リーマン×リーマン

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痴漢を撃退する101の方法

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 「ぼく痴漢のプロなんです」
 「強姦のプロの間違いだろ?」
 千里がそんな衝撃的な発言をしたのは駅のホーム、ふたり並んで電車を待っていた時。
 俺たちはこれから得意先に営業にいく予定だ。
 相方が千里というのは凄く不本意だが何故かそうなってしまった。
 どうも最近、とてもとても迷惑なのだが千里と仲良しだと周囲に誤解されてるらしい。
 実態は犯罪者とその被害者、脅迫者とそのカモなのによ。
 現実は千里が一方的にストーキングしてるだけで円満どころか二人の間はぎっしにぎしに軋んで憎しみしか存在しないのだが(少なくとも俺は憎しみと鬱陶しさが半々の感情しか抱いてない)事情を知らない職場の人間は「千里と久住さんいつのまに意気投合したんですか?」「前はぴりぴりしてたのに」「残業が絆を深めたのか」「梓ちゃん俺と残業しよ」「死ねば?」と至って呑気なもんだ。
 千里はしつこい。
 便所にも自宅にもついてくる。
 常に視界に入るうざさに辟易して「外回り行ってきます」と俺が席を立つや見計らったように「あ、ぼくも」と立候補しやがる。意味ねえ。
 昼下がりの駅では老若男女さまざまな利用者が電車を待つ。
 俺と同じく外回り中の会社員も多い。
 人声と電車のアナウンスざわめく中、隣に立つ千里が苦笑する。
 「違う違う、プロっていってもするほうじゃなくてされるほうの」
 「される方って……お前が?冗談だろ?するほうだろ、男に」 
 「今は先輩一筋だし、そこまで飢えてません」
 千里は哀しげに息を吐く。
 「電車って朝のラッシュ時だと身動きできないじゃないですか。ラッシュ時じゃなくても、線によっては人口密度かなり高いし」
 「ああ」
 「中学の頃からなんでもう慣れましたけど」
 「電車通学始めてからか。そりゃ災難な」
 「ええ。小学校の頃は車で送り迎えだったんで」
 待て、今聞き捨てならない単語が混じらなかったか。庶民には無縁な形式の送迎が。
 「会社で営業に配属されて……外回りで電車使うこと多いし、最初は心配してたんですけど。最近は減りましたね、やっぱり」
 「そりゃスーツ着てる男の尻を好き好んで揉みしだく痴漢もいねえだろ」
 「いや、単に撃退法を学んだからなんですが。手首の捻り方とか、コキュッと」
 嫌な擬音だ。
 諦めと疲れの入り混じった哀愁誘う表情で嘆く後輩を、いささか引き気味に見詰める。
 黙ってさえいりゃ優等生的な雰囲気の好青年、童顔で可愛い系。肌も白いし睫毛も長い、上品な美形だ。マイナスイオン大放出の爽やかな笑顔で女はいちころ。中身は外道で鬼畜だが、上っ面は完璧。ホモの痴漢が妙な気を起こす気持ちもわからなくはない。
 痴漢に同情。
 俺のイメージだと「ぼくに痴漢するなんて掘られても文句ありませんね?」と相手を女王様踏みして高らかに宣言しそうなタイプだ、千里は。
 魔がさして挿されたんじゃ痴漢もたまらないだろう……やべ、想像したら鳥肌たった。女王様踏み似合いすぎるこいつ。
 脳内で千里に踏まれる哀れな痴漢が這って眼鏡をさがす俺にすりかえられそうになり、慌ててかぶりを振る。
 寒くもねえのに震える俺の複雑な心情も知らず、千里は不満げに口を尖らす。
 「ぼく、バリタチなんで。受け身でさわられまくるの性に合わないんですよね。逆に欲求不満になるっていうか、後ろから触られちゃ相手の顔見えないし、好みじゃないのにべたべたされるの不愉快だし」
 「すごくよくわかる。たまに殺意を抱く。電車のドアにネクタイ挟んでホームを引きずってやりたい」
 千里の目をまっすぐ見つめる。
 「……今の特定のぼくに対する殺人予告に聞こえたんですが、先輩の毒舌は歪んだ愛情の裏返しですよね?」
 「特定のお前に対する純粋な殺意の発露だよ。自分がされていやなことを人にするな、常識だ。ちなみに歪んだ愛情を裏返したら二回転捻りで悪意だ」
 千里が憤慨する。
 「ぼくがいつ先輩に痴漢を働きました?」
 「~痴漢以上の悪事を日常的に働いてるだろ、一年中発情期の強姦魔」
 つれない俺に何を思ったか、千里がちらりと横目で笑う。
 「痴漢、してほしいですか?」
 「線路に蹴り落とす」
 じゃれつかれるのは会社の中だけでたくさんだ。
