ボーダー×ボーダー

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リバーズエッジ前

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 「はっ、はっ、はっ」
 振りきって振りきって振りきって
 「畜生、いまさら」
 しがらみを振りきって
 「何年も放っといたくせに、忘れてたくせに、こっちだってとっくに忘れてたのに、あんたのことなんかなかったことにしてばかばかしく楽しく暮らしてたってのにぶち壊しやがって、今さら罪滅ぼしかよ畜生、虫がよすぎだよ畜生、そんなんで許してもらえるとおもったのかよ、笑って迎えてくれるとでも、てめえから捨てたくせに、切ったくせに……」
 どれだけ必死に走っても、振り切れないものが、この世にはある。

 「頼む、泊めてくれ」 
 春雷閃くどしゃぶりの中、秋山がやってきた。
 「……は?今何時だとおもってんだよ」
 ドアを開けたら秋山がいた。
 蛍光灯が冷え冷え消毒するマンションの廊下に全身びしょ濡れの酷い状態でぽつねんと立ち尽くす。
 傘も持ってない、レインコートも羽織ってない。
 身ひとつでこの猛雨の中を突っ走ってきたらしく完全に息が上がってる。
 「傘どうしたんだ。雨の中歩きできたのか」
 「駅から走ってきた。あんま距離ねえし。……わり、とりあえず入れて。これ、なんとかしねーと。風邪ひいちまう」
 無理が滲む痛々しい笑顔で言い、雨を吸ってぐっしょり湿ったТシャツの裾を摘んでみせる。
 どんな無茶な注文でも断る気をなくすはにかみ笑い。
 玄関先で大胆にへそを覗かす露出狂に呆れるも、とりあえず防犯用のチェーンを解く。
 「コンビニで傘でも買ってくりゃいいだろ?駅前にあったの気付かなかったか」
 「金持ってなくて。電車賃で尽きて。……というか、正直そこまで気が回らなくてさ、はは」
 ごまかし笑い。照れたように頭をかいて「お邪魔します」と律儀に断り、ドアの隙間に身をねじこみ、玄関へ。
 「俺一人しかいないんだからいちいち断んなくていい」
 「わかってるって。癖で、つい」
 周りを見る余裕がなくて、コンビニの存在にさえ気付かなかったのか。
 俺の皮肉を適当に受け流しつつ苦労してふやけたスニーカーを脱ぐ。
 スニーカーの底には水が溜まっていて、秋山がひっくりかえし手にぶらさげれば、玄関に勢い良くあふれ出しちょっとした水溜りができる。
 「はは、すげー!ノアの小洪水、ナイル氾濫!?」
 俺には秋山が無理してはしゃいでるように見えた。
 こいつは鈍感で空気が読まない点にかんしちゃ定評あるが、今日はとくにおかしい。
 有り体に言えばわざとらしい。おどけた言動でテンションを偽ってる。
 自分の本音を見せまいとして?俺に心配かけまいとして?
 どっちだ。どっちもか。
 ため息を吐き、足早に廊下を取って返す。背後で合板のドアが閉じる音が響く。
 タオルを持って引き返してくれば、秋山は途方にくれ玄関に立ち尽くしたまま、親の留守中に合鍵を忘れた子供のように心細い顔で虚空を見詰めていた。
 「ほら」
 その頭めがけ無造作にタオルを放る。
 狙い通り、頭に着地。
 「早く拭け。廊下ぬらすな、後始末が大変だ」
 「わかってるよ、せかすなよ」
 三和土に腰を下ろし、タオルの両端を握って濡れ髪を雑にかき回す。
 タオルを被った後ろ姿が間抜けで笑いを誘う。
 ため息ひとつ、背後に忍び寄る。
 「貸せ」
 秋山の手からあっさりタオルを奪い取る。
 後ろに目がついてない秋山は虚を衝かれ、反応が遅れる。
 「そんな拭き方じゃダメだ。こっち向け」
 「ひとりで出来るよ」
 「いいから」
 ガキ扱いされた不満をもろに顔に出す。膨れっ面。
 こいつは思ってることがすぐ顔にでるからわかりやすい。
 見ていて飽きない、観察し甲斐がある。
