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二十六話
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「学ランて保護色に似てる」
「え?」
きょとんとする。
「保護色って、あれか。カメレオンか。敵から身を守るために背景に溶け込む」
「似てないか、ああして大勢で同じかっこして群れてると」
夏休み明けから麻生と一緒に登校するのが習慣になった。
事前に時間や場所を取り決めたわけじゃないが俺が家を出て坂へむかうと大抵麻生が本を読んで待っている。
九月も終わりに近付き風が少し涼しくなり、廃工場と荒地が点在する通学路の坂は、薄手の白シャツから野暮ったい学ランに衣替えした学生で猥雑に賑わう。
「カラスか。そういわれるとたしかに……群れに混じっちまうと固体識別しにくいな。推理小説風に言うと木を隠すなら森の中」
「誰の言葉?」
「ブラウン神父。知んねーのか、常識だぞ」
洞察力観察力に優れた秀才の指摘は鋭い。
口数こそ多くないが、無駄な修辞を省いて的確に本質を射た比喩をする。
諦観と倦怠を孕む視線を前方、横広がりに練り歩く黒い学生服の集団に投げ口を開く。
『何が少年を苦しめているのか』
片手で器用に本を開き、緩慢に足を繰り出しながら唇を動かす。
『少年期が死んだのです。今 彼は喪に服し 黒服を選んだのです』
硬質ガラスの如く冴えきった声は、低俗に堕さぬ厳粛で静謐な響きを宿す。
怜悧な切れ長の双眸と高い鼻梁が調和する横顔で図太さと脆さとが均衡をとる。
大人でも子供でもない多感な時期、地元じゃ有名な詰め襟学生服の集団に、変声期を経て老成した低い声で追悼を捧げる。
『彼は中間に立っているのです そして隣に 彼は大人でもなく 子供でもありません』
保護色に守られた無個性な少年たち、死にゆく刹那の少年期を悼む詩。
ボーダーラインの上を歩く男。
世界と斜めに接して歩く傍観者のスタイル。
見慣れた通学路の中で麻生の周りだけ喧騒に染まらぬ冷えた空気が漂っていた。
孤高とか異端とか相変わらずそんな言葉が似合う薄情で殺伐とした印象がある。
神経質に尖った顎
薄く形良い唇
高く秀でた鼻梁
地味な眼鏡と鬱陶しい前髪に隠れて普段は意識させないが、近くでよくよく眺めてみればちょっと酷薄な感じがするほど端正な顔立ちをしていた。
糊の利いた詰め襟に守られた首で、鋭く尖った喉仏が発声ごとにかすかに震える。
額に揺れる黒髪と病的な肌の白さの対比が妙に倒錯的で艶めかしい。
「堅信を受けたある少年の写真に添えて。E・ケストナー」
「暗記してんの?」
「まさか。ちょうど読んでた」
「道のど真ん中でいきなり暗誦しだして、自分に酔ってんの?」
「なんとなく言いたくなっただけ」
「よく透るいい声してる」
「普通だよ」
「カラオケとか行ったことは?」
「ない」
「ねえの?マジ?今までの人生で一度も?うわ、天然キネンブツ、絶滅キグシュ」
大げさに仰け反れば、麻生が少しだけ不愉快そうに眉をひそめ、薄暗い険を孕む流し目を送る。
「そういうお前はどうなんだ」
「ばかにすんな、あるよ。聡史と」
「また沢田か。仲いいんだな」
「小学校からの付き合いだからな。腐れ縁だよ。すっかり図体でかくなっちまったけど、むかしはあれでも可愛げあったんだぜ。とおるちゃんとおるちゃーんてどこ行くんでもついてまわって」
「懐かれてたのか」
「まあな。例の廃工場にも一回忍び込んだし。びびって入り口で逃げ帰っちまったけど振り返りゃいい思い出。スタンドバイミー、リピートアフタミー」
「意味わかって言ってる?」
麻生が半眼をむけてくる。おどけて頭をかいてごまかす。
