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第四章
83、衝撃の夜(二)
しおりを挟む「マデリーン、何かあったのか?」
そこへマデリーンの父親、ロクサーヌ公爵が登場すると、マデリーンが今聞いたばかりの内容をすぐさま報告した。
「そうか、キース公子の婚約が認められたのか。マティアス侯爵、相手はどちらの伯爵家であったかな?」
「…ドレスデン伯爵家です。伯爵とは旧知の仲でして、打診された話を受けることにしました」
「明哲と名高い伯爵の娘か。キース公子に相応しい相手のようだな」
「個人的には残念ですわ。キース様に私の友人を紹介したかったのですが、それでも祝杯をあげなくてはいけませんね」
マデリーンはウエイターを呼んでシャンパンが入ったグラスを一人一人に配ると、乾杯の挨拶を自ら買って出た。
「ユスティヌス帝国の繁栄と、そしてマティアス侯爵家の祝福の知らせに、乾杯」
乾杯の後、人々はリュネル国の大使を中心に雑談を始めるが、サラだけが会話についていく余裕もなく、少しずつ飲んでいたシャンパンもいつの間にか空になっている。隣にいるリックがさりげなく手を差し出してきた。
「お嬢様、グラスをこちらへ」
サラの動揺は手の震えに変わり、動作がぎごちない。グラスを渡そうとすると、リックの大きな手がサラの手を上から包みこみ、震える手をしっかりと支えた。
リックのサラを気遣う眼差しと大きな手のぬくもりに、サラを励まそうとしていることが伝わってくる。
(……しっかりしなくちゃ。今はオリビア様の振りをしてなきゃいけないのに、ここで泣いてはダメ。せめて誰もいない所に行かなくては…)
「オリビア様、顔色がよくありませんわ!どうかしまして?」
マデリーンがよく通る声で騒ぎ立てたせいで、注目を浴びることを望んでいなかったサラに、追い打ちをかけるように視線が注がれる。サラは震える声でマティアス侯爵にこう願い出た。
「お酒に…酔ってしまったようです。お父様…、外の風に当たってきてもよろしいでしょうか?」
「…外は寒い。テラスに出ない方がいいだろう」
「それでは私が休める場所へご案内しますわ。オリビア様、アイゼン卿、こちらへどうぞ」
マデリーンに言われるがままついて行くと、会場を出て離れた別の部屋へ向かおうとしていることに気がついたリックが、堪えかねて懸念を示した。
「恐れ入りますが、会場から離れるのでしたら、侯爵閣下に一言お伝えしなければいけません」
「でしたら閣下には私からお話しておきますわ。廊下には見張りもいますので、知らない人が訪ねてくることはありません。オリビア様はお疲れのようですから、せめて酔いが覚めるまで、水でも飲みながらゆっくりなさって下さい」
通された客室で二人きりになると、サラはソファに座り、用意されていた水を飲みながら頭の中の整理を始めた。しかし乏しい情報量と不安定な感情のせいで、心を落ち着かせる解決策は浮かんでこない。
広すぎる室内の見回りを終えたリックは、サラのもとへ戻ってくると、床に片膝をついてサラの顔を覗き込んだ。
「副団長…キース公子と何かあったのですか」
「―――!い、いいえ…!」
即答できなかったことが「何かあった」ことを示唆している。恥ずかしくなったサラは俯きながら、もじもじと答えた。
「彼に…キース様に確かめたいことがあるのですが、面と向かって話せる自信がなくて、どうしたらいいかと悩んでしまって…」
(キースはまだ自分の婚約が決まったことを知らない。あと数日で帰ってくるのに、ずっと会いたくて仕方がなかったのに、こんな事になるなんて…)
しばらく沈黙が続いた後、リックが静かに口を開いた。
「私は…貴女が傷つく姿を見たくはありません。それが一人の男のせいだと言うのなら尚更です」
サラを見つめるリックの目はどこまでも優しいのに、すべてを見透かしたような発言にドキリとする。
「私が貴女の力になります。だからどうか、そんな悲しい顔をしないで。もっと私を頼って下さい」
「…リック」
思いがけずリックの言葉に慰められたサラは涙をこぼし始めた。緊張感が緩んだせいか、コルセットに締めつけらた体が窮屈さを訴え出し、全身から嫌な汗が吹き出ている。
頬を紅潮させ、ハッ、ハッと浅い呼吸を繰り返し、ぽろぽろと泣きながら胸を抑えているサラを前にして、リックは慌てて謝った。
「すまない、私が変な事を言ったせいで―――」
「ち、違うの…ッ。私、どこか変…。息が…苦し…」
その時、リックはサラの肩越しに、カーテンがわずかに揺らいだことに気がつく。
危険を察知したリックは、サラの両肩を抱えて一緒に立ち上がると、扉の近くへと誘導し、サラを壁際に立たせた。それからサラを見下ろして、無言で自身の唇に人差し指を当ててみせる。
リックが何かを警戒していることは明らかなのに、サラの脳内はリックから漂うウッディ系の香りに酔いしれて、目の前の逞しい男に抱かれたいという願望に取りつかれている。股の間をとろりと濡らす感触に両脚を震わせたサラは、自分の体が欲情していることに気がついた。
(やだッ、やっぱり何か変だわ!これじゃまともにリックを見る事ができない!)
