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第二章
34、夢
しおりを挟む『椎名と申します。宜しくお願いします』
『今回のプロジェクトの担当になった本庄です。宜しくお願いします』
彼女は仕事で出会ってすぐに、どこか惹かれるところがあった。その後何度か顔を合わせるうちに、彼女の事が頭から離れなくなって、夢の中にも現れるようになった。
きっと理想の人に出会えたんだ、そう思うと、今度は好きになったことを早く伝えたくなってしまった。それでも一応大人なのだから、このプロジェクトが終わるまでは待つべきだと決めていた。
だけど街中で彼女と遭遇してしまったあの日、まだその時ではないとわかっていたはずなのに、少し立ち話をしただけで、その場から立ち去ろうとする彼女をつい呼び止めてしまった。
今彼女を引き止めなければ二度と告白が出来ないような気がして仕方がなかった。そしてとても情けないことに、焦った勢いで『今度デートをしませんか』と言ってしまった。
急にそんなことを言われたら絶対に戸惑うに違いない。ドキドキと心臓を打ち鳴らしながらも、俺は冷静を装った。
『仕事を一緒にしていて思ったんだけど、優しい人だなってずっと気になってたんだ…』
人目もある街中でこんな事を言い出した自分を一発殴りたくもなったけれど、彼女は戸惑いながらも怒るわけでもなく、恥ずかしそうに頬を赤く染めていることに気づいて、こう思った。
(あぁ、こんな可愛らしい顔を見られるなら告白して良かった。もし振られて嫌われても、きっと俺は、この人を傷つけるような事は絶対にしないと確信を持って言えるな)
彼女が何かを言いかけた時、ざわっと周囲の空気が変わった。その後に起こった事は、全部悪夢を見ているようだった。
地面に倒れた彼女を抱きかかえて必死に呼びかけてみても、何故か彼女は反応してくれない。自分の腕に伝わる生温かいものを感じて見てみると、シャツ越しでもわかるほどに、彼女の背中からは赤い血がじわじわと流れていた。
『なんで、どうして…!誰か…ッ』
助けを求めて周囲を見渡すと、暴れて逃げようとする一人の女の手足を、数名の男性が取り押さえていた。
『やめろ!笑うな!来るな!こっちに来るな!』
意味不明な言葉を連発して叫び、錯乱状態で抵抗している女の声は、その場から逃げようとする人々の悲鳴や怒鳴り声に埋もれ、周辺一帯はパニックに陥っていた。
(誰か、誰でもいい!彼女を助けてくれ!俺の大事な人なんだ…!)
呼吸が止まり彼女の顔から血の気が引いていく。それを見てしまった俺は、彼女の魂がここにはもうないことが瞬時にわかった気がした。
『ダメだ!逝かないでくれ!頼む、誰か…!』
こぼれ落ちる涙が彼女の顔を濡らしていく。言葉にならない叫びは喉の奥を詰まらせた。
救急隊が駆けつけるまで、ずっと抜け殻となった彼女の肉体を抱きしめて、俺はただ泣き続ける事しかできなかった。
告別式からの帰り道、近くに海岸線に沿った歩道があることを知って、しばらくそこを歩くことにした。
彼女のご両親にはあの日告白したことは言えず、自分はただの仕事の関係者で、偶然出会った街中で事件に遭遇し、彼女の最後を看取った者として挨拶をした。助けられなかったことを謝罪すると、『琉璃を最後まで看取ってくださりありがとうございました』と深く頭を下げられたが、それより深く頭を下げることしかできなかった。
大切な人を助けられなかった無力な自分が憎くて、あの事件の日からずっと、苛立ちと後悔と、感情の全てがごちゃ混ぜとなって心を蝕んでいた。
『海っていいですよね。友達は潮風を嫌がるんですけど、私はなんだか嫌いになれないんです』
仕事の打ち合わせが早く終わって、コーヒーを飲みながら休憩を取っている間、彼女とそんな会話をしたことを思い出す。
『実家の近くに海が見渡せる歩道があって、よく散歩したりジョギングしたりしてたんです。風もとても気持ち良くて―――』
彼女の顔と声を思い浮かべ、沈みゆく夕陽を見つめながら、
「忘れない。君の声も、笑顔も…」
そう心に誓った。
※ ※ ※
リックはいつもの時間に目を覚まし、ベッドの上で上半身を起こした。眠気はないが、長い夢を見ていた気もしながら、視界を遮る前髪をかきあげた。
どんな夢だったか、もし誰かにそう聞かれても、目が覚めればすべて忘れてしまうので、彼はまだ誰にもこの事を話したことはない。
(本当は忘れてはいけないはずなのに……)
そう思うと、なぜか後悔の念だけがこみ上げてくる。
すっと頬を伝う水滴を、リックは煩わしそうに手で拭った。夢を見た後は、気づかないうちにいつも涙を流しているようで、起きた時はいつも枕が少し濡れている。
「今日も、か…」
これでは誰かと朝まで寝床を共にするのは難しいな、と苦笑交じりに情けない事を考えながら、一息ついてベッドから足を降ろした。
テラスにつながる扉を開けると、空気が循環し、ひんやりとした気持ちのいい風が流れ込む。その気持ちよさに吹かれて、リックはサラが中庭で言った言葉を思い出してた。
『一日に一度は、どんな風が吹いていても、こうして手を伸ばして、少しでも触れたくなるんです。鳥になるよりも風になったほうが自由を感じられそうな気がして…』
おかしなことを言うな、と思ったはずなのに、その後に口からこぼれ出た言葉に矛盾があるような気がして、本当に自分がそう言ったのか、リックはわからなくなっていた。
(俺は確かに、あの時、『行かないでくれ』と口にして言っていた。なぜそう言ってしまったのか、自分でもわからない……)
何もない空間に手を伸ばしてみても、目の前で消えそうなものを捕まえておきたいという衝動しか浮かんでこない。
(またどこかで彼女に会えるだろうか…)
「聖女」の護衛責任者としての任務を解かれたリックは、次はいつ会えるかわからない寂しさを抱きながら、夜気の名残を感じさせる朝の空気を深く吸い込むと、普段通り騎士館へ出勤する為に朝の準備を始めた。
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