驚異の部屋≪ヴンダー・カンマー≫

まさみ

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三話

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エドガー少年は貴方の手が動かないのを寒さのせいと勘違いし、ふーふーと息を吹きかけ、両手で包んで擦りました。
貴方はさわったことがありませんが、シルクの肌触りはこんな感じかもなと想像します。
「いけそうかな」
鉛筆を握る手が、紙の上を滑り出します。
エドガー少年は固唾を飲んで貴方の手の動きを見守っています。御者も息を止めていました。
貴方は時間を忘れました。すぐそばのエドガー少年や御者の存在も意識から取りこぼし、寝かせた鉛筆で画帳をひたすら染め上げ、真っ黒に塗り潰します。
とうとう芯がへし折れどこかへ飛んで行き、貴方は真っ黒に塗り潰したページを見下ろしました。
「好きなものなんか、ねえ」
エドガー少年は貴方の隣に座り、経緯をすっかり聞き出しました。
お母上が亡くなった事。女主人に追い出された事。
途中で目をしばたたいて洟を啜り、しゃっくりを漏らします。夜空には大小の星が瞬いていました。
一部始終を打ち明けるやエドガー少年は貴方を抱き締め、身を包んでいた外套を脱いで貴方に掛け、馬車の中へ迎え入れました。
「お待ちくださいエドガー様、勝手なことをなさると旦那様がお怒りになりますよ!」
「覚悟の上だ」
エドガー少年は貴方に向き直り、きっぱり断言しました。
「君を屋敷においてくれるようお父様に掛け合ってみる」
「本気かよ」
「当たり前だろ」
「だって俺、ててなしごのみなしごだぜ」
「関係ないよ」
エドガー少年の決意は固く、反論を許しません。
正直な所、貴方は戸惑いました。心を占めたのは喜びに勝る純粋な疑念と動揺。

エドガーは何を企んでいるんだろうか。
連れていかれる先で酷い仕打ちが待ち受けてるんじゃないか。

馬車の座席に掛けたエドガー少年は、移動中もずっと貴方の手を握り締め、誠実に語り聞かせていました。
「君の才能を発見したのは僕だ。責任もって守り育む義務がある」
高貴なる者の義務、とでもいうのでしょうか。平民は貴族に尽くす、故に貴族は平民を守らなければいけない。
同行者を安心させるべくエドガー少年が放った言葉は、ますますもって貴方を居心地悪くさせます。
一刻後、馬車が到着したのは立派なお屋敷でした。エドガー少年は貴方の手を引っ張り、早速父に会いに行きました。
「ただ今帰りました」
スタンホープ伯爵は書斎で執務をしていました。礼儀正しく挨拶した息子を一瞥、隣のみすぼらしい少年に顔をしかめます。
「その子はなんだエドガー」
「僕の友達です。お願いします、彼のパトロンになってください」
「なんだって?」
「彼には凄い才能があるんです。見てください」
そういってエドガー少年が提出したのは、貴方が先日描いた似顔絵でした。
一枚ではありません。犬、猫、街の風景、ロンドン橋……合計十数枚の束。
マホガニーの机に広げられた力作の数々に、伯爵は目を見開きました。
エドガー少年は力を込めて食い下がります。
「お父様は社交界随一の絵画の蒐集家として知られています。後進の育成にも力を注ぎ、美術学校に多額の寄付をなされてる。ならば彼の才能がわかるはず」
「これは……確かに見事だが、突然家におけと言われても。君は孤児か?」
「はい」
「貧民窟の人間だな。ドブの匂いがする」
伯爵は冷ややかな眼差しで貴方を値踏みしました。馬車で素通りする紳士淑女がしばしば投げかけてきた侮蔑の眼差し。
エドガー少年は貴方を庇うように前に出、切実に懇願しました。
「素性は関係ありません。彼は僕と同い年なのに絵で稼いで病気のお母さまを養っていたんですよ、立派じゃありませんか」
「孤児の後見人になれと?無茶をいうな」
「なら僕が家を出ます」
「なんだと」
「路上で物乞いでもなんでもして暮らします」
「馬鹿げた事を」
「本気ですよ、彼を屋敷においてください。困っている人たちを助けるのが僕たち貴族の矜持だってお父様もおっしゃってたじゃないですか、あれは心にもない方便ですか」
エドガー少年は一歩も譲らず直訴します。貴方はただハラハラと見守っていました。
ややあって伯爵が太いため息を吐き、机上の絵と貴方の顔をとくと見比べ、結論を出しました。
「……仕方ない」
結局の所、伯爵も息子には甘かった。
エドガー少年は父に溺愛されており、大抵のわがままは罷り通ったのです。

