一階からスタート!

大鳥 俊

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3.雨の日の木曜日

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 何事もなく一週間が過ぎ、久しぶりの営業。
 佐奈は貼り付く前髪をタオルで拭いた。

 出先で雨が降り出して、持っていた折り畳み傘を取引相手の女の子に渡した。

『でもっ、高谷さんが濡れちゃいます!』
『ご心配なく! わたしベタ靴なんで!』

 いつものパンツルックに、高さゼロの靴。
 真新しいスーツと傷のないパンプスを履いたフレッシュさんに、傘を譲るのは至極当然のことだった。

「うえ、ビタビタで気持ち悪っ……」

 しかし、予定外なのは途中で雨脚が強くなってしまった事。
 バケツどころか、お風呂をひっくり返したような土砂降りに、僅か数メートル走っただけで濡れねずみになってしまった。

 佐奈は予備のタオルもカバンから取り出し、ついでに現状を確認する。
 書類とサンプルはビニパックに包んであるから無事。まずはよかった。携帯OK、手帳OK、帆布はんぷの鞄は……、ああ、綺麗に乾かせばカビないよね。うん、多分大丈夫。……あとは、自分。どうするよ、これ。

 改めて、無残に濡れた自分自身はどうしてくれようと、佐奈は途方に暮れる。
 正直、タクシーに乗るのも躊躇ためらわれるほどびしょぬれで、コンビニの軒下にいる今ですら十分恥ずかしい。

 レインコートでも買って、びしょぬれを誤魔化す? いやいや、多分張り付いて余計に目立つよね。タオルじゃもうどうにもならないし、着替え買ってもどこで着替えるのさって話だし。

 でも、濡れたのが自分でよかったと佐奈は思う。
 相手の子の、あのスーツで濡れた時の絶望感は半端ないと思うから。

 本当は会社に戻って、明日の準備をするつもりだったけど、まあ、仕方ないか。
 佐奈は会社に電話をかけた。

「あ、もしもし歩美? ごめん、出先で濡れねずみ。このまま直帰するって、社長に伝えといて。……え、折り畳み傘? あれ貸したんだ……、ん? 無駄イケメン?? 何が??」

 電話口で歩美の溜息が聞こえる。『あんたほんと、もったいないわ』……って、だから何が??
 とりあえず伝言はできたので、佐奈は電話を切る。空を見上げれば、もう薄日が差していて。雨の名残はキラキラ光るアスファルトの道路だけ。もう。ほんと、迷惑なゲリラ豪雨。


◇◆


 午後、半休だった帝司は、降りだした雨を横目に雑誌に目を落とした。

 会社帰りの書店にて。
 早く帰っても予定がないという寂しい独り者は、気まぐれに入った店で文具コーナーを確認し、スポーツ雑誌を片手に窓辺の席に腰かけた。

 どうせ買うのだから、ここで読む必要はない。
 それでも適度に静かで、紙を捲る音は心地よくて。帝司はのんびりと、雑誌を眺める。

 今はこうして新刊書店でも、立ち読みならず座り読みどうぞとばかりに、椅子や机を置いてくれている店が増えた。くつろぎの空間を提供して、まずはいろいろな本を手に取ってもらおうというコンセプトなのだろう。悪くない。むしろ帝司としては大歓迎。
 ネット通販に押され、書店自体は減る一方。だが、なんとなく立ち寄れて、そこまで欲しくない本でも手に取って眺められるという、こういうスタイルは無くなって欲しくないと思う。

 少し離れた自動ドアが開いて。外の気配――地面を叩く雨音が入ってきた。絶え間なく聞こえるその音は、さっきよりも強くなっている気がする。これは、ゲリラ豪雨ってやつだな。
 しかし、それならすぐ止むだろうと、帝司はまた雑誌に目を落とし書店の雰囲気を楽しむ。午後の贅沢な時間だった。


 しばらくして、外が明るくなってきた。
 雑誌から顔をあげれば、雨はすっきり止んでいて、道路が射した薄日で反射している。これは眩しい。
 一旦目をそらし、時間を確認する。十六時すぎ。もうしばらく店にとどまろうかと悩んでいると、反対車線のコンビニの軒下に人が立っているのが見えた。

 黄色っぽいタオルを握りしめたまま、電話をしている。
 顔は良く見えない。身長だけ見ると男にもみえるが、服装はどちらかというと女物のよう。これは、雨に降られて迎えでも頼んでいるのだろうか。……と、思っていたのに、長身の女性(?)は、電話を鞄に放り込むとタオルを肩にかけ、潔く歩きだした。

 迎え、無理だったのか。
 気の毒に。そうは思うものの、知り合いでも何でもないのに、送ってやるという訳にも行かない。ここで声などかけたらただのナンパだ。

 しかし、まあ、その立ち姿は凛としていて。思わずその後ろ姿に見惚れる。
 ――せめて、風邪ひくなよ。帝司は雑誌を閉じて、会計に向かった。


 翌日。
 案の定エレベーターが込み合い、帝司は内階段へ向かった。

 もう、はなからエレベーターを待つのはやめよう。そう決めて、階段出勤は軽い運動にもってこいだと思う事にした。自分は多分、待つのが苦手なのだ。

 七階まで来ると、上の方から一段ずつ踏みしめるような音が聞こえてきた。

 ひょっとして、あの子?
 先週、盛大なひとり言をいいながら階段を使っていた、多分女の子。
 前回はあまりにも無防備なひとり言に居合わせちゃまずいと、自分のフロアに逃げ込んだのだが。

 今日も何か言い出すのだろうか。
 そう思うと自分の存在を知られる訳にはいかない。帝司は階段を登るスピードを落として、耳をすませた。

 しばらくすると、声が聞こえてくる。

「うー……頭痛い。でも、今日も階段。いっそ、全部段をなくして坂になればいいのに……。って、その方がキツイかも。心臓破れるわ」

 何を言ってるんだこの子は。
 くつくつと笑いが込み上げる。訳が分からない。

「……ああ待てよ! その坂が動けばいいんだ! ほら、動く歩道みたいに!」

 それならエスカレーターでもいいじゃないか。

「斜めに上昇する坂……うん、採用」

 不採用。

 その後、声は拾えなくなって、足音もなんだかしっかりしたように変わる。
 そうしてやがて、カタンっと、ガラス扉の閉じる音が聞こえた。

 ……行ってしまった。
 帝司は名残惜しいと思いつつ、十階まで駆け上がる。
 もちろん誰もいない。耳を澄ませても、足音も声も聞こえない。

 どんな子、なんだろう?
 上を見て想いを馳せる。

 十一階は高峰文具の在庫置き場だと聞いた。これからは高山文具も一緒に使うフロア。という事は、彼女は最上階、高峰文具の従業員。つまり、新しい仲間。

 見い出した接点に帝司は笑みを浮かべる。

 顔見せ会は今晩だったな。

 本来、新顔と顔を合わせるのは少々面倒だ。
 それは今までの経験――身長の事や、意味もなくじろじろ見られる事(観賞用というらしい)に、嫌気がさしていたから。

 だが、彼女に会えるのだと思うと、なんとなく心が浮つく。
 どうやら自分は柄にもなく、楽しみだと思っているらしい。



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