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一話
しおりを挟む「起きろ」
肩を揺さぶられ、目を開ける。
視界を占めているのは地平線の彼方まで広がる無辺大の砂漠、じりじり高度を下げ始めた灼熱の太陽という、目を瞑る前とそれほど大差ない光景。砂を含んだ風がシャツの裾を音高くはためかせ、後方へと飛び去ってゆく。
砂漠の真ん中を走るジープの荷台に揺られていると気付いた僕は、次の瞬間口を開く。
「汚い手で触れないでくれたまえ」
最前まで僕の肩を揺さぶっていたのは、荷台に同乗していた若い看守だった。看守は一瞬ぽかんとした。間抜け面だ。こいつの知能指数は高くないだろう。馬鹿が伝染ると困るから、肩を揺すって手を振り落とす。僕は中指で眼鏡のブリッジを押し上げると、低能な看守を冷ややかに一瞥した。
「こ、この野郎……!」
馬鹿のごたぶんに漏れず、この看守は血の気が多い。腰に下げた警棒をひっ掴み、風切る唸りとともに僕の頭上へと振り上げる。衝撃。頬をしたたかに殴りつけられ、背後に手をつく。僕の頬を殴打した看守は、未だ怒りが冷めやらぬらしく浅く肩を上下させている。切れた唇を手の甲で拭い、目の端で看守を見る。自他ともに認める生意気な面が気に食わなかったのだろうか、看守の顔が醜悪に歪む。
「なんだその目は…看守様になんか文句でもあんのか!?」
弛んだ頬肉を波打たせた看守が、唾をとばして咆哮する。堂に入った巻き舌で恫喝されても僕は動じない。硬度を増した針の視線で、煩わしげに看守を一瞥する。まったく、これじゃどちらが犯罪者かわからない。わざとらしくため息をつき、看守から目を逸らす。
「文句などない。強いていえば……ああ、唾が飛ぶからこれ以上口を開かないでくれないか。不愉快きわまりない」
至極当然のことを指摘したまでなのだが、僕の良識ある忠告は看守の逆鱗に触れたらしい。看守は満面を朱に染めるや、激昂して警棒を振り上げた。手垢の染みた警棒が鋭く風を切り、無防備な眉間へ振り下ろされる。
「そのへんにしておけ」
制止の声は運転席からだ。半身を捻り、剣呑な半眼で運転席を睨む看守。運転席でハンドルを握っていたのは、くわえ煙草の男。垢染みた作業着を羽織り、眠たげな目でハンドルを操作している。
「……なんでだよ」
看守は不満そうだ。運転手を睨む目が鋭さを増す。ハンドルに顎を乗せた運転手はおどけたように肩を竦めた。無精髭の散った顎を掻きながら、欠伸まじりに付け足す。
「お前さん知らねえのか。その小僧はVIPだぜ。丁重に扱わねえと上からお叱りを受ける」
「VIPだあ?」
運転手はハンドルを回しつつ、面倒くさそうに説明する。
「万一そいつの頭をぶん殴ってみろ。IQ180の超高性能の頭脳がイカレちまったら、お前、どう責任とるつもりなんだよ?」
看守の顔色が豹変した。顔面蒼白になった看守が、磁石の両極が反発するように僕から距離をとる。彼も漸く気付いたのだろう、僕がただの「囚人」ではないということに。
不規則に跳ねる荷台の上、未舗装の砂利道を疾駆する一台のトラック。延延と砂丘が連なる無味乾燥な光景を眺めていると、時間の感覚が狂ってくる。
遠い昔、この砂漠地帯は東京の中心として都市の中枢機能を一手に担い、大いに栄えていた。世界有数の大都市として繁栄した首都・東京だが、二十一世紀初頭に起きた度重なる地震とそれに伴う地殻変動により様相は一変し、後には広大な砂漠が生まれた。
かつて東京のシンボルとして一億二千万の民に仰がれた東京タワーも半ばまで砂に埋もれ、無残に風化して久しい。砂漠と化した旧首都の周縁にサークル状に広がっているのは、低所得層のスラムである。スラムを構成する住民の大半は、不法滞在の外国人で占められる。出稼ぎ目的で日本に渡ってきた外国人とその子孫は、戸籍をもたない二世三世として今も増殖を続けている。
だから、隣に座る馬鹿がこう問い掛けてきた時も僕は特に反応を示さなかった。
「お前、日本人か?」
「……国籍は日本、戸籍上の両親も日本人だが」
隣で胡坐をかいていたのは、品のない馬面の少年。
護送中の退屈を紛らわすためか、唯一会話が成立しそうな僕に話題を振ったのだろう。僕を除く面子は、会話以前に意思の疎通さえ怪しいからだ。荷台の隅で膝を抱えているのは、がりがりに痩せ細った貧弱な少年。血の気の失せた唇から連綿と漏れているのは、陰にこもった不明瞭な呟き。
意味不明な繰り言は自分の世界に閉じこもっている証拠であり、会話が可能な精神状態でないことは一目瞭然だ。