貴方は伯爵家に養子として引き取られ、適齢期を迎えるのを待ち、エドガー少年ともども美術学校に入学しました。
エドガー少年は貴方にとても懐いていました。ええ、ええ、実の兄のように慕っていたのでしょうね。暇さえあれば貴方の部屋を訪れ、他愛ないお喋りをしていきました。
身を清め新しい服に着替えてエドガー少年と並ぶと、実の兄弟に見えました。
貴族に拾われたのは貴方にとっても幸運だった。伯爵を後見人に得た事で才能を伸ばす機会を掴んだのですから、感謝しなけりゃバチがあたります。
たとえ使用人たちに露骨な嫌がらせをうけスタンホープ伯爵に無視されようとも、乞食に身を落とすよりずっとマシでした。

温かい寝床。
清潔な衣服。
美味しくて栄養ある食事。
満ち足りた生活。

覚えています?
忘れた?
思い出してください。

貴方とエドガー少年はよく庭に出て、お互いを描き合いました。
夏の日は楡や菩提樹の木陰に座り、春の日は陽射しがぬくめた芝生に寝そべり、完成後は絵を取り換え批評し合い、切磋琢磨で技術を高めていきます。
エドガー少年に許嫁いいなずけがいる事を知ったのは、屋敷に引き取られた数週間後でした。
「何歳?」
「七歳。まだ小さい」
「どこにいるんだ」
「インド。従妹だよ。片手で足りる程度しか会った事ない」
彼が見せてくれた写真には、オーガンジーのワンピースを纏った、可憐な幼女が映っていました。
先日届いた手紙に同封されていたのだそうです。芝生に寝転んだ貴方は写真を頭上にかざし、ニヤニヤ嗤いました。
「このちびが花嫁さんか」
「やめてよ」
「照れんなって」
「そんなんじゃない」
「大人んなったら美人になるぞ、俺の勘はあたるんだ」
エドガー少年は父が決めた婚約に不満げでした。貴族の婚姻は家同士の政略の意味合いが強く、当事者の意志は介在しません。
「貴族なんて窮屈なだけだ。好きになる人位自分で決めたい」
「そういうもんかな、一生贅沢できるんならいいじゃん」
貧民窟の娼館で生まれ育ち、男女の痴情の縺れを身近に見てきた貴方には、エドガー少年の価値観がぴんときませんでした。
「女を買いに来る客の中には、奥さんやガキにばれないように浮気してるヤツが大勢いたぜ」
「女の人たちはそれでいいの?好きな人の一番になれないのに」
「選り好みできる立場じゃねェし」
エドガーは聡明で心優しい少年でした。貴方には常に親切に振る舞い、読み書きを教えてくれました。
使用人にも分け隔てなく接し、馬車で外出した際は孤児や浮浪者を労り、月に一度は救貧院を訪れました。なんとまあお人好しなと貴方はあきれました。貧しき者に施すのが富める者の美徳とはいえ、エドガー少年のそれは些か度が過ぎていました。

水晶玉をご覧ください、エドガー少年が映っています。
いえ、もう少年とは呼べませんね。

「今日の食事は口に合わなかった?言ってくれたら替えさせたのに」
「ほっとけ」
「待って、袖に血が……まさか」
エドガー氏は貴方のポケットを暴き、スープに混入していた硝子の欠片を没収します。みるみるエドガー氏の顔が険しくなりました。
「料理に入ってたの」
「どこ行くんだ」
「罰しにいく」
「余計なことするな」
「君は僕の家族なんだぞ、不当な扱いを見過ごせるか」
「犬の糞じゃないだけマシ」
犯人は料理長かメイドかそれ以外か……わかりません。どうでもいい。料理に異物を入れられるのはまだ序の口で、ベッドに針を仕込まれた事もありました。
「連中、俺が気に入らないのさ。イーストエンドの売女のててなしごだもんな」
鉄錆びた味が広がり、手のひらのくぼみに赤い唾を吐きました。幸い喉は切れておらず、口内の粘膜をちょっと傷付けただけですみました。
ひりひり疼く傷口を窄めた舌先でまさぐり、またも自分を避けて行こうとする貴方の肘を掴み、エドガー氏は意外な行動にでました。
「!?ッ、」
貴方を壁に押し付け、唇で唇を塞いだのです。エドガー氏の唇は生温かく柔らかで、赤い唾液が糸を引きました。
貴方が押さえ込まれた壁の上には、スタンホープ伯爵一家を描いた肖像画がかかっていました。
中央の椅子に掛けているのが伯爵、向かって右側にたたずんでいるのが他界した夫人、左側に直立している紅顔の美少年がエドガー氏です。
絵の中から睨み据える厳格な風貌に後ろめたさを覚え、震える手でエドガー氏を突きのけます。
「何するんだ」
貴方の襟元は乱れ、華奢な鎖骨が覗いていました。
エドガー氏は言いました。
「消毒」
漸く思い出しましたね。思い出したくなかった?はは……。
翌日、使用人が一人解雇されました。貴方に食事を運んでいたメイドでした。