 公共の乗り物で発情期に付き合うつもりはねえ。
 「先輩は痴漢に遭った経験ありません?」
 「当たり前だ。男だぞ、俺は。なんで痴漢にあうんだよ?眼科いけ」
 「えー」と不満そうな声。
 断っとくが、俺は普通のサラリーマンだ。容姿はまあ十人並みだが、目つきが悪いとか近寄りがたいとかヒステリーだとかサラ金は不況でも儲かっていいですねえとかよく言われる。
 間違っても千里のような線が細い優男じゃねえし、俺に痴漢を働くような悪趣味なヤツがいるとは思えない。
 というか、そもそも男が痴漢にあう前提で話してるのがおかしい。
 男はするほうであってされるほうじゃないだろ、普通。
 「先輩は逆に見て見ぬふりできないタイプですね、痴漢」
 「まあな。胸糞悪いじゃねーか」
 納得したように頷く千里に憮然と吐き捨てる。
 「ひょっとして、捕まえた経験あります?」
 「…………一回だけな」
 自慢するようなことじゃないだろう、これは。
 千里が目を上に向け、「ひょっとして」と思考をめぐらす。
 「前に一回遅刻してきた時?」
 「……よく覚えてるな、お前。引いた」
 「時間にうるさい先輩が30分も遅刻するなんてそうそうないから覚えてたんです」
 前に一回、電車内で痴漢の現場を目撃した事がある。
 被害者は若い女。まだ学生っぽい雰囲気。
 後ろの男が妙な動きをしてて、あ、痴漢だなって気付いた。
 女の子は下唇を噛み、今にも泣きそうに目を潤ませ卑劣な行為に耐えていた。
 見て見ぬふりできるはずねえ。
 だからといっていきなり手を掴み上げ「こいつ痴漢です!」とまわり中に響く大声で告げるのもバカげてる。第一、被害者が傷つく。痴漢されただけで恥ずかしくて消え入りたいだろうに、その事実を善意の第三者に大声で暴露されるなんてたまったもんじゃない。俺にだってそんくらいの想像力はある。
 「隣の学生が痴漢されてるのわかったから……俯いて、今にも泣き出しそうなかんじで、様子おかしくて。後ろもぞもぞしてるし、あ、こりゃ痴漢だなってピンときて。で、次の駅で扉が開くと同時に、痴漢の手首を掴んで引きずりだした」
 「先輩も一緒におりたんですね?」
 「そうだよ」
 「抵抗しなかったんですか、相手」
 「なにすんだってキレてたけどな、いいからついて来いって無理矢理ひっぱりだした。まわりの連中はきょとんとしてたよ。本気で気付いてなかったヤツもいたけど、見て見ぬふりしてた連中も少なからずいて、そいつらは一斉に目をそらした」  
 「先輩は我慢できなかった」
 「する義理がねえ。胸糞悪ィもんは悪い、そうだろ。なんで我慢する必要があるんだよ?」
 痴漢は四十代前半、会社員風の男。
 一見痴漢なんかしそうにない温和な風貌で、会社でもそれなりの地位にあるらしく、いい背広を着てた。
 「それで?」
 千里は興味津々といった相槌をうつ。
 引っこみつかず、また当時の憤りがぶりかえし、続ける。
 「ぎゃあぎゃあ喚くそいつを車掌室まで引っ張ってた。それで用が済んだと思ったら事情聴取やらなにやらで足止めくって……他に目撃者いりゃよかったんだけど、電車でちまったあとだし。そいつは自分は痴漢なんかやってない、勘違いだ、冤罪だ、あげくに俺が自分の罪かぶせようとしてるとかすげえ剣幕で逆ギレしやがってさ。もうさんざんだった。おかげで会社に遅刻。面倒だったから後は駅員に押し付けて帰っちまったけど」
 だけど一番腹が立ったのは、そいつが一言も被害者に謝らなかった事。
 自己弁護自己擁護ばっかりで、被害者に対する謝罪が一言も聞けなかったのが、一番後味悪かった。
 ドアが閉まる瞬間の女子大生の救われたような顔が忘れられない。安堵と感謝が綯い交ぜとなった顔に、胸が痛んだ。
 「巻き込まれるのがイヤなら無視しちゃえばよかったのに。もともと関係ないんですし」
 「はあ?お前バカか、俺の目に映ること耳に聞こえることで関係ねえことなんかひとっつもねえよ」
 俺は特別正義感が強いわけじゃない。いい人ってわけでもない。ただ、我慢が苦手なだけだ。だから職場でもついカッとして仕事の遅い同僚や後輩を怒鳴りつけちまう。
 当たり前のことを言う俺を、千里はなんだか眩しそうに見詰める。
 「難儀な性格ですねぇ」
 「うるせえ」
 「でも、先輩らしくていいと思いますよ」
 「そうかよ」
 ふてくされて返事をする。千里は楽しそうに笑う。
 俺と一緒にいるこいつはいつもすごく楽しそうだ。……なんなんだよ、一体。
 「で、その痴漢はどうなったんです?」