道化を演じながらなめるように首元を見る。
制服に覆われたその下、マンションで目撃した痣と傷が今もちりばめられているのかと勘ぐる。
本を支え、さりげなく掲げた手首に目が吸い寄せられる。
体格に比して華奢といっても差し支えない骨ばった手首を見詰めるうちにふと疑問が湧く。
「時に聞くけど麻生」
「なに」
「俺ら、ゲーセン行ったことないよな」
「ああ」
「ナンパは」
「ない」
「合コンは」
「ない」
地方都市に生きる高校生の悲惨な現実に直面し、自転車を引く手と足が止まる。
道のど真ん中で愕然と立ち竦めば学生と麻生が意に介さず追い越していく。
「俺らの青春まちがってね?」
遊びに出かけても行く先が毎回本屋か古本屋か漫画喫茶ってのはどうなんだ、俺の青春それでいいのか、浮いた話のひとつふたつなきゃ男子の本懐に関わる。
葛藤に悩む俺に、色恋沙汰に無関心な秀才は本を読みながら一言。
「気付けてよかったな」
坂の上に学校が見えてくる。
他の連中と混ざって校門を抜け、緑のネットを張った運動場を迂回し、二年用の玄関へ。
「おす、秋山」
「よ」
「今日も優等生と登校か。仲いいね、おまえら」
「だろ?羨ましがれ」
「テスト前だけな。俺にもノートコピーしてくれよ、優等生サマの」
「んじゃ仲介料五百円」
「高ッ!仲介料って、おまえなんもしてねーじゃん!」
九月に入ってから学校生活に変化があった。
下駄箱の蓋を開け、上履きをとりなが同級生と挨拶する。
軽口に冗談を返せば相手は快活に笑って通り越していく。
クラスメイトとの間に交流が生まれた。
今じゃ下駄箱で行きあうたび教室で顔を合わすたび砕けた口をきく相手がちらほらできた。
四月からこっち、俺が教室で孤立していたのはボルゾイと不快な仲間たちのせい。
巻き添え食うのをおそれいじめを見て見ぬふりしていたクラスメイトの大半が、九月に入ってからその罪滅ぼしか帳尻合わせとばかり親切に接してくる。
横領犯の息子の噂が高校にも広まってるというのは思い過ごしだった。
知ってる連中も少なくないが、月日が経ち分別が育って高校生にもなりゃよっぽど幼稚なヤツじゃねー限りいちいち蒸し返したりしない。そもそも会社の金を横領して逃げたのは親父であって俺じゃない。親父の前科がばれたところでクラスメイトの反応は「関係ねーよ」とあっさりしたもんだった。逆にこっちが拍子抜け。
「よー。早くしねーと遅刻すんぞ」
「わかってるって」
「今日も麻生と同伴か?」
「まーな」
会うやつ会うやつ揶揄ともつかぬ野次をとばすのを歯を見せあしらう。
麻生はツンと澄ましてる。
自分が話題に上ったところで興味ねえ素振りで流し、簡単な数式でも解くような退屈そうな横顔を見せ、敬遠されてもしょうがねえ態度を貫く。物好きな同級生がごくまれに「よっ」と声をかけるが、「ああ」とか、それ挨拶としてどうなの?というどうでもよさげな首肯で済ます。
心なしか俺と他の奴らとじゃ態度が違う。
他の奴らに話しかけられても目を見もしないが俺だとつけこむ隙が生まれる。
他の連中には線を引いて接する麻生が俺にだけ踏みこむ隙を見せてくれるのが嬉しく、自分が特別な何かになったような幸せな錯覚とささやかな優越感に浸る。
砕けた雰囲気でしゃべる俺の傍らで優等生は黙々と靴を脱ぐ。
下駄箱の金属の蓋を閉めながらあたりを見回す癖が治らない。
蓋に手をつき、遅刻ぎりぎりで駆け込んでくる連中の顔をひとつずつ確認し、ようやく歩き出す。
今日こそはっきりさせる。
麻生を追って階段を上がり三階へ行く。
2-Aのプレートが見えてくる。
教室をめざし歩きながら、廊下にたむろってしゃべってるヤツに気付き、身が竦む。
「……………っ…………」
