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亮に会いに行こうと思った。
今の時間は大学か。真面目な学生なら多分きっとそうだ。とはいえ広大なキャンパスで会えるか心もとない、生き別れの身内が突然訪ねて行った所で事務にすんなり通してもらえるか……。
悩んだ末、叔母の家に行く事に決めた。一人暮らしの可能性も考えたが、略歴には「世田谷区在住」と書いてあった。叔母の家も世田谷区、住所は変わってないと信じたい。
一旦風呂場に引っ込んで準備をする。ちゃんとやっとかないと客がうるさい、最悪先輩にチクられる。仕上げに洗面台で顔を洗い、充血した目をすすぐ。ハンドタオルで顔を拭き、壁に嵌めこまれた鏡に向き直る。眼鏡をとったせいか、視界は頼りなくぼやけていた。手のひらを見下ろす。爪の痕。指を握り込み、強く力を入れ、おもむろに拳を振り上げる。ガツン、衝撃が襲った。力任せに浴室の壁を殴り付け、腹の底で吠え猛る凶暴な衝動を押さえこむ。
前もって連絡する気はなかった。亮の番号は施設を出た日に削除してる。
その後俺はアパートを出て電車に乗った。叔母の家は世田谷の一等地の豪邸だ。敷地に張り巡らされた塀の隅に寄りかかり、しゃがんでスマホをいじる。亮が夜遊びにハマってないことを祈った。既に日は傾き始めている、指定の時間に間に合うように切り上げなければいけない。
豪邸の前で待ち伏せする事二時間、道の向こうから均整とれた長身の青年が歩いてきた。著者近影から抜け出てきたような背格好。涼しげな切れ長の目に高く通った鼻梁は、かすかに幼い頃の面影を宿している。
最初は困惑、次いで不審、最後は驚愕。接近に従い鮮やかに表情が移り変わり、第一声を放った。
「兄さん?」
「よ」
右手の指を中途半端に曲げてこたえる。亮が道のど真ん中で立ち止まり目を見開く。大袈裟なリアクション。当たり前か、ずっと消息不明だった兄が突然現れたんだから。
「本読んだぜ、売れっ子新人作家」
次の瞬間、抱擁された。亮がくしゃりと顔を歪め、両腕を俺の背中に回して叫ぶ。
「8年間もどこ行ってたんだよ、捜したんだぞ!警察に捜索願いだしても全然手がかりないし、何か事件に巻き込まれてるんじゃないかって」
「悪い」
「施設で何かあったんならどうして相談してくれないんだよ、勝手に飛び出してって長い間連絡もよこさずに!俺がどれだけ心配したかわかってんのか、毎日毎日兄さんのこと考えて元気でいるように願って」
「『お兄ちゃん』は卒業?寂しいな」
軽い口調でひやかし頭をなでさする。亮がずずっと洟を啜り、俺の目を狂おしく見詰めてくる。
「会いたかった」
「ああ」
「また会えて、死ぬほど嬉しい」
じゃあ死ねよ。
「俺もだよ」
8年ぶりの再会に感激する亮をちらちら見ながら、犬の散歩中の主婦が通り過ぎて行く。咄嗟に亮の腕を引っ張って端に寄り、素早く囁く。
「場所変えようぜ。近くの喫茶店でも」
「家ん中は?」
「叔母さんには会いたくない」
「死んだ」
「は?」
一瞬思考停止に陥る。冗談かと思ってまじまじ見直したが、亮の顔は至って真面目だ。
「三年前に事故で」
「事故ってどんな」
「うちの階段から落ちて頭を打って。ツイてないよな」
「知らなかった」
「知らせようとしたけど、携帯繋がんなかった」
俺にあれこれ話しかけていた時とは打って変わったローテンションで、他人の噂話でもするみたいに話す。何故だかぞくりとした。弟の中身が入れ替わった錯覚に囚われた。
「上がってよ。遠慮しないで」
うるさいのは消えたから。
先に立って玄関ドアを開けた亮に招かれ、ためらいがちな足取りで続く。内装は最後に来た時と変わらず豪華で、少々気圧された。