 重ねて促せば、秋山は目を斜めにそらしたまましぶしぶ向き直る。前髪から顎先から睫毛の先から雫が滴る。身につけてるのは薄手のТシャツとジーパンだけで、見てるこっちが寒々しい。
 この雨の中、駅からマンションまで全力疾走してきたのだろう顔は青ざめ、口から吐く息は白く曇る。だいぶ体温がさがってるようで、鳥肌立つ二の腕をさすり震える。
 奪い取ったタオルで荒っぽく頭を拭く。
 「痛い、痛い痛い痛いって麻生、もっと優しく!?」
 「頭のツボ押してやってんだよ。ちょっとは良くなるように」
 「言ったな!?今さりげに俺をバカ扱いしたな!?いたい、いた、ほんとやめ、どうせならもっと優しく指圧やめて、頭皮弱いんだって、ははっ」
 秋山が盛大にばたつき抗議の声を上げる。
 頭を庇いつつ右に左に逃げ回り喚く醜態を見て、元気そうだと安心。
 片膝ついて視線の高さを調節し、両手に広げたタオルで、透明な雨粒を散りばめた癖のある髪を拭く。でかい犬の世話をしてるみたいだ。
 タオルで頭を包み濡れ髪に空気を入れかき混ぜる。
 秋山は抵抗をやめ、俺にされるがまま大人しくしている。
 今頃になって全力疾走の疲れが出たのか、眠たげに瞼を落とし舟を漕ぐ。
 完全に身を委ねきった無防備さに腹が立ち、拭く手に少し力を入れる。
 「いたっ、あたたっ、あんま強く押すなって脳みそ出ちゃうからもったいねえ、ぷちっとはみ出たらどうすんだ、明日の朝味噌汁の具にするぞ!?」
 「生憎洋食派」
 他人にはじゃれついてるようにもじゃれあってるようにも見える微笑ましい光景だが、俺たちの年齢を考えると普通にしょっぱい。
 がさつな手つきで髪をかきまわし、使用済みのタオルを引っ込め、改めて聞く。
 「で、どうしたんだ。事前に連絡もよこさずやってくるなんて」
 俺の部屋に来るときは必ず携帯に連絡を入れる。
 人の都合を無視して勝手に押しかけたりはしない。
 無神経で鈍感に見えて、そういうところは案外ちゃんとしてるのだこいつは。
 その秋山が突然、夜中に押しかけてきた。
 外では激しく雨が降っている。
 合板のドアを隔てていても洪水のような雨音がうるさく響く。
 秋山が押し黙る。
 いつも能天気にへらへら笑ってるこいつらしくもない暗い顔、沈黙。
 むっつり口元を引き結び、眇めた目に険悪な火花をちらつかせる。
 俺が乱暴に拭いたせいであちこち跳ね放題の髪を神経質になでつけつつ、口元をへの字に曲げて呟く。
 「家出してきた」
 あっけらかんとした口調。
 一瞬目に爆ぜた怒りは消えうせ、すぐに見慣れた笑顔が浮かぶ。
 「家族と喧嘩したのか」
 「まあ、そんなとこ」
 根元から逆立つ前髪を引っ張って頷く。曖昧な返事。
 事情の説明を待つも、それ以上は話す気がないと腰を上げる。
 「行くとこないんだ。泊めてくんね?」
 「沢田んちは」
 「ダメ。すぐうちに連絡がいく。家族ぐるみの付き合いだから」
 幼馴染ってこういう時不便だよなあと苦笑し嘆く。
 そして秋山は、家出先を俺の部屋に決めた。
 「そうか」
 「うん。お前んとこなら大丈夫だっておもってさ。いきなりで悪いけど……」
 「どこで寝るんだよ」
 「どこでもいいよ。床でも台所でも玄関でも、あ、エレベーターの中でも!初めて乗った時広すぎて感動したよ、俺の部屋より広いってマジで、ちゃぶ台かみかん箱持ち込めば快適に暮らせる。名案じゃね?」
 「エレベーターは公共物だよ、馬鹿」
 一人浮かれ騒ぐ秋山に悪態をつき、風呂の準備に向かう。
 「シャワー使え。着替えだしとくから」
 
 雨は嫌いじゃない。
 雨の音を聞いてると安心する。
 透明な膜に包まれて、世界で自分ひとりになったような孤絶した錯覚に浸る。
 雨はまだやまない。今日は朝からずっとこの調子だ。
 時折雷が鳴る。だれかの心象風景のように荒れ模様の天気。
 クッションの利いたソファーに身を投げ出し、内と外とで響き合い深沈と波紋を生じる水音を聞く。
 秋山は今シャワーを使ってる。
 なんとなく、シャワーを浴びながら泣いてる予感がした。
 あいつは人前で泣かない。
 人を心配するのは得意でも、自分が心配されるのは極力避けようとする。
 極度のお人よし、重度のバカ。
 一年近く付き合ってるんだからそれくらいわかる。
 極端に物が少ない殺風景なリビング。
 ガラステーブルの上には読みかけの本と灰皿、梶と切れてもこればかりはどうしてもやめられないエクスタシーの箱。
 緑の光沢のグラデーションが美しい蝶を印刷した箱を暇潰しに弄ぶ。
 角を叩き、一本抜き出し、咥える。
 テーブル上に手を這わせライターをさがすも見つからず舌を打つ、と同時にポケットに入れた携帯が振動。
 液晶に表示された名前を一瞥、通話ボタンを押す。
 「はい」
 『いらっしゃいましたか、譲さん』
 「こんな雨の日にどこ出かけるんだよ。夜遊びはやめたんだ」
 当たり前の事を聞くなと邪険に突き放せば、電波の向こうの相手が「そうですね」と面白くもないのに笑う。
 『最近どうですか。なにか困ってらっしゃいませんか。必要な物があれば次伺う時に持って行きますが……』
 「間に合ってる。あえて言うなら、一日一回必ず電話をかけてくるストーカー秘書がうざい」
 『着信拒否せず出てくれるようになっただけ大進歩です』
 「用がないなら切る」
 『譲さん、進路は決まりましたか』
 またそれか。何度もおなじ話題を蒸し返されうんざりする。片手でテーブルの下をさぐり、ライターを拾う。
 煙草に火をつける。
 エクスタシー独特の芳香が煙に乗じ緩慢に漂う。
 左手に携帯を預け、右手で煙草を吸いつつ、後藤のお説教に惰性で付き合う。
 『先日先生からお話がありまして……譲さんの進路を気にしてらっしゃいました。譲さんは成績も授業態度も申し分ないのだからその気になればいくらでも上を狙えると、上を目指さないのは惜しい、希望の大学はあるのかと、熱心に説かれました』
 「暑苦しい担任だろう」
 『良いご担任です。それで、譲さんのご意見をうかがいたくて……三者面談では大学に行く気はないと断言されたそうですが、今でもお気持ちは変わりありませんか』
 あの時は、自分が生き残ることを想定してなかった。
 自分が生き残った先の未来や将来なんて、考えるのも愚かしかった。
 俺が生き残るということは、計画の破綻を意味する。
 仮に生き残ったとしても、爆弾で学校を破壊し、梶を殺した俺に未来はありえないと分析していた。
 『唯さんも気にしてらっしゃいます』 
 「あの人が?三者面談にもこなかったのに」
 『あれは事情があって……議会の日取りと重なってしまい、やむをえず』
 「フォローはいい、あんたがあの人の熱烈シンパなのは知ってるから」
 あの人。俺の母親。実際会った回数は片手で足りるほど。愛着も愛情も抱きようがない疎遠な関係。こいつはあの人を崇拝してる。この年で女の趣味が悪いと救われない。
 『本当に、就きたい仕事やしたいことはないんですか。もしあるなら、種類によっては微力ながらアドバイスできるかと。行きたい大学とか……譲さんの学力ならどこでもねらえると、先生も太鼓判を押してらっしゃいましたし』
 「犯罪者だぜ、俺は」
 からかうように言えば、電話の向こうで後藤が言葉を失う。
 一瞬の空白。
 「爆弾で学校と教師吹っ飛ばそうとしたやつがストレート合格できると思えないけどな。大学側だっていやがるだろ」
 俺は自分が犯罪者だという事実を忘れてない。今も監視は継続中の身の上だ。保護観察処分で実刑は食らわなかったが、教師と学校を爆弾で吹っ飛ばそうとした危険人物が推薦貰えるとおもうほどおめでたくない。
 「用はそれだけか。切るぞ」
 『だれかいらっしゃるんですか』
 不意打ちのような質問に動きが止まる。
