驚異の部屋≪ヴンダー・カンマー≫

まさみ

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二話

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貴方は娼婦の私生児として産声を上げました。
とはいえ、お母上はもとから娼婦だったわけではありません。元は貴族の屋敷に仕えるメイド……よくある話、次男坊に孕まされたのです。
さても気の毒に、天涯孤独のメイドは売春婦に身を落としました。
お母上は乳飲み子を養うため、貴方が物心付く前から体を売っていたのです。
貴方は母の喘ぎ声を子守歌に大きくなった。
お母上の仕事中は階段に腰掛け、事が終わるまで辛抱強く待っていました。
さて、角部屋のドアが開いてストールを巻いた年増の娼婦が出てきました。
ひっ詰め髪をかき上げ、蓮っ葉に煙管をふかし、邪魔くさげに通り過ぎざま貴方の手元を覗き込みます。
「上手いじゃん」
その時貴方が描いていたのは玄関先に飾られた花瓶でした。吝嗇家で有名な女主人がそれはそれは大事にしていた、優美な花瓶。
びっくりしましたね?
心中お察しします、他人に褒められるのは生まれて初めてだったんでしょ?
実のお母上すら貴方を褒めることはめったになかった。
いてもいなくてもどうでもいい、邪魔くさい穀潰しに過ぎませんでしたもんね。
貴方の横に膝をそろえて屈みこみ、娼婦が愉快げに耳打ちしました。
「ね、アタシを描いて。お駄賃あげるからさ」
彼女こそ最初のお客様、一人目のモデル。貴方が描いた絵は彼女の期待を遥かに上回る出来栄えでした。
これを皮切りに注文が殺到しました。
一人目の娼婦が、貴方に描いてもらった似顔絵を仲間に見せびらかしたのです。
娼婦たちはすごいすごいと幼い画伯をほめそやし、常連客たちも面白がって便乗します。
暖炉からちょろまかした炭と古新聞じゃあんまりだからと、気前の良い客の一人が画帳クロッキーノートと鉛筆を贈りました。
貴方は全力で期待にこたえた。
毎日毎時間てのひらを真っ黒に汚し、望まれるがままモデルの肖像を描き続けた。
娼婦と客の間じゃ互いの似顔絵をこっそり交換するのが流行りました。
お金を稼ぐ手段を得た貴方は、娼館の中だけじゃ飽き足らず、人通りの多い往来で客を募り始めます。
一枚、二枚、三枚……三十枚!
裏返した帽子の底に次々コインが投げ込まれました。
周囲には人垣が築かれ、物見高い野次馬たちが続々集まってきます。皆しげしげと貴方の手元を覗き込み、ある者は髭をねじって唸り、ある者は感心します。
「写実的だな」
「この子は才能があるぞ」
「粗末で汚い身なりだが、いずれ大成するに違いない」
一日の仕事を終える頃には浮足立ち、娼館へとひた走りました。たんまり稼いで帰れば、お母上がきっと喜んでくれると信じて。
ところがその頃、貴方のたった一人の家族であるお母上は寝込んでいました。
毎日浴びるように飲んでいたジンの障りです。
貧困の原因は怠惰、故に自業自得だというのが金持ちどもの口癖でした。
実際は……ええ、よくご存じでしたね。
ホガースの諷刺絵を例に出すまでもありません、黄金のビールで豚の如く肥え太る金持ちに対し貧乏人は粗悪なジンで体を壊すのが常。貧民街の住民が安酒をかっくらうのは、それが現実逃避の手段であるからです。
貴方は似顔絵描きに努める傍ら、酒浸りのお母上の世話に励みました。
お母上を良い医者に診せるには金が足りない、全然足りない。
早くせねば手遅れになりかねません。ジンに蝕まれた人間の末路はいやというほど見てきました。
馴染みの娼婦は「梅毒を患うよりマシだよ、ありゃ体中に醜い瘡ができるんだ」と慰めを口にします。
肝臓を病んだお母上は日に日に痩せ細り、遂にはベッドから起き上がれなくなりました。
最愛の母がこの世を去る日が近付いている現実を断じて認めたくない貴方は、彼女に付き添い看取るよりも往来に居座り、似顔絵の依頼人を求めました。