俺はリビングに通され、亮が淹れてくれた外国銘柄の紅茶をちびちび飲んだ。
「どうかな」
「うまい」
「よかった。マドレーヌも食べてよ、担当さんにもらったんだ」
「ファンの差し入れじゃないのか」
「食べ物はNGだから」
「毒とか髪の毛とか異物が混入されるかもしれないし」
軽口を叩いてマドレーヌを摘まむ。濃厚なバターの甘味が口の中に広がり、胸焼けした。
「葬式の手伝いできなくてすまない」
「気にしないで。それより酷いじゃないか、俺の番号まで消しちゃうなんて。施設の人に聞いても行き先知らないっていうし、本当にお手上げだったんだ」
亮が施設の連中と会っていたと知り、苦虫を嚙み潰した顔になる。
「施設を出た後は何してたの」
「先輩を頼って色々……仕事を回してもらった」
「働いてるの?仕事は?」
「フリーターみたいなもん。そっちは一人暮らし?叔母さんの遺産継いだのか」
「まあね。多すぎて使い道ないから貯金してる」
「うらやましい」
「俺の金は兄さんの金だよ。血の繋がった甥なんだから、叔母さんの遺産は半分手にする権利がある。必要なら気軽に」
「俺は養子縁組してない。ってことは、血の繋がった他人も同然じゃないか。甘えるわけにいかないよ。お前は学生で色々物入りなんだから大事に使え。今は印税で多少潤ってたって、数年後も売れ続けるかわかんないんだぞ」
皮肉っぽく口角を上げてまぜっ返す。亮が苦しげな顔をする。溜息を吐いて話題を変えた。
「知らない間に作家デビューしててびびった。『影の憧憬』、売れに売れてるみたいじゃないか。ネットでも大絶賛、新人じゃ異例の重版」
スマホを翳して書評を見せれば、亮は照れくさげに肩を竦めた。
「兄さんの影響だよ」
「俺の?」
「子どもの頃からずっと書いてたろ。自由帳の物語、見せてもらった」
「勝手に見たくせに」
語尾を掴まえ訂正する。亮は「ごめんてば」と付け足し、興奮に頬を染めて捲し立てる。
「兄さんが俺に物を書く楽しさを教えてくれたんだよ、覚えてるかな、小さい頃に絵本の続きを即興で考えてくれたの。王位継承争いに巻き込まれた人魚姫が、タコの殺し屋を欺く為に自分の死を偽装したってヤツ」
「あったなそんなの」
「兄さんの発想力は全くすごい。人魚姫を可哀想なまま終わらせず、ハラハラドキドキが詰まった続編を考えてくれた。俺は原作の人魚姫より兄さんが考えた続きの方がずっと好きだ、ずっとずっと面白かった。兄さんは誰に教わらなくてもエンタメの基本を押さえた物語作りができてたんだな」
新進気鋭の売れっ子作家様が、さんざんあがいてデビューもできない俺の幼稚な虚構をべた褒めする。
「小説を書き始めたのは中学生の頃。兄さんが目標だった。投稿を始めたのはごく最近。『影の憧憬』は初めて完結までもっていけた小説なんだ、書いてる時は大変だったけど審査員の先生たちにも褒めてもらえて……」
月一の面会を苦痛な義務として消化していたあの頃と同じく、笑顔で頷きながらまた無意識に手を握り締めていた。
「兄さん?」
亮の呼びかけで正気に戻る。目の前に弟の心配そうな顔。なんでもないとごまかそうとして、おもむろに右手を包まれた。
「大丈夫?さっきからちょっと様子が変じゃないか、汗かいてる」
「気のせいだよ」
「熱があるの?しんどそうだ。手も……よく見たら怪我してる」
数時間前に壁を殴り付けた拳を両手でさすり、亮が眉を八の字にする。
「手当する」
「かまうな」
「ばい菌が入ったら毒だ」
「いいから。もういくな、仕事が入ってるんだ」
「じゃあ駅まで、ううん、職場まで送ってくよ。今車出してくるから待ってて」