 通話を切ろうとボタンに指をかけたまま凍りつく。
 『シャワーの音がしますが……』
 この豪雨の中、室内のシャワーの音を聞き分けるなんて化け物かよ。地獄耳め。
 遠慮がちに聞く後藤になんて答えるべきか逡巡し、隠す必要はないと開き直り、結局ありのままを述べる。
 「秋山が泊まってる」
 『おめでとうございます』
 祝福された。
 「何か勘違いしてないか?いきなり押しかけてきたから仕方なくそういうことになっただけで、別に……」
 『ガード低くなりましたね、譲さん』
 電話の向こうから嬉しそうな気配が伝う。
 子供の成長を見守る親のような声。保護者ヅラされて不愉快だ。
 なにもかも見透かしにやつく後藤に反発を抱き、別れの挨拶もなく一方的に通話を遮断し、携帯をソファーに放り出す。
 続いて登録してある番号を呼び出し沢田にかける。すぐに出た。
 俺からの連絡を待ち構えていたような反応の速さ。
 秋山の家出の理由はすぐ判明した。
 沢田に別れを告げ携帯を切る。
 広く平坦な天井を仰ぎ、肺で十分燻らしてから煙を吐く。
 依存。嗜癖。倒錯。
 梶に教えられたエクスタシーの味は病み付きとなり、今でも日常のふとした時に無性に喫いたくなる。
 禁断症状を癒すために、箱は常に手の届く範囲に置いておく。
 興奮気味の沢田の話を反芻し、煙草を唇に挟み、呟く。
 「…………ガキ」
 
 「い~い湯だな、ばばんっと」
 「古い」
 首にタオルを巻いた秋山が湯気を纏わせリビングにやってくる。俺が貸したシャツとズボンはやっぱり大きく、細い手足が中で頼りなく泳ぐ。
 腰を浮かすと同時に灰皿で煙草を揉み消し、湯上がりで上機嫌な秋山を迎える。
 だぶつくシャツとズボンの裾をひっぱり、秋山は得意げに笑う。
 「やっぱ大きいな。去年の夏よかちょっとマシんなったけど」
 去年の夏、東京帰りに秋山と沢田がマンションに泊まった。俺が梶の誘いを蹴った夜だ。
 あれから数ヶ月たって、秋山は少し背が伸びた。
 相変わらず体は薄いままだけど、前は俺と頭ひとつぶんちがった身長が、半分くらい詰まった。
 「遅い成長期だな」
 「毎日牛乳飲んでしらす干し食ってる。あんまり背が違うと並んで歩くのかっこ悪いだろ」
 「別に気にしねーけど」
 「俺が気にすんだよ!!」
 「低身長コンプレックスか」
 「なんとでも言え。持つものに持たざる者の気持ちはわからねえ」
 小さい方が可愛いじゃんかとおもったけど口にはしなかった。賢明な判断だ。
 秋山はわしゃわしゃと動物っぽいしぐさで頭を振って雫をちらし、しっとり濡れて寝た髪をタオルで拭く。
 「少しは見られるツラになったな。さっきは酷かった」
 「どんな」
 「今にも自殺しそうな顔してた」
 ちょっと絶句、困惑と驚きが綯い交ぜの強張った顔で俺を見る。
 大切な人に死なれた経験のある俺が、自殺というタブーの単語を割合あっさり口にしたことに、ショックを受けたのだろう。
 返す言葉をなくし立ち尽くす秋山を置き去りにし、台所に引っ込み、二人分のカップをだしてインスタントコーヒーを淹れる。家事料理が一切できなくても、コーヒーくらいは淹れられる。
 インスタントだから、手順さえきっちり守れば味の心配はしなくてすむ。
 沸かしたてのヤカンから直接湯を注いで蒸らしてから、両手にカップをもってリビングにもどる。
 秋山はソファーの片隅に遠慮がちに腰掛けて、やる気なさそうにのろのろと髪の端を拭いていた。物思いに耽る感傷的な横顔。
 「ほら」
 湯気だつコーヒーを片方突き出す。我に返り、振り向く。
 「サンキュ」
 両手で包むようにしてカップを受け取るや、ふうふうと口を尖らせ息を吹きかける。
 やることがいちいちガキっぽい。
 人のためにコーヒーを淹れるのは初めてかもしれない。
 そもそも、俺の部屋をだれかが訪ねてくるなんてことめったにない。
