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第三章

71、告白

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 前日の夜にマティアス侯爵から「明日の朝、屋敷に来るように」という返事を受け取っていたキースは、言われた通り早朝から書類を携え、侯爵の下を訪れている。
 
 侯爵家当主が代々受け継いでいる屋敷の中は常に静寂で、建物の裏側には鬱蒼とした雑木林が広がっている。騎士団の総司令官の命を狙う暗殺者が時々この屋敷に侵入してくる事もあるが、侯爵家に雇われている使用人達は元騎士や元傭兵という特異な経歴を持つ者ばかりで、侵入者は必ず悲惨な最期を迎える羽目になると暗黒街からも恐れられているのは有名な話だ。

 キースがエントランスに到着すると、体格のいい執事がいつもと変わらぬ台詞で出迎える。

「キース様、お待ちしておりました。旦那様は執務室でお待ちです」

 案内を必要としないキースは一人広い建物の中を慣れた足取りで歩き続け、執務室の扉の前で立ち止まった。自分の気持ちを正直に伝える覚悟でやって来た彼は、ノックの後に返ってきた低い声を合図に、意を決して扉を押し開けた。

「失礼します。着いて早々に恐縮ですが――…」

 キースは中に入ってすぐに侯爵の目を見て話を切り出そうとした。だが執務中だった侯爵の顔には疲労感が滲み出ていて、滅多に見ない父親の疲れている姿に動揺したキースは警戒して口を閉ざした。何も言わずに立ったままの息子に対し、侯爵は執務中の手を止めて顔を上げた。

「何だ?あの娘の今後の予定表を持ってきたのか?どうなっているのか見せてみろ」

 言葉と雰囲気が不一致な侯爵の様子に戸惑いながら、キースは素直に資料を手渡した。サラの今後一ヶ月間のスケジュールが書き込まれた内容に目を通した侯爵は、厳しい目つきで苦言する。

「これは私が想定していたものと違い過ぎる。大司教が用意した訪問先のリストはこれの倍はあったはずだ。どういう事なのか説明しろ」

「…訪問先の数を減らしたのはスケジュールが過密にならないように配慮した結果です。本日アイゼン隊長が護衛体制の計画書を提出しますので、各地への訪問は明日から行う考えです」

「そこまでお前の判断に委ねた覚えはないぞ。それにアイゼンの能力なら計画書の作成に時間を要しないはずだ。さっさと見直して今日の午後からでも訪問を開始させろ。大事な話とはこの事だったのか?」

「…いいえ、父上にお伝えすべき事は他にあります。―――私はサラを愛しています」

 突然過ぎる息子からの告白に侯爵はさすがに驚いたのか、数秒間の沈黙が続いた。怒声を浴びせられる覚悟で来ているキースは慎重に話し続ける。

「…そのように驚かれるとは思いませんでした。私とアイゼン隊長が密かにオリビアを探していた事はご存知だったようですが、何故私よりも先にアイゼン隊長に釘を刺したのですか?」

「…順番は関係ない。余計な詮索は止めてあの娘を本物の聖女として扱えと命じてみれば、あの男は命令を素直に受け入れた様子だった。それに比べてお前はどうだ。いきなり何を言い出すのかと思えば、聖女の魅力に惑わされた愚か者だと、わざわざ打ち明けに来たのか?」 

「私の気持ちを疑うのなら、サラに命じてオリビアをもう一度治療させて下さい。瀕死の重傷だった私の命を救い、毎晩妹の為に祈り続けている彼女が二度も治療を失敗するはずがありません。サラが聖女の力を失っても、私が彼女を見限る事はありません」

「…あの娘が神に祈る姿を見て魅了された訳か。お前はつまらない同情心と庇護欲を煽られて勘違いをしているだけだ」

「私は侍女長から話を聞いただけで、祈る姿を実際に見た事はありません。今まで私は貴方の命令に従ってサラを監視してきましたが、父上が今後も御自分の目的の為にサラを利用していくつもりなら、これ以上黙ってはいられません」

 頑なに自分の気持ちを主張するキースに対し、初めは話を聞き流そうとしていた侯爵だったが、少しずつその表情に苛立ちの色が出始める。

「イザベラを監視している隙を突いてきたつもりだろうが、私がその気になればいつでもあの娘を私の管理下に置く事も出来るんだぞ…!」

「私の気持ちを理解して頂けるとは思っていません。それから父上と夫人の関係に口出しするつもりもありませんが、夫人が勝手にサラを連れ出そうとすれば私も強硬手段に出ます。父上にはこの決意を伝えておくべきだと思い、あの伝言を残しました」

「キース…!」

 侯爵は机の上で拳を震わせ、今にも椅子から立ち上がりそうな勢いで怒りを露わにしている。キースにとって何度も見慣れた光景であるが、彼の決意がぶれる気配はない。

「いいか…これから私が言う事をよく聞くんだ…!」

 侯爵はキースを見据えながら、威圧的な声で残酷な真実を語り始めた。それはキースが全く予測していなかった内容であり、受け入れ難いものだった。




 ※    ※    ※





「朝食は一緒に食べられると思っていたけど、仕方ないわね…」

 朝食の時間、侍女長のエレナから、キースは深夜に帰宅してまた今朝早く騎士団に出勤した事を聞かされたサラは、寂しそうに呟いた。

「今夜もキース様のお帰りは遅くなるようですが、お嬢様にお話したい事があるそうで、眠らずに待っていてほしいとの事です」

 エレナの言葉を聞いたサラは、嬉しそうに頷いて承諾の意を示した。それから朝食と中庭の散歩も済ませて部屋に戻って来ると、一人憂いた顔でガラス戸越しに外の景色をぼんやりと眺めている。