 「さあな。知りたくもねえ。俺と一緒で会社に遅刻したのは間違いねえだろうけど」
 「他に目撃者か証拠がないんじゃ立件むずかしいかもしれませんね」
 「一応おまわり呼んだけどな。本人が白切りとおしたんなら推定無罪で釈放かもな、ああっ、胸糞わりぃ!」
 「被害者が証言すれば事情違ったんでしょうけどね。気配りが裏目に出た感じですね」
 地団駄踏む俺に50センチ空けて、千里が冷静に指摘する。
 ……畜生、言われなくたってわかってるよ。
 だからって被害者に鞭打つようなまねできるか。
 あの子、泣いてたんだぞ。もういいじゃねえか。
 あの時は俺も頭に血が上ってた。
 悪質な常習犯なら、傷にからしをすりこむのを承知であの子に証言を頼むべきだったかもしれないといまさら後悔の念が襲う。
 さいわいなのかなんなのかあれきりあの男とは同じ電車に乗り合わせてない。
 「次に目が届く範囲でおなじことをしたら、ホームに連れ出して一発ぶん殴ってやる」
 「だいじょうぶですか?先輩、あんま力ないのに」
 「なんだよ。お前よかあるよ」
 「どうかな。ぼくに縛られて抵抗できなかったじゃないですか」
 「!あれは……っ、薬飲まされた上に縛られて、手が自由ならあんなヘマしなかったよ!あ、なんだよその疑いの目、お前俺が非力だと思ってる?眼鏡か、眼鏡のせいか?こう見えてバイオレンスでドメスティックなんだよ俺は!」 
 「知ってます。身をもって痛感しました。まあ、腰が入ってないへろへろパンチでしたけどね」
 「誰のせいで腰が抜けたと」
 アナウンスとともに電車が減速しすべりこんでくる。
 口論中断、いやらしくにやつく千里をおいて先に乗りこむ。
 腰のあたりにねとつく視線を感じる。不愉快だ。
 むっつりスケベはきっぱり無視し、吊り革を握る。
 車内はラッシュじゃないが空席もないような状態。
 出発の合図とともにドアが閉まり、振動を予期して鞄を抱え直す。
 目的地まで五駅ほど。所要時間二十分かそこら。
 俺は若いし足は丈夫、立ちっぱなしでも別段苦にならねえ。
 利用者を乗せて電車が走り出す。乗りこむ際に引き離された千里が迷子の犬のような目でこっちを見ているが、知るか。
 さすがの千里も社会人の良識は最低限わきまえてるらしく、吊り革に掴まる乗客をかきわけてまでこっちにやってこようとしない。
 それでよし。永遠に待て、おあずけ。
 すっきりした顔で吊り革に掴まる。ふと、後ろに人の気配。誰かが背後に立つ。
 「?」
 異変は次の駅で起きた。
 ドアが開くなり、大量の乗客が乗り込んでくる。
 「わっ」
 「なんだよこれ、いきなり多すぎだって!?」
 「今日なんかイベントあったっけー」
 車内がざわつく。人いきれにむせる。
 ドドッとなだれをうって車内に殺到した連中はいずれも若い。
 そういやこの駅には大学があった。
 「そっか、今日入学式……」
 若いっていいなあ。
 俺も学生時代に戻りたい、なんて郷愁にひたってみたり。ほっとけ。
 乗り込んできた連中の将来の夢と希望にあふれた明るく若い顔を、しみじみ感傷を噛み締めて眺めてる暇は、実はそんなにない。
 一人二人三人四人、いや、車内に乗り込んできた学生は数十人単位で、車内はあっというまに混雑しラッシュ時の密度になる。
 「―っ、」
 先輩、と千里が呼ぶ気がした。
 たぶん空耳。
 後ろから押され、体がずれる。
 体がひっついて暑苦しい。見知らぬ人間との接触は不愉快だ。
 吊り革を掴んだ手に力をこめ、目的地に着くまで心頭滅却しやりすごそうと腹をくくる。
 ラッシュを体験した社会人なら誰でも磨いてるスルースキル。うざい千里が隣にいないのがせめてもの救い。電車に揺られながら今日帰りに借りるDVDのことでも考え……
 尻に違和感。
 「あん?」
 片眉がひくつく。
 背部の、腰よりやや下あたりに紛れもない手の感触。
 気のせいか?
 なにせこの過密状態だ、偶然触れちまうことだってあるだろう。
 もしくは……スリか?
 その可能性に思い至り、一瞬冷や汗をかくも、財布はちゃんと鞄にしまってあると思い出し安堵する。
 伊達に電車通勤を続けちゃない、スリに遭った場合を想定して電車に乗り込む際は財布を鞄に移してある。
 ははん、残念だったなコソドロめ。一昨日きやがれ。
 ところが、ズボンのポケットを確認し財布がないと気付いても、一向に手はどこうとしない。その反対で、ますますもって大胆さを増す。
 いよいよ変だ。おかしい。
 ズボンの横に回ったんだから財布がないって気付いたろ?なのにどうして……