それもまた現実逃避。

責めはしません。
当時の貴方はまだ幼かった。
病み衰えたお母上を目の当たりにして逃げた所で、何の罪があるというのでしょうか。

貴方は往来の隅に居座り、片手に鉛筆を持ち、真っ白な画帳を広げました。
レースとフリルで縁取った日傘を回す貴婦人、燕尾服をりゅうと着こなす恰幅良い紳士、プレゼントの包みを抱えた少女。
道行く人々はとても忙しく幸せそうで、画帳にあてた鉛筆の先端に、知らず圧がこもります。

今しも砂埃を蹴立て、二頭立ての馬車が止まりました。

「乞食に近付いてなりませんエドガー様、お召し物が汚れますぞ」
「彼は絵描きだよ」

運命の歯車が廻り出します。
スライドした馬車の扉から降り立ったのは小さな貴公子でした。

天使の輪を冠した繊細な茶髪、丁寧に漉したミルクさながら白く上品な肌、利発そうな鳶色の瞳。年の頃は同じ位でしょうか。
少年は軽快にステップを下りるや、接近を禁じる御者を窘め、気さくに語りかけてきました。
「君の評判は聞いてる、毎日ここで描いてるんだって?よかったら一枚お願いできるかな」
完璧なクイーンズイングリッシュ。まるで訛りがありません。

正直な所、気圧されました。
彼は貴方が知ってる誰とも違った。
頭のてっぺんから爪先までぴかぴかに磨き上げられ、内側から光り輝いてるように見えました。

翻り貴方は……御者が乞食と間違えたのも無理からぬもの。客が忘れて行ったぶかぶかの外套を羽織り、穴の開いた靴からは、霜焼けだらけの足の親指が覗いています。
少年と相対した貴方は、自分のみすぼらしさを恥じ入りました。
余計な事を考えちゃいけません、雑念を払い集中します。絵ができ上がるまで、少年は興味津々といった様子で待っていました。
スケッチはものの三十分ほどで完成しました。
貴方が無愛想に画帳から破り取った絵を一瞥、少年が息を飲みます。
「エドガー様?」
御者の不安げな呼びかけにもすぐには答えず、熱っぽく潤んだ瞳で貴方を見返し。
「すごい……」
いやはや、一目惚れって本当にあるんですねえ。対象が「人」とはかぎりませんが。
少年は初々しく頬を染め、「すごいすごい」を連発し握手を求めてきました。
貴方は半歩あとずさり、後ろに手を隠します。
「汚えから」
「気にしないで」
なおも拒む貴方の腕を捕らえ、半ば無理矢理握り、少年が名乗りました。
「僕はエドガー・スタンホープ。スタンホープ伯爵家の長男だ」
スタンホープ伯爵の名前に緊張しました。貧民窟の隅で細々生きる貴方でさえ聞き齧ったことがある、英国有数の大貴族です。
ああ、どうりで納得しました。

どうりでコイツは堂々としてるわけだ。
生まれてこのかたずっと、お天道様があたる道のど真ん中を歩いてきたんだろうな。

以来、エドガー少年は三日と空けず貴方のもとに通い詰めました。自分の絵を描かせたのは初回だけで、あとは毎回違うものを頼みます。野良猫、野良犬、街の風景。ロンドン橋を描いてほしいとリクエストされた事もあります。
貴方が描いてる間、エドガー少年は傍らで熱心に見守っていました。目は興奮と期待にきらきら輝いて、気恥ずかしさを覚えます。貴方たちが親しく話を交わすようになるまでさほど時間はかかりませんでした。
最初は途切れ途切れにポツポツと。
やがてエドガー少年は馬車のステップに掛け、あなたは地べたに座り、互いの身の上を打ち明けました。
彼の本名はエドガー・スタンホープ、伯爵位を授与された貴族の長男……早い話が跡継ぎです。
年は十歳、貴方と同じ。学校には行かず、優秀な家庭教師に付いて学んでいるそうです。
「君のこと、馬車の窓から見かけるたび気になってたんだ。もっと早く声をかけたらよかった。僕も絵が好きなんだ。お父様の影響だけど」
「知ってる。スタンホープ伯爵は絵画集めが趣味で、家族の肖像をほうぼうの画家に描かせまくってるって」
「制作中は動いちゃダメだから気疲れするよ」
「後を継ぐのか」
「ううん。画家になる」
「貴族の長男なのに?」
エドガー少年は肩を竦めました。
「簡単には許してもらえないだろうね。でもいいんだ、頑張って説得する。跡継ぎなら養子をとればすむ話だし、僕は好きなことを仕事にしたい」
エドガー少年の言い分は世間知らずな子供のわがままに聞こえました。骨の髄まで貧乏が染みこんだ貴方は、自ら裕福な暮らしを捨て、画家を志す人間の気持ちがわかりません。
将来を語るエドガー少年の澄んだ眼差しとは対照的に、貴方の胸にはどす黒い靄が広がっていきました。

