空夢、空事

香月しを

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江戸で・9

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 顔をまともに見れず、正面に座った。かたり、と箸がおかれる音がする。

「おい」
「……」
「なんや知らんけど、俺、銭持ってなくても遊んでってええんか?」
 コクリと頷く。男からは溜息が聞こえてきた。「で? なんで俺に抱かれたいんや?」
「…………」
「名前は?」
「……紅梅」
「は? ねりうめ?」
「べにうめだ! 馬鹿!」
 顔をあげて怒鳴ってやると、男はニヤリと笑った。杯を差し出してくる。黙って酒を注いだ。
「ようやく顔をあげた。顔が見たいのに隠してるから、からかってみたんや。悪かったな。それでお前……」
「なんだよ」
「なんで俺に抱かれたいんや? 会うの、初めてやろう」

(覚えてねぇんだ……)

 男の顔は、すぐにわかった。俺の顔だって、そんなに変わっているわけではない。あれだけ綺麗だなんだと騒いでいたくせに、男は俺を覚えてはいなかった。落胆する。将来、一緒になろうと言い出したのは、男の方ではなかったのか。腹がたってきた。先ほどまでの困惑が消えて、ならば抱いてみろ、という気持ちになった。途中で俺が男だと気付いた時の顔を見てみたい。どんな顔をするのだろうか。間抜け面を晒して、慌てて部屋を飛び出していくのだろうか。

「なんとなくだ。あんたが気持ちよくしてくれそうな気がして」
「……危なっかしい奴やなぁ」
「で、どうなんだ。抱くのか、抱かねぇのか!」
「な……なんでそんなに捨て鉢な感じなんや!」
「吉原に名を轟かせる紅梅さまが抱かれてやるって言ってんだ! 四の五の言わずにとっとと決めやがれ!」
「っは! おもろい女やなぁ。よし、じゃあ、抱いてやるわ。ここにおいで」
 男は、食膳を横に片付けて、自分の膝を叩いた。ここ、という事は、膝の上に乗れという事なのか、と戸惑っていると、腕を引かれた。後ろ向きに抱きかかえられて、自然に足が曝け出される。慌てて、裾をなおした。

「……あかん」

 男はそういうと、俺を離した。俺から顔を背けて咳き込んでいる。

「なんだってんだ……」
「すまん。抱けんわ」
「はぁ?」
「あかんのや。堪忍な」
「いや、抱けよ!」
「駄目や!」
「お前、女に恥かかせんのか?」
「それは謝る。そやけど、なんか、あの、こう、ぶわ~っと何かが……」
「何かって、なんだよ」
 ぶわ~っと何かがきているのは、俺の方だ。腕を引かれた瞬間に、一瞬で身体中に鳥肌が立った。わかっている。本能的なものだ。自分から誘っておいてなんだが、男に触られるのが気持ち悪かった。だからといって、男に先に拒絶されるのは我慢ならなかった。

「……すまん。とりあえず今日は、三味線でも聞かせてくれんかな……」
 部屋の隅に、三味線がたてかけてあった。それを手に取り、男の傍に持っていく。
「立て」
「は?」
「立てよ」
 男は、首を捻ると、ゆっくり立ち上がった。その尻をめがけて、三味線を叩きつける。

「いたぁ!」
「お前なんかこうしてやる! 馬鹿! 馬鹿ッ!」
泣けてきた。男は、慌てて、部屋を飛び出していった。三味線は、もう使えない状態になっていた。誰もいなくなった部屋の真ん中に、座り込む。しばらくして、婆が顔を出した。

「なんだい。随分派手に暴れたねぇ……」
「婆……」
「あんなに激しい女は初めてだって、お客さん帰っていったけど……どうした、抱かれたのか?」
「抱かれてねぇよ! 畜生! あいつ、馬鹿にしやがって!」

 悔しくて涙が止まらない俺を、ねえさん達が優しく慰めてくれた。やっぱり女はいいなぁと、すっかり慰められた俺だった。



「ただいま」

 姉は、そんなに怒っていなかった。着物を返し、草履をはきなおした。

「なぁに? 今度はどこへ行くの?」
「奉公だよ。とりあえず、もう一回行ってくる」
「そう、今度はしっかりね」

 男の格好に戻って、江戸へ向かう。途中、幼い頃に夜道で会った知り合いにまた出会った。
「よう、坊ちゃん、またどこへ行くんだい?」
「奉公だよ」
「奉公ね。あれ? 前にも行かなかったっけかい?」
「それはそれ。これはこれ、さ」

 後ろ向きに手を振る。頑張れよ、と後ろから声が聞こえてきた。

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