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第三章
60、デビュタント(一、序曲)
しおりを挟むサラがキースから甘い仕返しを受けた翌日から、二人で過ごす夕食の時間は以前よりも長くなっていった。
ダイニングルームに入って顔を合わせると、互いに緊張した様子で挨拶を交わす事から始まり、その後運ばれてくる食事に舌鼓を打ちながら味の感想を述べあい、メインディッシュが終わる頃には自然な雰囲気で他愛もない会話をする流れになっていく。
会話の内容はその日の出来事を話すだけにとどまらず、下町で流行しているものから帝国の内情や外交問題にまで話題を膨らませ、互いの意見を交わすまでに発展していく。その時間はデザートが片付けられた後もしばらく続くのが当たり前のようになっていった。
相手の思考や理念が見えてくると、もっと知りたいと思う欲が出てきてしまうサラは、キースとの会話に夢中になっていくばかりで、時が過ぎるのをよく忘れていた。
最後はいつも執事のギルバートがちょうどいいタイミングで声を掛けてくれるので助けられてはいるが、ギルバートが時間を知らせてくれる時にキースが一瞬不満気な顔を浮かべて、サラが退室するのを優しい目で見送ってくれている事にも気付き始めている。
(キースから私への質問が増えている気がする…。彼も私の事を知りたがってくれているみたいで嬉しいけれど、つい前世の価値観も交えて発言してしまうから、毎回変な女だと思われていないか不安になるわ!彼は優しくて誠実な人だけど、女性を軽視している所もあるからつい反論してしまうのよね。この世界の常識に当てはめてみれば、彼の言っている事も間違いじゃないと頭ではわかっているんだけど、これで嫌われたらそれはそれで仕方のない事で、私だって彼を諦めらきれるはずだったのに…。キースはいつも最後まで私の話をちゃんと聞いてくれるし、質問にも丁寧に答えてくれる。これじゃますます好きになっていく一方だわ。この気持ちにどうやってけじめをつけたらいいの?)
後ろ髪を引かれる思いでサラが出ていった後のダイニングルームでは、それまで静かに見守る側にいたギルバートが、ワイングラスに葡萄酒を注いでキースに話しかけている。
「キース様、最近はお嬢様との会話が増えましたね」
「……確かにそうだな。日頃女性と会話をする機会がないから、彼女の意見を聞くのは正直新鮮味があって面白い。特に女性の権利の話題になると彼女の口から興味深い提案がよく飛び出てくる。普段の大人しい性格からは想像できないほど、時々ムキになって言い返してくるのも意外ではあったが、それがまた可愛らしく思えてしまうのも問題だな……」
「ずっと気になっていたのですが、お嬢様とは随分親しくなられたのに、まだ気軽に名前で呼び合うほど打ち解けられてはいないのですか?」
「……鋭いな、ギルバート。前にも言った通り、オリビアは現侯爵夫人とその愛人の間に出来た不義の子ではあるが、マティアス家の長女として父上も認めている。だから俺も彼女の事は…、とにかく大事にしたいとは思っている」
「キース様も可愛いとお認めになったお嬢様がついに社交界デビューをする日が近づいてきましたね。デビュタントでは誰よりも美しく輝いているに違いありません」
満面の笑顔のギルバートに、キースは苦笑しながら言葉を返す。
「そんなに嬉しそうにしていると、まるで娘を自慢する父親を見ているようだな。ところで父上からの手紙の返事はまだか?デビュタントの前にオリビアの件で大事な話があると手紙に書いたのだが」
「残念ですが、その返事はまだ頂いておりません」
「そうか…。この時期は各地方から騎士団の支部長が定例の報告をする為に王都を訪れている。忙しいのはわかっているが、…仕方ない。明日の夜、会いに行くとしよう。帰宅が夕食の時刻に間に合わなければ、妹には俺は任務で遅くなっているとだけ伝えてくれ。妹は父を怖がっている。あまりあの人の名前を彼女の耳に入れたくないんだ」
「…承知致しました」
キースの顔はさっきまでの柔らかい表情とは異なり、緊張感が強く表れている。キースが赤子の頃から側で見守ってきたギルバートは、よく夜泣きをする幼子をあやして寝かしつける日々があった事を思い出していた。そしてあっという間に一人の青年へと成長した彼が思い悩む姿を見て、その憂いを晴らしてやれない事を少し寂しく感じていた。
※ ※ ※
キースに対する感情が恋だと気付いたサラは、キースの事を思う度に甘酸っぱい期待感に満たされ、同時に現実的な不安も一気に押し寄せてくる事に悩まされ、頭の中は常にキースの事でいっぱいになっていた。
(キースはいつから私の事を女性として意識してくれていたのかな。まだ私の事なんてよく知らないはずだけど、やっぱりこの見た目かしら…。でもお嬢様にそっくりなこの顔が気に入ったと言われても素直に喜べないわ。女性嫌いで有名なキースが、じつはシスコンだったのかって疑ってしまうじゃない……。も、もちろん、キースはそんな人じゃないってわかっているわ!と、とにかく、私も人の事をとやかく言える立場じゃないわね。だって帝国一の美青年と謳われるキースに笑顔を向けられると、簡単にときめいて落ちてしまうもの。最初は怖い印象しかなかったのに、不器用だけど優しく気遣ってくれたり、時々意地悪な事を言って私をからかってきたり、好きだって言われた訳でもないけど、あんなに甘い仕返しまでされちゃうと……あぁ、どうしよう!何に悩んでいるのかわからなくなってくる!!)
