35 / 98
第35話
しおりを挟むレイチェルは思わず顔をしかめた。一つ一つがそれほど大声という訳ではないが、普通の声とは違う「欲」そのものの声は、まるでこちらにぶつかってくるような衝撃を伴って聞こえてくる。
『あの野郎、殴ってやりたい』
『少しぐらい私が得してもいいわよね』
『こんな連中の相手してられるか。俺にはもっとふさわしい場所があるんだ』
『皆もっと私を褒めてよ』
『あの娘の幸せを壊したいわ』
『私は他の人達とは違う。私が、私が、私が——』
レイチェルはあまりに暴力的な声の渦に耐えきれず耳を塞いだ。ぐらりと体が傾ぐのを、ヴェンディグが支えてくれる。レイチェルはその胸に縋り付きたくなった。
「そのまま耳を塞いでいろ。すぐに終わらせる」
そう告げると、ヴェンディグは集中するように目を閉じた。その額に汗が滲むのをレイチェルは見た。
この剥き出しの欲望の叫びの中から、蛇に蝕まれた声を探しているのだ。毎晩、十二年間も。
レイチェルは改めてそれを思い知り、たまらない気持ちになった。
どうして、この人がそんな役目を負わなければならなかったのだろう。蛇を受け入れることの出来る肉体を持っていたから。民のことを思う第一王子だったから。その程度の理由では、十二年は長すぎる。
レイチェルは自分の耳からそっと手を外した。
途端、様々な声がレイチェルを襲う。大勢に一気にがなりたてられているようで、頭ががんがん痛む。
こうすれば、少しでもヴェンディグの想いに寄り添えるのではないかと思ったのだ。
「……いないな。……おい、レイチェル」
ややあって、目を開けたヴェンディグが俯いているレイチェルの異変に気付いた。
「お前っ、なんで耳を塞いでいないんだ!」
レイチェルは真っ青な顔でヴェンディグを見上げた。
「申し訳ありません……私、お役に立てなくて……」
ヴェンディグがこれまでどんなことに耐えてきたのか知りたかった。レイチェルも同じ目に遭えば、少しでもヴェンディグに近づけると思って。
「閣下は、毎晩このような……なのに、私はこのくらいで……」
レイチェルはぎゅっと唇を噛んだ。自分の情けなさを思い知ると同時に、ヴェンディグの辛さを思い知らされた。
「気にすることはない。ヴェンディグも昔はしょっちゅう気絶していたし、翌日まで寝込むこともあった」
自分の情けなさを恥じるレイチェルに、ナドガが優しく声をかけた。
「他人の「欲」を聞くのだ。心身が疲労して当然だ」
ヴェンディグも眉間に皺を刻んで頷いた。
「嫌な内容を聞くことも多い。聞くに堪えないような」
レイチェルの肩に手を掛けて、自分の身に寄りかからせてヴェンディグが言った。
「だから、お前にはこんなことさせたくない」
レイチェルの目からぽろりと涙がこぼれた。
「というか、しないでくれ。お前の耳を汚したくない」
そんな風に言って、ヴェンディグが不器用にレイチェルの頭を撫でるものだから、涙が溢れて止まらなくなってしまった。
レイチェルだって、こんなものに十二年間も耐えてきたのだと思うと、もう何もかも忘れて休んでほしいと思ってしまう。
けれども、きっとヴェンディグは止まらないのだろう。大事な民の中に紛れ込んで人々を貪ろうとする蛇を捕まえるまで、彼は蛇の王と共に夜を駆けるのだろう。
目を開けていられなくなってきた。頭がぼんやりして、霞がかかったように思考が曖昧になっていく。
レイチェルは意識を保とうと頑張ったが、結局はヴェンディグに寄りかかって気を失ってしまった。
1
お気に入りに追加
291
あなたにおすすめの小説
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】悪役令嬢に転生したのに、あれ? 話が違うよ?
ノデミチ
ファンタジー
広井アリス、18歳。
日曜日、剣道部部活の帰り、居眠り運転のトラックに轢かれて死亡。気が付いたら公爵令嬢。
って、これ、やってたRPGの世界の悪役令嬢?ヒロインを虐めるはずなのに、あれ? ヒロインどこですか?
イベント、話が違うよ?
ゲームの世界より複雑な世界? 裏設定ってこうだったのか?
せっかくだから人生やり直し。ひたむきに頑張る公爵令嬢の物語。
アルファポリスonly
【完結】拾ったおじさんが何やら普通ではありませんでした…
三園 七詩
ファンタジー
カノンは祖母と食堂を切り盛りする普通の女の子…そんなカノンがいつものように店を閉めようとすると…物音が…そこには倒れている人が…拾った人はおじさんだった…それもかなりのイケおじだった!
次の話(グレイ視点)にて完結になります。
お読みいただきありがとうございました。
婚約者が庇護欲をそそる可愛らしい悪女に誑かされて・・・ませんでしたわっ!?
月白ヤトヒコ
ファンタジー
わたくしの婚約者が……とある女子生徒に侍っている、と噂になっていました。
それは、小柄で庇護欲を誘う、けれど豊かでたわわなお胸を持つ、後輩の女子生徒。
しかも、その子は『病気の母のため』と言って、学園に通う貴族子息達から金品を巻き上げている悪女なのだそうです。
お友達、が親切そうな顔をして教えてくれました。まぁ、面白がられているのが、透けて見える態度でしたけど。
なので、婚約者と、彼が侍っている彼女のことを調査することにしたのですが・・・
ガチだったっ!?
いろんな意味で、ガチだったっ!?
「マジやべぇじゃんっ!?!?」
と、様々な衝撃におののいているところです。
「お嬢様、口が悪いですよ」
「あら、言葉が乱れましたわ。失礼」
という感じの、庇護欲そそる可愛らしい外見をした悪女の調査報告&観察日記っぽいもの。
【完結】悪役令嬢と言われている私が殿下に婚約解消をお願いした結果、幸せになりました。
月空ゆうい
ファンタジー
「婚約を解消してほしいです」
公爵令嬢のガーベラは、虚偽の噂が広まってしまい「悪役令嬢」と言われている。こんな私と婚約しては殿下は幸せになれないと思った彼女は、婚約者であるルーカス殿下に婚約解消をお願いした。そこから始まる、ざまぁありのハッピーエンド。
一応、R15にしました。本編は全5話です。
番外編を不定期更新する予定です!
とんでもないモノを招いてしまった~聖女は召喚した世界で遊ぶ~
こもろう
ファンタジー
ストルト王国が国内に発生する瘴気を浄化させるために異世界から聖女を召喚した。
召喚されたのは二人の少女。一人は朗らかな美少女。もう一人は陰気な不細工少女。
美少女にのみ浄化の力があったため、不細工な方の少女は王宮から追い出してしまう。
そして美少女を懐柔しようとするが……
裏切りの公爵令嬢は処刑台で笑う
千 遊雲
恋愛
公爵家令嬢のセルディナ・マクバーレンは咎人である。
彼女は奴隷の魔物に唆され、国を裏切った。投獄された彼女は牢獄の中でも奴隷の男の名を呼んでいたが、処刑台に立たされた彼女を助けようとする者は居なかった。
哀れな彼女はそれでも笑った。英雄とも裏切り者とも呼ばれる彼女の笑みの理由とは?
【現在更新中の「毒殺未遂三昧だった私が王子様の婚約者? 申し訳ありませんが、その令嬢はもう死にました」の元ネタのようなものです】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる