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モルグ
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リックの職場はモルグだ。
そういうと大抵の人間は驚く。
よくそんな気味悪い仕事が務まるなとか、気が滅入らないのかと冷やかす輩もいるが、彼は身の程をわきまえている。
年は50代前半、酒浸りの冴えない中年男。
短く刈ったアッシュブロンドの髪の下には、不健康なクマの浮いた翠の瞳が淀む。こけた頬には無精ひげが散り、負け犬の代名詞のような外見を呈す。ドラッグとはなんとか手を切ったが、今も後遺症で幻覚に悩まされる。
金持ちの私邸の芝刈りや雨樋の修繕、プールの工事で口を糊するリックを見かね、旧い友人が紹介してくれたのがこのモルグの警備員だった。文句をたれたら罰が当たる。
「知ってるかリック、イギリスじゃここを薔薇の別荘や虹の部屋と呼ぶそうだ。なんともロマンチックじゃないか」
くたびれた白衣を羽織った勤務医の言葉に、リックは肩を竦める。
「夢の代わりに詰まってんのは死臭だがな」
「はは、うまいこと言うな。死体保管庫はモルグはジェーン・ドゥとジョン・ドゥで大渋滞か」
「不感症の死体にお熱だから女房とご無沙汰なんだぜ」
「耳に痛ェな」
リックは苦笑気味にあたりを見回す。
死体を一時保管する性質上、室温は低く保たれている。天井の電灯が冴え冴えと光を放ち、タイルが照り返す。中央にはステンレスの手術台があり、さらに奥に引き出し式のロッカーが並ぶ。
あの内部に死体が収まっているのだ。なかには損傷が激しく原形を留めてない者もある。
当初は薄気味悪さを拭えなかったが、数ヶ月も経過する頃にはすっかり慣れてしまった。酒の力を借りて感覚を麻痺させただけかもしれない。
マイルスは盛大にため息を吐く。
「お前は?結婚考えた女の一人二人いねえのか」
「どうだかな。忘れちまったね」
「結婚なんてするもんじゃねえぞ、いいことなんてせいぜい迷子になった靴下の片割れをさがす手間が省けるだけだ」
「札入れにカミさんとガキの写真入れてるくせに」
「ただのポーズさ、見せろってせがまれた時にすぐ取り出せるように」
「自慢してェだけだろ、ごちそうさん」
マイルスが生意気盛りの娘と古女房を愛してるのは周知の事実だ。
五十路になるこの年まで家庭を持った経験がないリックは、マイルスが垂れ流す愚痴かのろけか曖昧な長話に気の抜けた相槌を打ち、もし自分ならと人生の分岐点に立ち返る。
もしあの時、所帯を持ってたら何かが違ったろうか。
リックが働くモルグは警察の管轄下にあり、事件性のある遺体が毎日のように運ばれてくる。
ギャングの抗争で命を落とした全身タトゥーだらけの若者、あばらが浮くほど痩せさらばえた娼婦、日課のジョギング中に心臓発作を起こした肥満漢……
いずれも取るに足らない、掃いて捨てられた命だ。
都会には夢破れた人間が大勢暮らす。
うらぶれたリックもご多分にもれず、若い頃は俳優を目指してオーディションに出ていたが、回ってくるのはエキストラ同然の端役ばかり。
主人公の二枚目がヒロインにプロポーズするダイナーの店員、病院の掃除夫、警官に撃たれる犯人役……出番は合計で1時間にも足らない、エンドロールに名前がクレジットされるだけ恩の字だ。
もともと映画が好きでて入った道だが現実は厳しい。
いっこうに芽が出ず、三十を過ぎる頃には諦め、ケチな日雇い仕事で食い繋ぐ傍ら酒やドラッグで身を持ち崩していった。
キャスター付きの椅子からマイルスが身を乗り出す。
「こないだ見たぞ、お前がちょこっと出てるヤツ。タイトルはあ~……なんだっけ、忘れちまった。低予算のB級ホラーだよな、お誂え向きにモルグが舞台の」
「何の役だったか覚えてるか」
「ダイナーの店員。店ン中抜けて、裏口からゴミ出しに行く」
「正解」
「個人的な意見だがよ、俺あ悪かねえと思ったぜ。ゴミ袋の底が擦れてヘンゼルとグレーテルのパンくずみてえに中身が落っこちてくなぁ傑作だった。ありゃパロディか?」
「ゴミの出し方褒められてもな」
リックが鼻面に皺を寄せる。マイルスは構わず笑い飛ばす。
「店内で飲み食いしてる客にゃ大顰蹙、ケチャップ顔面にぶっかけられて災難だったな。ありゃ本物か?」
「クソ野郎め」
同情かからかいか、判じかねる苦笑いで勤務医がリックの肩を叩く。
「あとあの娘!死体役の子!ありゃすげえな、瞬きもしねーでびっくりしちまった、CG合成か」
死体役の子。ストロベリーレッドの髪と灰色のタレ目が印象的な。
リックは皮肉っぽく笑って訂正を入れる。
「俺達の時代にンなもんあるか、ただの演技だよ」
「そうかそうか、あのクソ映画に見所があるとすりゃあの子の演技くらいのもんだ、見事に死体になりすましてた」
「死体役がウリだからな」
マイルスが妙な顔でリックを見る。
「知ってるふうな口ぶりだな。お前まさか」
「若い頃同棲してたんだよ、馴れ初めはアンタが貶したクソ映画」
俳優志望の男と女優志望の女。
負け犬同士、傷のなめあいじみた共依存。
お互いオーディションに落ちまくり、正体がなくなるまでヤケ酒をくらった。暇さえあれば脚本を読み合い、お互いの演技にダメだししまくって喧嘩に縺れこんだ。
俗に思い出は美化されるというが、ナタリーとの日々の回想は、リックの胸中に苦汁を広げるだけだ。