 コーヒーを一口、まずそうに顔を顰める。お気に召さない原因を察し、しれっと言い置く。
 「砂糖の買い置きないんだ。使わねーから」
 「いいよ。許す。お前がコーヒー淹れてくれるなんて貴重だし」
 「俺だってコーヒーくらい淹れるさ。夜中に突然押しかけてきた失礼な客もてなす義理ないけど、一応」
 「ヤなヤツ」
 「どうも」
 「相変わらずなんもない部屋だなあ。いっそ清清しい眺め」
 以前、一度訪問したマンションの部屋を見回して感心する。
 俺の部屋は極端に物が少ない。
 殺風景で寒々しい。
 秋山が指摘するまで、この状態が殺風景だと、自覚さえしなかったけど。
 秋山の隣にひとつおいて腰掛ける。
 秋山はカップを後生大事に抱いて、手のひらで暖をとりつつ、一口ずつコーヒーを啜る。
 俯き加減でいるせいで俺の位置からシャワーの直後で上気したうなじが丸見えだ。
 「なにがあったんだ」
 秋山はがらにもなく躊躇する。口を開き、また閉じ、暗い感情を目にやどして黙りこむ。
 「言いたくないのか」
 家出の理由。喧嘩の原因。
 聞いても頷きさえしない。頑固な目がどこまでも正直に、鬱屈の本音を語る。
 反発燻る目で床を見詰める秋山に、無表情に畳みかける。
 「そんなに信用ないか、俺」
 「ちが、そうじゃなくて……なんというか、うまくいえねーけど。正直俺も今頭が混乱してて、とっちらかってて……上手く話せる気がしねえ」 
 「上手い説明なんか期待してねえ。お前がばかなのはよく知ってる」
 俺が一番知ってる。
 こいつはダチを救うために、巻き添えで爆死するかもしれない危険を承知で夜の学校にとびこんでくる正真正銘のばかだ。
 いつになくシリアスな横顔を見せる秋山をうかがう。コーヒーを一口含み、嚥下。
 カップを両手に押し包み、俯き加減の顔は半ばしけった前髪に隠し、陰にこもった声でぼそぼそと話し始める。
 「あのさ、麻生……とっくに吹っ切ったつもりでいたことを、今さら蒸し返されたら、お前ならどうする」
 「抽象的な質問だな」
 「吹っ切った……つもりでいたんだけど。そうじゃなかったみたいでさ。はは、俺も今日、初めて気付いた。ずっと引きずってたんだって」
 上の空の顔つきでコーヒーの水面を見つめ、卑屈に喉を鳴らし笑う。
 晴れた青空が似合いそうな底抜けに明るく能天気な笑い声ばかり聞いていたから、こんな陰鬱な笑みを見せるなんてと、新鮮に感じる。
 「こう見えて俺は執念深い。吹っ切るのが凄く下手だ」
 「だよな……」
 聞く相手を間違えたとばかり、悄然と肩を落とす。落胆。覇気のない声。
 殆どからになって底に残滓がへばりつくカップをひねくりまわしつつ、生々しい体験をどうにか客観的に語り直そうと努め、もどかしさに顔をゆがめる。
 消化しきれない体験を無理に消化しようとして自家中毒に陥る。
 明るく前向きという烙印を押された人間にとって、弱みの吐露は傷口を抉り膿を出す、自傷の痛みを伴う行為だ。
 見てられない。
 壁をぶち抜いただだっ広いリビングを静謐で重い空気と単調な雨音が満たし、時折殻を破るかのような落雷の重低音が混じり合う。
 何かが起きるにはうってつけの夜だとカップに口をつけつつ思い、ついでだれかさんの影響か推理小説の読みすぎだと自らの想像力を嘲笑う。
 相殺し相乗する雨音と雷鳴。それはまるで予兆に似て。
 「……よし、決めた。俺、今日から麻生んちの子になる」
 「はあ?」
 一気に干したカップをテーブルに叩き置き、いきなり宣言。
 「な、この通り。いいだろ別に、へるもんじゃなし、部屋こんな広いし余ってるんだしさ?自分で言うのもなんだけど役に立つぞ俺、家事炊事掃除料理まかせとけ、お前が食いたいもん作ってやる!よっしゃ、決まり、それがいい。俺と一緒に住めば食生活も改善される、わざわざ高い金だしてファミレスなんか行かなくても毎日できたてほかほかの料理たらふく食えるしいい事尽くしじゃん!」
