九泉呪牢

まさみ

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十九話

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日水村に夜が訪れた。
練は積まれた行李に寄りかかり、行儀悪く片膝立て虚空を見据えていた。
視線の延長線上の鉄扉が軋みながら開き、無表情な藤代と仏頂面の沖田が入ってきた。
「お着替えとお食事、それにご所望の蝋燭をお持ちしました。非常用なので朝まで保ちます」
藤代が事務的な手付きで膳を置き、赤い和蝋燭に火をともす。暖色の炎に浮かび上がる顔が酷薄な笑みを刻む。
「罪人にえらい気前ええやん」
「血は落ちにくいですし、汚れた着物をそのままにしておくのは忍びないと清美さんが」
「さよか」
「片袖もとれかけてますし」
「そこのおまわりが引っ張ったんや」
「抵抗するからだろ。清美さんの心遣いに感謝しろ」
「入浴はお預け?」
「当たり前だ」
「檜風呂納めでけへんのは残念」
和蝋燭は幅が太く、風がなくとも炎が揺れ動くのが特徴だ。畳まれ差し出された衣類に目を落とし、次いで沖田を見る。
「あっち向いとれ」
「強姦魔がぬけぬけと」
「裸見るならお代もらうで」
「さっさとしろ、暇じゃないんだ」
「はよ清美の所に帰りたい?」
「呼び捨てにするな」
「怒らんといてな沖田サン」
真面目な駐在をからかうのは切り上げ、鼻血が乾いてごわ付く浴衣を脱ぐ。

衣擦れがしめやかに囁き、橙色の炎に暴かれた背中に沖田と藤代が息を呑む。

練の背中一面には、瀕死のミミズによく似た痛々しい古傷が刻まれていた。
癒える間もなく傷の上に傷が重なり、もはや完全に皮膚と同化してしまった醜い傷痕は一畝一畝が赤黒く盛り上がり、嗜虐の真骨頂の猟奇美すら帯びる。

責め絵のモデルを張れる背中に凝視を注がれ、諸肌脱ぎで流し目をよこす。
「そそるやろ?有難~い躾のあと、SМハマっとったわけちゃうで」
「むごい……」
嫌悪と同情が占める藤代の独白。
「ただで裸見せて引かれるんはけったくそ悪いわ」
「―ッ、早く着ろ」
顔を背けた沖田が促す。

少しだけ愉快な気分になり、よれた浴衣を足元に落とす。
大きく膨らんだかと思いきや小さく萎み、絶え間なく踊る炎の陰影が、夥しいミミズを宿す背中を異様な禍々しさでもって隈取る。
僅かにたれたうなじと左右対称の肩甲骨、まっすぐ続く背筋と細腰、その下の引き締まった臀部までも大胆に披露し、阿弥陀如来を崇める仏師が造形したような完璧な裸身を曝す。
沖田の監視のもと澄まし顔で着替えを行い、古い方はきちんと畳んで返す。
新しい浴衣は灰色に染めた木綿に矢絣が漉かれていた。破魔矢の羽根が起源の紋様で、これも魔除けの意味がある。
清美に和装の知識がないのは先のやりとりで判明したから、単なる偶然か。

灰色の着物は嫌いだ。昔を思い出す。

着替え終えるのを見計らい手錠を掛け直し、沖田が釘をさす。
「くれぐれも妙なまねはするな。明日の朝まで大人しくしてろ」
「理一は?」
立ち去る背中に問いを投げる。
「あれからずっと部屋に引きこもってる。夕飯も食ってない」
「そか」
「清美さんに土下座してたぞ」
「やりそうやな」
「助手に尻拭いさせて恥ずかしくないのか」
「アレは人のケツ拭いて回るんが趣味さかい」
「烏丸も可哀想に、こんな薄情者が十年来の友達じゃ報われない。お前の身柄は明日朝一で最寄りの署に移送する。強姦は非親告罪に改正されたから、被害者の告訴がなくても事件が成立するぞ。俺が証人だ」
「惚れた女を晒し者にするんか」
「彼女の名誉を守りたいだけだ」
「ホンマに清美に惚れとるならこんな村とっとと捨てて駆け落ちせえ」
「な」
きびきびした手付きで帯を締め、沖田に向き直る。
「地震は日に日にでかくなっとる、明日はマグニチュード7行くかもわからん。五日間計測して確信した、震源は日水山や。また山が崩れたら一番危ないんはここ、佐沼邸や。真っ先に埋まるで。悪いこと言わん、今日の夜のうちにパトカーに清美のっけて脱出しろ。文彦はんと藤代はんとそのおかんも詰めれば乗れるやろ」
あくまで淡々と話す練。理解が追い付かず混乱する沖田。藤代が顔面蒼白で恐れ慄く。