(キースは休んでいろって言っていたけど、じつは体力がついてきたおかげでじっとしているのも難しいのよね。彼にあげるハンカチの刺繍はもう出来上がっているし、今度はギルバートの物でも作ってみようかな)

 その時、廊下から複数の人声が聞こえてきたかと思うと、背後でバンっと部屋の扉が勢いよく開く音が鳴り響いた。

 驚いて振り向くと、早朝に出勤して今夜帰って来ると聞かされたばかりのキースの姿が視界に飛び込んできて、サラは夢を見ているのかと自分の目を疑ってしまう。

「え…、え?何で―――」

 何が起きているのか確かめる間もなく、気づけばサラの体はキースに強く抱きしめられていた。

「う…!」

 あまりにも力強く抱きしめられたせいで息苦しそうな声を漏らすと、我に返ったキースは力を緩めた。ある程度身動きが取れるようになったサラは彼の体を少し押し返し、下から顔を覗き込む。

「騎士館で何かあったのですか?」

 そう尋ねながらサラの手がキースの左手の甲に触れると、キースは痛みを我慢するように顔の表情を歪ませた。キースの左手が赤黒くなっている事に気付いたサラは、誰かに襲われたのではないかと想像を膨らませ青ざめる。

「この手の痣はどうしたのですか!?」

 サラはキースの左手に触れて、迷わず聖女の力を発動させようとした。サラの茶色い瞳に淡いピンク色の影が浮かび上がると、

「駄目だ!その力を使うな!」

その瞳の色の変化に気付いたキースは治療を拒むように左手を引き抜いた。サラが困惑の表情で立ち尽くしていると、キースは申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする。

「…すまない」

 この時、護衛のラウラと侍女頭のエレナが心配そうに部屋の入り口で待機していた。サラが二人に無言で頷くと、その意図を汲み取った二人は静かに部屋を出て扉を閉じた。

 二人きりになっても黙ったままのキースに堪えかねたサラは、彼の右手を掴んでウォークインクローゼットの中へ引き入れた。使用人一人分の部屋と同じ広さがあるクローゼットの壁はドレスと靴、宝飾品が入った箱などで埋め尽くされている。

 キースはサラの手を振り払えず、女性物で埋め尽くされたクローゼットの奥に連れ込まれた事に動揺の色を隠せない。

「どうしてここに―――」

「貴方が何も話してくれないからです!ここなら声が漏れる心配もないでしょう?お願いです。何があったのか教えて下さい」

 不安に押し潰されそうな眼差しで見つめられたキースは、ぐっと噛みしめた後、慎重に言葉を選びながら話し始めた。

「―――父上と話をしてきた。……結論から言うと、私の提案は受け入れられなかった。だが…」

 サラはキースの言葉を聞いて視線を落とし俯いた。目を合せないサラを前にしてキースもまた黙り込んでしまう。しばらく経ってサラは小さな溜息をこぼすと、キースの赤く腫れている左手を優しく持ち上げた。

 痛みが消えていくのを感じたキースは、今度は治療を拒もうとせず、大人しくサラの言葉に耳を傾けている。

「事情は分かりました。期待していなかった訳ではありませんが、貴方の立場を悪くしてまで身分不相応な待遇を得たいとは考えていません。ですがこのままでいいとも思っていません。が来れば旦那様もきっとご理解頂けるはずです」

「……時が来れば…君はどうするつもりなんだ?」

「予定通りここを出ていく事しか考えていません。でも…案外図太く生きていける気がします。文字の読み書きや計算も教えてもらったので、どこかの商会で小間使いとして雇ってもらえるかもしれません。とにかく十年間オリビア様の側について色々な事を学ばせて頂きましたから、家庭教師以外の道もあるような気がして――――」

「俺が――…俺が君を手放したくない、ずっとそばにいて欲しいと言ったら、君はどうする?」

 キースの言葉を聞いたサラは肩を震わせた。サラが示した反応はそれだけで、俯いたまま顔を上げようとしない。

「………」

「…何も答えてはくれないのか?」

 じっと返事を待っていたキースは、サラの顔がよく見えない事に耐え切れなくなり、サラの顎下に指先を添えて持ち上げた。すると、その頬を伝って流れ落ちて行く涙に気付いたキースは、困った様子でサラに問いかける。

「どうして泣くんだ。俺が怖がらせてしまったのか?嫌なら嫌だと言ってくれていいんだぞ」

「ちがッ、違う…!嬉しくて…、でもどうしたら…ッ、どうしたらいいかわからないの…!ごめんなさッ、ごめんなさい…!」

 キースは嬉しさと困惑を入り混じえた表情を浮かべて、嗚咽を漏らしながら「ごめんなさい」と繰り返しているサラの両頬に手を添えた。

「君が謝る事じゃない。これからの事を話し合いたいのに、どうしたら泣き止んでくれるんだ」

 サラが「わからない」と答えようとした時、サラの額にキースの唇がふっと押し当てられた。

 意表を突かれたサラが驚いて言葉を失っていると、キースは額だけでなく、涙の跡を追うように頬の上にも優しいキスの雨を落としていく。

 くすぐったい感覚と、もっと触れて欲しいとねだりたくなるような甘い刺激に身を委ね、サラはいつの間に目を閉じていた。

(このまま時間が止まればいいのに…)

 涙が止まった時、サラは唇に優しく触れるキースの口づけを感じていた。


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