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二分の一オムライス
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佐倉洋食軒は、今日も多くのお客さんで賑わっていた。買い物帰りの子連れ客や近くの寮生が気軽に食べに来る。
「みずえさん、いらっしゃいませ」
「彩美ちゃん。こんにちは」
常連客のみずえさんは窓際のバス停がよく見える席がお気に入りだった。人通りを眺めるのが好きなのと、バスの時間を忘れない為らしい。
「みずえさん、お冷のおかわり如何ですか?」
「ありがとう。頂くわ」
みずえさんが好んで食べるランチプレートは、小ぶりのオムライスとサラダにミニグラタンがセットで、女性や学生に人気のメニューだ。
「お父様の代の頃と変わらず美味しいわ」
子供の頃から両親に連れられ度々来ていたみずえさんと、店で宿題をしていた伯父さんとお父さんはここで出会い、姉弟の様に育った。伯父さんより十歳年上のみずえさんは、伯父さんの宿題を見ることもあったという。
「ありがとうございます」
伯父さんが嬉しそうに頭を下げた。
店が暇な時は二人で思い出話をしていて、私が話に加わると冗談を交えて、色々と話してくれる。でも、今現在のみずえさんの話を聞くと、途端に口が重くなった。時折見せる暗い表情に何か事情があると察した伯父さんが、それとなく聞いてみたが、何でもないと笑うだけだった。
「そうだ、みずえさん。来月の二十日はみずえさんのお誕生日だそうですね。おもてなしするので是非来てください」
みずえさんは来月の三月で七十になる。
「ありがとう。祝ってくれるひとがいないから嬉しいわ」
その提案に、ぱっと表情を明るくしたのを見て、伯父さんもほっとした顔をした。
みずえさんにはとても仲の良いご主人がいたが、一昨年亡くなってしまったそうだ。闘病の末のことだからと気丈にも微笑んで見せた。
「その時は、特別なオムライスでお祝いしましょうね!」
「あら、そうなの? 楽しみにしているわ」
みずえさんにはオムライスに特別な思い入れがあるのだと前に話してくれた。
「彩美ちゃんは高校何年生だったかしら? ちゃんと手伝っていて偉いわね。昌孝君は結構、厳しいでしょ」
「春で高校二年です。父に言わせれば、甘すぎだそうです」
「そうなの。彩美ちゃんを見ていると、娘がいたらなって思うことがあるのよ。ただ子供がいない分、新婚気分でいれたのは良かったんだけどね」
「ずっと新婚気分ですか……それは素敵ですね」
「そうね。今思えば、幸せな日々だったわ」
みずえさんとご主人が、お互いを支えるようにして歩いているのを見たことがある。それは寒い冬の日だった。突風でみずえさんの解けたマフラーをご主人が直してあげて、それに微笑みで返す、そんな二人の関係は見ていると心が温かくなるほど素敵だった。
「今日はゆっくり出来るんですか?」
「残念ながら午後から病院なのよ」
バス停をちらりと見た。病院は佐倉洋食店前のバス停から数えて七つ目、そこから徒歩五分の所にある。
「みずえさん、どこか悪いのか」
「昌孝君、そんな顔しないで。最近、ちょっと忘れっぽいの。お医者様には軽度の認知症って言われてしまったの。大事な思い出ほど、忘れたくないものね」
「出来ることがあるなら言ってください」
「大丈夫。あなたはここで美味しい料理を作ってくれるだけでいいの。あなたの料理を食べている時は昔のままでいられるから」
「じゃあ、少し顔を見せるだけでもいいからもっと来てくださいよ」
伯父さんも無茶を言っていると自覚しているのだろう。
「嬉しいこと言ってくれるのね。本当にそう出来たら……そろそろ行かないと。じゃあまた、来週ね」