「はよ行かな災いが降りかかる」

和蝋燭の炎がおもむろに膨れ上がり、練が従えた影を巨大に引き伸ばす。

「俺はおきゅうさまの使い」

右に左に靡いたかと思いきやボボッと爆ぜ、壁や天井に映る影が触手蠢く異形に化ける。

「尚人を殺したんも俺」

衝撃的な告白に合わせ、左手首の数珠が不吉な輝きを増す。

「お山を荒らした佐沼の一族は皆殺し。当主も嫁も容赦せん、全員仲良ゥ血祭りじゃ」

世にもおぞましい触手の影を持った男が、暖色の炎に端正な横顔を炙らせ、断固たる口調で予言する。

「日水村は滅びる」

赤々と燃え上がる炎を吸い込み、昏い瞳が邪悪な坩堝と化す。

「ひいいいいっ!」
藤代が悲鳴を上げ這い出し、すっかり気が動転した沖田があとずさる。
「なんだ、なんなんだお前は!?」
「言い伝えは本当だった、おきゅうさまが受肉されたわ、奥様に知らせなくっちゃ」
再び鉄扉が閉ざされ、断頭台の響きに似せて錠が落ちる。
広い蔵に独りになった練は、手錠を噛まされた両手を膝の間にたらし、行李に腰掛ける。
あれだけ脅せば十分だ。
沖田が清美や文彦、藤代を連れ日水村を……否、佐沼邸を離れてくれたら好都合。
蝋燭の炎を見詰め瞑想する。一時間ほど経った頃、壁の向こうで気配がした。

「おるんやろ理一」
天窓の向こうに声を投げる。

「……にゃ~ん」
「へたくそ」
手が自由なら頭を抱えていた。
「ブランドもんのスーツ泥んこにされた時に絶交したはずやけど、なんでおるん?退職願書いてきたんか」
「にゃ、にゃ~ん」
「クリーニング代三十万」
「に゛ゃ゛お゛~ん゛ッ゛」
「汚い濁音。猫のものまね似とらん選手権一位狙えるで」
しらを切り通す理一にいらだち、はたと気付く。
「沖田はどないした。見張りに来るとか言うとったけど」
「清美さん藤代さんと手分けして、お前におきゅうさまが憑いてるって触れ回ってる」
脅しが利きすぎたようだ。似てないものまねをやめた理一が、何事もなかったように人語で報告する。
「んでもって地震がくるから避難しろって、村の爺ちゃん婆ちゃんに一戸一戸呼びかけてるとこ」
「通報したほうが早いんちゃうか」
「土地神の祟りで大地震が起きるとかおきゅうさまが憑いた男が蔵で暴れてるとか、警察がまともに取り合うはずねーだろ。妄想で片付けられんのがオチ」
「確かに」
TSSの仕事中に警察が介入した例は何度かあるが、連中はとにかく頭が固く、オカルトを否定しがちだ。最悪沖田が精神病を疑われる。
「ほなら今、屋敷には俺とお前ふたりきりか」
「文彦さんもな」
「鬼の居ぬ間に遊んでほしいんか」
一呼吸の沈黙を挟み、天窓越しに凛とした声が響く。
「俺を蔵に連れてきたのはあがただ」
「なんでその名前知っとんねん!?」

二度と聞くはずない名前だった。
矢も楯もたまらず壁際ににじり寄れば、橙色の炎が風圧で揺らぐ。

「本人が名乗った。辞書には『神に捧げる田』って出てた。日水村の神ってこたあおきゅうさまだよな、ここじゃ生贄が縣の通称で呼ばれてたんじゃねえか、神様のガワ被りの化けもんが耕す田んぼとかぞっとしねーけど。俺が会ったのは大昔におっ死んだ生贄の幽霊で」
「生霊や。ガキはまだ生きとる、この村のどっかに隠されとんねん」
「昼、藤代さんが昼食運んでた」
「自分のちゃうん?」
「なら台所で食うはずだろ?献立は俺たちと別物、からあげに卵焼き。言っちまえば子供向け、ウインナーはご丁寧にタコさん。文彦さんは噛む力が弱くて粥しか食えねえし、そもそも清美さんの介助っきゃ受け付けねえ」

