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第四章
78、密かな訪問者(二)
しおりを挟む教会の敷地内にある暗い一室で、黒いマントを身にまとった青年が、壁にかけられた一枚の絵を前にして一人静かに佇んでいる。
展示室と呼ばれているこの部屋の扉は、鎖と南京錠で常に施錠されているのだが、その鍵の在処も知らない青年はいつも天井に近い窓から無断で侵入し、他の物は目もくれず、ただ一枚の絵をしばらく眺めて出て行くという不思議な行動をこれまでに何度も繰り返している。
二人の男女と悪魔が描かれている絵を物憂げな表情で見つめていると、扉の向こう側で南京錠に鍵が差し込まれる音がした。今まさに誰かがこの部屋に入ろうとしているのだと気付いた青年は、慌てず物陰に身を隠し耳を研ぎ澄ます。
中に入ってきた人物は扉の内鍵をかけて、コツコツと靴音を立てて室内を歩き出した。珍しく見回りが来たのだろうかと考えていると、ガチャ、ギイイっと聞き慣れない物音が耳に入り、青年の好奇心をくすぐる。
(どこかに隠し部屋があるのか?)
物陰から覗き見ようとした時、この部屋の扉を強く叩きながら中にいる人物を大声で呼ぶ者が現れた。
「大司教様!中にいらっしゃいますか!?」
大司教は素早く全てを元に戻すと、内鍵を解錠し扉を開けて、外の者に「何事ですか」と尋ねた。
「王都の外壁の修繕中に事故が発生し、重傷者がかなり出ています!聖女様のお力をお貸しいただけないでしょうか!?」
「……わかりました。聖女様はいつもの部屋にいらっしゃるので、お願いしてみましょう」
大司教がいなくなると扉は再び施錠され、物陰に隠れていた青年は姿を現した。そしてこの展示室の秘密を探ろうと辺りを見回していると、外の話し声が微かに聞こえてくる。
『大司教様、怪我人はどこですか?』
『隣の治療院で医師の治療を受けております。彼らも最善を尽くしているはずですが、状況はかなり深刻なようです』
聖女と大司教の会話の一部を耳にした青年は、ここにはいつでも来られるのだと考え直し、軽い動作で静かに展示室の窓から外へと抜け出した。
※ ※ ※
救援の要請を受けて教会の隣にある治療院にやって来たサラと、護衛で付き添うリックとラウラは、数十名もの怪我人が運ばれて来た大きな部屋の前で立ち止まっている。
手足を失った者や包帯に血を滲ませている怪我人たちがベッドに寝かされ、その間を医師や看護師らが動き回っている。泣き声にも似た呻き声、血生臭さが立ち込める空間はまさに地獄絵図だ。予想を超える悲惨な光景に、サラは青ざめた顔をして中に入ることを恐れている。
(こんな…ここまで酷いなんて…!本当に事故だったの!?もしかして…魔物が現れたんじゃ―――!)
最悪な展開を想像していると、部屋の中で女性医師の声が響き渡る。
「あぁッ…、くそ!もっと早く…ッ、このままでは止血が間に合わない…!!」
女性医師は悔しそうに顔を歪め、傷口を縫合する針を手早く動かしながら必死に治療を続けている。その姿はサラの恐怖心を払い、体を突き動かした。
「失礼します!」
「なっ、誰なの!?医療者以外は早くここから―――」
出て行けと言われる前に、サラは患者の腹部に手をかざし、「治療」と唱え祈り始めた。その瞬間、患者の頭からつま先までが優しい光に覆われ、しばらくしてその光が跡形もなく消え去ると、生死をさまよっていたはずの患者はかすり傷一つない綺麗な体になっていて、何事もなかったかのように静かに眠りについている。
奇跡を目の当たりにした女性医師は、身動きできず、口をパクパクとさせている。
「…え?ま、まさか、あなた……聖女…?」
「……驚かせてごめんなさい。こんなに酷い状況に立ち会うのは初めてなんです。とにかく、重症の方を一人ずつ治療していきます」
サラが姿勢を正し振り向くと、ぐらりと視界が揺れ動き、それが眩暈だとわかった時にはリックの腕に支えられていた。
「お嬢様ッ!」
「…ありがとう、リック。ちょっと油断しただけ…」
視線を感じたサラが部屋を見回すと、その場にいた医師や看護師たちが複雑な表情でサラを見ている。
聖女の力は奇跡と言っても過言ではない。しかしその真価が無条件で受け入れられ認められるのは戦場などの過酷な環境下であって、使う時と場所が変わればどう見られるかわかったものではない。
(自分たちの領域を荒らされているのに、受け入れるなんて難しいわよね…)
「先生方、この力を使っても私は一人ずつしか治療できません。ですのでご協力をお願いします」