そう言ってバス停にゆっくりと歩いて行った。散歩が趣味だというだけあって、歩調はしっかりしていた。でも、一人で歩く姿はどことなく寂しげだ。
「ねえ、みずえさんって、伯父さんとお父さんの初恋のひとだっけ?」
ごほんと咳払いをして、「テーブルの上を片付けなさい」と言った。二人でお酒を飲んだ時にぽろりとこぼしてしまったのを後悔しているのだ。
「みずえさん。今日も綺麗に食べてくれたね」
「食が細くなってきたけど、これなら全部食べられるって言っていたが」
みずえさんは大事な人とオムライスを半分ずつ分けて食べるのが好きだった。甘いトマトソースのオムライスとアスパラガスのクリームソースをかけたオムライスを、半分ずつ取り分けて一緒にお皿に載せて食べるのが幸せだと言った。
『二つのソースが混じったところが最高に美味しいの!』
伯父さんに話すみずえさんを見て、胸がキュッとなってしまった。みずえさんにとって、それが出来る相手がもういなくなってしまったから。
「みずえさんの誕生日には、ホワイトアスパラガスのソースを作る。彼女にとっての思い出の味だからな」
ホワイトアスパラガスの出荷時期は短く、ホワイトアスパラガスのオムライスは五月から六月の期間限定の人気メニューだ。
「でも、大丈夫なの?」
「実は三月頃から佐賀県や九州でも採れるんだ。知り合いに頼んで仕入れることにした」
「そこまでするのは、初恋の相手だから?」
「こら、良い加減にしつこいぞ。ほら、皿洗いやってくれ」
伯父さんはわざらしく仏頂面で言った。
「はーい」
「いいよ。彩美ちゃんはオーダーとって来てくれる?」
見習いの晴樹君が食洗機に皿を詰め込む。
「分かりました。お願いします」
晴樹君は高校卒業したあと調理師専門学校へ進み、三年間学んだ後に縁あってこの店に来た。穏やかな性格で、年上なのに気さくに話しかけてくれるから、たまに敬語を使うのを忘れてしまう。
「お待たせ致しました。ご注文お伺い致します」
「今日はBランチだったな。飲み物は食後にホットコーヒーで」
常連客の田中さんは大きな手で、メニュー表を指さした。近所の不動産屋で働いていて、A、B、C、本日のおすすめの順番に注文する。一種の験担ぎだと前にこっそり教えてくれた。そんな風に、少しずつ自分のことを話してくれるお客さん達との時間が好きだった。
「はい。Bランチ、食後にホットコーヒーですね。少々お待ちくださいませ」
怪しげな敬語で注文を取る。最初は緊張も相まって常連のお客さんに笑われたものだ。ほとんどの常連のお客さんは私が小さい頃からの知り合いで、優しく見守ってくれているのだが、それがちょっと恥ずかしい。
「すみませーん。三人なんですけど、入れますか?」
「はい。今すぐ片付けますので少々お待ちくださいませ」
テーブルの上を台拭きで丁寧に拭く。カトラリーを確認して、三人のお客さんを席に案内した。
「本日のおすすめはビーフシチューのサラダセットです。パンかライスをお選び頂けます。こちらランチメニューです」
「有難うございます。あの、映画の半券でミニデザートプレゼントってあるんですけど、大丈夫ですか?」
「はい。アイスクリームかミニプリンをサービスいたします。どちらがよろしいですか?」
三人は本日のおすすめと、A 、Bランチそれぞれ選んだ。Aランチはハンバーグ、Bランチはカツレツ、Cランチはオムライスだ。
「彩美ちゃん、サラダお願い」
「はい」
サラダとドリンクを三人客のテーブルに運ぶと、三人は観たばかりの映画の話で盛り上がっていた。私もアルバイト代が入ったら観に行きたいと思っていた映画だった。ネタバレされる前にそそくさとテーブルを離れたが、一歩遅かった。
「聞きたくなくても耳に入っちゃうことってあるよね」
「犯人、分かっちゃいました。でも仕方ないですよね。注文が終われば店員はお客さまにとっては空気のような存在だし。お店としてはその方が良いですよね」