 『ぼく、痴漢のプロなんです』
 『先輩は痴漢に遭ったことないんですか?』

 まさか。
 車内は暑く息苦しい。身動きできない。押しくらまんじゅうのように人が揉みあいひしめく。
 千里はどこだ?
 無意識に千里をさがす、右に左に落ち着きなく目がさまよう、吊り革を握る手がじっとり汗ばむ。まさか、冗談だろ?おいおいおい。
 体温調節が狂う。
 毛穴が開いてぶわっと汗が噴き出す。
 「ひさしぶりだね」
 耳朶を湿らせる吐息。
 耳元で囁かれる陰険に低い声。
 振り返ってツラを確認したいが、それもできない。
 「……誰だよ、お前……」
 「声でわからないか」

 『なにするんだ!』
 『私はやってない、こいつがやったんだ!』 
 失笑を孕んだ声が、数ヶ月前の怒号と被り背筋が冷えていく。

 俺に引っ張られながら往生際悪く見苦しく取り乱し喚いた男、駅員の前で俺を指さし冤罪だ無罪だ唾とばし訴えた男の顔が、脳裏に像を結ぶ。
 「……あの時の痴漢……」
 生唾を飲む。ズボンの上からねっとり円を描くように尻をもまれる。
 気色悪さに肌が粟立つ。
 「偶然だね。久しぶり……五ヶ月ぶりかな。随分世話になった」
 「あんた、ホ……同性愛者なのか?」
 尻たぶを掴んで捏ね回す。
 骨ばった男の手で尻をもまれる生理的嫌悪は凄まじく、息に掠れて声が上擦る。
 あの時の男の顔。よく覚えてない。
 特徴のない顔だった。
 集団に紛れちまえばすぐに区別がつかなくなる。
 俺の背にぴたり密着したそいつが、薄く笑う気配が伝う。
 「ずっとお礼しなきゃって思ってたよ。あの日は大事な取引があったのに……お節介のせいで台無しだ。同じ車両に乗り合わせたのは運命じゃないか?仕返しのチャンスがめぐってきた」
 「台無しって、逆恨みじゃねえか……!?んっ、ぅくっ」
 上の歯で下唇を噛む。
 尻たぶに爪が食い込み、前のめりに傾ぐ。
 さかった息が首筋にかかってぞっとする。
 「ホームで偶然見かけて……同じ車両に乗り込んだ。後ろに来たのにも気付かなかったね、君は。油断してたのか?男が痴漢されるはずないって?……どうした、声は出さないのか。ばれるのはいやか」
 頭が混乱する。
 電車内で痴漢されてる。男なのに、いい大人なのに……声を上げたら?こいつ痴漢だと、調子にのって尻をさわりまくる手をひねりあげてぶちまけたら……だめだ、白い目で見られる。
 だって、男が痴漢だぞ?
 被害者も加害者も男だぞ?
 しょっぱすぎ。何よりプライドが許さねえ。 
 電車はもう出ちまった。ガタンゴトン、断続的な揺れが伝わってくる。
 周囲の連中は気付いてない、吊り革掴まってあくびをかみ殺す学生、前の座席に座って船をこいでる年寄り、音楽を聴いてる若者、友達と韓流スターのコンサート日程についてしゃべりあってる主婦……誰もこっちを見てない。
 ほっと息を吐く。安堵。
 したのも束の間、ズボンの上から人さし指で窄まりをなぞられ、ぞくりと悪寒が走る。
 「………っ………」
 ズボンの真ん中の縫い目に指がくいこむ。
 くりかえし、なぞる。
 「会社に着けばぎっしり予定が詰まってる。あれだけが楽しみだったのに……」 
 「……痴漢が憂さ晴らしって……最ッ低だな、お前」
 名前も知らないから、お前と吐き捨てるしかねえ。
 こいつに下半身をなでまくられ、顔を真っ赤にしてた女の子を思い出し、怒りが屈辱をしのぐ。
 尻をなでまわされる不快感を必死にこらえ、吊り革を軋むほど引っ張り虚勢を装う。
 「男の固いケツさわって楽しいか、変態」
 「たまにはさわられる方の身になってみるのも悪くない。そうすれば、二度とあんな偽善的な行動に走らないだろう」
 「は?」
 「あの子だって楽しんでたんだ。だれかさんが余計な事さえしなければ最後までいかせてあげたのに……」
 とんでもねえことを言い出す。純粋な怒りで脳裏が真っ赤に染まる。
 こいつは自分の行為を正当化してる。反省の色なんかカケラもねえ。
 思わず怒鳴り飛ばしそうになるも、ふっと前に回った手が股間を掴み、喉が詰まる。
 「……声、出すとばれるぞ」