「マジで気にすんなって、すぐそこだから」
「また会えるよね。番号登録しといて」
話してたのは一時間ほどか。必死に引き止める亮を愛想笑いで制し、よろめく足取りで立ち上がる。片膝がテーブルに当たり、ティーカップの飲み残しの雫が飛び散った。
「あ」
綺麗に畳まれたフキンを持った亮が、俺と相対して凍り付く。この瞬間、コイツの目に兄貴がどうみえるか初めて自覚に至った。擦り切れたパーカー、色褪せたジーンズ、申し訳程度に寝癖を撫で付けた髪。長年愛用している眼鏡は弦が曲がったままほったらかしで、そろそろ度が合わなくなってきていた。買い替える余裕はない。
亮は喉元まで出かけた言葉を引っ込め、俺もあえて追及せず、花崗岩を敷き詰めた玄関へ赴く。
「じゃあな。また連絡する」
「うん」
亮は優しかった。不出来な兄貴を至れり尽くせりもてなし、食べきれなかった分のマドレーヌを手土産に包んでくれた。
何故会いに来たのか、完全に理由を見失っていた。自分の惨めさに追い討ちをかけにきたようなものだ。スニーカーを突っかけて踵を嵌める俺の背後に、一分ほど消えていた亮が戻ってきた。
「兄さんこれ。少ないけど」
この時振り返ってしまったことを、あとで心底呪った。
亮の差し出す分厚い封筒の中身を確認する。札束が入っていた。絶句する俺を見詰め、売れっ子作家様が慈悲深く微笑む。
「俺の印税。足しにしてよ」
哀れまれて、恵まれて、施された。
「……いらない」
「なんで?俺が稼いだ金だよ、どうしようが自由だ。せめて眼鏡は新しくしなよ、度が合ってないじゃん」
なんでわかるんだよ、見抜けるんだよ。
気持ち悪い。むかむかする。体内から悪寒と発熱に犯され、喉元に吐き気がこみ上げる。
「お前の金だろ。お前がお前の為に使え」
「兄さんの役に立ちたいんだ」
「ふざけんな」
虚勢を張って睨み付けても亮は引き下がらない。決して封筒を引っ込めず、俺が受け取るまでてこでも動かない気迫を込めて宣言する。
「お願いだからもらって。眼鏡の度が合わないんじゃ小説書けないだろ、本出す前に目を悪くしたら兄さんの夢が叶わない」
俺の夢を奪ったのは誰だ。踏み付けてめちゃくちゃにしたのは誰だ。
玄関先での押し問答に倦み、無造作に封筒をひったくる。亮がホッとして念を押す。
「今度は着信拒否しないでね」
どうしても送っていくとごねる弟をいなし、足早に最寄り駅に向かい構内を横切る。胸ポケットに突っ込んだ封筒が弾む。
「恵まれない子どもたちに募金お願いしまーす」
「お願いしまーす」
構内で一列になり、募金を呼びかける学生たち。大半の連中は目もくれず素通りしていく。ちょうどいい。一番声のでかい女子高生に歩み寄り、封筒ごと募金箱に突っ込んだ。
「あ……ありがとうございます!」
お辞儀をする学生グループに背を向け、男子トイレの個室に閉じこもる。
「がはっ!」
人さし指と中指を二本束ねて喉の奥に突っ込み、便器を抱え込んで嘔吐した。下半身が熱い。気持ち悪い。布を漉してかすかに響く、くぐもった機械音が耳障りだ。
スマホが震える。先輩からメール……『間に合うか?』遅刻はペナルティを科される『いけます』『ちゃんと入れてきたな』『はい』『下ごしらえは完璧?客が確かめたがってる』『イイ感じにほぐれてます』震える手でメールを打ち返し、再びえずいて吐く。またメール。『証拠』何を望まれているかわかった。片手で便器に縋り、片手で下着ごとズボンを下ろし、スマホを後ろに回してシャッターを切る。機械音が大きくなる。OKのスタンプを受信。募金箱に封筒を捨ててから、眼鏡の修理代分抜いときゃよかったなと薄っすら後悔した。