「死体役がウリだった」と、過去形で処理できない未練が見苦しい。さらに正確を期すなら「死体役だけが」と訂正すべきかもしれない。
「あんなキレイな死体ならぜひともお相手願いてェ……って、口が過ぎたなすまん」
「気にすんな、とっくに切れてる」
「随分会ってねェのか」
「今どこにいるかも知らないね。とっくに結婚してガキこさえてるんじゃねゃか」
もし努力がきちんと報われる世の中だったら、ナタリーはまだ自分の隣にいたかもしれない。
努力の報酬が成功とは限らない。特に役者の世界は。リックはそこから脱落し、ナタリーと疎遠になった。
「おっと、もうこんな時間か。一仕事前に夜食を買ってくる」
マイルスが椅子を軋ませ腰を浮かす。失言で気まずくなったのか。
「お前は?」
「チーズバーガーとアイスコーヒー」
「了解。新入りが起きねえように見張っててくれ」
マイルスが笑って顎をしゃくる。ステンレスの台には純白のシーツを掛けた膨らみが、そのまま放置されていた。
リックはあきれ顔だ。
「よく検死前に腹に詰め込めるな」
「消化が早いからな。今日中に報告書まとめねーと」
肘掛けを掴んで大儀そうに立ち上がったマイルスが肥えた腹をさすり、台上の死体を一瞥。
「ストリートに立ってた娼婦だよ。年は結構行ってるが……気の毒に、変態にあたっちまったか」
「殺しか?」
「詳しい所は調べてみなきゃわからんがドラッグの過剰摂取が疑わしい」
マイルスが反対の腕に注射をさすジェスチャーをする。
「おまけに身元も不明ときた」
「所持品は?」
「持ってねェ。犯人のしわざでなけりゃ客かチンピラに盗られたのかもな」
「路地裏で商売してたのか」
「モーテルに泊まるカネもねェオンナにゃよくあることさ」
マイルスが嘆く。
娼婦と女優は似ている。両方とも若さと美貌、客を喜ばす演技力が求められる。
片方はスポットライトが照らすステージで、片方はベッドの中で。
演じる場こそ違えど、与えられた役柄をこなす点では一緒だ。
リックも一人寝が寂しい夜には女を買うが、年増の娼婦ほど干上がり、場末に追いやられていく世知辛さは痛感している。
「あの地区は物騒だから、娼婦がひとり倒れてる程度でわざわざ通報してくる良き市民は珍しい。結果ラリってるジャンキーと決め付けられて、半日放置されたってんだから酷え話だ。アル中ヤク中に関わりたくねェ気持ちもわかるが……」
「自殺か他殺か、謎のジェーン・ドゥだな。シーツを掛けてんのは?」
「ああ……なんだか痛ましくてな」
「そんなに酷えのか。その、外傷が」
「見りゃあわかるがおすすめはしないね。というわけで、ジェーンのお守りは頼んだぜ」
「とっとと行っちまえ」
手の甲でマイルスを追い立て、入れ代わりに椅子を占領する。マイルスがドアを開け、リノリウムの廊下を歩く音が響く。
ドアが閉まった直後、リックは待ちかねた様子で尻ポケットのスキットルを取り出し、栓を抜いてウィスキーを嚥下する。
「ふー……」
仕事中は我慢しようと思ったが、できなかった。このぶんじゃ警備員をクビになるのも時間の問題か。
顎に滴る酒を拭った時、カタンと音がする。反射的に台上の膨らみを見る。
死体を覆ったシーツが少しずれ、生白い右腕が覗いていた。
「さっきまではちゃんとかかってたのに」
見間違いか。死体が動くはずない。リックはこめかみを揉んで疲れをとり、シーツを直しにいく。
『見りゃあわかるがおすすめはしないね』
鼓膜の裏に出かけ際の意味深な言葉が響く。アレは一体どういう意味だ?マイルスのヤツ、もったいぶりやがって。台の傍らにたたずむや、シーツを取っ払いたい欲求が働く。何故かそうしなければならないような衝動がわいてくる。
頭のてっぺんから爪先まで死体を覆い隠す布を剥ぎたい誘惑を辛うじて拒み、ずれたシーツを摘まむと同時、死体のたるんだ腕が目に入る。
青黒く固い皮膚。
肘裏の無数の注射痕。
瞬時に後悔、そそくさとシーツを直す。
「……やなもん見ちまった」
小さく舌打ち、片隅のデスクに取って返す。
椅子にふんぞり返って続けざまにウィスキーを呷れば、ほんの少し気分がマシになる。
モルグに長く勤めていると知りたい事まで知る羽目になる。たとえばジャンキーの特徴。皮膚が薄く血管が密集している肘裏にくり返し注射する為、必然そこは固くなる。
どうにも落ち着かず貧乏揺すりを開始、残り少ないスキットルをもてあそぶ。
リックは現在、死体とふたりきりだ。
否、保管庫の中にはさらに多くの死体が収納されている為厳密には二人きりとも言い難い。
それでもなお中央に陣取る台の上、既に洗浄が済んだ死体を意識してしまうのは、天井の電灯に白々と映えるシーツの異様な存在感のせいか。
言い知れない不吉さがジェーン・ドゥに纏わり付く。
びびってる自分がおかしくて、リックはウィスキーをがぶ飲みする。マイルスはまだか?やけに帰りが遅い。馬鹿なこと考えるな、いっそひと眠りしちまうか……
全身に回り始めたアルコールに酩酊、空のスキットルを持ったままデスクに突っ伏す。
リックの意識は溶暗し、ほどなくして眠りに落ちた。
『あなたゴミだしの子ね』
『ひでえ呼び方』
スタッフが次の撮影の準備にとりかかる中、ダイナーの店内に突っ立ったリックに話しかけてきたのは、まだ若いナタリーだ。
『お前は死体の』
『そっちこそあんまりじゃない?』
