを湛えた童顔は、大人の歓心を買う術に長けた子役のように徹頭徹尾打算的ですらある。唖然と立ち尽くす僕の前で、少年はさっと身を翻す。肩越しに振り返り、気さくに手を振ったその顔には悪戯っぽい微笑が浮かんでいた。
「じゃあね。君たちもはやく行かないと席とられちゃうよ」
軽い足音を残し、駆けてゆく少年。小さな背が雑踏に呑まれるのを見送り、傍らのサムライを仰ぐ。サムライの唇から吐息が漏れる。少年の姿が視界から消失するのを待ち、歩を再開するサムライ。サムライの横を歩きつつ、尋ねる。
「……今のはなんだ」
「……リョウだ。それ以上のことについてはおいおいわかる」
サムライの横顔には色濃く疲労が滲んでおり、重ねて問うのはためらわれた。短いやりとりの間に食堂に着いた。廊下の壁が途切れ、ひらけた空間が出現する。三階まで吹き抜けの巨大な空間を囲うように手摺が巡り、それぞれの階にテーブルと長椅子が配置されている。テーブルは八割方先客で占められており、遅れをとった囚人たちがトレイを持ったまま舌打ちしている。食堂上空では罵声と怒声が交錯し、食器とフォークが触れ合う金属質の音が鼓膜をひっかく。サムライに先導され、カウンターの前に長蛇の列を作った囚人たちの最後尾に並ぶ。
「食事は一日二食、朝餉は朝六時、夕餉は夜六時だ。献立は……知りたいか?」
「……遠慮しておく」
ため息。刑務所の献立など知りたくもない。前を向いたサムライが感じ入ったように首肯する。
「賢明だ」
緩慢に列が進む。僕は食堂に視線を巡らした。一日の労働を終え、腹を空かせた囚人たちが一同に会した食堂は活気があった。否、ありすぎたといったほうがいい。今も四方八方のテーブルで囚人同士の小競り合いが起こり、ひっくり返ったトレイが床を打つ甲高い音が間断なく響き渡る。食事もそこそこに、テーブルの上で上下逆転しながら取っ組み合っているのは喧嘩っ早い囚人たちだろう。
なんてせわしない食事風景だろうか。遠目に眺めていても食欲が失せる。
目を瞑る。思い出すのは家族の食卓。だだっ広いテーブルの隅、ちょこんと腰掛けているのは幼い妹ー恵。不器用にフォークを操ってグラタンを食べている、いたいけなその姿。
恵は今、どうしているのだろう。
両親が存命だった頃から、家族揃って食卓を囲むことはまれだった。殆ど皆無だったと断言してもいい。今、一人になった恵はどうしているのだろう。一人で食事を食べているのだろうか。一人で広い食卓の隅に座り、所在なさげに椅子から足を垂らしているのだろうか。
その淡白な物言いから推量するに、僕の身を案じているわけでもないらしい。床に膝を折って正座し、背筋をぴんと伸ばし、切腹に挑む武士のように厳粛な面持ちで木刀と向き合っている。丹念に磨かれた木刀は飴色の艶を帯び、サムライの掌中にしっくりと納まっている。
サムライの横顔を観察する。鋭い陰影に縁取られた顔の輪郭、そげた頬と尖ったおとがい。酷薄な印象を与える薄い唇は、最前から一文字に引き結ばれて沈黙したままだ。
妙な男だ。
暗闇で対峙した時の得体の知れない威圧感は、今は感じられない。凪のように深沈と鎮まった光は柔和な光を宿し、慈しむように木刀を磨く手の動きには一切の無駄がなく、もはや職人芸の域に達している。寡黙なサムライは無駄口を好まないらしく、甚だお節介な忠告とやらを発した後は己の掌中の身に全神経を傾注している。
新参者と必要以上に馴れ合う気はなさそうだ。
心中深く安堵する。人付き合いを苦手とする僕にとって、初対面にもかかわらず友人面して馴れ馴れしく話しかけてくる他者の存在は苦痛にほかならない。無知で無能な愚者の発言は例外なく癇に障る、知能指数が劣る人間と喋っても得られるのは疲労感のみ、時間を浪費するだけで益はない。目の前の男は異論を挟む余地のない変わり者だが、ダイスケとは違いちゃんとそこらへんを理解しているようだ。
サムライをじっくり観察する余裕が出てきた僕は、この風変わりな男に純粋な興味を覚え戯れに質問を投げる。
「君はこの刑務所に入って何年になる?」
サムライは木刀を磨く手を休めず、記憶の襞を探るように目を細めた。
「……三年だ」
「何歳だ」
「今年で十八歳になる」
「十八歳?」
驚いた。おもわず反駁した僕にも格別反応を示さず、サムライは淡々と続ける。
「老けて見えただろう」