何故?
エドガー氏のスープにガラス片が混入していたから。

「誤解です旦那様、エドガー様のスープにガラスのかけらなんて入れてません、運ぶ前にちゃんと確かめました!」
ヒステリックな金切り声で抗議するメイドを一瞥、エドガー氏は口元にハンカチを当て血の染みを見せました。
「万一飲み込んでいたら、僕は死んでいたかもしれないね」
あり得ません。エドガー氏の自作自演です。彼は先日貴方から回収したガラス片を、何食わぬ顔でスープにまぜ、噛み砕いたのです。
貴方は全てを知りながら黙っていた。
メイドが解雇されたのち、貴方はこらえれきずエドガー氏に詰め寄りました。
「追ん出すだけなら怪我までする事なかったじゃないか、なんで」
「でも、君は怪我したろ」
振り返ったエドガー氏の顔には、真剣な表情が浮かんでいました。
「君が経験した痛みを知りたかった。じゃないと公平フェアじゃない」
エドガー氏は貴方と対等な関係になりたかった。
「ガラス入りスープは初めて飲んだけど、まずいね。珪素と鉄錆の味がする」
思えばこの時、貴方はエドガー氏に底知れない恐怖を感じたのでしょうね。

貴方たちは同時に美術学校に入学しました。デッサンの授業では毎回エドガー氏がほめられました。
「なあ知ってるか。アイツの親父、学校に多額の寄付をしてるんだってさ」
「どうりで下手くそのくせに贔屓されてるわけだ」
「次期伯爵さまを無下に扱えないってか」
エドガー氏のデッサンは凡庸でした。貴方の目にはそれがハッキリわかりました。
その頃からです、エドガー氏が歪んでいったのは。
彼は自身の実力が評価されない現実に鬱憤を募らせていきました。
「線が歪んでるぞ」
「デッサンが狂ってる」
「肌の塗りが雑だ。瑞々しさが感じられない」
貴方が絵を制作していると決まって後ろに立ち、欠点を論います。とはいえ、告げ口でもして不興を買うのは得策とはいえません。貴方が屋敷で暮らせるのは偏にエドガー氏の好意によるもの、身も蓋もない言い方をすれば貴族の息子の気まぐれ。
仮にエドガー氏の機嫌を損ねようものなら、路頭に迷うしかありません。

貴方はお母上の二の舞になりたくなかった。
貧乏はうんざりです。
せめて自分の棺代位は稼いで死にたい。

高尚な信念を持たず。
旺盛な野心も持たず。

そもそも貴方は絵が好きだったんでしょうか?
心から画家をめざしていたんでしょうか?

皆さん忘れがちですが、好きな事と得意な事は違います。
貴方はたまたま絵が上手かった、絵描きの才能があった。
でもそれだけ。
絵を描き続けたのは何故です?お金がほしかったから?周りの大人がほめてくれるから?
一ペニーも儲からず、誰にもほめられなければ描く意味がありません。
貴方にとって絵を描くことは生計たっきの手段に尽きます。それ以上でも以下でもない賎業。

食べるため。
生きるため。
ただそれだけの為に、生活の為だけに描き続けた。

正直におっしゃいな。
貴方、本当は絵が嫌いだったんじゃないですか?絵描きなんて金持ちの道楽だって、軽蔑してたんじゃないですか。
往来を行き交うひとびとに乞われるまま絵を描きながら、たかが似顔絵の為に金を払うなんて物好きなと、心の中で嘲ってちゃちな自尊心を保っていましたよね。
好きな事と得意な事が結び付かないのは悲劇と言うしかありません。それを利用するしたたかさが備わっていれば世間を渡っていけましょうが、生憎エドガー氏はそうじゃなかった。

彼の誠実は生粋だ。
貴方ほど器用にも狡猾にも生きられない。
神様は本当に意地悪だ。

白状なさいな、ホントはエドガー氏を馬鹿にしてたでしょ?初めて会った時から嫌いだった、そうでしょ?
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