……マドレーヌ?トイレのゴミ箱に捨ててきた。
今の時間は大学か。真面目な学生なら多分きっとそうだ。とはいえ広大なキャンパスで会えるか心もとない、生き別れの身内が突然訪ねて行った所で事務にすんなり通してもらえるか……。
悩んだ末、叔母の家に行く事に決めた。一人暮らしの可能性も考えたが、略歴には「世田谷区在住」と書いてあった。叔母の家も世田谷区、住所は変わってないと信じたい。
一旦風呂場に引っ込んで準備をする。ちゃんとやっとかないと客がうるさい、最悪先輩にチクられる。仕上げに洗面台で顔を洗い、充血した目をすすぐ。ハンドタオルで顔を拭き、壁に嵌めこまれた鏡に向き直る。眼鏡をとったせいか、視界は頼りなくぼやけていた。手のひらを見下ろす。爪の痕。指を握り込み、強く力を入れ、おもむろに拳を振り上げる。ガツン、衝撃が襲った。力任せに浴室の壁を殴り付け、腹の底で吠え猛る凶暴な衝動を押さえこむ。
前もって連絡する気はなかった。亮の番号は施設を出た日に削除してる。
その後俺はアパートを出て電車に乗った。叔母の家は世田谷の一等地の豪邸だ。敷地に張り巡らされた塀の隅に寄りかかり、しゃがんでスマホをいじる。亮が夜遊びにハマってないことを祈った。既に日は傾き始めている、指定の時間に間に合うように切り上げなければいけない。
豪邸の前で待ち伏せする事二時間、道の向こうから均整とれた長身の青年が歩いてきた。著者近影から抜け出てきたような背格好。涼しげな切れ長の目に高く通った鼻梁は、かすかに幼い頃の面影を宿している。
最初は困惑、次いで不審、最後は驚愕。接近に従い鮮やかに表情が移り変わり、第一声を放った。
「兄さん?」
「よ」
右手の指を中途半端に曲げてこたえる。亮が道のど真ん中で立ち止まり目を見開く。大袈裟なリアクション。当たり前か、ずっと消息不明だった兄が突然現れたんだから。
「本読んだぜ、売れっ子新人作家」
次の瞬間、抱擁された。亮がくしゃりと顔を歪め、両腕を俺の背中に回して叫ぶ。
「8年間もどこ行ってたんだよ、捜したんだぞ!警察に捜索願いだしても全然手がかりないし、何か事件に巻き込まれてるんじゃないかって」
「悪い」
「施設で何かあったんならどうして相談してくれないんだよ、勝手に飛び出してって長い間連絡もよこさずに!俺がどれだけ心配したかわかってんのか、毎日毎日兄さんのこと考えて元気でいるように願って」
「『お兄ちゃん』は卒業?寂しいな」
軽い口調でひやかし頭をなでさする。亮がずずっと洟を啜り、俺の目を狂おしく見詰めてくる。
「会いたかった」
「ああ」
「また会えて、死ぬほど嬉しい」
じゃあ死ねよ。
「俺もだよ」
8年ぶりの再会に感激する亮をちらちら見ながら、犬の散歩中の主婦が通り過ぎて行く。咄嗟に亮の腕を引っ張って端に寄り、素早く囁く。
「場所変えようぜ。近くの喫茶店でも」
「家ん中は?」
「叔母さんには会いたくない」
「死んだ」
「は?」
一瞬思考停止に陥る。冗談かと思ってまじまじ見直したが、亮の顔は至って真面目だ。
「三年前に事故で」
「事故ってどんな」
「うちの階段から落ちて頭を打って。ツイてないよな」
「知らなかった」
「知らせようとしたけど、携帯繋がんなかった」
俺にあれこれ話しかけていた時とは打って変わったローテンションで、他人の噂話でもするみたいに話す。何故だかぞくりとした。弟の中身が入れ替わった錯覚に囚われた。
「上がってよ。遠慮しないで」
うるさいのは消えたから。
先に立って玄関ドアを開けた亮に招かれ、ためらいがちな足取りで続く。内装は最後に来た時と変わらず豪華で、少々気圧された。
俺はリビングに通され、亮が淹れてくれた外国銘柄の紅茶をちびちび飲んだ。