俺を美術室に拉致った同級生の一人が、いた。
二学期の始まりの日こそ示し合わせたように欠席していたが、今じゃ一人を除き、全員学校に復帰している。
今、廊下で友達とくっちゃべてるヤツもあの日の美術室に居合わせた。忘れもしねえ、俺を背中から組み伏せて床に這わせてくれた張本人……名前はたしか、馬渕。
馬渕の下卑た顔を見た途端、足が竦んで一歩も動けなくなった。
教室まで十メートルを残し立ち竦んだ俺の隣で、麻生もまた立ち止まる。
「一限から数学かよ、たりいな。さぼっちまうか」
「でも梶うるせーから……」
思い出す声、思い出す感触。
よってたかって組み伏せられ唇にごり押しされたガラスのコップが歯茎を削り痛い歯にあたり喉の粘膜を焼いて注がれる混沌と濁った水、毟られた前髪の激痛、耳に付く性急な衣擦れの音、体の裏表を這い回る無数の手………
『同級生の前で下半身剥かれて、しごかれる気分はどうだ』
『色っぽい声出すじゃん』
『やべ、なんか興奮してきた』
『写メ撮るか記念に」
『やべー、おれ勃ちそう。そっちの道目覚めちゃったらどうしよ』
『コイツ割に可愛い顔してるしがんばればイケるよ』
『今度女装させてみようぜ』
『今話題の学校裏サイトあんじゃん、あれ作ってこいつの写真載せんの。アクセス稼げるぜ、きっと。うけるし』
鼓膜で鼓動が反響する。
心臓が狂ったように激しく脈打ち沸いた血を送り出し憤激と恥辱で視界が苛烈な赤に染まりゆく。
屈辱的な体勢で浴びせかけられた屈辱的な台詞が恥辱を煽り、体の脇で握り込んだ拳にひどく力が入って戦慄く。
あの連中が目の前にいる。目と鼻の先で呑気にくっちゃべってる。
びびるな、堂々としてろ、何も悪いこと恥ずかしいことしてねえ俺が逃げ隠れする必要ねえ。
懸命にそう言い聞かせ踏みとどまるも、毛穴が開いて冷や汗が噴き出し、心臓は今すぐこの場から逃げ出せと高らかに跳びはね訴える。
あとじさったはずみに鞄が麻生にぶつかる。
「わり……先行ってて。俺、便所行ってくるから」
廊下のど真ん中で不満を吐き出していた同級生が顔を上げ、こっちを向く。
目が合う。
「…………っ………」
変化は一瞬で劇的だった。
同級生の顔色が豹変、俺を見るなり凍りつく。
極限の恐怖と嫌悪に歪む醜悪な形相はまわりに伝染し、夏休み前まで調子のって俺を小突き回していた連中が詰まった悲鳴をあげ、蜘蛛の子散らすように解散する。
押し合いへしあい競うようにして教室に逃げ込む同級生にあっけにとられ、その後ろ姿を見送るうちに、最後尾の一人が左手に包帯を巻いてる事に気付く。
「待てよ、なんで逃げんだよ、普通逆だろ!?人のパンツまでおろしといて、自分らが強姦された処女みてーな顔するの理不尽だろ!」
「秋山、麻生、どうした。早く中入れ、遅刻だぞ」
靴音に振り向けば、出席簿を掲げた担任が鼻毛を抜きながら歩いてくるところだった。
出席簿で肩を叩きながらかったるそうにやってくる担任と教室を見比べ、憤然と間合いを詰める。
「聞いていいっすか、センセ」
「残念だが今度のテストは大目に見れん。だが付け届けはきく」
「伊集院どうしたんですか。ずっと学校きてねーけど、なんかあったんすか」
二学期が始まってそろそろ一ヶ月が経過するが、伊集院はずっと欠席してる。
他の連中が復帰しても、なぜか伊集院だけがやってこない。
「お前、伊集院と親しかったか?」
抜いた鼻毛を吹きながらの担任の問いにぎくりとする。
上唇をなめて緊張をほぐし、お粗末な嘘を吐く。
「別に親しかねーけど……席に空きあるとやっぱ気になるし……」
「自主退学だ」
「え?」
「聞こえなかったか?伊集院なら自主退学した。夏休み中に手続きを終えて」
退学?ボルゾイが?
