13 / 25
俺と後輩とキットカット
しおりを挟む
「おせえ……」
二月中旬、漉したように柔らかな陽射しが暖める噴水広場。
ベビーカーを押した若い母親が井戸端もとい噴水端に憩い、老人が撒いた餌をよちよち歩きの鳩がつつき、その鳩をつかまえようと無邪気に笑う幼児が手を突き出し歩く。
微笑ましい光景にあんよがお上手あんよがお上手と心の中で手拍子してやる。
ここ一週間ばかり肌寒い日が続いたが今日は気温が上がりスーツだと汗ばむくらいの陽気だ。一日ずつ着々と春へ移り変わろうとしている。長く厳しい冬を乗り越え生命芽吹く春を迎え、されど心は晴れない。
腕時計を睨んで舌打ち、暇つぶしに広場を眺める。
鳩が多い。糞掃除が大変そうだなと漠然と夢のない事を思う。餌を与える人間がいるから比例して増えるのか。定年退職した老人の手慰みだったりなにかと動物に構いたがる好奇心旺盛な子供だったり、要するに善意の人間が繁殖を手伝っているのだ。弱肉強食とか食物連鎖とかの掟も餌で飼いならされた鳩たちにゃ関係ない気がする。どうでもいいけど鳩ってオスでも鳩胸なのか?……いけねえ、暇すぎて本当にどうでもいいことを考えちまった。
にしても遅い。あいつどこで油売ってやがる。
一面に撒かれた餌を喉鳴らしついばむ鳩の群れのむこうからビニール袋をぶらさげて一人の男が駆けてくる。
「先輩!」
やっときやがった。
「おせえ、いつまで待たせるんだ」
「すいません、ちょっと手間どっちゃって……」
「混んでたのか?」
「いえ、そうじゃないんですけど」
「レジに並んでたんじゃねえのか。新人に当たった?」
「いえ、ちがうんですけど」
「なんだよ一体……サンドイッチでもおにぎりでもなんでもいいって言ったろ、早くしろよ、時間ないんだから。まだあと二件外回り残ってるんだぞ」
スーツ姿も折り目正しく初々しい男の名前は千里万里。俺の後輩、期待の新人。
「先輩これ好きでしょう、シャケのおにぎり。海苔はぱりぱり派。残りひとつでしたよ、危なかったあ」
指導係なんて不向きな役目を負わされストレス溜まる一方の俺をよそに、後輩は何がそんなに楽しいのか溌剌と笑ってる。顔立ち清涼に整った美形だがそれより好青年のイメージが強い、その無防備さでもって無条件にひとを惹きつける笑顔。とてもじゃないが真似できねえ。
笑いながら袋の中からおにぎりをとりだす。
「……サンキュ」
「どういたしまして。さ、早く食べちゃいましょう」
ふたり並んでベンチに腰掛ける。気のせいかやけに距離が近い。
肘がぶつかるのに辟易しひとつ横にずれる。親しくない人間にひっつかれるのは不快だ。
外回りの途中で寄った広場で千里が調達した昼飯を食う。背広姿の男ふたりでおにぎりやらサンドイッチをぱくつく侘しい食事風景が他人の目にどう映るか、これでも一応新人の頃は気にしたものだがじき慣れた。
手近な店に入ってもよかったが時間が惜しい、今日はスケジュールが押してるのだ。
おにぎりのラッピングを外す。
矢印の方向にそってビニールを開封し海苔を巻く。
「先輩って几帳面ですよね」
「なんでだよ」
唐突な呟きに眉をひそめれば、手まねをしつつはにかみがちに笑う。
「いえ、なんとなく。海苔の巻き方がきちきちっとして……指も長くて器用そうだし。僕コンビニのおにぎりって苦手なんですよね、途中で海苔が破けちゃって」
「矢印にそってやれば普通に剥けるだろ?」
「コツがあるんですかね……実家にいた頃はコンビニって利用した事なくて」
「なんで?」
「たぶんサンドイッチやおにぎりに使われてる防腐剤が体に悪いから」
「どんだけ坊ちゃん育ちだよ。過保護な親もいたもんだ」
「合成着色料入りのお菓子なんて言語道断でしたから。子供の頃は体に悪そうな毒々しい色合いのお菓子に憧れたなあ、同級生が食べてると羨ましくて」
飯を食う手をとめあきれ顔をすればぬけぬけのたまう。
「食事には厳しいうちでしたから……躾もですけどね。今はせいせいしてます」