「どうかな」
「うまい」
「よかった。マドレーヌも食べてよ、担当さんにもらったんだ」
「ファンの差し入れじゃないのか」
「食べ物はNGだから」
「毒とか髪の毛とか異物が混入されるかもしれないし」
軽口を叩いてマドレーヌを摘まむ。濃厚なバターの甘味が口の中に広がり、胸焼けした。
「葬式の手伝いできなくてすまない」
「気にしないで。それより酷いじゃないか、俺の番号まで消しちゃうなんて。施設の人に聞いても行き先知らないっていうし、本当にお手上げだったんだ」
亮が施設の連中と会っていたと知り、苦虫を嚙み潰した顔になる。
「施設を出た後は何してたの」
「先輩を頼って色々……仕事を回してもらった」
「働いてるの?仕事は?」
「フリーターみたいなもん。そっちは一人暮らし?叔母さんの遺産継いだのか」
「まあね。多すぎて使い道ないから貯金してる」
「うらやましい」
「俺の金は兄さんの金だよ。血の繋がった甥なんだから、叔母さんの遺産は半分手にする権利がある。必要なら気軽に」
「俺は養子縁組してない。ってことは、血の繋がった他人も同然じゃないか。甘えるわけにいかないよ。お前は学生で色々物入りなんだから大事に使え。今は印税で多少潤ってたって、数年後も売れ続けるかわかんないんだぞ」
皮肉っぽく口角を上げてまぜっ返す。亮が苦しげな顔をする。溜息を吐いて話題を変えた。
「知らない間に作家デビューしててびびった。『影の憧憬』、売れに売れてるみたいじゃないか。ネットでも大絶賛、新人じゃ異例の重版」
スマホを翳して書評を見せれば、亮は照れくさげに肩を竦めた。
「兄さんの影響だよ」
「俺の?」
「子どもの頃からずっと書いてたろ。自由帳の物語、見せてもらった」
「勝手に見たくせに」
語尾を掴まえ訂正する。亮は「ごめんてば」と付け足し、興奮に頬を染めて捲し立てる。
「兄さんが俺に物を書く楽しさを教えてくれたんだよ、覚えてるかな、小さい頃に絵本の続きを即興で考えてくれたの。王位継承争いに巻き込まれた人魚姫が、タコの殺し屋を欺く為に自分の死を偽装したってヤツ」
「あったなそんなの」
「兄さんの発想力は全くすごい。人魚姫を可哀想なまま終わらせず、ハラハラドキドキが詰まった続編を考えてくれた。俺は原作の人魚姫より兄さんが考えた続きの方がずっと好きだ、ずっとずっと面白かった。兄さんは誰に教わらなくてもエンタメの基本を押さえた物語作りができてたんだな」
新進気鋭の売れっ子作家様が、さんざんあがいてデビューもできない俺の幼稚な虚構をべた褒めする。
「小説を書き始めたのは中学生の頃。兄さんが目標だった。投稿を始めたのはごく最近。『影の憧憬』は初めて完結までもっていけた小説なんだ、書いてる時は大変だったけど審査員の先生たちにも褒めてもらえて……」
月一の面会を苦痛な義務として消化していたあの頃と同じく、笑顔で頷きながらまた無意識に手を握り締めていた。
「兄さん?」
亮の呼びかけで正気に戻る。目の前に弟の心配そうな顔。なんでもないとごまかそうとして、おもむろに右手を包まれた。
「大丈夫?さっきからちょっと様子が変じゃないか、汗かいてる」
「気のせいだよ」
「熱があるの?しんどそうだ。手も……よく見たら怪我してる」
数時間前に壁を殴り付けた拳を両手でさすり、亮が眉を八の字にする。
「手当する」
「かまうな」
「ばい菌が入ったら毒だ」
「いいから。もういくな、仕事が入ってるんだ」
「じゃあ駅まで、ううん、職場まで送ってくよ。今車出してくるから待ってて」
「マジで気にすんなって、すぐそこだから」
「また会えるよね。番号登録しといて」