「まあね。でも話に夢中になりすぎて、料理に手をつけてないのを見ると、『早く食べてくれ! 美味しい時間を逃すぞー!』って念を送ることにしている」
「何をあほなことを言ってんだ。手が止まってるぞ」
「すみません」
伯父さんは困ったように笑ったけど、本心は嬉しいんじゃないかと思う。
「彩美ちゃん、三番さんにホットコーヒー出して」
「はい」
今日も新旧のお客さんが入れ違いにやって来て、会話と料理を楽しんで帰っていった。
「あっ。これ、映画の半券——」
晴樹君が床に落ちていた半券を拾う。
「三人客の誰かが落としたんでしょうか」
「これ、今日の日付じゃないな」
「嘘、確認しましたよ」
「日付まで、ちゃんと見た?」
言われてみたら、最初の一人は日付を確認したけど、あとの二人は同タイトルだった為にちゃんと日付まで見てなかった。
「伯父さん、ごめんなさい」
「いいよ。次はちゃんと確認してくれ」
「だけど、せこいことするなあ」
楽しそうに映画の話をしながら食事をする三人からは、そんなことをする人達には見えなかった。
「元気出して片付けよう。ほら、今日のまかないは何かな。楽しみだね」
「——はい」
気を取り直して掃除機のスイッチに手を伸ばす。こういう時にすぐフォローしてくれる晴樹君の存在は有り難かった。
「伯父さん、今日のまかないは何?」
「オムライスだ」
「やったあ! もしかして、ホワイトアスパラガスのソース?」
「まかないでは出さないよ」
「……ちょっと言ってみただけ」
隅々まで掃除機をかけ、トイレチェックをする。トイレットペーパーを補充して戻ってくると、晴樹君が窓の外を見つめていた。
「どうしたんですか?」
「今ね、外を歩いてるみずえさんらしき人を見た気がするんだけど、気のせいかな?」
「えっ。もう十時になるし、本人だったらこんな遅くに珍しいですね。一人でした?」
晴樹君は声のトーンを落として、伯父さんを気にするように見た。
「若い男と一緒だったんだよ。高校生くらいかな?」
「それは、ますますあり得ない気がします」
「だよね。親戚とか全然いないって前に言ってたし」
「二人とも、終わったんなら食べるぞ」
「はーい」
慌てて掃除用具を片付けた。
「美味しそう」
甘いトマトソースとカリカリに焼いたベーコンの匂いが食欲をそそる。
「いただきます!」
オムライスの卵は、少し厚みがあって食べ応えがある。スプーンで端っこをすくうと、バターの香りがした。
「みずえさんの誕生日のオムライスはトマトソースとホワイトソースを用意して、食べる時にかけてもらうの?」
「うーん」
伯父さんは食べながら頷いた。考えている時の癖だ。
「ミニオムライスを二つなんていうのはどうです?」
「うーん」
「もしかして……みずえさんは誰かと半分こにして食べたいのかな?」
「単純に味のことだけなら、ソースを二つ付ければ良いんだが」
オムライスにソースが二つ。最も現実的だが、それでみずえさんは喜ぶのだろうか。
「友人や家族と分け合う行為がしたい相手に、ソースを二つ付けるだけじゃ、かえって寂しい思いをさせてしまうかもしれない」
「ねえ、伯父さんが半分こしたら良いんじゃない? シェフじゃなくて、幼なじみとして」
「それは俺も考えたんだが、ここではあくまでもただの料理人だからな」
「本当に親しい親戚とかは誰もいないんですかね?」
「晴樹君?」
「——ああ。そう聞いている」
晴樹君は何かを考えているようで、黙り込んでいた。
「さあ、食べたら帰るぞ。日曜日も忙しいぞ」
「はーい」
二人は残りのサラダを口に押し込んだ。
日曜日も昼前から徐々にお客さんでいっぱいになった。もう一人の大学生アルバイトの莉子さんが、臨機応変にテキパキと対応してくれるおかげで、パニックにならずに済んだ。一度、SNSで『古き良き洋食屋』と紹介されてから、新規のお客さんが訪れるようになり、週末は常連さんが遠慮するようになってしまった。