 いきなりトーンが低くなる。凄みを帯びた囁きに恐怖を感じる。
 吊り革を片手で掴んで俯く、しっかり鞄を抱える、二十五にもなって男に痴漢されるみじめさ情けなさに泣きたくなる。
 逃げ場はない。執拗な手から逃げて移動しようにも人が詰まってる。肘がちょっとぶつかっただけでいやな顔される、迷惑げな舌打ちが返る。
 二・三歩横にずれるのも至難の業だ。物理的に不可能。
 そんな状況で言語道断女性の敵、および今日から千里に次ぐ俺の天敵の痴漢野郎は異常な執念でぴったり背中にへばりついている。
 「うっ………」
 慣れた手つきで尻を愛撫する。
 尻たぶを掴んでゆっくり捏ね回す、割れ目をつうっと指でなぞる、窄まりをほじる、もう一方の手でスラックスごしの股間を揉みほぐす。
 「首まで真っ赤だよ」
 背中に体温を感じる。不快なぬくもり。
 さりげなく鞄をずらしガードしようにも、男の動きの方が素早い。
 痴漢のテクニックを認めるのは癪だが、相当年季を積んでるようで、腹が立つことに、上手い。
 「お前……っ、気持悪くねえのかよ、こんなことして……はっ、俺男……仕返しなら、そと連れ出して、殴る蹴るすりゃいいだろ……」
 「復讐だよ、これは。ただ殴る蹴るするだけじゃつまらないし意味がない。男だろうが関係ない、私はこの道を究めたプロフェッショナルだ、むしろ初めての男をイかせてこそ山手線のゴールデンフィンガー新宿―池袋間のセクシートリガーの異名をとる痴漢のプロとして堂々と電車に乗れるというもの」
 「山手線に閉め出しくらえ」
 山手線を愛する全国の鉄は本気で怒るべきだ。ゴールデンフィンガー超自重。
 「仕事でストレスがたまると……息抜きになるんだよ……羞恥に赤らむ顔がたまらない……腰に来る」
 男の息が危険なかんじに上擦り始める。
 本格的に貞操の危機。いや、もう失ってるけど。
 千里にさわられるのは逃れえぬ運命だと諦観できても、こんな外道にさわられまくるのはいやだ。
 その千里は、いない。視界から消えてる。
 いなくてせいせいする、なんてほんの五分前は解放感にひたってたのに、今は心細い。
 縋るように千里の姿をさがしてしまう、車内に目を泳がせちまう。同じ変態なら顔見知りのほうがまだマシだ。
 「よそ見とは余裕だね」
 嘲笑が耳朶をくすぐる。
 次の瞬間、ズボンの中に手がもぐりこむ。
 「―っ!!?」
 生理的嫌悪が沸騰、愕然と目を剥く。
 こみ上げる悲鳴を、とっさに押し殺す。
 ズボンにもぐりこんだ手が悪夢のように動く……蠢く。
 男の手は濡れている。あらかじめローションを塗してあるらしい。
 準備がよすぎだ。確信犯、計画的犯行。今なら確実に現行犯逮捕できる。
 もっともそれは今この車両に現役の警官が乗り合わせてりゃの話で、その確率はとても低い。しかも俺が痴漢されてる事実に気付けばという条件が付く。
 嫌な予感が最悪の想像に直結。
 ローションを使うということは、つまり……
 ぬるぬるした手が下着の内側に入り込んで尻たぶを掴んで割る、窄まりを直接なぞる。悪寒に似たむず痒さが腰から這いのぼって背筋を犯す。
 「……は………」
 熱く湿った吐息を漏らす。吊り革をぎゅっと握る。
 逃げたい、出口は?ダメだ、電車は走行中、次の駅までかなりある。
 次の駅に到着したところでドアは遠い、混雑がマシになるとも限らない、もっと人が乗り込んでもっと窮屈になるかもしれない。
 「んぅ、」
 気持ち悪ィ、知らない男の手、千里じゃねえ、千里ならまだマシだ耐えられる、いやだけど我慢できる、こいつは無理だ。
 あいつどこにいる?
 ずれた眼鏡ごしに視線を行き来させ千里をさがすも姿はない、先輩のピンチにどっか行っちまった、薄情者め。
 ローションで粘る手が、感度検査でもするようにくりかえし尻をなで上げる。
 女と違って脂肪がついてない、筋肉でできた固い尻のどこがいいのか、理解できないししたくもねえ。
 こうなったら自分でなんとかするしかねえ、自分の貞操は自分で守る、これ基本。千里はどうしたんだっけ?朦朧とした頭を働かせる。

