蝶々炎舞

まさみ

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一話

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朧な視界に天井を支える太い梁と等間隔に並ぶ柱が浮かび、既視感を呼び起こす。
またこの夢だ。
小山内葵おさないあおいは部屋を抜け出し屋敷を徘徊していた。今いるのは日常的に寝起きしている母屋、二階建て日本家屋の一階北側。二十代続いた旧家の敷地は広く、幼い頃はよく迷子になって泣いたものだ。そういうときは必ず祖母が迎えに来てくれた。

『さがしたわよあおちゃん』
『おばあちゃん……ぐすっ』
『お父さんお母さんが心配してるわ。かくれんぼはおしまいにして帰りましょ、ね?』
『うん』
『しっかりおてて握ってね』
『おばあちゃんの手しわしわだね。しわとしわをあわせたらしあわせになれるんでしょ』
『ふふ、あおちゃんは物知りねえ』
『けどね、ジュンちゃんは違うっていうんだよ。しわとしわをあわせたらしわよせじゃんって』
『ジュンちゃんは賢い子だねえ』
『どっちが本当なの?』
『どっちも嘘じゃないわ。皺と皺が合わさる位の間一緒にいたら、いいことも悪いことも同じだけ経験するのよ』
『よくわかんない』
『そのうちわかるわよ、きっと』

繋いだ手の湿った感触を反芻し、無邪気でいられた日々を懐かしむ。あの頃は葵にも待っててくれる両親がいた。
物心付いた頃から見慣れた光景が何故に不安を誘うのか。
昼と夜とで屋敷の空気は様変わりする。
無垢の木と漆喰でできた家屋は昼こそ安穏と鄙めいているが、夜はよそよそしく取り澄まし、家人さえも拒むかのような薄ら寒さを漂わせる。

葵が育った家なのに。

ひたり、一歩踏み出す。ひたりひたり、爪先で探るように注意深く進む。
刹那、行く手を何かが過ぎった。正体を見極めるべく目を凝らす。

蝶がいた。

蝶々は一羽二羽と数えるのだと教えてくれたのは、十年来の幼馴染のジュンだった。小学校低学年の頃までは共に虫捕り網を持ち、近所の野山を駆け回った。
当時から活発な性格でよく日に焼けていたジュンは、昆虫に興味あれどもさわれない葵と正反対にクワガタ獲りの名人で、女子が怖がるカブトを平気で掴み取りしていた。

『もらっていいの?』
『兄ちゃんが捕まえてきたヤツうちにいっぱいいるもん』

あとで一羽二羽は間違いで、一頭二頭と数えるのが正しいと知った。
だが葵は今に至れど頑なに一羽二羽と呼ぶのをやめない、そちらの方が儚く美しい蝶々のイメージに合うから。

世の中には知らない方が幸せなことがきっと沢山あって、蝶々の数え方もそうなのだ。
たとえば好きな人の気持ちとか、自分がふられた理由とか。

感傷か成長痛か。膨らみかけの胸の疼きを持て余し、目と鼻の奥の痛みを瞬きでごまかす。
束の間の追憶から立ち返り、雑念が蝕む思考の焦点を蝶に絞る。
蝶の種類には詳しくないが、恐らくアゲハ蝶。
されど普通のアゲハと異なり黒い模様の面積が広く、後翅に目のような赤い斑点が入っている。祖母に訊けば名前がわかるだろうか。
黄金こがねにきらめく鱗粉が微粒子の如く霧散し、優雅な軌道を描く。

目を離せない―そらせない。

あえかな羽ばたきに導かれ朦朧と足を踏み出す。ひんやりした廊下には何故か墨の匂いが漂い、小学校の習字の時間を思い出す。
おもむろに立ち止まる。
道しるべにしていた黒い蝶が、襖に吸い込まれるように消えたのだ。
小山内家に蝶の襖絵の座敷はない。珍しい意匠ゆえ、見たら絶対覚えているはず。
葵はここ半年ほど、夢の中で存在しない座敷に連れて来られていた。心療内科の先生曰く、悪夢の原因はストレスだそうだ。
不可思議な夢を見始めた時期は、葵が不登校になった時期とかぶっていた。
学校に行かねばならないプレッシャーと行けない後ろめたさが悪夢に化けるなら、蝶は何の隠喩なのか。
他にも腑に落ちないことはある。夢を見る都度、襖の隙間が広がっていくのだ。
最初はぴったり閉じていた。それが指一本分、二本分と徐々に開いていき、半年経った現在は指三本幅の隙間を生じていた。
合わせ目の奥は深沈と闇を湛え、何かが集い蠢く気配に乗じ、射るような視線が届く。
固唾を飲んで凝視を注ぐ先、襖に同化した蝶の前翅がかすかに震えた。

『此処よ』

艶っぽく掠れた声音が響く。
絵が喋ったと早合点し手を伸べた瞬間を見計らい、合わせ目から湧き出でた霧が身を包む。
息できない。苦しい。
夥しく重なる黒い翅が帳を落とし、夜よりなお昏い闇が混乱を招く。濃密に立ち昇る鱗粉に噎せ、羽ばたきの圧に怯む。
突如として雪崩れ込んだ蝶に取り巻かれ、廻る。
不安定に前のめり、縺れる足でたたらを踏み、行ったり来たり翻弄されながら手を振り回す。
払っても払ってもきりがない、後から後から堰を切り溢れ出す。
あがけど報われぬ狂おしい焦燥と、息の通り道を塞がれる絶望が募っていく。
極薄の翅が瞼に鼻に頬に唇に当たる、短く切った髪を掠めて飛んで行く。
睫毛に塗された鱗粉が光り、円い瞼を色付かせる。唇がざりっとした。翅が口に入り、慌てて吐き捨てる。
垢抜けない生娘に仕出しの化粧を施すが如く、贅沢に撒かれた鱗粉が葵を作り変えていく。
芯から慄きやめてと叫ぶ。生理的嫌悪が膨れ上がり、滅茶苦茶に暴れ狂い、鬱陶しい蝶の群れを拒絶する。
『此方にいらっしゃい』
漆黒の帳の向こうでくれないの唇が綻び、襦袢をしどけなく着崩す女が微笑んだ。
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