「は?え、退学って……ちょ、ま、俺ぜんぜん聞いてね、そんな突然」
口半開きの呆け顔がよっぽど間抜けだったのだろうか、出席簿をおろすや渋面を作る。
「最近多いんだ、夏休み中に怠け癖ついて二学期から来なくなるのが。伊集院も大方そんなとこだろう。事情は聞かなかったが……ま、いちいち聞いてやるほど親切じゃあない。退学するって本人が決めたんなら俺がとやかく言う義理はない。十七になりゃ自分の人生決められるくらいの知恵はつくだろう。だからお前らにも伏せといた」
「んな身勝手な。生徒信用しすぎだよセンセ」
「勘違いするな、なにも信用してるわけじゃあないぞ。俺は給料分しか働かないことにしてるんだ、ボランティアでもカウンセラーでもないからな。ぶっちゃけていうと、あれだ、生徒の尻拭いはごめんだ」
どうだ文句あるかと腕を組み、極道じみていかつい面構えで睨みをきかす。
放任主義も開き直ればご立派。
「話はそれだけか。入れ、点呼とるぞ」
とっとと話を打ち切りガラリと引き戸を開け入ってく担任に、のばした手をむなしくしまう。
「退学?ボルゾイが?まさか、アイツに限ってそんな……」
『二学期絶対学校こいよ』
『お前も麻生も学校にいられなくしてやる』
てっきり麻生が叩き折った腕と足の治療で休んでるのかと、長期入院なら安心だ、できるだけ入院が長引いてほしいと願ったが、この展開は予想外だ。ボルゾイが学校やめる理由がない、少なくとも俺は思いつかない、あんなに二学期を楽しみにしてたくせに……
「少年期の死」
耳朶に息がかかる。
肘がふれあう距離にいた麻生が、開け放たれた引き戸に手をかけ、ざわつく教室をつまらなそうに眺め言い放つ。
「駄犬の喪に服すには誂えむきじゃないか、この服は」
「え?」
きょとんとする。
「保護色って、あれか。カメレオンか。敵から身を守るために背景に溶け込む」
「似てないか、ああして大勢で同じかっこして群れてると」
夏休み明けから麻生と一緒に登校するのが習慣になった。
事前に時間や場所を取り決めたわけじゃないが俺が家を出て坂へむかうと大抵麻生が本を読んで待っている。
九月も終わりに近付き風が少し涼しくなり、廃工場と荒地が点在する通学路の坂は、薄手の白シャツから野暮ったい学ランに衣替えした学生で猥雑に賑わう。
「カラスか。そういわれるとたしかに……群れに混じっちまうと固体識別しにくいな。推理小説風に言うと木を隠すなら森の中」
「誰の言葉?」
「ブラウン神父。知んねーのか、常識だぞ」
洞察力観察力に優れた秀才の指摘は鋭い。
口数こそ多くないが、無駄な修辞を省いて的確に本質を射た比喩をする。
諦観と倦怠を孕む視線を前方、横広がりに練り歩く黒い学生服の集団に投げ口を開く。
『何が少年を苦しめているのか』
片手で器用に本を開き、緩慢に足を繰り出しながら唇を動かす。
『少年期が死んだのです。今 彼は喪に服し 黒服を選んだのです』
硬質ガラスの如く冴えきった声は、低俗に堕さぬ厳粛で静謐な響きを宿す。
怜悧な切れ長の双眸と高い鼻梁が調和する横顔で図太さと脆さとが均衡をとる。
大人でも子供でもない多感な時期、地元じゃ有名な詰め襟学生服の集団に、変声期を経て老成した低い声で追悼を捧げる。
『彼は中間に立っているのです そして隣に 彼は大人でもなく 子供でもありません』
保護色に守られた無個性な少年たち、死にゆく刹那の少年期を悼む詩。
ボーダーラインの上を歩く男。
世界と斜めに接して歩く傍観者のスタイル。
見慣れた通学路の中で麻生の周りだけ喧騒に染まらぬ冷えた空気が漂っていた。
孤高とか異端とか相変わらずそんな言葉が似合う薄情で殺伐とした印象がある。