壁の向こうで理一が断言する。

「アタリだよ、茶倉。この屋敷のどこかに、尚人さんが誘拐してきた子が監禁されてる」

分厚い壁を隔て、天窓の下に立った理一が叫ぶ。

「尚人さんのパソコン調べたら、誘拐計画してたのがわかった。カレンダーは二十九日に丸。ちょうど土砂崩れがあった日、長野県内で小学生が誘拐されてる。今に至るまで消息不明だ」

理一の言葉で思い出したのは、日水村に来る前に見たテレビニュース。
報道番組で流れた女の子の写真は、練が会った生霊によく似ていた。

「他でもねえ尚人さんこそ、おきゅうさまの祟りに一番びびってたんじゃねえか」

三年前、日水山の一角を切り崩したのが不運のはじまり。
念願の工事は怪我人を多数出した上頓挫し、莫大な負債を抱える。資金繰りは上手く行かず、跡継ぎを望んだ後妻は一向に妊娠の兆しがない。
やがて尚人は馬鹿にしていた土地神の祟りを本気にし始め、村の昔話にならい、おきゅうさまのご機嫌取りに回る。

「日水村には子どもがおらへんよって、よそからさらってくるしかない」
「それもだけど、地主の長男として村人を巻き込むのは避けたかったのかも」
「どっちにしろクズの思考や、身内だけが大事か」
「台風とかち合ったのは偶然?故意?河川の氾濫だの強風だので市街地の警戒に出払ってっから、サツが検問張らねえって考えたのかな」
「村人総出で大わらわならいらん注目買わんですむわな」
「もっと変なのはわざわざ遠回りした事。なんで裏道使ったんだ」

佐沼邸は日水山の麓にあり、立派な数寄屋門が村に面している。
車で帰宅したなら正門を使うはず。現に清美も正門で待ち構えていた。

「よりにもよって見通し悪い台風の日に、裏口から帰ってくんのは不自然だろ」
「人目を憚ったんか」
「知人が止めるの振り切って無理矢理帰ってきたんだろ?」
「トランクになまもの放り込んどったんかい」
「言い方」
「間違いではない」
「一秒でも早く現場を離れてェのが誘拐犯の心理。もういっこ。お前、社が牢屋の代わりだったって言ったよな」
「ああ」
「沖田さん曰く、社の残骸は見た目の割に多かった。座敷牢みたいに格子で区切ってあったからじゃね?」

固唾を飲む練と壁を挟んで向き合い、興奮しきった早口でまくし立てる。

「土砂に埋もれた南京錠は新しかった」
「尚人が用意した」
「社に監禁を企てた」
「お節介な駐在がネックか」

沖田は清美を案じ、暇さえあれば佐沼邸に通い詰めていた。故に実家に隠すのはリスキー、対して地元の人間が近付かない日水山は監禁場所に最適。
もともと牢屋として機能してたのに加え、おきゅうさまの終の棲家であるなら、社に匿うのは理にかなってる。

「子供はどこや。社ごと潰された?」
「出てきた死体は尚人さん一体。土砂崩れが起きる前に別の場所に移されたんだ、きっと。目隠しは身バレ防止?呪術的な意味合いもあんのかな、詳しくねえけど」