「お前はサンドイッチか」
「はい。ハムサンドとレタスサンド美味しいですよ」
「足りるのかよそれで。小食だな。営業は足が勝負なんだからもっといっぱい食え」
「先輩こそ、痩せてるんだからもっと食べたほうがいいですよ」
「るっせ、ストレスで太れないんだよ」
「そうなんですか?」
「まわり見てみろ、営業で太ってるヤツいるか?」
「羽鳥さんは」
「あいつは例外。幸せ太りだろ」
「ああ、愛妻家で有名ですもんね。お子さんと奥さんの写真見せてもらいましたよ」
「お前にまで見せてたのかよ。誰彼構わずだな」
「こないだの飲み会で酔っ払った時に上機嫌で……あれ、いませんでしたっけ」
「どうせいなかったよ。つか誘われなかったよ」
大いにふてくされ、以前見せられた仲のいい夫婦のツーショットを瞼の裏に思い描く。
「つりあわねえ美人だろ?大恋愛の末の学生結婚だとさ、うらやましい。ガキにも恵まれて順風満帆の人生だ」
人生上り坂の同僚をひがんで口の中身を咀嚼する。
千里はどことなく憂い漂う上品さで一口ずつサンドイッチをぱくつく。
俺のようにがっつかないところに育ちのよさが窺える。
ひとつめをあっというまにたいらげ、親指にへばりついた飯粒をなめているときに爆弾がおちる。
「先輩、安子さんとうまくいってないんですか?」
落ち着け、顔にだすな。
親指にへばりついた飯粒を時間稼ぎをかねてなめとり、包装紙を畳んでビニール袋に詰めてから口を開く。
「どうしてだよ」
「羽鳥さんのことひがんでるみたいだから」
この野郎、オブラートにくるめよ。
千里は興味深げに俺を見守ってる。どう対処するか観察しているようなポーカーフェイスにむかっぱらがたつ。
「なにかあったんですか?」
「別に」
やばい、早すぎたか。そっぽを向いて不審げな視線を払う。眼鏡の弦にふれて顔を隠す。千里は面白がってるふうにもとれる表情でよそよそしく振る舞う俺を見つめる。
後輩に突っ込まれてどうする、しゃんとしろ、切り抜けろ。
「どうでもいいだろ、俺の事は。お前に言う義理ねえよ」
「付き合ってるんでしょ?職場恋愛。最近雰囲気へんだって噂になってますよ」
血が逆流する。
「ご親切にご注進どうも。ほっとけ」
『ズミっち、安子の話ちゃんと聞いてる?大事な話なのに』
『ねえ聞いてよ、宏澄』
安子が俺を略称じゃなく呼ぶときは切羽詰まってるってわかってたはずなのに、気付いた時には手遅れだった。
言えるか、そんなこと。かっこ悪すぎだ。
確かに羽鳥をひがんでるし妬んでる、そんな資格ねえのに棚に上げてあいつの幸せをやっかんでる。
自己嫌悪で喉が詰まり飯が通らなくなる。
「喧嘩ですか?」
「―いくぞ、早くしねえと遅れちまう」
千里の手からサンドイッチの包装を奪い取ってあらっぽく袋に突っ込む。
もうこいつと話すのはいやだ、腹の底に隠してるものまで見抜かれちまいそうだ。
去年の今日は安子から手作りチョコを貰った。今年は何も貰ってねえ。もう諦めてる。
安子は今年ちがう人間にチョコをやる。
ちがう男の家に泊まる。
「まあ座ってください」
ゴミを袋に詰めて立ち上がろうとしたそばから肩を掴んで戻し、ポケットから平べったい箱を抜く。
箱を開封し銀紙を剥ぎ、手に力を込めて一切れ折り取るや、大きい方を俺にむかってにっこりさしだす。
「バレンタインデーですよね、今日。頑張ってる先輩にぼくからプレゼントです」
「キットカットかよ」
脱力しちまう。こいつ、俺に内緒でこんなもん買ってやがったのか。
「ちゃんとラッピングしてあるチョコのがよかったですか?なら買いなおしてきますけど」
「男に貰っても嬉しくねえよ」
「いりませんか?」
「食う。食い物粗末にしちゃばちあたる」
「言うこと古いですね、やっぱり」
千里の手からキットカットを受け取る。ほんの一瞬指先が触れ合って、熱を伝え合う間もなく離れていく。
成り行きで受け取っちまったキットカットを仏頂面でひねくりまわす。
「甘いもの好きなのか、お前」
「嫌いじゃありません」
「舌がお子様だな」
「疲れた時の糖分補給は常識です」
見本を示すように歯を立て齧りとる。ぱきんと軽快に乾いた音が鳴る。
千里にならい、チョコのコーティングが溶ける前にと口にほうりこむ。
さくさくした食感とチョコの甘さがちょうどよく溶け合う。
キットカットを頬張る俺を一癖ありそうなにやけづらで眺め、新しいのを口に運びがてら聞く。
「先輩は毎年どれくらいチョコもらいます?」
「あー、同僚に義理チョコもらうくらい。みっつよっつてとこか?」
「今年は僕が一番乗りですね」
いきなり気色悪いことを言い出す。
驚きのあまりずれた眼鏡を押し上げて怒鳴りかけ、それを制すように素早く立ち上がった千里が正面に来る。
「眼鏡にチョコがついてますよ」
「え、マジ?」
チョコでべとついた手でレンズにふれたせいだ。慌てて眼鏡をとりハンカチで拭こうとするも、それを見越した千里が先に眼鏡を奪い、自分のポケットからとりだした清潔なハンカチでもって丁寧に汚れを拭く。
「先輩っていつもしっかりしてるようでいて案外ヌけてますね」
「~お前がチョコなんか食わせるから……」
「元気でました?」
「小腹の足しになった。行くぞ」
眼鏡をひったくって顔にかけ、吹き出すのを我慢するような表情の千里はもう捨ておいて憤然と歩きだす。
鳩を追い散らし広場を突っきりながら、口の中に残る甘い味を反芻し胸焼けをおこす。
「キットカット、きっと勝つぞ」
「はあ?」
鳩のはばたきに包まれ、足を止め振り向く。
背後で同じく立ち止まった千里がキットカットを一切れ咥えて解説する。
「縁起担ぎの語呂合わせですよ。キットカット、きっと勝つぞ。だからこの時期コンビニでは受験生向けに売り出される」
「だじゃれかよ」
こいつらしくもない言い草に失笑し、ポケットに片手をひっかけ戯れに問う。
「で?お前はだれに勝つつもりなんだ」
「ご想像におまかせします」
ふいに遠い目をした千里につられ、鳩の群れが一斉に飛び去った空の彼方を仰ぐ。
日輪を隠す勢いで飛び立つ鳩を手を翳し見送れば、形よい唇に挟んだキットカットをぱきんと噛み砕き、いつのまにか空から地上へと視線を転じた千里が傲慢なまでの自信をもって宣言する。
「だれが相手だろうが負ける気はさらさらありませんけどね」
二月中旬、漉したように柔らかな陽射しが暖める噴水広場。
ベビーカーを押した若い母親が井戸端もとい噴水端に憩い、老人が撒いた餌をよちよち歩きの鳩がつつき、その鳩をつかまえようと無邪気に笑う幼児が手を突き出し歩く。
微笑ましい光景にあんよがお上手あんよがお上手と心の中で手拍子してやる。
ここ一週間ばかり肌寒い日が続いたが今日は気温が上がりスーツだと汗ばむくらいの陽気だ。一日ずつ着々と春へ移り変わろうとしている。長く厳しい冬を乗り越え生命芽吹く春を迎え、されど心は晴れない。
腕時計を睨んで舌打ち、暇つぶしに広場を眺める。
鳩が多い。糞掃除が大変そうだなと漠然と夢のない事を思う。餌を与える人間がいるから比例して増えるのか。定年退職した老人の手慰みだったりなにかと動物に構いたがる好奇心旺盛な子供だったり、要するに善意の人間が繁殖を手伝っているのだ。弱肉強食とか食物連鎖とかの掟も餌で飼いならされた鳩たちにゃ関係ない気がする。どうでもいいけど鳩ってオスでも鳩胸なのか?……いけねえ、暇すぎて本当にどうでもいいことを考えちまった。
にしても遅い。あいつどこで油売ってやがる。
一面に撒かれた餌を喉鳴らしついばむ鳩の群れのむこうからビニール袋をぶらさげて一人の男が駆けてくる。
「先輩!」
やっときやがった。
「おせえ、いつまで待たせるんだ」
「すいません、ちょっと手間どっちゃって……」
「混んでたのか?」
「いえ、そうじゃないんですけど」
「レジに並んでたんじゃねえのか。新人に当たった?」
「いえ、ちがうんですけど」
「なんだよ一体……サンドイッチでもおにぎりでもなんでもいいって言ったろ、早くしろよ、時間ないんだから。まだあと二件外回り残ってるんだぞ」