 『手首の捻り方とか、コキュッと』

 無理。却下。というか、この体勢からそれやるのはヨガの達人でもなきゃ不可能。逆に俺の手首がコキュッといきそうな予感。
 俺がぐだぐだ悩んでる間も手は休まず勤勉に働き続けて、遂には後孔のあたりを重点的になぞりだす。
 「やめろ……叫ぶぞ……」
 弱々しい抗議を無視し、窄まりの粘膜に、指がしずむ。
 「!!---っひ、」 
 ローションの潤沢なぬめりと、既に開発済みなのも手伝って、思ったよりあっさりと指を飲みこむ。
 「……思ったよりきつくないけど、男と経験あるのか?」
 意外そうな声が、すぐに失笑に切り替わる。恥辱と憤りとで体が火照る。
 言い返そうにも、迂闊に口を開けば勘違いさせる声が漏れそうで油断ならねえ。
 千里のせいだ。ぜんぶぜんぶ千里が悪い。ちょっと前まで尻で感じるなんて考えられなかったのに、あいつに未知の性感を開発された。
 吊り革を握りこむ、指の侵入を防ごうとケツの穴に力をこめ括約筋を締める、だけどそもそも自分の意志でどうにかなるもんじゃなくて、生理現象で、窄まりにねじこまれた指がローションをぐちゃぐちゃ泡立て粘膜を捏ね回す事によって、蕩けるような快感が押し寄せる。
 気持悪い、吐き気がする、吐き気がふくれあがって喉をふさぐ。
 千里が相手じゃねえのに、勝手によくなる体が許せねえ。
 痴漢のプロを自認するだけあって男のテクは巧みで、女とは具合が違う俺のケツの内部を、関節がないかのような反則気味の指使いで掻き回す。
 こんだけの技巧の持ち主ならわざわざ痴漢なんかしなくてもモテるだろうにとちらりと思う。やっぱスリルを求めてとか嫌がってくれないと興奮しないとかなんだろうか……
 ああ、大嫌いな誰かを思い出す。そっくりだ。
 いや。
 ちがう、な。
 千里は俺に対しては鬼畜で外道で所構わず発情するけど、泣き寝入りするしかない内気な女の子を狙ったりしないだろう。 
 「ふ………っは、やめ……あぅ」
 「窓、向いてごらん。ケツほじられて感じてるエロい顔、見えるだろう」
 耳から火が出そうだ。というか、言ってる本人の神経を疑う。
 俺はちょうど座席の手前に立っていて、ちょっと上を向けば、窓にばっちり顔が映る。
 正面の客は居眠りしていて、俺がされてる事に気付いちゃない。
 だけど、大きな声を出したら気付くかもしれねえ。
 「…………っ………」
 指が鉤字に曲がる。いいところを浅くつつき、ひっこみ、今度は深く突っ込む。尻の孔の皺までひとつひとつなぞられ、膝が笑う。
 指が増える。一本から二本へ、三本へ。回して、引き抜く。
 次第に中が熱く充血してくる。
 千里の指を、アレを、思い出して。
 「………ちが………」
 馬鹿な。何考えてんだ俺。
 こないだトイレで犯された時のことを思い出す。
 俺がいやだって拒んで喚いても聞き入れなくて、結局最後までヤるはめになった。ローターでさんざん中をかきまわされて、前も後ろも我慢の限界だった。
 目をきつく瞑る。
 瞼の裏に千里の顔がちらつく。
 尻の下あたりに熱い塊が押し付けられる、見なくてもわかる、びんびんに勃起した男のブツ。
 入れる気か?
 まさか、電車の中だぞ。まわりに人がいるのに。指突っ込むのだって危険なのに。
 三本指で前立腺マッサージされ膝が砕けそうなのを吊り革にぶらさがり堪える、脇に挟んだ鞄がずりおちる、眼鏡もずれる。
 車内のざわめきが遠のく。
 千里はどこだ、どこにいるんだあの馬鹿、男がハイペースで指を抜き差しする、前立腺を弾かれ呻く、ぐちゃぐちゃと中を捏ね回される。
 「中から聞こえるいやらしい音、わかるかい。前も固くなってる」
 「あんた……ほんとに男にやるの、初めてなのかよ……」
 半径50センチ内に変態は千里ひとりで十分だ。
 赤らんだ目で睨みつければ、ますますピッチが速まり、尻に押し当てられた物の硬度が増す。
 「ふっ、あっ、あっ」
 片手は吊り革を掴んでる、もう片方の腕は鞄を抱えてる、口をふさぐ自由も許されない。
 正面の客が薄目を開けてこっちを仰ぐ、上気した顔を伏せる、唇を噛む、感じてないふりをする、びくつく、千里、千里…… 

 『ごめんなさい、先輩』
 どんなに激しい行為をしても、最後は必ず謝った。
 『大好きです』 
 『先輩は好きな人が風邪で寝込んでるのに、無理矢理ヤりたいっておもいますか』
 風邪ひいて寝込んだ俺をどっちゃりアイス買い込んで見舞いにきた、餌付けのように食わせてくれた、袖口を握って放さなかった。

 「やめ………だす……」
 「へえ?なにを出すんだ。小便か、ザーメンか」
 窓に俺の顔が映る。痴漢にケツなでまくられて、中を指でぐちゃぐちゃにかきまわされて感じまくってる、最高にみじめで最低に情けない男の顔。
 「男のくせに指でイけるのか。どっちが変態だ?ドライな顔して中はウェットだね」
 「ふくっ……」
 電車の中で射精したら生きていけねえ。
 下着も汚れる。床も汚す。乗客に変態扱いされる。
 そうなったら、二度と電車に乗れねえ。
 駄目だ、耐えろ、千里の手を思い出して興奮して、違う、そんなわけあるか、俺がこんなに感じやすくなったのは千里のせいだ、ちょっと前はケツで感じるなんてありえなかった、あと少し、少しの我慢、どうせ駅でおりるんだ、そしたら解放される、地獄とおさらばできる……
 

