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第96話
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あまりにも恐ろしい光景だ。
黒と赤の大蛇が夜空を飛び、炎を吐き散らしながら戦っている。
王太子は蛇に構わず避難を優先させるように命じた。騎士として、もちろん命令に従うつもりだ。
だが、騎士であるが故に、人知を超えた化け物を目にして、迷いが生じた。
これを放っておいていいのか。命を捨てでも、斬りかかるべきではないのか。王国を守るために、剣を抜くべきでは。
怪我人を連れて退避すべきか、剣を抜くべきか、ほんの一瞬だけ、彼は迷った。
その一瞬の硬直が彼の命を脅かした。赤い蛇が吐いた炎の弾が、まっすぐに彼に向かって飛んできたのだ。
直撃する、と思った瞬間に、目の前に黒い壁が現れた。
黒い蛇が、体を滑り込ませ炎から彼を守った。
ナドガが騎士を庇ってシャリージャーラから離れた一瞬の隙を突き、シャリージャーラは大口を開けて地上めがけて飛びかかった。
狙いは―― 騎士に手を引かれてこの場を離れようとしているレイチェルだ。
「レイチェル!」
ナドガの声に、レイチェルは空を振り仰ぎ、自分に向かう牙を目にした。
血が迸った。レイチェルの頰に、熱い飛沫がかかる。
咄嗟につぶった目を開けたレイチェルは、自分を庇ってシャリージャーラに左半身を齧られたヴェンディグの姿を目にした。
「ヴェンッ……っ」
レイチェルは喉を引きつらせた。ヴェンディグの肩に、太い牙が食い込んでいる。ぼたぼたと血が落ちる音。生々しい匂いに、頭がぐらりとする。
ヴェンディグは痛みに呻き声一つあげず、右手を持ち上げ、握った何かをシャリージャーラの左目に突き刺した。
空の月まで揺るがすような大絶叫と共に、シャリージャーラがヴェンディグを吐き出すようにして離れた。
ヴェンディグはその場にどさりと倒れた。
「ヴェンディグ様っ!!」
レイチェルは座り込んでヴェンディグを助け起こそうとした。
だが、頭にも顔にも牙が掠った酷い傷があり、左のこめかみから頰にかけて肉が削られて真っ赤に染まっていた。肩口には牙が食い込んだ傷があり、血が噴き出している。左腕はほとんど取れかけている。怪我の深さも血の量も、一目見て致命的だとわかるものだった。
「……ヴェンディグ様っ!!」
レイチェルが呼びかけると、ヴェンディグは目を開けたが、その目からは急速に光が失われていくのがわかった。
ナドガは暴れるシャリージャーラを抑えるように絡みついた。
シャリージャーラの左目には、アーカシュア侯爵家の紋が刻まれた懐剣が突き立てられている。
「シャリージャーラよ……もう終わりだ。もう静かに眠るがよい」
ナドガが静かな声音で囁くと、シャリージャーラは残った右目でナドガを睨みつけた。
「お前などっ……もはや敵ではない!私の方が強い!私はお前などに倒されないっ!!」
シャリージャーラはナドガの拘束から逃れようとのたうちまわって暴れたが、強く締め付けられるばかりで些かも自由にならない。
おかしい。
力はシャリージャーラの方が上のはずだ。
何も食べていない蛇の王などより、シャリージャーラの方が遥かに強い。強くなったのだ。
だが、ナドガは痛ましい者を見るように目を細めた。
「シャリージャーラ。お前は王宮の人々を操るために、かなりの力を使っただろう」
「それがどうした!? それぐらいで、何も食っていないお前に負けるはずがっ……」
「食ったさ」
ナドガは言った。
「私は、それを食った」
支えた体から体温が失われていくのが感じ取れる。レイチェルは自分の方が寒くてガタガタ震えてしまいそうな気がした。
「ヴェンディグ様、閣下……ヴェンディグ様……っ」
「……レ……イチェル」
ヴェンディグが咳き込んだ。その口から血が溢れる。
「ヴェンディグ様っ……!」
ぼろぼろと涙を流すレイチェルの顔を見て、ヴェンディグは血にまみれた口元でふっと笑ったようだった。
「……泣く……な。俺の……愛しい、婚約者……」
レイチェルははっと目を見開いた。
ヴェンディグは、琥珀色の瞳を優しく緩ませてレイチェルをみつめていた。
「悪いな……もっと、カッコつけて言いたかった、けど……」
涙に濡れたレイチェルの頰に右手でそっと触れて、ヴェンディグは言った。
「愛してる」
その言葉の後に、すうっと、息を引き取る音が聞こえた。
蛇は人の「欲」を食らう。
「欲」にはいろんな種類があって、人の数だけ様々な「欲」が生み出される。
蛇の王ナドガルーティオは知っている。
一番、美味しい「欲」は何か。一番、力を与えてくれる「欲」は何か。
それは、一人では決して生み出せない「欲」。
「私は、この世で一番、強く尊い「欲」を手に入れた」
ナドガは言った。
「「愛」という「欲」を」
シャリージャーラの体に熱が籠る。だが、ナドガは少しも慌てなかった。ナドガの発する熱の方が、遥かに強い。
「二人の人間の「欲」が、お互いに向かい合って、混じり合った時、「愛」が生まれるのだ」
シャリージャーラが逃げ出そうともがく。その体から、ぶすぶすと黒い煙が上がり始めた。
「私の宿主は、愛し、愛されることを知った。その「愛」を糧にした私の力は、十二年間、一方的な「欲」だけを貪ってきたお前よりも強い!」
シャリージャーラの口から悲鳴が迸った。赤い鱗が燃え尽きるように煙と化し、次々に剥がれ落ちていく。赤い蛇の体が、ぼろぼろと崩れるように小さくなっていく。
「影に還れ。シャリージャーラよ。いずれまた、影から生まれることが出来る日まで」
憐れみを込めて声をかけ、最後の熱を浴びせた。
シャリージャーラは夜空に灰の匂いを残して、跡形もなく消滅した。
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