『本物を借りてきたのかと』
『ばかね、衛生局が許さないわよ』
ナタリーが腰に手をあて憤慨する。額には生々しい弾痕が穿たれ、乾いた血が額にこびり付いていた。
純白のバスローブを羽織っているが、その下は全裸で目のやり場に困る。
リックは照れて話題を変える。
『さっきの演技すげえな。瞬きは?ずっと我慢してたのか』
『まあね』
『弾痕と血は……メイクだよなもちろん』
『さあね』
バスローブの襟をかきあわせて笑い、色っぽい流し目を送ってよこす。
『なんていうか……すっげえリアルだった、本物みてえ。どのホラー映画や刑事ドラマで見たのよりも』
『死体役だけは自信があるの。何本もやってるから』
『死体専門の女優?聞いたことない』
ちょっとした嫌味を言えば、ナタリーの目に一瞬鬱屈が過ぎる。
『それしか役が来ないだけ』
ナタリーが歪んだ笑みで自嘲し、リックに歩み寄ってくる。
『あんたのゴミ出しもイケてたわよ』
『ゴミ出しにイケてるもイケてないもねえよ』
『ホントだって、自然な演技でよかった。特にあそこ、袋の底に穴が開いてゴミが落ちてくとこなんて傑作!最高に要領悪くて鈍くさい感じが上手に出てて笑っちゃった。そうだ、撮影終わったら聞こうと思ってたの。顔にかけられてた赤い液体は本物?』
『気になんなら嗅いでみな』
ナタリーがすぐ真正面にきて、流れ落ちる赤毛を耳にかけ、リックの首筋を嗅ぐ。
『本物のケチャップね』
『スタッフにクリーニング代請求したいよ、経費で落ちるんだっけ』
『そんな予算ないんじゃない?』
『言えてる』
『私ナタリー。あなたは』
『エリック……リックでいいぜ』
リックはおどけて受け答えし、ナタリーは綺麗な歯並びを見せて笑いだす。
肩から流れるストロベリーレッドの髪、きらきら光る灰色の瞳。
ずばぬけた美人というわけではないが、夢と希望にあふれた若き日のナタリーは美しかった。
その後も出る映画が何本かかぶり、何度も顔を合わせるうちにデートをし、体を重ねるようになった。
俳優志望と女優志望のカップルが同棲を始めるのに時間はかからない。
『リック、今日のオーディションは?』
『残念ながら。そっちは?』
『またダメ』
『お互いツイてねえな』
『脚本の読み込みが甘いのかも、滑舌がネックかしら、今日だって早口すぎるって言われて』
『気持ちはわかるけど根詰めすぎんな、徹夜明けのクマなんか作ってちゃ受かるはずない』
『……そうね』
『そうだ、お前が出てるドラマ録ってたから一緒に見ようぜ。コーラとポップコーン持ってテレビの前に集合だ』
『いいわ』
『どうしてだよ、監督に褒められたって喜んでたじゃないか。視聴率もいいんだろ?』
『たった3分、ステンレスの台で横たわってるだけの死体の役よ。寝てるだけなら誰でもできる』
『本物っぽく見せるのは難しいって前に言ってたろ。こないだ話してくれたのなんて最高だった、撮影中にションベン行きたくなって、カメラが回ってる時に台の上で』
『デリカシーないわね、最低』
『すまねえ、俺はただ……』
『死体の役は一回こっきりの使い捨てなの。シリーズ物のドラマで死んだ子がまた出てきちゃおかしいでしょ、そっくりさんでもなきゃ辻褄合わないわ。完全に撮りきりで次は二度とない』
『卑屈になりすぎだろ』
『あんたに何がわかんのよ、ダイナーのゴミ出しだってちゃんとセリフある役もらえてんじゃない』
楽しい日々は長く続かない。
俳優志望と女優志望のカップルは、俳優くずれと女優もどきのカップルになりさがった。
『刑事ドラマの死体役はもううんざり、ちゃんとした役がやりたい。エンドロールで前の方にクレジットされる、きちんと見てる人の印象に残る役よ』
『落ち着けよナタリー。俺は好きだぜ、お前の死体。本物以上に本物な気がするし、ヤりてえ位セクシーだ』
『死体役が十八番なんて言われて嬉しいもんですか、ネクロフィリアなのあんた』
『役もらえるだけマシじゃねえか、こっちは今月1本も仕事がねェときた』
『女優の旬は短いの、私もうすぐ28よ、このままんじゃ……』
『……俺、やめるわ』
『やめるって』
『役者は諦めて真面目に働く。それでお前と……』
『勝手にすれば?私を巻き込まないで』
別れたあともナタリーは頑張っていると風の噂で聞いた。
リックは終わった恋を忘れたい一心で酒に逃げ、やがてドラッグに手を出した。
夢を諦めず見苦しくあがくナタリーの噂を聞かずにすむように、撮影先でばったり出くわさずにすむように、役者の世界からはきっぱり足を洗った。
画面の端に映るだけでも苦痛で、映画やドラマは全く見なくなった。
ナタリーの死体役は絶品だった。死体の演技にかけては右に出る者はいない。
が、それだけだ。
それだけだった。
死に物狂いで瞬きと尿意をこらえ、頭の先から爪先まで身じろぎせず、時にはヌードや作り物の臓物をさらしたところで、一言のセリフすらもらえない死体の役では視聴者の印象に残らない。
『死体の役ならだれにも負けない、だれより冷たく演じてみせる。でもね、ホントはちゃんと生きてる役がやりたい。喋って動いて笑って泣いて、みんなを夢中にさせる映画の登場人物みたいに、生き生き生きてる演技を認めてほしい』
鈍重に瞼を上げる。
アルコールに濁った虚ろな瞳が室内を走査、台上で止まる。またシーツがずれている。死体が身じろぎしたように……
何を伝えたがってるんだ?