 「ぼくの先輩に何汚い手で触れてんですか、ゲス野郎」


 排気音と共にドアが開く。
 すべては一瞬の間におこった。

 乗客がなだれを打って降車して車内が空く、その流れをかいくぐり気配もなく接近した千里が微笑む、微笑んで男の後ろ襟を掴み俺から引き剥がす、華奢な細腕には似合わない馬鹿力。
 「!ちさ、と、まて」
 千里の顔を見た瞬間、不覚にも、泣きたいくれえ安堵した。
 速攻ズボンと下着を穿いて震えもたつく手でベルトを締め直す、乗客の好奇のまなざしを浴びつつ千里を追って降りる、千里は男のスーツの後ろ襟をふん掴んでひきずっていく。 
 ひきずって
 「待て、待て待て待て待てっ!?」
 ホームの車線の外側、つまりもう少しで転落しちまいそうな瀬戸際に男を投げ出すや、その背中を踏む。踏みにじる。
 「何あれ?」
 「え、なんであの人踏まれてんの?超シュールなんだけど」
 「喧嘩?駅員呼んだほうがよくね?」
 野次馬どもが興味津々集まりだす。
 ホームの喧騒も聞こえぬ様子で、千里は冷え冷えと男を見下ろす。
 「勘違いだ、私が男の尻なんかさわるわけないだろう、誤解だよ!!さっさとこの足をどけてくれ、早く会社に戻らなきゃいけないんだ、予定が詰まって」
 「手癖が悪い人は頭も悪いってほんとですね。いつぼくが口開いていいって言いました?言ってませんよね、発言許可してないのに耳汚く騒ぎ立てないでくださいよ。そんなに注目浴びたいんですか?俗物だなあ。心配しなくてもほら、駅に集まった皆さんが貴方の恥ずかしいかっこちゃーんと見てますよ。写メってる人までいるし」 
 もたつき追いついた俺の視線の先、千里は笑う。
 にこやかにさわやかに笑いつつ、さっきまで俺に痴漢を働いていたけしからん右手を、固い靴底で踏み付け踏みにじる。全体重かけて。
 「いたたたたたたっだだだあだだっだだぎゃああああああぁあっあ、折れ、指折れ、変な方向曲がったぁああああああっ!?」
 「あー痛そうですね。全治三週間くらいかな?マスターベーションもできませんね、同じ男として同情しますよ、ホント」
 口調はあくまで軽く、笑みはあくまで優しく、鼻水と涙を滂沱と垂れ流しえび反り痛がる男の右手を、ホームと同化させるように入念に執拗に踏みにじる。
 「駅員、駅員よんでくれ!なにしてるんだ、だまって見てないで早く、だれでもいい助けてくれ、傷害罪で逮捕してくれ!!」
 滝のように涙と鼻水を垂れ流し悶絶する痴漢の顔からさっきまでの余裕は完全に消し飛んでいる。
 もがきばたつき凄惨な悲鳴をあげる男の醜態に、しかし、動く人間はいない。見た目優しげな好青年な千里のえげつない暴力に、完全に引きまくってる。
 「だから。痴漢に人権はないんですよ」
 冷めた声で指摘し、続ける。
 「というか、ですね。貴方が誰に痴漢しようがぼくは構わないです、構わないんですよ、ええ、そりゃ目に付く場所でやられちゃ不愉快だし足くらい踏むかもしれませんけどね、貴方の無礼な指を一本一本乾燥パスタのように折ろうなんて思いません。面倒くさいし」
 「だったら見逃し、でっ!?」
 泣き濡れた顔を勢いよく上げ、縋り付く男を邪険に蹴りどけ、胸ぐらを掴んで引きずり起こす。

 「先輩は別だ。そんな事もわからないのかよ」
 
 ホームがざわつく。
 男の胸ぐらを掴んだ千里は、そのまま退屈そうな、白けた半眼の表情で、不届きな痴漢の上半身をなぎ倒す。
 「千里っ!?」
 野次馬から悲鳴が上がる。
 痴漢のバランスは千里の腕一本でもってる状態、千里が気まぐれに手を放したら線路に転落するだろう。
 『三番線に電車が到着します、お待ちの方は白線の内側におさがりください』
 アナウンスが入る。
 電車が来る。
 千里は動かない、男の後ろ襟を押さえその体をなかば線路に突き出した状態で静止する、電車が入ってくれば男が死ぬ。
 片膝つき男の後頭部を見下ろす千里には周囲のざわめきもアナウンスも高音域の警笛も聞こえない、先頭のライトが視界を照らしても動かない、男の頭を無慈悲に容赦なく押さえ込んだまま千里は落ち着き払って呟く。
 「悪さばかりする手はいらないから、もってってもらいましょうか」
 男の顔が固まる。極限まで剥かれた目、戦慄の表情、次いで絶叫の形に開いた口から無音の叫びが迸る。
 「もういいから千里、もどってこい!!」
 電車がぎりぎりまで迫るも千里は微動しない、男を組み伏せたまま動かない、ホーム蹴って走り出す、先頭のライトが視界を漂白する、接触ぎりぎり間一髪のタイミングで千里を羽交い絞めにし縺れ合って倒れこむ、痴漢男の悲鳴を鋭利なブレーキ音が相殺し肌にあたる空気がびりびり震える。
 野次馬に混ざった女が数人甲高い声で叫んで顔を覆う、写メを構えた若者が凍りつく、肉片と血痕飛び散る酸鼻な事故現場が目の前に広がるー……
 「はあっ、は、は……」
 「ごめんなざい、もうじぜん、ちかんじまぜん、ゆるじでぐだざい……」
 痴漢男がこっちに尻を向け、突っ伏して泣いている。失禁したらしく、ズボンがぬれてる。
 頭を抱え込んで啜り泣く痴漢男の鼻先を電車が通過する。間一髪、あと一秒引き戻すのが遅れていたら、線路に突き落とされミンチと化していた。
 大変だったのは、俺だ。
 憑き物がおちたように大人しくなった千里を引きずり、阿鼻叫喚が渦巻くホームから離脱する。
 血相かえて駆けてくる駅員を人ごみに紛れ何食わぬ顔でやりすごし、構内のトイレの個室に千里を連れこむ。
 千里を便器に投げ出し、乱暴にドアを閉じて施錠する。同時に緊張の糸が切れ、ドアに背中を預けへたりこむ。
 「おま……ば、なに、心臓とまるかとおもった……脅しにしたってやりすぎ、一歩間違えたらホントに轢かれて死んでたぞ!?」
 「死んじゃえばいいんです」
 「死んじゃえばいいんですじゃねえよ、痴漢は悪いけど人殺しはだめ」 
 体当たりの勢いを殺せずドアに後頭部をぶつける。千里がいきなり抱き付いてきた。
 「………………?」
 俺の肩のあたりに顔を埋め、抱きしめる腕をますます強くする。すがるように。
 「なんで呼んでくれなかったんですか」
 低く、感情をそぎ落とした声。それでいて、底に激情を滾らせてるような。
 「ぼく、近くにいたのに。先輩がずっと一人で我慢してたから、気付くの遅れたんです。手遅れぎりぎりになるまで。いやだったら千里助けろって、そう呼んでくれたらよかった。速攻とんでったのに」
 「呼んだって……あんなに混んでたんじゃとんでこれないだろ」
 「来ます。絶対に。行く手を塞ぐ人間は突き飛ばして転ばして、一番に駆けてきます」
 真摯な声音で、誠実な眼光で約束。
 俺の目をまっすぐ見詰めて。
 「いや……だって、俺にだって意地ってもんがあるし。言えるかよ普通、男が痴漢にあってますなんて。恥ずかしいしみっともねえ」
 「みっともないから我慢するんですか。呼んでくれないんですか」
 頑固なガキのように詰め寄る千里から顔を背け、ふてくされて呟く。
 「……お前、痴漢より酷いこといっぱいしてるじゃねえかよ」
 「ぼくはいいんです。他の人は許さない。先輩に酷いことしていいのはぼくだけだ」
 「~あのなあ!」
 「呼んでください。お願いします」
 俺を抱きしめたまま、千里がしおらしく頭を下げる。怒る気が失せる。
 千里は、俺が痴漢にあったのに気付くのが遅れた自分を責めている。そんなの、こいつのせいじゃないのに。こいつが気に病むことじゃねえのに。
 真剣に悔やむ後輩になんて言葉をかけたらいいか迷い、浮かせた手の置き場に迷い、仕方なく、それを千里の背中に置く。
 しゃくりあげる子供にするように、ぎこちなく背中をなでる。
 「……相手先に電話しなきゃな。遅れるって」
 「ぼくがしときます」
 「悪い」
 互いに寄りかかるように抱き合ってため息を吐く。
 情けない話、痴漢にさんざん嬲られたせいで腰が立たねえ。
 回復までもうちょっと時間がかかりそうだ。
 それまで、千里の胸を借りる。
 「あの痴漢どうなったんだろ」
 「駅員さんが連れてったんじゃないですか」
 「ローションまで持ってたとこ見ると常習犯だな。タチ悪ィ」
 例の不快な感触を思い出し、顔を顰める。まだケツがむずむずする。
 ふと、千里がもぞつく。
 俺の腕の中で微妙に姿勢を入れ替え、片手でまだおさまってない俺の股間をなぞる。
 「………イかせてあげましょうか」
 「なに?」
 「イけなくて苦しかったでしょう」
 ああ、そっか、やっぱりこのパターンね。慣れたっつの。
 「トイレでヤるの二度目だぞ」
 「危急の措置です、やむをえません。電車の中で暴発しちゃったら大変じゃないですか。汚れた下着で参上したら相手先にもご迷惑です」
 「そうか?」
 「間違いありません。ぼくの目を見てください」
 「濁ってる」
 聞いちゃない千里が俺のシャツを巻き上げて手を這わせる。
 下半身ばかり重点的にさわりまくった痴漢とは違う、愛情こめた触り方。
 ……ちがう、愛情なんかこもってるはずがない、こいつは強姦魔で俺のことなんかちっともさっぱり考えちゃない、だから平気で酷いことができる、会社のデスクで犯せる、ローター突っ込んで恥かかせた、トイレで突っ込まれた、気絶するまでいたぶり抜かれた、その事は忘れてないし絶対忘れられねえ。
 でも。
 今回ばかりは、助けられた。
 千里がいなかったらどうなってただろう。
 「………抵抗しないんですか、今日は」
 「疲れてその気もおきねえよ」
 なげやりに言えば、愛撫に若干ためらいが生じる。
 自分が痴漢の二の舞になるのを恐れているように。
 ショックの上塗りをする行為に怯えているような、いつも行為中に見せる自信に溢れた笑顔とは正反対の、繊細な顔を覗かせる。
 「その。できるだけ、優しくします」 
 「結局ヤんのかよ!?」
 俺の突っ込みを無視し、千里がシャツをはだけて愛撫を再開。俺に触れる手つきは、心なしかいつもより少しだけ優しい。
 ありがとうと、喉まで出かけた礼をぐっと飲みこむ。
 「……今日から痴漢撃退のプロに改名しろ」
 生まれて二十五年、初めて痴漢に遭ったショックが、千里の丁寧な抱擁と愛撫で癒され和らいでいく。
 俺のシャツをずらし脱がしながら、これだけは絶対譲れないといった底知れず怖い笑顔で断言。
 「先輩をいじめていいのはぼくだけです。一駅の間にイかせられないようなお粗末なテクの痴漢に渡したりしませんから」
 「って、お前なんで一駅ってわかっ……やっぱ見てたな!?」

 俺の感動を返せ。
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