少年の対角線上で憮然と押し黙っているのは、先刻の看守だ。仏頂面で腕を組み、我関せずとむすっとしている。看守の顔色を上目遣いに探りつつ、馬面の少年が問いを重ねる。
「お前、純血種?」
「あまり好きではない呼び方だ」
辟易する。第一印象を裏切ることなく、この少年は頭が悪そうだ。予感が確信に変わるまで、0.5秒しか要さなかった。
「ついてるぜ、お仲間発見だ」
同類を発見した喜びに、少年の顔が輝く。少年はなれなれしく僕の肩を叩くと、立て板に水とまくし立てた。
「俺は石動ダイスケ。もちろん純血種の日本人だ。曽祖父の代まで遡れるぜ。しっかし奇遇だな、刑務所に向かうジープの上でいまやごく少数となったお仲間に巡り会えるなんてよ」
汚い手で触るなという言葉が喉元まで出かけるが、自制心を総動員して堪える。その代わり、肩口に乗った手をよそよしく払いのけ、機械的に口を開く。
「私語は厳禁だ」
「かてえこと言うなって」
ダイスケが怖じる気配は無い。それどころか、ますます調子に乗って続ける。
「で、お前、なにやったの?」
「……」
下世話な好奇心を露わにして、ダイスケが尋ねる。沈黙。
「……君はなにをしたんだ?」
問いに問いを返すのは核心をはぐらかす常套手段だ。僕の睨んだとおり、ダイスケは嬉々として語り始めた。
「強盗だよ。スラムの奴らを標的にしてたからアガリは大したことなかったけどな……これでもふたり殺ってるんだぜ、おれ」
殺人・強盗か。目新しくもない。僕の内心を見抜いたのだろうか、ダイスケが再び質問の矛先を向ける。
「で?お前はなにやってとっつかまったんだ」
「『尊属殺人』」
喘ぐように口を開いた僕の語尾を奪ったのは、それまで隅で胡坐をかいていた看守だった。胸の前で腕を組んだ看守が、下劣な笑みを満面に湛え、僕とダイスケを交互に見比べる。
『尊属殺人』
その一言が与えた衝撃は、静かに大気中に浸透していった。固唾を呑んだように押し黙るダイスケ、隅で膝を抱えていた少年が鞭打たれたように蒼白の顔を起こす。ハンドルを握った中年男が、聴覚に全神経を集中させているのがわかる。乾いた風が顔面を叩き、ざらついた砂がシャツの内側へと忍び込む。襟に指をひっかけ、上下に揺する。
僕は小さく歎息した。
「……よくご存知ですね」
別に隠すつもりもなかったが、自発的に暴露することでもないだろう。くぐもった声で看守が笑う。卑屈な笑い声が風に乗じ、遥か後方へと飛び去ってゆく。
看守の笑い声にも特段反応を示すことなく、僕は常と変わらぬ無表情で虚空に目を馳せる。
「……マジかよ」
無防備な鼓膜を叩いたのは、狼狽しきったダイスケの声。最前まで一方的な親近感に満ち溢れていたその声が、真相を知った今では抑圧しがたい嫌悪に隈取られている。ダイスケの顔は醜くひきつっていた。不自然な角度につりあがった口角は笑顔未満の笑顔のようにぎごちなく、滑稽である。
ダイスケは穴の開くほど僕を凝視していたが、やがて、嫌々するように首を振る。
「……イカレてやがるぜ、お前」
お前のような低能に指摘されなくてもわかっている。
胸に沸いてきた反発を、理性の力でねじ伏せる。ダイスケが言う通り、僕はイカレている。尊属殺人とは肉親に対する殺人罪……両親を殺した罪で刑務所送りとなった僕は他の囚人から異端視され、敬遠されるだろう。
事実、ダイスケはもう僕とは目もあわせようとしなかった。
うるさい蝿がいなくなってせいせいする。
溜飲をさげた僕は、ふと前方を仰ぐ。砂漠の真ん中に敷かれた砂利道を疾駆していた無骨なジープ、不規則に弾む荷台に揺られていた囚人三名と看守二名。その全員の視線が、遥か前方へと注がれる。
前方に隆起してきたのは、有刺鉄線で囲われた灰色の影。針で突いたような極小の点が次第に大きくなり、質量と体積を兼ねた巨大な建造物がその全貌を現す。
鋼の茨を備えた鉄線が地平に沿って延延と伸びている。起伏の激しい砂利道をトラックが進むにつれ、皆が無言になる。僕も例外ではなく、視界を圧する建造物の威容に声を失っていた。
コンクリート打ち放しの矩形の建物が数棟、有刺鉄線の向こう側に配置されている。それぞれの棟は渡り廊下でつながれており、さながら難攻不落の要塞か幾何学的な図面の迷路をおもわせた。
緩やかに傾斜した坂道を登る。タイヤが砂利を噛む耳障りな音。目の前に隆起したのは、不動の存在感を持つコンクリートの砦だ。夕闇の迫った空を率いた灰色の砦は、久遠の歳月を経て石化した巨大な怪物の亡骸にも見えた。
ここが東京プリズン。
そう遠くない将来、僕の墓場となる場所だ。
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