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第四章

85、衝撃の夜(四)

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「ぼろぼろになっても助けにきた人間に『逃げろ』と言うのか。…意識がない割には呼吸が乱れているようだが、薬を盛られてはいないか?」

 リックが腕の中にいるサラの様子を今一度確かめてみると、ロシエルの言う通り、サラは滑らかな肌に汗を滲ませ、熱を含んだ荒い息遣いを繰り返している。

「お嬢様…?」

 サラの頬にそっと触れてみれば、ビクッっと過剰な反応をみせたサラの口から艶めいた声がこぼれ出る。

「んんッ」

 体の芯からじわじわと追い詰められる熱に侵されていたサラは、朦朧とする意識の中で、自分の体を支えてくれている人物の服をわしづかみ、か細い声で助けを求めた。

「はぁ…はぁ…ッ、たすけて…、あ…つくて…体が……へん、なの…ッ」

「…ッ、お嬢様!」

「媚薬を盛られたか。こんな一面を見せてしまうとは…こういうのを役得と言うのか?」

「じょ、冗談は止めて下さい!彼女のこんな姿を誰にも見せるわけにはいきません!どうすれば…ッ」

「そう慌てるな。私が持っている解毒薬を飲ませてみよう。毒薬に備えて造らせたものだが、媚薬にも効くはずだ」

 ロシエルは懐から取り出した小瓶の蓋を開けると、毒薬ではないことをリックに証明するために一口飲んで見せた。それからサラの顎に手をかけて顔を固定すると、口の中に緑色の液体を少しずつ流し込み始めた。強烈な苦味を感じたサラは拒否反応で口を閉じようとするが、こうなることがわかっていたロシエルは、自身の親指をサラの口の中にねじ込ませた。

「うっ…んッ、あうっ…んぐッ」

「すまない、今はこの方法しかないんだ。だがこれを飲み切ればきっと楽になるはずだ」

 解毒薬を最後の一滴まで飲ませたロシエルが親指を引き抜くと、その指には唾液だけでなく噛み跡まで残されている。

 二人はサラの吐息から熱気が引いていく様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。

「わかっているとは思うが、今夜見たものは誰にも言わない方が身の為だ」

 そう言って立ち去ろうとするロシエルを、リックは思わず呼び止めた。

「お待ち下さい!殿下はこの男達について何かご存知なのですか?」

「…私は不穏な気配を追ってきただけだ。私の赤い目を見て、奴らと同じ化け物ではないかと疑っているのか?」

 リックは目の前にいる青年と見比べるように、教会で出会った時のロシエルの姿を思い出していた。あの日のロシエルは間違いなく金髪に金の瞳であったはずだが、ここでは銀髪に赤い瞳をした、戦い慣れた武人へと姿を変えている。教会で見たものは偽りの姿であることを悟ったリックは、生唾を飲み込んだ。

「いいえ…。殿下は正体を明かしてまで私達を助けて下さいました。その事実で十分です」

 リックがそう答えた直後、ガヤガヤと扉の外で集まる人々の声に続いて、ドンッ、ドンッ、と扉を打ち破ろうとする音と振動が伝わってきた。ロシエルはリックを見ながら、近くにある死体を指差した。

「見ての通り、こいつらは死ぬと人の姿に戻る。今回はお前が一人で侵入者を制圧したことにしておいてくれ。私がここに来たことが知られると不味いことになる」

「…承知しました」

「リック・アイゼン、お前のことは信用している。令嬢のことも任せたぞ」

 まさか自分の名前が知られているとは思っていなかったリックは、驚きの余り、去り際に不敵な笑みを見せたロシエルを黙って見送ることしかできなかった。間もなくして、ガラス戸から外へ出て行ったロシエルと入れ替わるように、マティアス侯爵と数名の衛兵たちが部屋の扉を打ち破って流れ込んでくると、リックは声を張り上げた。

「お待ち下さい!閣下以外の者を近づけてはいけません!」

 警告を受けた侯爵は衛兵たちを部屋の隅に下がらせると、一人でリックとサラのもとへ近づき、片膝をついて身をかがめた。

「何があった?」

「…お嬢様を攫おうとした侵入者三名を仕留めましたが、お嬢様は薬を盛られて意識を失っておられます。解毒薬を飲ませましたが、すぐこの屋敷から離れるべきかと…」

 侯爵はリックの腕の中にいるサラを見て眉をひそめると、状況を理解しすぐに決断を下した。

「そのままついて来い。娘の顔を誰にも見せるな」

 サラを抱きかかえたまま、リックが侯爵の後に続いて廊下に出ると、この屋敷の主であるロクサーヌ公爵が鼻息を荒くしてやって来た。

「マティアス侯爵、一体何があったのだ!?」

「聖女が何者かに襲われました。今夜はエバニエル殿下もいらっしゃるというのに、屋敷内の警備態勢がずさんだった事に関しては、後日皇室を通して抗議文を送らせていただきます」

「抗議文!?ま、待て、警備態勢に問題はなかったはずだッ」

「警備に問題がなければ、内通者がいるということです。我々は一刻も早く聖女を安全な場所へ移す必要がありますので、ここで失礼します」

 ロクサーヌ公爵は焦った声で「待ってくれ!」と叫び続けるが、マティアス侯爵は外に出るまで一切の無視を押し通し、リックとサラを連れて馬車に乗り込むと、すぐさま御者に出発の合図を送った。



 騒ぎが起きている事以外は何も知らされず、会場内に置き去りにされたマティアス侯爵夫人のもとへ、男爵家の若い令息がうやうやしく声をかけてきた。

 彼はマティアス侯爵に憧れて騎士団に入団したことをひとしきり語った後、「閣下から夫人を屋敷まで送り届けるように頼まれました」と言い出した。夫人は使命感に燃えている彼に共感しつつ、残念そうに呟く。

「そう…。旦那様は戻ってこられないのね。エバニエル殿下、私は先に失礼してもよろしいでしょうか」

「構わないよ。僕もそろそろ大使を連れて出ようと考えていたところだからね。マデリーン、ロクサーヌ宰相に明日必ず皇城に来るように伝えておいてくれるかい」

「は、はいッ、承知いたしました…!」

 マデリーンは会場から出ていく人々を見送りながら、愛用の扇をぎゅっと握り締め、青ざめた様子で小刻みに震え続けていた。


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