「――様、お嬢様。オリビア様!」
「はっ、はい!」
「大丈夫ですか?最近ぼんやりしている事が多いですね。何かお悩みでしたら、このラウラが相談に乗りますよ」
自室で休憩中のサラはまた考え事にふけっていて、護衛のラウラの存在を無視していたようだ。サラは申し訳なさそうにうなだれながら、複雑な心境を少し吐露したい気持ちになっている。
「ねぇ、ラウラ。平民の女性が貴族の男性を好きになるのはやっぱり間違っているわよね。もし両想いで結ばれてもハッピーエンドで終わるはずがないわよね…」
「……お嬢様、一体何のお話をされているのですか。今読まれている本の物語の登場人物に同情してしまったのですか?」
「……そんなところなの。ラウラはこんな話、どう思う?」
「まぁ、嫌いな話題ではありませんが、お嬢様の言う通り、まず愛人になれたとしても本妻から命を狙われる可能性が高いですね。もしその男性が未婚で、且つそれなりの権力と富を持つ当主であれば、その女性をどこかの下級貴族の養子に出した後で本妻として迎え入れる事もありますが、結婚してからも他の貴族からの好奇の目に堪えられるかどうか、という問題もあります」
(……そう、それ、それよ。愛人とか本妻とか、貴族の話題になるとよく飛び交う単語が私の頭の中から離れてくれないの!ゴシップ好きのメイドさん達の話を聞くのは私だって嫌いじゃないわ。でもそれは第三者の視点で聞くから面白いと思えるのであって、まさか自分がそんな単語に悩まされる境遇に立たされるなんて思いもしなかった……!こんな世界に転生してしまっても、いつか普通の家庭を持つのが私の夢だったはずなのに……)
サラはしょんぼりとした様子で、ラウラに質問を重ねていく。
「……結婚をしないで、生涯独身を貫く貴族もいるのかしら」
「非常に稀なケースではありますが、後継者を養子に迎えればあり得ます。その場合どこから養子を取るのかという問題で、親族間で必ず揉め事が起こります」
「…婚外子が産まれてしまったらどうなるの?」
「その子が幸せな人生を送れるかどうかは父親次第ですね。後継者問題が絡んでくるので、本妻や親族から命を狙わる可能性もありますから」
「…驚いた。ラウラはそういった事情にも詳しいのね」
「え?あ、それはですね、私も一応女ですし、仲間内でもそういう話は場を盛り上がりますからね。詳しくなるのも必然的と言いますか…」
「誤解しないでね。ラウラから恋愛話をあまり聞かないから興味がないのかなと思っていたの。でも質問に全部答えてくれそうな勢いだったから驚いちゃった。もしかして…、ラウラもそうなの?」
「そ、そうとは?」
「それは――」
身分が違う相手を好きなった事があるの?――サラがそう言いかけた時、部屋のドアをノックする音が鳴り響いた。ラウラが扉を開けると、エレナがやや緊張した様子で入り口に立っている。
「お嬢様、旦那様がお見えです。お嬢様を客間にお連れするようにと言付かっております」
マティアス侯爵の急な来訪の知らせに、サラより先にラウラが驚きの声を発する。
「閣下がいらしているのですか!?今日こちらにいらっしゃるとは聞いておりませんが…いくら何でも急過ぎではありませんか?」
マティアス侯爵は立派な軍人ではあるが、決していい父親とは呼べない存在である事をラウラは理解している。その口振りからサラの事を心配している事が伝わってくる。
「……ラウラ、私は大丈夫。それよりも…、お父様をお待たせしてはいけないわ。行きましょう」
侯爵はキースが騎士団の任務で不在である事を知っているはずだ。だが敢えてこの時間帯を狙って来たのかもしれないと考えたサラは息を呑む。
重い足取りで客間の前に辿り着くと、エレナが付き添ってきたラウラに振り返った。
「ラウラ様、中に入れるのはお嬢様だけです」
「わかりました。お嬢様、ここでお待ちしております」
「うん、ありがとう」
扉の前に立ったサラは目を閉じた。エレナが横でサラの気持ちが落ち着くのを待ってくれている事を感じながら、呼吸を整える。
(キースが私の事を単なる使用人やお嬢様の身代わりとかじゃなく、一人の女性として見てくれた事はとても嬉しかったわ。だけど例えこの世界が小説によって生み出された世界であっても、現実はそんなに甘い話じゃない。彼の事をもっと好きになってしまう前にここを離れるべきなのかもしれないわね。そして私が前に進む為にも、私が乗り越えなくてはいけない人がこの扉の向こうにいる……)
目を開けたサラは、エレナに心の準備が出来た事を頷いて知らせた。エレナがノックをすると、中にいたギルバートが扉を開けてサラを部屋の中に導いた後、彼も客間を出ていってしまった。
サラは扉が閉まったのを確認すると、ソファに腰かけているマティアス侯爵に挨拶をした。
「お待たせしました、旦那様」
「――久しぶりだな。今日はデビュタントの件でお前に話がある。座りなさい」
「……はい」
サラは侯爵の斜め向かいに腰かけ、顔を上げて侯爵の話を聞き始めた。その間、握りしめている両手は固く閉ざしたまま、爪が食い込む痛みで震える恐怖心を騙し続けていた。
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