そう話し終えたサラは、彼らの返事を待たずに次の行動に出た。片方の前腕を失って気絶している男性患者の下へと近づき、逆にその場から後ずさりした男性医師に目をつける。
「この男性の腕はどこにありますか?」
「うっ、腕はその椅子の上だ。布に巻かれている…」
指差しで教えられ、血がついた布で巻かれている物体をサラが震える手で持ち上げようとすると、リックが横から手を伸ばしてきた。
「私が取り出します。この腕を元に戻すのですか?」
「……これまでの経験上、失われた体の一部は元に戻せないことがわかっています。でも今ならきっと間に合うかもしれなません。とにかくやってみます…!」
リックが布の中から切断された腕を取り出している間、サラは患者の腕に巻かれた包帯をはずそうとするが、きつく巻かれた包帯に触れることに躊躇いが生じてうまくいかない。そこへさっきの女性医師がやって来て、慣れた手つきで包帯をほどき始めた。
「包帯をはずせばいいんですよね?」
「…はい、ありがとうございます」
リックと女性医師の協力で、男性の二の腕の切断面に合せるように前腕を並べ置くと、サラは手をかざし、二つの言葉を唱えた。
「再生、治療」
誰もが注目する中、患者を包み込んでいた光が消え去ると、切り離された男性の腕は綺麗に元に戻っていて、先ほどの患者と同じように怪我一つない体になっていた。
ほうっと息を吐き出して安堵していると、再び眩暈に襲われ、サラが気づいた時にはまたリックの腕に支えられていた。事情を呑み込んだ女性医師が、気遣うようにサラに問いかける。
「聖女様、その不思議な力は体力を著しく消耗させてしまうのですか?」
「…はい。ですから一人ずつしか治療できないんです」
「……聖女様は特定の部分だけを治療することはできますか?」
「で、できます…!私は医学の知識を持ち合わせていませんが、教えてくださればその通りにします!」
正直に答えたサラに女性医師は一瞬真顔になるが、すぐにその表情を緩めて、こう提案する。
「それでは聖女様には私の診断に従って、命に関わる損傷部位だけを先に治療して頂きます。他の傷はここにいる医師たちにお任せ下さい。一人でも多くの命を救うために、この方法でいかがでしょうか?」
「はい…!よろしくお願いします!」
「わかりました。皆さん、聞いた通りです。順番がくるまで割り当てられた患者をしっかり診ていて下さい。容態が急変した場合はすぐに知らせるように!」
声を上げた女性医師に感化され、他の医師や看護師たちも我に返って慌てて動き出した。心強い味方ができたような気がしたサラは、隣にいるリックにも「お願いします」と一言、決意を言葉にした。
一連の流れを見守っていたラウラは、サラに協力する医師が現れたことに安堵し、部屋の入り口で護衛に当たろうと顔を上げた瞬間、そこに意外な人物がいることに驚き、リックに動揺した声で囁いた。
「隊長、第二皇子が部屋の前に来ています」
ラウラに教えられ、リックは横目で入り口付近を伺った。するとラウラの言う通り、いつからそこにいたのか、白いマントを身に着け、口元を手で覆い隠しているエバニエルが立っている。
金色の瞳が食い入るようにサラを見つめていることを察したリックは、背筋が凍る感覚と同時に警護対象であるサラに視線を戻した。
サラはエバニエルの存在に気付かないほど治療活動に没頭し、地道ながらも、女性医師の指示と助言に従いながら、次々と重症を負った患者たちに奇跡を起こしている。リックはサラの姿をなるべく見せないようにと、自身の立ち位置に気を配ることにした。
そんなリックの配慮も虚しく、すでに十分過ぎるほどサラが聖女の力を使うところを観察していたエバニエルは、隠していた喜びを声に出した。
「いい…、ほしいな。やはりあの力は本物だ…。だがどうしてすぐ回復しないんだ?まだ余計なことに気を取られているのか?」
意味不明な独り言を呟くエバニエルの背後で、ミハエル大司教がそわそわと落ち着かない様子で立っている。
「エバニエル殿下、御覧の通り、聖女様は手が離せない状況です。私でよろしければ共に参ります」
「……あぁ、そうだね。リュネル大使に聖女を紹介したかったけれど、これ以上彼を待たせてはいけないし、ミハエル大司教に代役を頼むとしよう」
そう言って微笑んだエバニエルは、冷や汗を浮かべるミハエル大司教と一緒に隣の教会へと戻って行った。
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