俺がコイツだったら、一日中往来に座って他人の似顔絵を描かなくても、母さんの薬代が賄えるのに。

エドガー少年と一緒にいると卑屈な考えが脳裏を掠め、自分の境遇が惨めに思えてなりません。

いっそ足元に這い蹲り、靴をなめたらどうだろうか。プライドをかなぐり捨てて媚びたら、薬代を恵んでもらえるだろうか。

ダンテの『神曲』において、嫉妬は大罪に定められています。
他者を激しくねたみそねんだものは死後に煉獄の第二冠に行き、瞼を縫い留められて盲人となるそうです。絵描きが光を失うのは致命的ですね。
大前提としてエドガー少年は親切な少年でしたから、貴方が理由を話して頼めば、快くお金を渡したはず。
でも、そうはしなかった。
エドガー少年が捧げた友情は一方的なもので、貴方にとっては得意客の一人にすぎなかった。

ある日のこと、エドガー少年とお喋りを終え娼館に戻ると母が冷たくなっていました。
貴方は心底悔やみました。
くだらないお喋りを切り上げもっと早く帰っていたら、唯一の肉親の死に目に間に合ったのに。

エドガー少年は悪くありません。
単なる逆恨みだと頭じゃ理解しています。
それでも誰かのせいにしなければやりきれず、母の遺体に取り縋り号泣しました。

貴方の小さな胸は罪の意識と哀悼の念に張り裂けそうで、気付けば右手に鉛筆を握り、左手で画帳をめくり、天に召された母の顔を写していました。
あの頃の貴方にできた、精一杯の手向けだったんでしょうね。
お母上の死に顔はお世辞にも安らかとは言い難いものでした。眼窩は落ち窪んで頬はこけ、胸には痛々しく肋骨が浮いています。
貴方はお母上の冥福を祈り、技量が許す限り美しく肖像を偽りました。
小一時間後に描き上げたお母上の似顔絵はそれはもうすばらしい出来栄えで、生前より美しいとさえ言えました。
当初はその似顔絵を副葬品として添える心算でした。ところが、土壇場で気が変わります。上手く描けすぎたせいで、手放すのが惜しくなったのです。
貴方はお母上の唯一の形見である似顔絵を、綴じた画帳ともども鞄にしまいこみました。
お母上の死体が粗末な棺に寝かされ、貧民用の墓地に葬られたのち、薄情な女主人は貴方を叩き出しました。
庇ってくれる人はいませんでした。娼婦や常連も手のひらを返しで知らんぷり、皆女主人が怖いのです。
どこをどう歩いたのか、貴方は再び往来に来ました。空腹で今にも倒れそうです。
街角に蹲り膝を抱え、まどろんでいるうちに日が暮れ、倫敦ロンドンには夜の帳が落ちました。
その夜は珍しく晴れており、星がよく見えました。吐いたそばから息は白く溶け、真っ赤にかじかんだ手を温める役にも立ちません。これでは商売道具が握れないと落胆しました。
車輪が地面を噛んで止まり、滑らかに扉が開き、愁眉にすら気品あふれたエドガー少年が下りてきます。
「どうしたの?」
彼は心から貴方を案じていました。
だけど今は話したい気分じゃありません。貴方の無礼な態度に御者は怒り狂い、鞭を振り上げました。
「やめろ!」
さすがに止めましたが、エドガー少年も所在なさげにしています。貴方に無視され寂しそうです。
ああそうですね、多分あたりです。恐らくこの時まで、エドガー少年は誰かに無視された経験など皆無だったのでしょうね。
エドガー少年は常に道の真ん中を歩く特権を行使していました。彼が姿を見せれば誰もが脇に退いてお辞儀をする。
陰鬱な沈黙にじれたのでしょうか、エドガー少年は弱々しく微笑んで告げました。
「なんでも好きなものを描いて。君の好きなものが知りたい」
貴方の手に硬貨を握らせ、重ねて言います。
さて、貴方は……途方に暮れました。いきなりそんな事を言われます。仕方なく画帳をめくり、まっさらなページに鉛筆をあてがいます。

そこで動けなくなりました。
完全に止まってしまいました。
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