『皆さんの事も大事だからお店のことを考えてくれているのなら、気にしないで来て欲しい』
そう伯父さんが常連さん達に頭を下げて、それならばと週末にも顔を出してくれるようになった。
「一過性の流行りだったら、つぶれてしまうよ」
謙遜して言うけど、伯父さんの料理は色んな人に食べて欲しいと思ってしまう。
「五番さん、本日のランチセット、アイスティー」
「はい」
五番テーブルに料理を運び終わると、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ……あれっ」
勢いよくみずえさんが飛び込んできて、苦しそうに咳き込んだ。
「みずえさん! どうしました?」
慌てて駆け寄ると、みずえさんが腕にしがみついてきた。
「ちょっと、匿って!」
ドラマでしか聞いたことのないセリフに度肝を抜かれていると、もう一度ドアベルが鳴る。飛び込んできた人物に身構える私の側に、異変を感じた常連さん達が集まってきた。
「ばあちゃん! ちゃんと話を聞いて!」
私と同じ年頃の青年が、同じく息を切らせて走り込んできた。
「お、おばあちゃん?」
「——見つかっちゃった」
みずえさんは、ふうっと息を吐いた。
「お孫さん、いらっしゃったんですか?」
窓際の一番端、バス停が見えるいつもの席に二人を案内した。
「強いて言えば……血の繋がらない孫?」
みずえさんは首を傾げて言う。
「意味分からないわよね。でもこの話、長くなるのよ」
お孫さんは誠也君というらしい。伯父さんを見ると、事情を知っているようで顔色を変えずにいつも通りにフライパンをふるっている。
「……そうなんですか」
「せっかくだからランチをいただきましょう」
みずえさんはいつものランチプレート、誠也君はAランチのハンバーグを注文した。その場を離れてそれとなく見たが、切羽詰まった二人は何処へやら、落ち着いた表情で会話をしていた。
「三番さん、ランチプレート、Aランチです」
「はいよ」
注文表を確認して取り掛かる。
「何だったの?」
ロングの髪の毛を一つに束ねた姿がいつも凛々しい莉子さんには珍しく、興味津々といった表情だった。
「さあ。程よくあしらわれました」
伯父さんが吹き出して、それを誤魔化すように咳払いした。
「気になるわね」
そう言い残し、呼ばれた席にメニュー表を持って行った。
直接関わり合いにならない莉子さんですら、テーブル席を気にしているのに、伯父さんは素知らぬ顔だ。後で聞いたら教えてくれるだろうか。
ランチタイムが落ち着いて、晴樹君と私は休憩に入る。まかないのカレーを食べ終わった晴樹君が、やっと喋れると言わんばかりに口を開いた。
「あのお孫さんは、半分この相手にならないのかな?」
「でも晴樹君。みずえさんは彼から逃げていたんですよ?」
「でも、普通に話してたし」
「うーん」
伯父さんの真似をして考えてみるけど、良い考えは浮かんでこなかった。
「いっそのこと、オムレツ半分こパーティーとかにする?」
「それ良いかもしれない!」
盛り上がっていると、莉子さんが休憩変わって欲しいと入ってきた。晴樹君と一緒に食器を抱えてスタッフルームを出る。
「伯父さん、みずえさん達は?」
「帰った」
「えっ」
「話は後で。ラストオーダーだってお客様達に伝えてきて」
「はい」
佐倉洋食軒は十時から三時までのランチタイムと五時から九時までがディナータイムだ。
「皆まで言うな。おかわりの珈琲飲んだら帰るよ」
常連さんたちはおどけながら、珈琲のおかわりを催促する。それくらいは許容範囲で、順にテーブルを回った。
