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公爵令嬢、シルヴィア・セプテンバーの話・4
しおりを挟む周辺諸国に、平和が訪れた。
あちらこちらでお祭りが催され、のほほんとした日常が、ようやく戻ってきた。不安そうだった人々に笑顔が戻り、街も活気づいてきたような気がする。
父も、無事に帰ってきた。あらゆる問題は平和に解決出来たという事で、王立騎士団も近衛騎士団も、誰一人怪我などをしている人間はいないようだ。
「そういえば、明日は王都でパレードがあるんだけど、シルヴィアも行ってみるかい? 陛下や殿下が、国民に顔を見せて手を振るんだ。私達の騎士団は勿論警備にあたるけど、王族が出てくるから、近衛達も参加する筈だよ。きみの婚約者殿にも会えるかもしれない」
「…………私の婚約者? あのノーベンバー伯爵を名乗っている薄情者の事でしょうか?」
「あ、拗ねてる」
「拗ねてなどおりません!」
「拗ねてないなら行っておいでよ。近衛騎士達の控えの場に通してもらえるよう、団長に言っておいてあげる」
近衛騎士団長のボールドウィン侯爵は、父の親友だ。昔はいがみ合っていた王立騎士団と近衛騎士団。それぞれの団長に親友同士が就任してから、関係が良好となった。元々、同じ国で国や人を護る団体なのだ。手を取り合った方が、都合が良い。
父からそこまで言われたら、断るのも失礼だ。私は五年ぶりに、薄情な婚約者に会う事にした。
十歳になり、淑女教育もサボらずに見事にレディとして育った私は、鏡の中の自分に微笑んでみせる。『サファイアの君』などと、巷で噂になっている少女の事を、我が婚約者はわかってるのだろうか。最初はそれほどでもなかった。けれど、今ではどうしてもあの人が欲しい。媚を売るつもりは更々ないが、ぐいぐい追いかける自分は、あの人から嫌われてしまうかもしれない。しかし。
「見てなさいハリー。絶対私に夢中にさせてみせるわ!」
五歳の幼児に口付けされて顔を赤くしていた騎士見習いの顔を思い出す。元は、勘違いから生まれた縁だ。これはきっと運命なのだ。
ボールドウィン侯爵は、私の顔を見るとニコリと微笑んでハリーの控室を教えてくれた。騎士達は、大きな館を一時的に借りて、休憩所として使っているのだ。サファイアの君の噂は騎士達の間にも浸透しているらしく、ハリーの部屋へ向かう私を、騎士達は興味深そうに眺めていた。プラチナブロンドの髪に、最高級のサファイアと同じ、コーンフラワーブルーの瞳を持つ十歳のレディがいる。美しく、気高く、誰にも靡かない。サファイアの君の噂はそんなものだ。
「は? なんで俺があんなガキの面倒見なきゃならねえんだよ!」
控室の扉をノックしようとして、直前で手が止まった。部屋の中から聞こえてくる声は、記憶のものよりも幾分低いものだったが、喋り方が彼と同じだった。
「仕方ないでしょ? ご指名なんだから」
ハリーの叫びに、色っぽい声が続く。女性と一緒にいるのだろうか。女嫌いと言っていた筈なのに。
「とにかく、ガキの相手なんて真っ平御免だ」
「まあまあ、そう言わずにさ。夜になったらベッドで慰めてあげるから」
「卑猥な言い方をするな!」
「一緒にお風呂に入った仲じゃないの~」
「とにかく! 俺は、あの生意気なガキの顔も見たくねえんだよ! こうなったら、使える力は全部使って……」
気付いたら、ノックもせずに扉を開けていた。胸が熱い。喉がぎゅっと絞まる。大きな音をたてて開いた扉。中にいたのは、ハリーと、美しい顔をした騎士。私の顔を見て、二人とも、驚いていた。
「…………ハ……リ」
「えッ? おま……」
「あら、綺麗な子ね。うん? プラチナブロンドに、サファイアブルーの瞳? もしかして貴女……」
美人の手が、ハリーの肩に置かれていた。口を半開きにしたまま私を見下ろしているハリーは、記憶よりもずっと大人になっていて、背が高く、逞しい体は、まるで別人のようだ。ハリーの肩に置かれている手は、いまだに動く気配はない。ハリーが私に近付いてくる気配もない。生意気なガキの顔も見たくないと言った婚約者は、訝しげに私を見詰めているだけだ。喉の奥が苦しくなって、頬を熱いものが伝った。唇を噛みしめる。後から後から、涙が零れる。淑女教育など、一瞬で吹っ飛んだ。
「ノーベンバー伯爵! 貴方のお気持ちは、よくわかりました! 私みたいな子供が嫌なら、勝手に婚約破棄でもなんでもすればいいわ! そしたら、私は当初の予定通り、ノア様に娶ってもらうんだから!」
首からさげていたペンダントを引き千切り、ハリーに投げつけた。五歳の時、最後にもらったマーガレットを押し花にして、透明な樹脂のようなもので加工したものだ。癇癪を起した私は、後さき考えずにそれを放棄した。頭の中が沸騰して、冷静に物事を考えるなど、出来なかった。ドレスの袖で顔をゴシゴシと擦りながら、背を向ける。部屋を飛び出し、通路を駆け抜け、近衛の控所をも飛び出した。後からハリーが何か叫んでいたが、振り返る事などしない。だって、私は、放棄したのだ。ハリーにペンダントを投げつけた一瞬で、婚約者の立場も、貴族令嬢の魂も、公爵令嬢という重い立場も。誰にも合わせる顔がない。私はただひたすらに走った。
賑やかな場所を走り抜けると、人通りの少ない路地に出た。パレードの予定されている通りに比べて、異様に静かだ。人気のない建物、通りの隅でこちらを睨みながら何か囁き合っている男達。今更ながらに、供もつけずにこのような街中に飛び出してしまった自分の迂闊さに気付く。慌てて人の多いところへ戻ろうとした私の前に、男性が立ちはだかった。
「こんなところで美しい御嬢さんがどうなさったのかな?」
手足を拡げ、行く手を阻む初老の男は、じりじりと近付いてくる。嫌な圧力を感じ、後退した。
「あの……?」
「その瞳、もしや貴女は、サファイアの君では? 世界の億万長者達が、涎を垂らして欲しがっている、我が国の至宝」
白髪、長身、整った顔は、上品な紳士に見えた。かつての私であれば、黄色い声をあげて尻尾を振っていた事だろう。けれど、ノア様という本物の紳士や、本質が優しいハリーとの出会いがあった私には、目の前に立つ紳士が偽物である事がすぐにわかった。彼等に認めてもらう為、淑女として振る舞う内に、私を欲しがる男性が増えに増え、そのような感情をぶつけられる事に慣れてしまったのだ。瞳の奥に浮かんだ歪な感情を敏感に察知する事が出来るようになった。今、目の前で私に覆いかぶさらんばかりに近付いてきている男は、私に不埒な真似をしようとしている。
「急いでおりますので、私はこれで……」
「おや、どちらへ行かれるのかな? 私がエスコートして差し上げよう。さあ、どうぞ」
「いえ、結構です。では」
「お待ちなさい」
差し出された腕を躱し、後退しつつ逃げ道を探すと、突然強い力で手首を掴まれた。もう片方の手が私の腰に伸びようとしている。
私は、私の持てる全ての力を使って、大きな悲鳴をあげた。
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