図星だ。無精髭の散った細面はどう贔屓目に見ても十代には見えない。ここが未成年の受刑者を収監する少年刑務所であることを鑑みればサムライが十代であることは疑うべくもない事実なのだが、それでも僕は一抹の疑念を捨てきれない。脂じみた黒髪が額に被さり、やつれた面に影を落としているせいだろうか。頬のそげた生気に乏しい顔は、骸を積んだ戦場から帰還した歴戦の武者のように凄惨な年輪を刻んでいた。
「……お前も人を殺したのか」
下唇を舐め、慎重に問う。サムライの手が止まる。ネジを巻かれた人形のようにぎこちなく首をあげ、尖ったおとがいを巡らし、振り返る。サムライの目には底知れない空洞が穿たれていた。その目に墨汁を一滴垂らしたように波紋が浮かび、理性の光が点る。
「……お前もか」
理性の光を宿した瞬かない目が、僕の動向を探るように鋭く光っている。曇った豆電球の下、薄暗い照明におぼろに浮かび上がるのは、垢染みた囚人服を着た姿勢のいい男。サムライと距離をとり、対岸のマットレスに浅く腰掛けた僕は、氷針めいた視線の圧力に屈して首を折る。額に落ちた前髪の下、目尻に醜い皺が寄るのが顔の筋肉の動きでわかる。
今の僕はきっと、醜く歪んだ笑みを浮かべていることだろう。
「……ああ。そうだ。奇遇だな」
組んだ膝の上に手をおき、胸にこみあげてきた苦汁を吐き捨てる。自虐的な台詞に触発されたか、両親を殺した時の映像がフラッシュバックする。ごぼりと泡音をたてて血を吐き出した口腔の粘膜、恐怖と苦痛に歪んだ断末魔の顔。最期の力を振り絞って伸ばした五指で虚空をかきむしり、後ろ向きに倒れてゆく両親の姿。
視界を染める一面の赤、これは……血だ。
両親を刺したときの感触が、まざまざと手に蘇る。ナイフの切っ先が肉を抉るおぞましい感触。弾性のある筋肉組織をひきちぎり、脂肪の層を裂き、柄の近くまで深々と胸に埋まったナイフ。傷口から迸った鮮血がしとどに手首を濡らし、じわじわと袖に染みてゆくー……
「ああ」
日も浅い殺人の記憶を反芻していた僕は、鼓膜を打った声にはっとして顔を上げる。悪循環に陥った思考を遮ったのは、蒸した茶葉のように渋いサムライの声。床に正座したサムライは、死期を間近に控えた老人のように表情の削げ落ちた顔を虚空に向けていた。目に宿るのは飽和した光、視線の先にあるのは点々とシミが浮き出た壁。
殺風景な壁に視線を固定し、サムライが口を開く。
「……まったく、奇遇だな」
刹那、サムライの表情に変化が訪れた。目を伏せたサムライの顔を過ぎったのは、複雑な色。後悔、自責、悔恨、諦観……平板な声の底でさざなみを立てているのは、混沌と渦巻くさまざまな感情。薄く含み笑ったサムライの顔は、救い難い悲哀を帯びておのれの過去に思いを馳せているかに見えた。
あっけにとられた。
ほんの一瞬だけ鉄板の仮面がめくれ、サムライの素顔がかいま見えた気がした。コイツ、こんな人間らしい表情もできるんじゃないか。頭の片隅で感心した僕は、意識的に唇を綻ばせる。
おもしろい。
君はおもしろい男だ、サムライ。
唇の端を歪め、サムライへと視線を投げる。瞬き一つ、常と変わらぬ無表情を取り戻したサムライは手首を捻り、磨き終えた木刀を左右に傾げて検分している。磨き抜かれた木刀に映ったおのれの顔に、満足げに頷く。この男は変わっている。ただの変人ではない。もっと深いものを内に秘めている。知的好奇心を刺激された僕は、この先待ち受けている単調な刑務所生活の中で、殆ど唯一ともいえる娯楽を発見したことに狂喜していた。
サムライは格好の観察対象だ。見ていて飽きない。
人間観察は物心ついた時分からの僕の趣味であり、自己を防衛するために培った習性だった。僕の知的好奇心を充足させてくれるのはダイスケのような短絡的な馬鹿でも、食物連鎖の最底辺に位置するリュウホウのような惰弱な人間でもなく、サムライのように僕の理解を超え共感を拒絶する者ー……僕と全く異なる生育歴を持ち、全く相容れない価値観を基盤とした存在でなければ物足りない。
一人ほくそえんでいた僕に水をさしたのは、衣擦れの音。釣られるように視線を前方に向ける。木刀をベッドの下にしまい、膝を払って立ち上がるサムライ。垢染みた囚人服を羽織っているというのに、その洗練された所作には一種の風格さえ漂っている。
サムライは天井を仰ぐと、小声で呟いた。
「くる」
なにが?