サラは体に起きている異変に困惑しながらも、わずかに残る理性を頼りに鼻と口を手で覆い、涙目でこくこくと頷いてみせた。
リックは静かにサラのそばを離れ、暖炉脇にあった二本の鉄製の棒を両手に持つ。
リックの視線の先、ガラス戸のカーテンが静かに大きく揺れると、目元以外を黒布で覆った二人組の男達が部屋の中に侵入してきた。最小限の物音で済むようにと忍び込んできた男達は、戦闘態勢で待ち構えていたリックを見るなり、容赦なく剣を振りかざして襲いかかってきた。
剣術大会で優勝した実績と、分隊長の肩書を持つリックの実力は本物だ。二本の火かき棒で攻撃をかわしながら、敵の急所を何度も殴打し、見事に応戦している。ところが相手もかなりの強者らしく、急所を数回打たれたくらいでは簡単に倒れたり身を引く気配はない。
(助けを呼ばなきゃ…!)
サラは助けを呼ぼうと扉に駆け寄り、取っ手に手を伸ばした。まだ触れてもいない扉がギイッと動き出し、血の匂いを嗅ぎとったサラは思わず後ずさりをする。すると見るからに不審な男と、廊下にいた衛兵が抱き合う奇妙な体勢で入ってきて、男が衛兵の体を引き離すと、口から血を流す死体が床の上に転がった。
「っ…うぐッ!」
サラが叫び声を上げる前に腹部に強烈な一撃が入れられる。硬いコルセット越しにお腹を打たれたサラは気を失って崩れ落ちた。
その直後、リックと戦っていた二人組のうちの一人が火かき棒で首を打たれ、白目をむいて倒れた。その瞬間を見届けた三番目の男は、部屋の内鍵をかけると、意識のないサラを左肩に乗せて持ち上げた。
「何てザマだ。男一人倒せないとは」
リックは一対一となった二人目の男を牽制しながら、サラを肩に担ぐ三人目の男を睨みつけた。
「命が惜しければその女性を解放しろ」
「人質に取られているくせに大口を叩くな。お前こそ、その手に持っている物を捨てろ。さもなくば、この女がどうなるかわからないぞ」
リックは利き手に持っていた火かき棒を手放す振りをして、迷わずにカーテンが掛かっていない窓に向かって投げつけた。
ガラスの割れる音が盛大に鳴り響き、遠くで人々の驚く声が聞こえてくると、男は舌打ちをした。
「チッ、余計な事を…」
「堂々と忍び込んできたところを見ると内通者がいるようだな。だとしても騒ぎになれば逃げるのは簡単ではないぞ。油断していたお前達の負けだ」
「…ふむ、さて、どうするか」
ニヤリとほくそ笑んだ男は、口角を上げたまま獣のようにフーフーと唸り声を発し始めた。メリッ、メリッという音と共に、男の服がビリビリと張り裂け、筋骨隆々とした体格へと変化していく。獣のような牙と鋭い爪を持つ異形の姿になった男の目は、爛々と燃える炎のようにぎらついていた。
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