最大の疑問は……。

「尚人さんが死んだ今、誰がその子を監禁してる?」

自分で逃げたのならとっくに保護されてるはず。一か月近く行方不明のはずがない。
どこかに食事を作り運んでいた藤代。アレが誘拐された子の分だとしたら……。

「藤代さんと尚人さんは共犯」
「もしかしたら清美も」
「家探しのチャンスは今っきゃねえ」
天窓の格子の隙間から何かが投げ込まれた。手錠の鍵。
「どないしたん」
「蔵からすんげー勢いで転がりでた沖田さんとゴッツンコ。そん時スッた」
「手癖わる」
「元剣道部主将なめんな、動体視力にゃ自信あるぜ」
地面にはねた鍵を不自由な手で拾い、苦労して鍵穴にねじこみ、回す。
「お前が俺と清美さんにやったこと許してねえぞ」
「じゃあなんで」
「背に腹は代えらんねえ」
金属の蝶番が解除され、両手が自由になった練が息を吐く。
「三人が帰ってくるまでに子どもを見付ける」
佐沼邸はだだっ広い。一人で探すのは荷が重い。
天窓の下、理一の声が急に細くなる。
「錠前の鍵は清美さんが肌身離さず持ってっから、さすがにとれなかった」
理一は土蔵に入れず練を出すこともできない。手錠が外れたのはいいものの、絶望的な状況に変わりない。
「頼む。手を貸してくれ」
天窓の下で鈍い音が鳴る。外壁を殴り付けたのだ。

この家に罪のない子が監禁されてるなら、おきゅうさまの生贄にされようとしてるなら、見殺しにできるはずがない。

鉄の皿燭台に蝋をたらし、灯心が縮んでいく。
壁で波打ち梁を這い、天井をなめるように揺らめく火影が、蔵の闇に佇む練をかそけく照らす。
ふと見下ろせば足元に組紐が渦巻いていた。清美を抱いた時、袂から零れたらしい。
拾い上げ、握り締め、瞠目する。唇を五色の組紐に触れ合わす。
「もってけ」
次の瞬間、鉄格子の隙間に狙い定めて組紐を放った。天窓から垂れた組紐を受け止め、理一が訝しげに訊く。
「お守り?」
「迷子紐。スマホは没収されてもたけど、なんかあったらコイツを介して伝わる」
「わかった」
「俺は蔵で調べもん、お前は屋敷ん中を捜せ。佐沼家は村一番の旧家、おきゅうさまの伝承をしるした本が残っとるかもしれん。例のわらべ唄だけがヒントっちゅーんは心許ないし、封印なり調伏なり具体的な方法わからな動けん。僧侶の法具の錫杖でもしまわれとったら首尾は上々儲けもんや」
行李の中には年季の入った古書が詰まっていた。一冊一冊紐解いていけば何かわかるかもしれない。

本当はわかっていた。
暴言を浴びせ罵り倒し、今すぐ村を離れさせるのが正解だと。
おきゅうさまの祟りが微震で済んでいるうちに、理一だけでも東京に帰らせるべきなのだ。

だがしかし、こうなった理一は絶対に引かない。経験則で痛感している。

十年前魚住リカの弔い合戦に挑み、命がけで板尾正孝を救いに走った背中を思い出す。

今捕まってるのが赤の他人の子どもでも、理一は絶対助けに行く。

その為なら自分を強姦した男に苦汁を飲んで頭を下げるし、意地やプライドをかなぐり捨て、絶交した友人に助けを乞うのだ。

「お前は俺の足や。行ってこい」
「頭脳労働はまかせた」

理一は子供を助けたい。
練はきゅうせんさまを祓いたい。

たまさか利害が一致し共同戦線を組んだだけ、以前のような間柄に戻れるはずないと諦めていたのに。

天窓の鉄格子をすり抜け、光り輝く球が転がり落ちた。

左手で掴み、おそるおそる五指を広げていく。
ラムネのビー玉。
「拾っといた」
「なんで」
「コックリさんの十円すら惜しんで一円にまけるドケチが光りもんくれるなんて珍しいし。記念だよ記念」
得意げにうそぶく理一に虚を衝かれ、左てのひらを行ったり来たりするビー玉を持て余す。
「もらいっぱじゃ悪ィし持ってろ。おあいこってヤツ」
「貸し借り作らん主義か。しょうもな」
「言ってろ」
真ん中のくぼみに嵌まり、ビー玉が止まる。天井を覆っていた異形の影が急激に縮み、等身大の人の形に収束する。
ガラスの表面に映り込んだ顔は、何故か晴れ晴れ笑っていた。
「二人で東京帰るぞ」
理一が駆け去るのを足音で悟り、浴衣の袂にビー玉を突っ込み、行李のふたをずらす。
古書の表紙に吐息を吹きかけるや埃が舞い上がり、軽くむせた。
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