話してたのは一時間ほどか。必死に引き止める亮を愛想笑いで制し、よろめく足取りで立ち上がる。片膝がテーブルに当たり、ティーカップの飲み残しの雫が飛び散った。
「あ」
綺麗に畳まれたフキンを持った亮が、俺と相対して凍り付く。この瞬間、コイツの目に兄貴がどうみえるか初めて自覚に至った。擦り切れたパーカー、色褪せたジーンズ、申し訳程度に寝癖を撫で付けた髪。長年愛用している眼鏡は弦が曲がったままほったらかしで、そろそろ度が合わなくなってきていた。買い替える余裕はない。
亮は喉元まで出かけた言葉を引っ込め、俺もあえて追及せず、花崗岩を敷き詰めた玄関へ赴く。
「じゃあな。また連絡する」
「うん」
亮は優しかった。不出来な兄貴を至れり尽くせりもてなし、食べきれなかった分のマドレーヌを手土産に包んでくれた。
何故会いに来たのか、完全に理由を見失っていた。自分の惨めさに追い討ちをかけにきたようなものだ。スニーカーを突っかけて踵を嵌める俺の背後に、一分ほど消えていた亮が戻ってきた。
「兄さんこれ。少ないけど」
この時振り返ってしまったことを、あとで心底呪った。
亮の差し出す分厚い封筒の中身を確認する。札束が入っていた。絶句する俺を見詰め、売れっ子作家様が慈悲深く微笑む。
「俺の印税。足しにしてよ」
哀れまれて、恵まれて、施された。
「……いらない」
「なんで?俺が稼いだ金だよ、どうしようが自由だ。せめて眼鏡は新しくしなよ、度が合ってないじゃん」
なんでわかるんだよ、見抜けるんだよ。
気持ち悪い。むかむかする。体内から悪寒と発熱に犯され、喉元に吐き気がこみ上げる。
「お前の金だろ。お前がお前の為に使え」
「兄さんの役に立ちたいんだ」
「ふざけんな」
虚勢を張って睨み付けても亮は引き下がらない。決して封筒を引っ込めず、俺が受け取るまでてこでも動かない気迫を込めて宣言する。
「お願いだからもらって。眼鏡の度が合わないんじゃ小説書けないだろ、本出す前に目を悪くしたら兄さんの夢が叶わない」
俺の夢を奪ったのは誰だ。踏み付けてめちゃくちゃにしたのは誰だ。
玄関先での押し問答に倦み、無造作に封筒をひったくる。亮がホッとして念を押す。
「今度は着信拒否しないでね」
どうしても送っていくとごねる弟をいなし、足早に最寄り駅に向かい構内を横切る。胸ポケットに突っ込んだ封筒が弾む。
「恵まれない子どもたちに募金お願いしまーす」
「お願いしまーす」
構内で一列になり、募金を呼びかける学生たち。大半の連中は目もくれず素通りしていく。ちょうどいい。一番声のでかい女子高生に歩み寄り、封筒ごと募金箱に突っ込んだ。
「あ……ありがとうございます!」
お辞儀をする学生グループに背を向け、男子トイレの個室に閉じこもる。
「がはっ!」
人さし指と中指を二本束ねて喉の奥に突っ込み、便器を抱え込んで嘔吐した。下半身が熱い。気持ち悪い。布を漉してかすかに響く、くぐもった機械音が耳障りだ。
スマホが震える。先輩からメール……『間に合うか?』遅刻はペナルティを科される『いけます』『ちゃんと入れてきたな』『はい』『下ごしらえは完璧?客が確かめたがってる』『イイ感じにほぐれてます』震える手でメールを打ち返し、再びえずいて吐く。またメール。『証拠』何を望まれているかわかった。片手で便器に縋り、片手で下着ごとズボンを下ろし、スマホを後ろに回してシャッターを切る。機械音が大きくなる。OKのスタンプを受信。募金箱に封筒を捨ててから、眼鏡の修理代分抜いときゃよかったなと薄っすら後悔した。
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