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第一話「白い手」
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やっとの思いで自宅にたどり着き、文司は力の入らない手で鍵を開けた。
玄関に倒れ込みそうになるのを堪え、体を引きずるようにして台所へ向かう。適当なコップを掴んで水道の蛇口を捻り、文司はほっと息を吐いた。
水を飲めば少しは楽になるかもしれない。水を飲んで、それから少し眠ろう。
そう考えながらコップを傾けた文司は、口の中に滑り込んできた感触に眉をしかめた。ぬるぬるとしている。まるで、水苔の蔓延る池の水を口に含んでしまったような生臭さ。
たまらずに吐き出すが、口の中に残った嫌な感触は消えてくれず、文司はそのまま胃の中の物をすべて吐き出した。
胃液しか出なくなっても吐き気は治まらず、げえげえとえずく苦しさに涙をぼろぼろこぼしながら、文司は思った。もう、駄目だ。
ようやっと吐き気が落ち着いて、文司は調理台にもたれ掛かるように座り込んだ。
だめだ。何か異常だ。
胃液を吐いたせいで痛む喉から漏れる呼吸を整えながら、文司は力なく通学鞄を手繰り寄せた。
(やっぱり、石森に相談しよう……)
他にどうすればいいのかわからない。文司には、他に頼れる相手がいない。共働きの両親が帰ってくるのは夜中だ。今は、せめて石森の声だけでも聞きたい。一人は怖い。
文司は力の入らない手で鞄の中を探った。携帯を探り当てて鞄から取り出そうとして、指先から肩まで走った冷気に思わず携帯を投げ出した。
キッチンマットの上に転がった携帯を愕然と見つめて、文司は指先を握りしめた。
携帯が、氷のように冷たかった。
ごくりと唾を飲み込んで、文司は恐る恐る投げ出された携帯に手を伸ばした。指先でつつくように触れて確かめる。なんてことはない、普通の携帯の表面だ。
気のせいだったのか。いや、指先には痛みにも似た痺れが残っている。
うまく動かない指で必死に操作して、文司は親友へ助けを求めようとした。だが、呼び出し音が続くだけで通話は繋がらない。考えてみれば、親友は部活中だ。
文司は深く息を吐いた。部活が終わる頃にもう一度かけてみよう。息が整ってきたおかげか、少し気分も落ち着いてきた。文司は携帯を耳から離そうとした。
だが、その前に、規則正しく続いていた呼び出し音が、不可解に変化した。
とるるるるっ、とるるるるっ、とるるるろぉ、とぅるるぅうぅろろぉぉ、おぅるるぅぅうろぉぉぉあー、おおぉぅうぅぅろぉぉぉおあぁぁおおあああああ——
「っ……!」
文司は携帯を放り出した。がしゃんっがつっ、と音を立てて、携帯が床を滑って転がった。液晶画面が上を向いて、呼び出し動作が停止したと表示される。文司は台所の床に座り込んだまま、離れた場所に転がる携帯を睨んでいた。
喉の奥で激しく心臓が鳴っている。今のは何だ。まるで何かの呻き声のように変化した音が、文司の耳にこびりついた。
何が起きているのだ。
(怖い……)
文司は心の中で呟いた。この場に居たくない。なのに、体が動かない。
文司の体は恐怖で縛り付けられていた。
息を殺す文司の耳に、時計の針が進む音だけが届く。
どのくらいその音を聞いていただろうか。不意に、リビングの方からばさっと何かが落ちる音がした。
文司は飛び上がるほど驚いた。落ち着きかけていた心臓が再び跳ね上がって不規則なリズムを刻む。
文司はごくりと唾を飲み込むと、意を決して立ち上がった。
壁に手をついてそろそろと進み、音がした方を窺う。と、床に白い紙が落ちているのが目に入った。
どうやら、壁に据え付けらた固定電話の上のコルクボードから、何かの書類が落ちたらしかった。
文司はほっと息を吐き、のろのろと電話の方へ行き、落ちた紙を拾おうと屈み込んだ。
その手が、ふと止まった。
紙の上に、一緒に抜いて落ちた画鋲が突き立っていた。
不自然だ。
コルクから抜けて落ちたぐらいで、画鋲がこんなふうに床に突き刺さるだろうか?
おちていたのは入学式で撮ったクラスの集合写真だ。文司は画鋲と写真を拾い上げた。画鋲は一人の生徒の顔の横に小さな穴を開けていた。
(倉井……)
文司の脳裏に、図書室に行った日のことがぼんやりと蘇った。
(倉井……そうだ、倉井は霊能力があるって宮城が……)
あの日、稔は顔を青くして図書室から早く出たがっていた。もしも、大透が言うように、稔の霊能力が本物だったのなら。あの時に、何かを見たのだとしたら。
文司は写真をぎゅっと握りしめた。
(倉井なら、何かわかるのかもしれない……)
うっすらとした希望と共に、文司はクラスメイトの顔を思い浮かべた。
放り出されたままの携帯電話の液晶画面に映った女の顔が、じっと自分の背中を見つめていることに、文司は気づかなかった。
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