ズキズキ痛む頭を支えて上体を起こす。スキットルはデスクに倒れていた。マイルスはまだ帰らない、どこで油を売ってんだ。
シーツを直さねェと。
だるそうに腰を上げ、ステンレス台に近付いていく。
シーツを掴んで暴かれた素顔を覆いかけた時、頭の奥で既視感が疼く。
「ナタリー」
台の上に全裸で仰向けているのは、変わり果てたナタリーだった。
マイルスは知ってたのか。
だから「おすすめはしない」と警告したのか。
疑ってからすぐにそれはないと断定する。
数年間同棲していたリックだからこそ見抜けたが、映画の若く美しい死体と同定するのが困難なほど、ナタリーの容色は衰え果てていた。
長い赤毛は半白髪と化し、肋が浮く程に痩せて、顔や体には殴打の痕とおぼしき内出血の痕が多数散らばっている。ドラッグのせいで歯も溶けていた。
綺麗な歯並びが好きだった。
白い歯が零れる笑顔が好きだった。
死体が起き上がるなんてありえない、それこそ映画の世界でしか起き得ない現象だ。
若くも美しくもなく、ただ死んでいるだけの死体。
呆然と立ち尽くすのに飽きたリックは、爪の汚れた手をおずおずと伸ばし、ナタリーの頬に触れてみる。
死因は薬物の過剰摂取。
自殺か他殺か不明。
最後に演じた役柄は身元不明死体。
もしこれが一本の映画で、ここがラストシーンなら、ナタリーの名前がジェーン・ドゥと紐付いて先頭に流れるのだろうか。
ならばリックは最後の観客だ。
「なんで……」
問わずとも明白だ。
ナタリーは遂に芽がでず、年を食って女優をやめ、通りで客を引く娼婦に身を落としたのだ。
薬物と酒に溺れ、客には乱暴され、リック以上に荒みきった日々。
異常な状況にもかかわらず、不思議と恐怖はわかなかった。
「……相変わらずお前の死体は絶品だ」
耳元でそっと囁き、落ち窪んだ頬をなでる。
マイルスが死体を覆った理由がわかる気がした。
髪は傷み肌は荒れ歯が溶けて。身元不明の娼婦として処理された死体はあまりにみすぼらしく、あまりに哀れで胸が痛む。
モルグに来た経緯も、引き取り手がない身元不明死体である事実も同情を誘ったに違いない。
ドラッグの後遺症が見せる幻覚でもかまわない。
天井の電灯をスポットライトに見立て、栄養失調でひび割れた唇にキスをする。
次の瞬間、ナタリーの瞼が微痙攣しゆっくりと上がってく。
濁った灰色の瞳がリックを見上げ、微笑む。
「警備員役?ゴミ出し係より出世したわね」
「そうだよ」
「……役者崩れの旦那を支える女房役も悪くなかったのにね」
ナタリーが寂しげな笑顔を浮かべ、恋人の首の後ろに腕を回す。
リックも二十代の頃に戻って照れ臭げにはにかみ、ナタリーを受け入れる。
「俺にとっちゃ君以上に生き生きと生きてる女優はいなかった。たとえ外側は冷たくても」
「ばか」
「本当さ。君は死んでる時が一番美しい」
ナタリーの腕を持ちやさしく裏返す。
さらけだされた肘裏をひとなでするや、青黒く変色した皮膚と注射痕が奇跡さながら癒えていく。
目を丸くするナタリーを覗き込み、リックは言った。
「落とせば消えるただのメイクだろ?弾痕と同じ」
コール・ミー、コールド・ミー。
リックとナタリーは頬を合わせ、互いに抱き合った。
数分後、夜食を抱えたマイルスが帰還する。
「待たせてすまん、最寄りのダイナーが臨時休業で」
軽口を続けかけた腕からチーズバーガーとアイスコーヒーが落下、床一面にぶち撒かれる。
リックはナタリーの胸に突っ伏し、幸せそうな笑顔で死んでいた。まるで彼女を温めるように。
台の横に無造作に投げ出されたナタリーの腕には、無数の注射痕が穿たれていた。
死因は心臓発作だった。長年に及ぶ酒とドラッグの乱用で心臓が弱っていたらしい。
リックの手を胸で組ませ、ナタリーの隣のロッカーに入れたマイルスは、空っぽのスキットルをデスクに立てて呟く。
「墓場からゆりかごまで、あらためモルグまで、か」
そういうと大抵の人間は驚く。
よくそんな気味悪い仕事が務まるなとか、気が滅入らないのかと冷やかす輩もいるが、彼は身の程をわきまえている。
年は50代前半、酒浸りの冴えない中年男。
短く刈ったアッシュブロンドの髪の下には、不健康なクマの浮いた翠の瞳が淀む。こけた頬には無精ひげが散り、負け犬の代名詞のような外見を呈す。ドラッグとはなんとか手を切ったが、今も後遺症で幻覚に悩まされる。
金持ちの私邸の芝刈りや雨樋の修繕、プールの工事で口を糊するリックを見かね、旧い友人が紹介してくれたのがこのモルグの警備員だった。文句をたれたら罰が当たる。
「知ってるかリック、イギリスじゃここを薔薇の別荘や虹の部屋と呼ぶそうだ。なんともロマンチックじゃないか」
くたびれた白衣を羽織った勤務医の言葉に、リックは肩を竦める。
「夢の代わりに詰まってんのは死臭だがな」
「はは、うまいこと言うな。死体保管庫はモルグはジェーン・ドゥとジョン・ドゥで大渋滞か」
「不感症の死体にお熱だから女房とご無沙汰なんだぜ」