スーツ姿も折り目正しく初々しい男の名前は千里万里。俺の後輩、期待の新人。
「先輩これ好きでしょう、シャケのおにぎり。海苔はぱりぱり派。残りひとつでしたよ、危なかったあ」
指導係なんて不向きな役目を負わされストレス溜まる一方の俺をよそに、後輩は何がそんなに楽しいのか溌剌と笑ってる。顔立ち清涼に整った美形だがそれより好青年のイメージが強い、その無防備さでもって無条件にひとを惹きつける笑顔。とてもじゃないが真似できねえ。
笑いながら袋の中からおにぎりをとりだす。
「……サンキュ」
「どういたしまして。さ、早く食べちゃいましょう」
ふたり並んでベンチに腰掛ける。気のせいかやけに距離が近い。
肘がぶつかるのに辟易しひとつ横にずれる。親しくない人間にひっつかれるのは不快だ。
外回りの途中で寄った広場で千里が調達した昼飯を食う。背広姿の男ふたりでおにぎりやらサンドイッチをぱくつく侘しい食事風景が他人の目にどう映るか、これでも一応新人の頃は気にしたものだがじき慣れた。
手近な店に入ってもよかったが時間が惜しい、今日はスケジュールが押してるのだ。
おにぎりのラッピングを外す。
矢印の方向にそってビニールを開封し海苔を巻く。
「先輩って几帳面ですよね」
「なんでだよ」
唐突な呟きに眉をひそめれば、手まねをしつつはにかみがちに笑う。
「いえ、なんとなく。海苔の巻き方がきちきちっとして……指も長くて器用そうだし。僕コンビニのおにぎりって苦手なんですよね、途中で海苔が破けちゃって」
「矢印にそってやれば普通に剥けるだろ?」
「コツがあるんですかね……実家にいた頃はコンビニって利用した事なくて」
「なんで?」
「たぶんサンドイッチやおにぎりに使われてる防腐剤が体に悪いから」
「どんだけ坊ちゃん育ちだよ。過保護な親もいたもんだ」
「合成着色料入りのお菓子なんて言語道断でしたから。子供の頃は体に悪そうな毒々しい色合いのお菓子に憧れたなあ、同級生が食べてると羨ましくて」
飯を食う手をとめあきれ顔をすればぬけぬけのたまう。
「食事には厳しいうちでしたから……躾もですけどね。今はせいせいしてます」
「お前はサンドイッチか」
「はい。ハムサンドとレタスサンド美味しいですよ」
「足りるのかよそれで。小食だな。営業は足が勝負なんだからもっといっぱい食え」
「先輩こそ、痩せてるんだからもっと食べたほうがいいですよ」
「るっせ、ストレスで太れないんだよ」
「そうなんですか?」
「まわり見てみろ、営業で太ってるヤツいるか?」
「羽鳥さんは」
「あいつは例外。幸せ太りだろ」
「ああ、愛妻家で有名ですもんね。お子さんと奥さんの写真見せてもらいましたよ」
「お前にまで見せてたのかよ。誰彼構わずだな」
「こないだの飲み会で酔っ払った時に上機嫌で……あれ、いませんでしたっけ」
「どうせいなかったよ。つか誘われなかったよ」
大いにふてくされ、以前見せられた仲のいい夫婦のツーショットを瞼の裏に思い描く。
「つりあわねえ美人だろ?大恋愛の末の学生結婚だとさ、うらやましい。ガキにも恵まれて順風満帆の人生だ」
人生上り坂の同僚をひがんで口の中身を咀嚼する。
千里はどことなく憂い漂う上品さで一口ずつサンドイッチをぱくつく。
俺のようにがっつかないところに育ちのよさが窺える。
ひとつめをあっというまにたいらげ、親指にへばりついた飯粒をなめているときに爆弾がおちる。
「先輩、安子さんとうまくいってないんですか?」
落ち着け、顔にだすな。
親指にへばりついた飯粒を時間稼ぎをかねてなめとり、包装紙を畳んでビニール袋に詰めてから口を開く。
「どうしてだよ」
「羽鳥さんのことひがんでるみたいだから」
この野郎、オブラートにくるめよ。
千里は興味深げに俺を見守ってる。どう対処するか観察しているようなポーカーフェイスにむかっぱらがたつ。
「なにかあったんですか?」
「別に」