答えはすぐにわかった。次の瞬間、廊下にけたたましいベルが鳴り響く。廊下の左右に並んだドアが弾けるような勢いで開け放たれ、囚人たちが歓声とともに溢れ出す。何事だ一体。鉄扉上部の格子窓へと顔を寄せた僕は、ふと気配を感じ横を向く。いつのまにか隣に来ていたサムライが、囚人たちで溢れ返った廊下を気のない目で眺めて付け足す。
「夕餉の刻限だ」
なるほど。さっきのベルは夕食の開始を告げるものだったのだ。理解した途端、空腹を覚えて腹に手をやる。半日かけて未舗装の砂利道をトラックの荷台に揺られてきたのだ。その間与えられたのはミネラルウォ―ターと味けない乾パンだけ。半日前にとった食事はとっくに消化されている。
「……食堂に案内する」
僕の顔色を見て何か察したのか、サムライがノブを捻る。蝶番が軋み、鉄扉が開く。サムライに続いて廊下にでた僕は、白と黒の洪水に取り巻かれて眩暈を覚える。白と黒の洪水と錯覚したのは、二桁を超す囚人たちが身に付けた格子縞のシャツだった。怒涛の勢いで押し寄せた囚人に揉まれ、鼻先を塞いだ囚人の背に危うく窒息しかけながら、向こうに見え隠れするサムライの後頭部を追って洪水を抜ける。岩場を避けて泳ぐ魚のように、囚人たちを回避するサムライの足取りは澱みない。たいして苦もなく雑踏を抜けると、背後で息を切らした僕を悠然と振り返る。
「この先だ」
言葉少なく、サムライが廊下の奥を指さす。サムライにわざわざ教えられなくても、囚人たち全員が同じ方向を目指していることから容易に推理できる。プライドを挫かれた僕は歩調を速めてサムライに追いつくと、彼の方を見もせずに吐き捨てる。
「まるで動物園だな」
周囲を取り巻く囚人たちに目を馳せ、致死量の毒を含んだ声で揶揄する。どいつもこいつも下卑た面をして、野太い濁声でさかんに叫び交わしている。品性のカケラもない。低脳の集団に囲まれていると息が詰まる。おもわず顔をしかめた僕の鼓膜を、場違いに澄んだボーイソプラノが叩く。
「あれっ、新人さん?」
鈴を振るような朗らかな響きを備えたその声は、変声期を迎える前の少年のものに相違なかった。反射的に振り向く。僕の右手に立っていたのは、150センチあるかないかの小柄な少年。既存の囚人服が余ってしまうほど手足は細く、汚れたスニーカーをひっかけた踝は砂場で遊ぶ女の子のように華奢だ。スニーカーを踏んづけた踵から、体の線に沿って視線を上昇させる。貧弱な体躯を囚人服の中で泳がせていた少年は、折れそうに細い首の上に小さな顎を乗せ、にこにこと微笑んでいた。額に被さった赤毛の下、愛嬌たっぷりの翠の目が好奇心旺盛に輝いている。銀幕を飾るに相応しい稚気と愛嬌を兼ね備えた少年は、天真爛漫な笑顔で僕を覗きこむ。
じいっ。
執拗に顔を凝視され、居心地が悪い。気圧されたように腰を引いた僕を無視して、図々しくも間合いに踏みこんでくる少年。鼻の頭が接するほどの至近距離に童顔を突き出し、少年が訊く。
「……その眼鏡、伊達?」
は?