「耳に痛ェな」
リックは苦笑気味にあたりを見回す。
死体を一時保管する性質上、室温は低く保たれている。天井の電灯が冴え冴えと光を放ち、タイルが照り返す。中央にはステンレスの手術台があり、さらに奥に引き出し式のロッカーが並ぶ。
あの内部に死体が収まっているのだ。なかには損傷が激しく原形を留めてない者もある。
当初は薄気味悪さを拭えなかったが、数ヶ月も経過する頃にはすっかり慣れてしまった。酒の力を借りて感覚を麻痺させただけかもしれない。
マイルスは盛大にため息を吐く。
「お前は?結婚考えた女の一人二人いねえのか」
「どうだかな。忘れちまったね」
「結婚なんてするもんじゃねえぞ、いいことなんてせいぜい迷子になった靴下の片割れをさがす手間が省けるだけだ」
「札入れにカミさんとガキの写真入れてるくせに」
「ただのポーズさ、見せろってせがまれた時にすぐ取り出せるように」
「自慢してェだけだろ、ごちそうさん」
マイルスが生意気盛りの娘と古女房を愛してるのは周知の事実だ。
五十路になるこの年まで家庭を持った経験がないリックは、マイルスが垂れ流す愚痴かのろけか曖昧な長話に気の抜けた相槌を打ち、もし自分ならと人生の分岐点に立ち返る。
もしあの時、所帯を持ってたら何かが違ったろうか。
リックが働くモルグは警察の管轄下にあり、事件性のある遺体が毎日のように運ばれてくる。
ギャングの抗争で命を落とした全身タトゥーだらけの若者、あばらが浮くほど痩せさらばえた娼婦、日課のジョギング中に心臓発作を起こした肥満漢……
いずれも取るに足らない、掃いて捨てられた命だ。
都会には夢破れた人間が大勢暮らす。
うらぶれたリックもご多分にもれず、若い頃は俳優を目指してオーディションに出ていたが、回ってくるのはエキストラ同然の端役ばかり。
主人公の二枚目がヒロインにプロポーズするダイナーの店員、病院の掃除夫、警官に撃たれる犯人役……出番は合計で1時間にも足らない、エンドロールに名前がクレジットされるだけ恩の字だ。
もともと映画が好きでて入った道だが現実は厳しい。
いっこうに芽が出ず、三十を過ぎる頃には諦め、ケチな日雇い仕事で食い繋ぐ傍ら酒やドラッグで身を持ち崩していった。
キャスター付きの椅子からマイルスが身を乗り出す。
「こないだ見たぞ、お前がちょこっと出てるヤツ。タイトルはあ~……なんだっけ、忘れちまった。低予算のB級ホラーだよな、お誂え向きにモルグが舞台の」
「何の役だったか覚えてるか」
「ダイナーの店員。店ン中抜けて、裏口からゴミ出しに行く」
「正解」
「個人的な意見だがよ、俺あ悪かねえと思ったぜ。ゴミ袋の底が擦れてヘンゼルとグレーテルのパンくずみてえに中身が落っこちてくなぁ傑作だった。ありゃパロディか?」
「ゴミの出し方褒められてもな」
リックが鼻面に皺を寄せる。マイルスは構わず笑い飛ばす。
「店内で飲み食いしてる客にゃ大顰蹙、ケチャップ顔面にぶっかけられて災難だったな。ありゃ本物か?」
「クソ野郎め」
同情かからかいか、判じかねる苦笑いで勤務医がリックの肩を叩く。
「あとあの娘!死体役の子!ありゃすげえな、瞬きもしねーでびっくりしちまった、CG合成か」
死体役の子。ストロベリーレッドの髪と灰色のタレ目が印象的な。
リックは皮肉っぽく笑って訂正を入れる。
「俺達の時代にンなもんあるか、ただの演技だよ」
「そうかそうか、あのクソ映画に見所があるとすりゃあの子の演技くらいのもんだ、見事に死体になりすましてた」
「死体役がウリだからな」
マイルスが妙な顔でリックを見る。
「知ってるふうな口ぶりだな。お前まさか」
「若い頃同棲してたんだよ、馴れ初めはアンタが貶したクソ映画」
俳優志望の男と女優志望の女。
負け犬同士、傷のなめあいじみた共依存。
お互いオーディションに落ちまくり、正体がなくなるまでヤケ酒をくらった。暇さえあれば脚本を読み合い、お互いの演技にダメだししまくって喧嘩に縺れこんだ。
俗に思い出は美化されるというが、ナタリーとの日々の回想は、リックの胸中に苦汁を広げるだけだ。
「死体役がウリだった」と、過去形で処理できない未練が見苦しい。さらに正確を期すなら「死体役だけが」と訂正すべきかもしれない。
「あんなキレイな死体ならぜひともお相手願いてェ……って、口が過ぎたなすまん」
「気にすんな、とっくに切れてる」
「随分会ってねェのか」
「今どこにいるかも知らないね。とっくに結婚してガキこさえてるんじゃねゃか」
もし努力がきちんと報われる世の中だったら、ナタリーはまだ自分の隣にいたかもしれない。
努力の報酬が成功とは限らない。特に役者の世界は。リックはそこから脱落し、ナタリーと疎遠になった。
「おっと、もうこんな時間か。一仕事前に夜食を買ってくる」
マイルスが椅子を軋ませ腰を浮かす。失言で気まずくなったのか。
「お前は?」
「チーズバーガーとアイスコーヒー」