やばい、早すぎたか。そっぽを向いて不審げな視線を払う。眼鏡の弦にふれて顔を隠す。千里は面白がってるふうにもとれる表情でよそよそしく振る舞う俺を見つめる。
後輩に突っ込まれてどうする、しゃんとしろ、切り抜けろ。
「どうでもいいだろ、俺の事は。お前に言う義理ねえよ」
「付き合ってるんでしょ?職場恋愛。最近雰囲気へんだって噂になってますよ」
血が逆流する。
「ご親切にご注進どうも。ほっとけ」
『ズミっち、安子の話ちゃんと聞いてる?大事な話なのに』
『ねえ聞いてよ、宏澄』
安子が俺を略称じゃなく呼ぶときは切羽詰まってるってわかってたはずなのに、気付いた時には手遅れだった。
言えるか、そんなこと。かっこ悪すぎだ。
確かに羽鳥をひがんでるし妬んでる、そんな資格ねえのに棚に上げてあいつの幸せをやっかんでる。
自己嫌悪で喉が詰まり飯が通らなくなる。
「喧嘩ですか?」
「―いくぞ、早くしねえと遅れちまう」
千里の手からサンドイッチの包装を奪い取ってあらっぽく袋に突っ込む。
もうこいつと話すのはいやだ、腹の底に隠してるものまで見抜かれちまいそうだ。
去年の今日は安子から手作りチョコを貰った。今年は何も貰ってねえ。もう諦めてる。
安子は今年ちがう人間にチョコをやる。
ちがう男の家に泊まる。
「まあ座ってください」
ゴミを袋に詰めて立ち上がろうとしたそばから肩を掴んで戻し、ポケットから平べったい箱を抜く。
箱を開封し銀紙を剥ぎ、手に力を込めて一切れ折り取るや、大きい方を俺にむかってにっこりさしだす。
「バレンタインデーですよね、今日。頑張ってる先輩にぼくからプレゼントです」
「キットカットかよ」
脱力しちまう。こいつ、俺に内緒でこんなもん買ってやがったのか。
「ちゃんとラッピングしてあるチョコのがよかったですか?なら買いなおしてきますけど」
「男に貰っても嬉しくねえよ」
「いりませんか?」
「食う。食い物粗末にしちゃばちあたる」
「言うこと古いですね、やっぱり」
千里の手からキットカットを受け取る。ほんの一瞬指先が触れ合って、熱を伝え合う間もなく離れていく。
成り行きで受け取っちまったキットカットを仏頂面でひねくりまわす。
「甘いもの好きなのか、お前」
「嫌いじゃありません」
「舌がお子様だな」
「疲れた時の糖分補給は常識です」
見本を示すように歯を立て齧りとる。ぱきんと軽快に乾いた音が鳴る。
千里にならい、チョコのコーティングが溶ける前にと口にほうりこむ。
さくさくした食感とチョコの甘さがちょうどよく溶け合う。
キットカットを頬張る俺を一癖ありそうなにやけづらで眺め、新しいのを口に運びがてら聞く。
「先輩は毎年どれくらいチョコもらいます?」
「あー、同僚に義理チョコもらうくらい。みっつよっつてとこか?」
「今年は僕が一番乗りですね」
いきなり気色悪いことを言い出す。
驚きのあまりずれた眼鏡を押し上げて怒鳴りかけ、それを制すように素早く立ち上がった千里が正面に来る。
「眼鏡にチョコがついてますよ」
「え、マジ?」
チョコでべとついた手でレンズにふれたせいだ。慌てて眼鏡をとりハンカチで拭こうとするも、それを見越した千里が先に眼鏡を奪い、自分のポケットからとりだした清潔なハンカチでもって丁寧に汚れを拭く。
「先輩っていつもしっかりしてるようでいて案外ヌけてますね」
「~お前がチョコなんか食わせるから……」
「元気でました?」
「小腹の足しになった。行くぞ」
眼鏡をひったくって顔にかけ、吹き出すのを我慢するような表情の千里はもう捨ておいて憤然と歩きだす。
鳩を追い散らし広場を突っきりながら、口の中に残る甘い味を反芻し胸焼けをおこす。
「キットカット、きっと勝つぞ」
「はあ?」
鳩のはばたきに包まれ、足を止め振り向く。
背後で同じく立ち止まった千里がキットカットを一切れ咥えて解説する。
「縁起担ぎの語呂合わせですよ。キットカット、きっと勝つぞ。だからこの時期コンビニでは受験生向けに売り出される」
「だじゃれかよ」