神経質に尖った顎
薄く形良い唇
高く秀でた鼻梁
地味な眼鏡と鬱陶しい前髪に隠れて普段は意識させないが、近くでよくよく眺めてみればちょっと酷薄な感じがするほど端正な顔立ちをしていた。
糊の利いた詰め襟に守られた首で、鋭く尖った喉仏が発声ごとにかすかに震える。
額に揺れる黒髪と病的な肌の白さの対比が妙に倒錯的で艶めかしい。
「堅信を受けたある少年の写真に添えて。E・ケストナー」
「暗記してんの?」
「まさか。ちょうど読んでた」
「道のど真ん中でいきなり暗誦しだして、自分に酔ってんの?」
「なんとなく言いたくなっただけ」
「よく透るいい声してる」
「普通だよ」
「カラオケとか行ったことは?」
「ない」
「ねえの?マジ?今までの人生で一度も?うわ、天然キネンブツ、絶滅キグシュ」
大げさに仰け反れば、麻生が少しだけ不愉快そうに眉をひそめ、薄暗い険を孕む流し目を送る。
「そういうお前はどうなんだ」
「ばかにすんな、あるよ。聡史と」
「また沢田か。仲いいんだな」
「小学校からの付き合いだからな。腐れ縁だよ。すっかり図体でかくなっちまったけど、むかしはあれでも可愛げあったんだぜ。とおるちゃんとおるちゃーんてどこ行くんでもついてまわって」
「懐かれてたのか」
「まあな。例の廃工場にも一回忍び込んだし。びびって入り口で逃げ帰っちまったけど振り返りゃいい思い出。スタンドバイミー、リピートアフタミー」
「意味わかって言ってる?」
麻生が半眼をむけてくる。おどけて頭をかいてごまかす。
道化を演じながらなめるように首元を見る。
制服に覆われたその下、マンションで目撃した痣と傷が今もちりばめられているのかと勘ぐる。
本を支え、さりげなく掲げた手首に目が吸い寄せられる。
体格に比して華奢といっても差し支えない骨ばった手首を見詰めるうちにふと疑問が湧く。
「時に聞くけど麻生」
「なに」
「俺ら、ゲーセン行ったことないよな」
「ああ」
「ナンパは」
「ない」
「合コンは」
「ない」
地方都市に生きる高校生の悲惨な現実に直面し、自転車を引く手と足が止まる。
道のど真ん中で愕然と立ち竦めば学生と麻生が意に介さず追い越していく。
「俺らの青春まちがってね?」
遊びに出かけても行く先が毎回本屋か古本屋か漫画喫茶ってのはどうなんだ、俺の青春それでいいのか、浮いた話のひとつふたつなきゃ男子の本懐に関わる。
葛藤に悩む俺に、色恋沙汰に無関心な秀才は本を読みながら一言。
「気付けてよかったな」
坂の上に学校が見えてくる。
他の連中と混ざって校門を抜け、緑のネットを張った運動場を迂回し、二年用の玄関へ。
「おす、秋山」
「よ」
「今日も優等生と登校か。仲いいね、おまえら」
「だろ?羨ましがれ」
「テスト前だけな。俺にもノートコピーしてくれよ、優等生サマの」
「んじゃ仲介料五百円」
「高ッ!仲介料って、おまえなんもしてねーじゃん!」
九月に入ってから学校生活に変化があった。
下駄箱の蓋を開け、上履きをとりなが同級生と挨拶する。
軽口に冗談を返せば相手は快活に笑って通り越していく。
クラスメイトとの間に交流が生まれた。
今じゃ下駄箱で行きあうたび教室で顔を合わすたび砕けた口をきく相手がちらほらできた。
四月からこっち、俺が教室で孤立していたのはボルゾイと不快な仲間たちのせい。
巻き添え食うのをおそれいじめを見て見ぬふりしていたクラスメイトの大半が、九月に入ってからその罪滅ぼしか帳尻合わせとばかり親切に接してくる。
横領犯の息子の噂が高校にも広まってるというのは思い過ごしだった。
知ってる連中も少なくないが、月日が経ち分別が育って高校生にもなりゃよっぽど幼稚なヤツじゃねー限りいちいち蒸し返したりしない。そもそも会社の金を横領して逃げたのは親父であって俺じゃない。親父の前科がばれたところでクラスメイトの反応は「関係ねーよ」とあっさりしたもんだった。逆にこっちが拍子抜け。
「よー。早くしねーと遅刻すんぞ」
「わかってるって」
「今日も麻生と同伴か?」
「まーな」
会うやつ会うやつ揶揄ともつかぬ野次をとばすのを歯を見せあしらう。
麻生はツンと澄ましてる。
自分が話題に上ったところで興味ねえ素振りで流し、簡単な数式でも解くような退屈そうな横顔を見せ、敬遠されてもしょうがねえ態度を貫く。物好きな同級生がごくまれに「よっ」と声をかけるが、「ああ」とか、それ挨拶としてどうなの?というどうでもよさげな首肯で済ます。
心なしか俺と他の奴らとじゃ態度が違う。
他の奴らに話しかけられても目を見もしないが俺だとつけこむ隙が生まれる。
他の連中には線を引いて接する麻生が俺にだけ踏みこむ隙を見せてくれるのが嬉しく、自分が特別な何かになったような幸せな錯覚とささやかな優越感に浸る。
砕けた雰囲気でしゃべる俺の傍らで優等生は黙々と靴を脱ぐ。
下駄箱の金属の蓋を閉めながらあたりを見回す癖が治らない。
蓋に手をつき、遅刻ぎりぎりで駆け込んでくる連中の顔をひとつずつ確認し、ようやく歩き出す。
今日こそはっきりさせる。
麻生を追って階段を上がり三階へ行く。
2-Aのプレートが見えてくる。
教室をめざし歩きながら、廊下にたむろってしゃべってるヤツに気付き、身が竦む。
「……………っ…………」
俺を美術室に拉致った同級生の一人が、いた。
二学期の始まりの日こそ示し合わせたように欠席していたが、今じゃ一人を除き、全員学校に復帰している。
今、廊下で友達とくっちゃべてるヤツもあの日の美術室に居合わせた。忘れもしねえ、俺を背中から組み伏せて床に這わせてくれた張本人……名前はたしか、馬渕。
馬渕の下卑た顔を見た途端、足が竦んで一歩も動けなくなった。
教室まで十メートルを残し立ち竦んだ俺の隣で、麻生もまた立ち止まる。
「一限から数学かよ、たりいな。さぼっちまうか」
「でも梶うるせーから……」
思い出す声、思い出す感触。
よってたかって組み伏せられ唇にごり押しされたガラスのコップが歯茎を削り痛い歯にあたり喉の粘膜を焼いて注がれる混沌と濁った水、毟られた前髪の激痛、耳に付く性急な衣擦れの音、体の裏表を這い回る無数の手………
『同級生の前で下半身剥かれて、しごかれる気分はどうだ』
『色っぽい声出すじゃん』
『やべ、なんか興奮してきた』
『写メ撮るか記念に」
『やべー、おれ勃ちそう。そっちの道目覚めちゃったらどうしよ』
『コイツ割に可愛い顔してるしがんばればイケるよ』
『今度女装させてみようぜ』
『今話題の学校裏サイトあんじゃん、あれ作ってこいつの写真載せんの。アクセス稼げるぜ、きっと。うけるし』
鼓膜で鼓動が反響する。
心臓が狂ったように激しく脈打ち沸いた血を送り出し憤激と恥辱で視界が苛烈な赤に染まりゆく。
屈辱的な体勢で浴びせかけられた屈辱的な台詞が恥辱を煽り、体の脇で握り込んだ拳にひどく力が入って戦慄く。
あの連中が目の前にいる。目と鼻の先で呑気にくっちゃべってる。
びびるな、堂々としてろ、何も悪いこと恥ずかしいことしてねえ俺が逃げ隠れする必要ねえ。
懸命にそう言い聞かせ踏みとどまるも、毛穴が開いて冷や汗が噴き出し、心臓は今すぐこの場から逃げ出せと高らかに跳びはね訴える。
あとじさったはずみに鞄が麻生にぶつかる。
「わり……先行ってて。俺、便所行ってくるから」
廊下のど真ん中で不満を吐き出していた同級生が顔を上げ、こっちを向く。
目が合う。
「…………っ………」
変化は一瞬で劇的だった。
同級生の顔色が豹変、俺を見るなり凍りつく。
極限の恐怖と嫌悪に歪む醜悪な形相はまわりに伝染し、夏休み前まで調子のって俺を小突き回していた連中が詰まった悲鳴をあげ、蜘蛛の子散らすように解散する。
押し合いへしあい競うようにして教室に逃げ込む同級生にあっけにとられ、その後ろ姿を見送るうちに、最後尾の一人が左手に包帯を巻いてる事に気付く。
「待てよ、なんで逃げんだよ、普通逆だろ!?人のパンツまでおろしといて、自分らが強姦された処女みてーな顔するの理不尽だろ!」
「秋山、麻生、どうした。早く中入れ、遅刻だぞ」
靴音に振り向けば、出席簿を掲げた担任が鼻毛を抜きながら歩いてくるところだった。
出席簿で肩を叩きながらかったるそうにやってくる担任と教室を見比べ、憤然と間合いを詰める。
「聞いていいっすか、センセ」
「残念だが今度のテストは大目に見れん。だが付け届けはきく」
「伊集院どうしたんですか。ずっと学校きてねーけど、なんかあったんすか」
二学期が始まってそろそろ一ヶ月が経過するが、伊集院はずっと欠席してる。
他の連中が復帰しても、なぜか伊集院だけがやってこない。
「お前、伊集院と親しかったか?」
抜いた鼻毛を吹きながらの担任の問いにぎくりとする。
上唇をなめて緊張をほぐし、お粗末な嘘を吐く。
「別に親しかねーけど……席に空きあるとやっぱ気になるし……」
「自主退学だ」
「え?」
「聞こえなかったか?伊集院なら自主退学した。夏休み中に手続きを終えて」
退学?ボルゾイが?
「は?え、退学って……ちょ、ま、俺ぜんぜん聞いてね、そんな突然」
口半開きの呆け顔がよっぽど間抜けだったのだろうか、出席簿をおろすや渋面を作る。
「最近多いんだ、夏休み中に怠け癖ついて二学期から来なくなるのが。伊集院も大方そんなとこだろう。事情は聞かなかったが……ま、いちいち聞いてやるほど親切じゃあない。退学するって本人が決めたんなら俺がとやかく言う義理はない。十七になりゃ自分の人生決められるくらいの知恵はつくだろう。だからお前らにも伏せといた」
「んな身勝手な。生徒信用しすぎだよセンセ」
「勘違いするな、なにも信用してるわけじゃあないぞ。俺は給料分しか働かないことにしてるんだ、ボランティアでもカウンセラーでもないからな。ぶっちゃけていうと、あれだ、生徒の尻拭いはごめんだ」
どうだ文句あるかと腕を組み、極道じみていかつい面構えで睨みをきかす。
放任主義も開き直ればご立派。
「話はそれだけか。入れ、点呼とるぞ」
とっとと話を打ち切りガラリと引き戸を開け入ってく担任に、のばした手をむなしくしまう。
「退学?ボルゾイが?まさか、アイツに限ってそんな……」
『二学期絶対学校こいよ』
『お前も麻生も学校にいられなくしてやる』
てっきり麻生が叩き折った腕と足の治療で休んでるのかと、長期入院なら安心だ、できるだけ入院が長引いてほしいと願ったが、この展開は予想外だ。ボルゾイが学校やめる理由がない、少なくとも俺は思いつかない、あんなに二学期を楽しみにしてたくせに……
「少年期の死」
耳朶に息がかかる。
肘がふれあう距離にいた麻生が、開け放たれた引き戸に手をかけ、ざわつく教室をつまらなそうに眺め言い放つ。
「駄犬の喪に服すには誂えむきじゃないか、この服は」
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