「了解。新入りが起きねえように見張っててくれ」
マイルスが笑って顎をしゃくる。ステンレスの台には純白のシーツを掛けた膨らみが、そのまま放置されていた。
リックはあきれ顔だ。
「よく検死前に腹に詰め込めるな」
「消化が早いからな。今日中に報告書まとめねーと」
肘掛けを掴んで大儀そうに立ち上がったマイルスが肥えた腹をさすり、台上の死体を一瞥。
「ストリートに立ってた娼婦だよ。年は結構行ってるが……気の毒に、変態にあたっちまったか」
「殺しか?」
「詳しい所は調べてみなきゃわからんがドラッグの過剰摂取が疑わしい」
マイルスが反対の腕に注射をさすジェスチャーをする。
「おまけに身元も不明ときた」
「所持品は?」
「持ってねェ。犯人のしわざでなけりゃ客かチンピラに盗られたのかもな」
「路地裏で商売してたのか」
「モーテルに泊まるカネもねェオンナにゃよくあることさ」
マイルスが嘆く。
娼婦と女優は似ている。両方とも若さと美貌、客を喜ばす演技力が求められる。
片方はスポットライトが照らすステージで、片方はベッドの中で。
演じる場こそ違えど、与えられた役柄をこなす点では一緒だ。
リックも一人寝が寂しい夜には女を買うが、年増の娼婦ほど干上がり、場末に追いやられていく世知辛さは痛感している。
「あの地区は物騒だから、娼婦がひとり倒れてる程度でわざわざ通報してくる良き市民は珍しい。結果ラリってるジャンキーと決め付けられて、半日放置されたってんだから酷え話だ。アル中ヤク中に関わりたくねェ気持ちもわかるが……」
「自殺か他殺か、謎のジェーン・ドゥだな。シーツを掛けてんのは?」
「ああ……なんだか痛ましくてな」
「そんなに酷えのか。その、外傷が」
「見りゃあわかるがおすすめはしないね。というわけで、ジェーンのお守りは頼んだぜ」
「とっとと行っちまえ」
手の甲でマイルスを追い立て、入れ代わりに椅子を占領する。マイルスがドアを開け、リノリウムの廊下を歩く音が響く。
ドアが閉まった直後、リックは待ちかねた様子で尻ポケットのスキットルを取り出し、栓を抜いてウィスキーを嚥下する。
「ふー……」
仕事中は我慢しようと思ったが、できなかった。このぶんじゃ警備員をクビになるのも時間の問題か。
顎に滴る酒を拭った時、カタンと音がする。反射的に台上の膨らみを見る。
死体を覆ったシーツが少しずれ、生白い右腕が覗いていた。
「さっきまではちゃんとかかってたのに」
見間違いか。死体が動くはずない。リックはこめかみを揉んで疲れをとり、シーツを直しにいく。
『見りゃあわかるがおすすめはしないね』
鼓膜の裏に出かけ際の意味深な言葉が響く。アレは一体どういう意味だ?マイルスのヤツ、もったいぶりやがって。台の傍らにたたずむや、シーツを取っ払いたい欲求が働く。何故かそうしなければならないような衝動がわいてくる。
頭のてっぺんから爪先まで死体を覆い隠す布を剥ぎたい誘惑を辛うじて拒み、ずれたシーツを摘まむと同時、死体のたるんだ腕が目に入る。
青黒く固い皮膚。
肘裏の無数の注射痕。
瞬時に後悔、そそくさとシーツを直す。
「……やなもん見ちまった」
小さく舌打ち、片隅のデスクに取って返す。
椅子にふんぞり返って続けざまにウィスキーを呷れば、ほんの少し気分がマシになる。
モルグに長く勤めていると知りたい事まで知る羽目になる。たとえばジャンキーの特徴。皮膚が薄く血管が密集している肘裏にくり返し注射する為、必然そこは固くなる。
どうにも落ち着かず貧乏揺すりを開始、残り少ないスキットルをもてあそぶ。
リックは現在、死体とふたりきりだ。
否、保管庫の中にはさらに多くの死体が収納されている為厳密には二人きりとも言い難い。
それでもなお中央に陣取る台の上、既に洗浄が済んだ死体を意識してしまうのは、天井の電灯に白々と映えるシーツの異様な存在感のせいか。
言い知れない不吉さがジェーン・ドゥに纏わり付く。
びびってる自分がおかしくて、リックはウィスキーをがぶ飲みする。マイルスはまだか?やけに帰りが遅い。馬鹿なこと考えるな、いっそひと眠りしちまうか……
全身に回り始めたアルコールに酩酊、空のスキットルを持ったままデスクに突っ伏す。
リックの意識は溶暗し、ほどなくして眠りに落ちた。
『あなたゴミだしの子ね』
『ひでえ呼び方』
スタッフが次の撮影の準備にとりかかる中、ダイナーの店内に突っ立ったリックに話しかけてきたのは、まだ若いナタリーだ。
『お前は死体の』
『そっちこそあんまりじゃない?』
『本物を借りてきたのかと』
『ばかね、衛生局が許さないわよ』
ナタリーが腰に手をあて憤慨する。額には生々しい弾痕が穿たれ、乾いた血が額にこびり付いていた。
純白のバスローブを羽織っているが、その下は全裸で目のやり場に困る。
リックは照れて話題を変える。
『さっきの演技すげえな。瞬きは?ずっと我慢してたのか』
『まあね』
『弾痕と血は……メイクだよなもちろん』