こいつらしくもない言い草に失笑し、ポケットに片手をひっかけ戯れに問う。
「で?お前はだれに勝つつもりなんだ」
「ご想像におまかせします」
ふいに遠い目をした千里につられ、鳩の群れが一斉に飛び去った空の彼方を仰ぐ。
日輪を隠す勢いで飛び立つ鳩を手を翳し見送れば、形よい唇に挟んだキットカットをぱきんと噛み砕き、いつのまにか空から地上へと視線を転じた千里が傲慢なまでの自信をもって宣言する。
「だれが相手だろうが負ける気はさらさらありませんけどね」
0
お気に入りに追加
105
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
悪役令息シャルル様はドSな家から脱出したい
椿
BL
ドSな両親から生まれ、使用人がほぼ全員ドMなせいで、本人に特殊な嗜好はないにも関わらずSの振る舞いが発作のように出てしまう(不本意)シャルル。
その悪癖を正しく自覚し、学園でも息を潜めるように過ごしていた彼だが、ひょんなことからみんなのアイドルことミシェル(ドM)に懐かれてしまい、ついつい出てしまう暴言に周囲からの勘違いは加速。婚約者である王子の二コラにも「甘えるな」と冷たく突き放され、「このままなら婚約を破棄する」と言われてしまって……。
婚約破棄は…それだけは困る!!王子との、ニコラとの結婚だけが、俺があのドSな実家から安全に抜け出すことができる唯一の希望なのに!!
婚約破棄、もとい安全な家出計画の破綻を回避するために、SとかMとかに囲まれてる悪役令息(勘違い)受けが頑張る話。
攻めズ
ノーマルなクール王子
ドMぶりっ子
ドS従者
×
Sムーブに悩むツッコミぼっち受け
作者はSMについて無知です。温かい目で見てください。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
被虐趣味のオメガはドSなアルファ様にいじめられたい。
かとらり。
BL
セシリオ・ド・ジューンはこの国で一番尊いとされる公爵家の末っ子だ。
オメガなのもあり、蝶よ花よと育てられ、何不自由なく育ったセシリオには悩みがあった。
それは……重度の被虐趣味だ。
虐げられたい、手ひどく抱かれたい…そう思うのに、自分の身分が高いのといつのまにかついてしまった高潔なイメージのせいで、被虐心を満たすことができない。
だれか、だれか僕を虐げてくれるドSはいないの…?
そう悩んでいたある日、セシリオは学舎の隅で見つけてしまった。
ご主人様と呼ぶべき、最高のドSを…
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
溺愛前提のちょっといじわるなタイプの短編集
あかさたな!
BL
全話独立したお話です。
溺愛前提のラブラブ感と
ちょっぴりいじわるをしちゃうスパイスを加えた短編集になっております。
いきなりオトナな内容に入るので、ご注意を!
【片思いしていた相手の数年越しに知った裏の顔】【モテ男に徐々に心を開いていく恋愛初心者】【久しぶりの夜は燃える】【伝説の狼男と恋に落ちる】【ヤンキーを喰う生徒会長】【犬の躾に抜かりがないご主人様】【取引先の年下に屈服するリーマン】【優秀な弟子に可愛がられる師匠】【ケンカの後の夜は甘い】【好きな子を守りたい故に】【マンネリを打ち明けると進み出す】【キスだけじゃあ我慢できない】【マッサージという名目だけど】【尿道攻めというやつ】【ミニスカといえば】【ステージで新人に喰われる】
------------------
【2021/10/29を持って、こちらの短編集を完結致します。
同シリーズの[完結済み・年上が溺愛される短編集]
等もあるので、詳しくはプロフィールをご覧いただけると幸いです。
ありがとうございました。
引き続き応援いただけると幸いです。】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる