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壊れた音
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防音設備のある練習個室は、ピアノ一台で半分埋まってしまうほどの狭さだった。数にも限りがあり、音楽科生分はとてもじゃないがまかないきれていない。部屋の仕様はどれも同じで、基本的には早い者勝ちだ。奏一と眞音は下校一に足早にやってきていたから、部屋は選び放題だった。
眞音とともに練習室に入った奏一だが、自分の部屋も確保しておきたいというのが本音だった。バイオリンが小さい楽器の部類だとはいえ、二人で練習するには狭すぎる部屋だ。
「一回だけでいいから、付き合えよ」
そわそわする奏一の心を読んだのか、眞音はにやりと笑いながら奏一をピアノ椅子に座らせ、楽譜を渡した。
「ロマンス……眞音の試験曲だな」
「そう。奏一、伴奏やって」
言いながら眞音は楽器を取り出し演奏の準備を始める。
「やって、と言われても。俺、ピアノはそんなに得意じゃないし、初見で伴奏が務まるとは」
困惑する奏一を、眞音は軽く笑い飛ばした。
「いいよ途中で落ちたって。おまえに伴奏を求めてるわけじゃない」
そう言う間も手際よく弓を締め松脂を塗り、譜面台を立ててあっという間に眞音の準備が整う。奏一は観念して楽譜を読み始めた。バイオリンの響きを確かめるように、眞音がウォーミングアップの音階を弾き並べる。奏一がピアノ譜を流し読んでいると、一通り音出しを終えた眞音がよし、と声を上げた。
「奏一、準備はいいか」
「よくはないけど、いいとしか言えないよな」
「ごちゃごちゃ言うなって。いいか奏一、オレの演奏を聴いてろよ」
そうまで言うなら無伴奏で聴かせてほしい、と奏一は思ったが、すでに弓を構えた眞音には何を言っても無駄だった。観念して奏一も鍵盤の上に指を乗せる。
眞音のアインザッツの息は、奏一の想定よりも速かった。奏でられるフレーズも、まるでワルツのように軽やかだ。
ピアノ譜にかじりつきながらも、奏一はなんとか眞音の演奏へと意識を向けた。やがてに楽譜通り弾くことを諦めた奏一は、コードやベースラインをなんとか押さえながら、その上で踊る眞音の音を聴いた。
これが、眞音の『ロマンス』。
明るく陽気にさえ感じられる歌い方は、本来の作曲者の意図に反しているようにも思われた。曲の印象が、まったく違う。それでも、嫌な感じはしない。こんな解釈があるのか、とむしろ驚かされる。
曲の一番の盛り上がりをさらに一気に駆けて、冒頭のフレーズに戻る前に大きなラレンタンドがかかった。いや、ゆっくりというよりは、むしろ自由に。
その後に現れる主題に、奏一はまた不意をつかれた。曲の頭と同じメロディなのに、全く違う。落ち着いたテンポで演奏されるそれは、演者が別人になったかと思わせるほど音色にも違いがあった。水瓶に湛えられた澄んだ水が揺蕩うような、その水面を見つめる気分にさせられた。
奏一はもはやピアノを弾いてはいなかった。ただ目を閉じて、眞音のバイオリンを聴いていた。
これは、敵わない。
自分にはこんな演奏はできないと、奏一は素直に思った。技術や練習量や、そういったもので張り合ったりはしていなかった。奏法も、自分には自分の歌い方があると、それは眞音とは別の土俵だと奏一は思っていた。
そして、始まりの明るさが嘘のように、眞音の『ロマンス』は儚く消え入るように終わった。
当時はわからなかった。今ならわかる。
あれが、眞音の「胸に秘めておくには大きすぎる想い」そのものだ。あの時の奏一には、そこに込められたものが何であったのか、わからなかった。
眞音とともに練習室に入った奏一だが、自分の部屋も確保しておきたいというのが本音だった。バイオリンが小さい楽器の部類だとはいえ、二人で練習するには狭すぎる部屋だ。
「一回だけでいいから、付き合えよ」
そわそわする奏一の心を読んだのか、眞音はにやりと笑いながら奏一をピアノ椅子に座らせ、楽譜を渡した。
「ロマンス……眞音の試験曲だな」
「そう。奏一、伴奏やって」
言いながら眞音は楽器を取り出し演奏の準備を始める。
「やって、と言われても。俺、ピアノはそんなに得意じゃないし、初見で伴奏が務まるとは」
困惑する奏一を、眞音は軽く笑い飛ばした。
「いいよ途中で落ちたって。おまえに伴奏を求めてるわけじゃない」
そう言う間も手際よく弓を締め松脂を塗り、譜面台を立ててあっという間に眞音の準備が整う。奏一は観念して楽譜を読み始めた。バイオリンの響きを確かめるように、眞音がウォーミングアップの音階を弾き並べる。奏一がピアノ譜を流し読んでいると、一通り音出しを終えた眞音がよし、と声を上げた。
「奏一、準備はいいか」
「よくはないけど、いいとしか言えないよな」
「ごちゃごちゃ言うなって。いいか奏一、オレの演奏を聴いてろよ」
そうまで言うなら無伴奏で聴かせてほしい、と奏一は思ったが、すでに弓を構えた眞音には何を言っても無駄だった。観念して奏一も鍵盤の上に指を乗せる。
眞音のアインザッツの息は、奏一の想定よりも速かった。奏でられるフレーズも、まるでワルツのように軽やかだ。
ピアノ譜にかじりつきながらも、奏一はなんとか眞音の演奏へと意識を向けた。やがてに楽譜通り弾くことを諦めた奏一は、コードやベースラインをなんとか押さえながら、その上で踊る眞音の音を聴いた。
これが、眞音の『ロマンス』。
明るく陽気にさえ感じられる歌い方は、本来の作曲者の意図に反しているようにも思われた。曲の印象が、まったく違う。それでも、嫌な感じはしない。こんな解釈があるのか、とむしろ驚かされる。
曲の一番の盛り上がりをさらに一気に駆けて、冒頭のフレーズに戻る前に大きなラレンタンドがかかった。いや、ゆっくりというよりは、むしろ自由に。
その後に現れる主題に、奏一はまた不意をつかれた。曲の頭と同じメロディなのに、全く違う。落ち着いたテンポで演奏されるそれは、演者が別人になったかと思わせるほど音色にも違いがあった。水瓶に湛えられた澄んだ水が揺蕩うような、その水面を見つめる気分にさせられた。
奏一はもはやピアノを弾いてはいなかった。ただ目を閉じて、眞音のバイオリンを聴いていた。
これは、敵わない。
自分にはこんな演奏はできないと、奏一は素直に思った。技術や練習量や、そういったもので張り合ったりはしていなかった。奏法も、自分には自分の歌い方があると、それは眞音とは別の土俵だと奏一は思っていた。
そして、始まりの明るさが嘘のように、眞音の『ロマンス』は儚く消え入るように終わった。
当時はわからなかった。今ならわかる。
あれが、眞音の「胸に秘めておくには大きすぎる想い」そのものだ。あの時の奏一には、そこに込められたものが何であったのか、わからなかった。
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