『さあね』
バスローブの襟をかきあわせて笑い、色っぽい流し目を送ってよこす。
『なんていうか……すっげえリアルだった、本物みてえ。どのホラー映画や刑事ドラマで見たのよりも』
『死体役だけは自信があるの。何本もやってるから』
『死体専門の女優?聞いたことない』
ちょっとした嫌味を言えば、ナタリーの目に一瞬鬱屈が過ぎる。
『それしか役が来ないだけ』
ナタリーが歪んだ笑みで自嘲し、リックに歩み寄ってくる。
『あんたのゴミ出しもイケてたわよ』
『ゴミ出しにイケてるもイケてないもねえよ』
『ホントだって、自然な演技でよかった。特にあそこ、袋の底に穴が開いてゴミが落ちてくとこなんて傑作!最高に要領悪くて鈍くさい感じが上手に出てて笑っちゃった。そうだ、撮影終わったら聞こうと思ってたの。顔にかけられてた赤い液体は本物?』
『気になんなら嗅いでみな』
ナタリーがすぐ真正面にきて、流れ落ちる赤毛を耳にかけ、リックの首筋を嗅ぐ。
『本物のケチャップね』
『スタッフにクリーニング代請求したいよ、経費で落ちるんだっけ』
『そんな予算ないんじゃない?』
『言えてる』
『私ナタリー。あなたは』
『エリック……リックでいいぜ』
リックはおどけて受け答えし、ナタリーは綺麗な歯並びを見せて笑いだす。
肩から流れるストロベリーレッドの髪、きらきら光る灰色の瞳。
ずばぬけた美人というわけではないが、夢と希望にあふれた若き日のナタリーは美しかった。
その後も出る映画が何本かかぶり、何度も顔を合わせるうちにデートをし、体を重ねるようになった。
俳優志望と女優志望のカップルが同棲を始めるのに時間はかからない。
『リック、今日のオーディションは?』
『残念ながら。そっちは?』
『またダメ』
『お互いツイてねえな』
『脚本の読み込みが甘いのかも、滑舌がネックかしら、今日だって早口すぎるって言われて』
『気持ちはわかるけど根詰めすぎんな、徹夜明けのクマなんか作ってちゃ受かるはずない』
『……そうね』
『そうだ、お前が出てるドラマ録ってたから一緒に見ようぜ。コーラとポップコーン持ってテレビの前に集合だ』
『いいわ』
『どうしてだよ、監督に褒められたって喜んでたじゃないか。視聴率もいいんだろ?』
『たった3分、ステンレスの台で横たわってるだけの死体の役よ。寝てるだけなら誰でもできる』
『本物っぽく見せるのは難しいって前に言ってたろ。こないだ話してくれたのなんて最高だった、撮影中にションベン行きたくなって、カメラが回ってる時に台の上で』
『デリカシーないわね、最低』
『すまねえ、俺はただ……』
『死体の役は一回こっきりの使い捨てなの。シリーズ物のドラマで死んだ子がまた出てきちゃおかしいでしょ、そっくりさんでもなきゃ辻褄合わないわ。完全に撮りきりで次は二度とない』
『卑屈になりすぎだろ』
『あんたに何がわかんのよ、ダイナーのゴミ出しだってちゃんとセリフある役もらえてんじゃない』
楽しい日々は長く続かない。
俳優志望と女優志望のカップルは、俳優くずれと女優もどきのカップルになりさがった。
『刑事ドラマの死体役はもううんざり、ちゃんとした役がやりたい。エンドロールで前の方にクレジットされる、きちんと見てる人の印象に残る役よ』
『落ち着けよナタリー。俺は好きだぜ、お前の死体。本物以上に本物な気がするし、ヤりてえ位セクシーだ』
『死体役が十八番なんて言われて嬉しいもんですか、ネクロフィリアなのあんた』
『役もらえるだけマシじゃねえか、こっちは今月1本も仕事がねェときた』
『女優の旬は短いの、私もうすぐ28よ、このままんじゃ……』
『……俺、やめるわ』
『やめるって』
『役者は諦めて真面目に働く。それでお前と……』
『勝手にすれば?私を巻き込まないで』
別れたあともナタリーは頑張っていると風の噂で聞いた。
リックは終わった恋を忘れたい一心で酒に逃げ、やがてドラッグに手を出した。
夢を諦めず見苦しくあがくナタリーの噂を聞かずにすむように、撮影先でばったり出くわさずにすむように、役者の世界からはきっぱり足を洗った。
画面の端に映るだけでも苦痛で、映画やドラマは全く見なくなった。
ナタリーの死体役は絶品だった。死体の演技にかけては右に出る者はいない。
が、それだけだ。
それだけだった。
死に物狂いで瞬きと尿意をこらえ、頭の先から爪先まで身じろぎせず、時にはヌードや作り物の臓物をさらしたところで、一言のセリフすらもらえない死体の役では視聴者の印象に残らない。
『死体の役ならだれにも負けない、だれより冷たく演じてみせる。でもね、ホントはちゃんと生きてる役がやりたい。喋って動いて笑って泣いて、みんなを夢中にさせる映画の登場人物みたいに、生き生き生きてる演技を認めてほしい』
鈍重に瞼を上げる。
アルコールに濁った虚ろな瞳が室内を走査、台上で止まる。またシーツがずれている。死体が身じろぎしたように……
何を伝えたがってるんだ?