予期せぬ質問に狼狽した僕を前に、ご機嫌な猫のように喉を鳴らす少年。からかわれたのか?不愉快だ。顔の前でさかんに手を振り、邪険に少年を追いやる。たたらを踏んで後退した少年を一瞥、眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
「……伊達ではない。自慢ではないが僕の視力は0.03だ」
「わるっ」
赤毛の少年がずっとんきょうに叫ぶ。アメリカのホームドラマにでてくる子役のようなオーバーリアクションに辟易する。不躾に僕の顔を覗き込んでいた少年は、何事か腑に落ちたようにサムライに目をやると、人懐こい童顔にいやらしい笑みを広げる。
「はあーん、なるほど。つまり、そういうことか」
「?」
何を言ってるんだ、この低脳は。そういうことってどういうことだ。当惑した僕をよそに、耳年増の中年女のように一人合点した少年はふんふんと頷いている。
「サムライにもやっと春が訪れたってわけね」
なにか誤解しているようだ。反駁しようと口を開きかけた僕を遮り、少年が続ける。
「メガネくん、サムライをよろしくね。そいつちょっと無口で変わってるけど、いざって時は頼りになる男だからさ。酒もクスリもやんないし、潔癖すぎて面白みには欠けるけど」
腰の後ろで手を組み、したり顔で頷く少年。満面にあどけない笑みを湛えた童顔は、大人の歓心を買う術に長けた子役のように徹頭徹尾打算的ですらある。唖然と立ち尽くす僕の前で、少年はさっと身を翻す。肩越しに振り返り、気さくに手を振ったその顔には悪戯っぽい微笑が浮かんでいた。
「じゃあね。君たちもはやく行かないと席とられちゃうよ」
軽い足音を残し、駆けてゆく少年。小さな背が雑踏に呑まれるのを見送り、傍らのサムライを仰ぐ。サムライの唇から吐息が漏れる。少年の姿が視界から消失するのを待ち、歩を再開するサムライ。サムライの横を歩きつつ、尋ねる。
「……今のはなんだ」
「……リョウだ。それ以上のことについてはおいおいわかる」
サムライの横顔には色濃く疲労が滲んでおり、重ねて問うのはためらわれた。短いやりとりの間に食堂に着いた。廊下の壁が途切れ、ひらけた空間が出現する。三階まで吹き抜けの巨大な空間を囲うように手摺が巡り、それぞれの階にテーブルと長椅子が配置されている。テーブルは八割方先客で占められており、遅れをとった囚人たちがトレイを持ったまま舌打ちしている。食堂上空では罵声と怒声が交錯し、食器とフォークが触れ合う金属質の音が鼓膜をひっかく。サムライに先導され、カウンターの前に長蛇の列を作った囚人たちの最後尾に並ぶ。
「食事は一日二食、朝餉は朝六時、夕餉は夜六時だ。献立は……知りたいか?」
「……遠慮しておく」
ため息。刑務所の献立など知りたくもない。前を向いたサムライが感じ入ったように首肯する。
「賢明だ」
緩慢に列が進む。僕は食堂に視線を巡らした。一日の労働を終え、腹を空かせた囚人たちが一同に会した食堂は活気があった。否、ありすぎたといったほうがいい。今も四方八方のテーブルで囚人同士の小競り合いが起こり、ひっくり返ったトレイが床を打つ甲高い音が間断なく響き渡る。食事もそこそこに、テーブルの上で上下逆転しながら取っ組み合っているのは喧嘩っ早い囚人たちだろう。
なんてせわしない食事風景だろうか。遠目に眺めていても食欲が失せる。
目を瞑る。思い出すのは家族の食卓。だだっ広いテーブルの隅、ちょこんと腰掛けているのは幼い妹ー恵。不器用にフォークを操ってグラタンを食べている、いたいけなその姿。
恵は今、どうしているのだろう。
両親が存命だった頃から、家族揃って食卓を囲むことはまれだった。殆ど皆無だったと断言してもいい。今、一人になった恵はどうしているのだろう。一人で食事を食べているのだろうか。一人で広い食卓の隅に座り、所在なさげに椅子から足を垂らしているのだろうか。
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