 「どこで寝るんだよ?」
 「だから床でいいよ。トイレでも」
 「学校はどうするんだ」
 「こっから通う」
 「鞄や教科書は?」
 「あ」
 すっかり忘れてたな。
 合掌で拝み倒す秋山がしまったという失念の表情を浮かべるのを見逃さず、さらに突っ込む。
 「制服も。手ぶらじゃねーか」
 「教科書は置き勉だから心配なし!鞄はうち特に指定ねーし、制服はえーっと……そうだ、二人で代わりばんこに着回すってのは?片方ジャージで登校」
 「サイズちがうし。どうでもいいけどお前、教科書おきっぱなしって、予習復習する気さらさらないな」
 「ケチ」
 秋山が舌を打ち、ソファーに倒れこむ。飲み終えたカップを二人分もって流しで洗い、立てかけて戻ってくれば、既にうとうとまどろんでいた。
 「ここで寝るなよ。風邪ひくぞ」
 「いいよ、ここで……っくしゅ」
 言ったそばから。
 鼻むずつかせ冴えないくしゃみをした秋山をせっつき、腕を引っ張ってリビングを抜け、寝室へ向かう。
 ドアを開けて蹴りこみ、ベッドに放り出す。
 背中からベッドに倒れた秋山の上に毛布をひっかぶせてから、部屋を出ようとして……
 「どこ行くんだ」
 「ソファーで寝る」
 「なんでだよ、お前の部屋じゃん。俺がソファーで寝るからベッド使えよ」
 秋山が起き上がり、出て行こうとする俺を引き止める。ドアの前で立ち止まり、胡乱に見返す。
 「一緒に寝るか」
 秋山が硬直。
 俺の発言の裏に隠された意味に気付いて、たちまち赤面する。頬にさした赤みがあざやかだ。
 童貞をからかうのは面白い。
 体ごと振り返り、腕組みをしてドアに寄りかかり、返答を待つ。
 秋山はしばらく葛藤していたが、なにかを吹っ切るように目をとじて開き、挑むように強い意志で鍛えたまなざしで俺を睨みつける。
 「………いいぜ」
 生唾を一回嚥下し、緊張と動揺に少しかすれた声で、承諾。
 組んだ腕がずりおち、思わずまじまじと、秋山の真剣な顔を見返してしまう。
 「意味わかって言ってんのか」
 「わかってるよ。……お前に隙を見せるってことだろ」
 ふてくされような台詞。
 ベッドに上体を起こしたまま、俺を見詰める目はどこか悲痛に思い詰めて、背を向けるのをためらわせる。
 ひとりを怖がる子供のように、秋山は俺に縋る。
 行かないでくれと、無言で訴える。
 理性がぐらつく。衝動が燃える。冷静さを意識的に装う。
 「お前のベッドを俺が乗っ取っちゃまずいだろ、人として。だから……広いし、二人で寝れるだろ」
 自分と一緒にいてほしいと請う。
 いよいよ俺をまっすぐ見詰めることができなくなって、羞恥とプライドが邪魔をして、目をそらす。
 今日の秋山は変だ。様子がおかしい。
 俺はその理由を知ってる、原因がわかってる、わざと知らないふりをし弱みにつけこむ。 
 「本当にいいのか」
 眼鏡のフレームを押し上げ念を押す。
 秋山が唇を噛み、注意して見ねばそうと分からないほど、小さく頷く。
 秋山がいくらばかで忘れっぽいからって、前回のキスを忘れちまったはずがない。
 隙を見せるなという警告を覚えていたのが証拠だ。
 そして秋山は今、あえて隙を見せようとしている。
 隙だらけの無防備な自分をあえてさらけだして、俺を引きとめようとしている。
 秋山がそうまで不安定になった理由を知りながら知らないふりをして、偽善を気取って欲望を優先する俺は卑怯だ。 
 壁に手を伸ばしスイッチを倒せば、暗闇が部屋を包む。
 余裕を感じさせる足取りでベッドにもどり、眼鏡をはずし、弦をたたんでサイドテーブルに置く。
 あとはもう手探りでいい。たがいの顔が見えない暗闇の中でも、息遣いと震えとで、十分に位置と距離が分かる。
 

 境界線を越える夜。
 俺は秋山を抱いた。
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