ズキズキ痛む頭を支えて上体を起こす。スキットルはデスクに倒れていた。マイルスはまだ帰らない、どこで油を売ってんだ。
シーツを直さねェと。
だるそうに腰を上げ、ステンレス台に近付いていく。
シーツを掴んで暴かれた素顔を覆いかけた時、頭の奥で既視感が疼く。
「ナタリー」
台の上に全裸で仰向けているのは、変わり果てたナタリーだった。
マイルスは知ってたのか。
だから「おすすめはしない」と警告したのか。
疑ってからすぐにそれはないと断定する。
数年間同棲していたリックだからこそ見抜けたが、映画の若く美しい死体と同定するのが困難なほど、ナタリーの容色は衰え果てていた。
長い赤毛は半白髪と化し、肋が浮く程に痩せて、顔や体には殴打の痕とおぼしき内出血の痕が多数散らばっている。ドラッグのせいで歯も溶けていた。
綺麗な歯並びが好きだった。
白い歯が零れる笑顔が好きだった。
死体が起き上がるなんてありえない、それこそ映画の世界でしか起き得ない現象だ。
若くも美しくもなく、ただ死んでいるだけの死体。
呆然と立ち尽くすのに飽きたリックは、爪の汚れた手をおずおずと伸ばし、ナタリーの頬に触れてみる。
死因は薬物の過剰摂取。
自殺か他殺か不明。
最後に演じた役柄は身元不明死体。
もしこれが一本の映画で、ここがラストシーンなら、ナタリーの名前がジェーン・ドゥと紐付いて先頭に流れるのだろうか。
ならばリックは最後の観客だ。
「なんで……」
問わずとも明白だ。
ナタリーは遂に芽がでず、年を食って女優をやめ、通りで客を引く娼婦に身を落としたのだ。
薬物と酒に溺れ、客には乱暴され、リック以上に荒みきった日々。
異常な状況にもかかわらず、不思議と恐怖はわかなかった。
「……相変わらずお前の死体は絶品だ」
耳元でそっと囁き、落ち窪んだ頬をなでる。
マイルスが死体を覆った理由がわかる気がした。
髪は傷み肌は荒れ歯が溶けて。身元不明の娼婦として処理された死体はあまりにみすぼらしく、あまりに哀れで胸が痛む。
モルグに来た経緯も、引き取り手がない身元不明死体である事実も同情を誘ったに違いない。
ドラッグの後遺症が見せる幻覚でもかまわない。
天井の電灯をスポットライトに見立て、栄養失調でひび割れた唇にキスをする。
次の瞬間、ナタリーの瞼が微痙攣しゆっくりと上がってく。
濁った灰色の瞳がリックを見上げ、微笑む。
「警備員役?ゴミ出し係より出世したわね」
「そうだよ」
「……役者崩れの旦那を支える女房役も悪くなかったのにね」
ナタリーが寂しげな笑顔を浮かべ、恋人の首の後ろに腕を回す。
リックも二十代の頃に戻って照れ臭げにはにかみ、ナタリーを受け入れる。
「俺にとっちゃ君以上に生き生きと生きてる女優はいなかった。たとえ外側は冷たくても」
「ばか」
「本当さ。君は死んでる時が一番美しい」
ナタリーの腕を持ちやさしく裏返す。
さらけだされた肘裏をひとなでするや、青黒く変色した皮膚と注射痕が奇跡さながら癒えていく。
目を丸くするナタリーを覗き込み、リックは言った。
「落とせば消えるただのメイクだろ?弾痕と同じ」
コール・ミー、コールド・ミー。
リックとナタリーは頬を合わせ、互いに抱き合った。
数分後、夜食を抱えたマイルスが帰還する。
「待たせてすまん、最寄りのダイナーが臨時休業で」
軽口を続けかけた腕からチーズバーガーとアイスコーヒーが落下、床一面にぶち撒かれる。
リックはナタリーの胸に突っ伏し、幸せそうな笑顔で死んでいた。まるで彼女を温めるように。
台の横に無造作に投げ出されたナタリーの腕には、無数の注射痕が穿たれていた。
死因は心臓発作だった。長年に及ぶ酒とドラッグの乱用で心臓が弱っていたらしい。
リックの手を胸で組ませ、ナタリーの隣のロッカーに入れたマイルスは、空っぽのスキットルをデスクに立てて呟く。
「墓場からゆりかごまで、あらためモルグまで、か」
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