三時を少し過ぎた頃には、皆、重い腰を上げて帰って行った。伯父さんと晴樹君はディナータイムの仕込みを始め、私と莉子さんは掃除や備品チェック等を手分けして作業する。
「何かみずえさんのこと、聞きにくい雰囲気ね」
莉子さんがこそっと私に耳打ちする。
「はい。話は後でって言う時の大人って、大体話してくれないですよね」
「よく分かってるじゃない」
「伯父さんとお父さんって、顔を合わせたら口喧嘩ばかりなのに、口癖とか笑い方がそっくりなんですよ」
「家族ってそんなものじゃない?」
「そっか、そうですよね」
「何? 悩みでもあるの?」
「何もないです、すみません」
「本当? 何かあれば話くらい聞くからね」
「ありがとうございます」
私がここでアルバイトをしているのを、お父さんは快く思っていないのが悩みだなんて、この場では言いにくかった。それが、心配性の父親としての意見だということも分かっていたから余計だ。
「彩美、それが終わったら今日は上がっていいぞ」
見透かしたようなタイミングで伯父さんからの声がかかる。
「明日からまた学校なんだから早く帰って明日に備えなさい」
伯父さんは私を遠ざけようとしてる気がして、素直に頷けなかった。
「彩美ちゃん。その方が良いよ。何かあったらメールするからさ」
「はい。分かりました。お疲れ様でした」
「はい、お疲れさん」
伯父さんは学業優先だと、土日や長期休暇にしかアルバイトをすることを許してくれなかった。アルバイト代が魅力なのもあるけど、何より伯父さんのお店が大好きだったから、もっとお店の役に立ちたかった。
店を出てすぐ、映画館のポスターを見て足が止まる。
「この映画……」
それは三人のお客さんにネタバレされた映画だった。
「その映画、先に原作を読んだ方が分かりやすいと思うよ」
声に驚いて振り向くと、みずえさんの『血の繋がらない孫』、誠也君が笑顔で近づいてきた。
「その制服、ウチの」
「やっぱり同じ高校なんだ。俺、二年。そっちは?」
「——一年です。何で制服なんですか?」
「ああ、これ? 補習だったんだよね。家でちょっと色々あって学校に行けなかったから。多分、春休みも潰れそう」
「そうなんですか」
みずえさんの事を聞きたかったけど、そこに大変な事情がありそうだ。
「お茶でもする?」
誠也君がファーストフードのお店を指さした。
「はい、ぜひ」
思わず食い気味で返事をしてしまった。
「昨日はびっくりさせたよね」
「——はい。あっ。すみません」
「ううん。そりゃ、びっくりするよね」
誠也君は、皮付きポテトフライにケチャップをたっぷりつけてもぐもぐと頬張った。
「あの。みずえさんのこと、聞いても良いですか?」
「うん。みずえさんはね、僕のおじいちゃんの内縁の妻だったんだって」
「……内縁の妻って」
高校生の会話としては刺激の強いワードではないか。思わず周りを見てしまったが、誰もこちらを気にする様子はなかった。
「順番に話すね。詳しい事情は分からないんだけど、みずえさんではなくて、本当のおばあちゃんね。おばあちゃんが、おじいちゃんと別れてから一人で産んだのが僕の母さんなんだ」
「えっ」
「おばあちゃんは、ずっとおじいちゃんに話すかを迷ってたんだって。でも自分から別れを告げておいて虫が良過ぎるって——だから結局、言えなかったって」
「でも、一人で子育てって……」
子供の私には想像出来ないけど、とても大変な思いをしたのではないだろうか。
「おじいちゃんは、おばあちゃんと別れた後で出会ったみずえさんと結婚することを考えたらしいんだ」
淡々と話す誠也君は、自分よりずっと年上に見えた。
「おばあちゃんはお母さんが三歳まで、何とか一人で育てて来たんだけど、出産後に無理して働いたせいで身体を壊して、自分で育てられなくなっちゃったんだって」
みずえさんはどんな思いで、娘でもいたらだなんて話してくれたのだろう。
「おばあちゃんはまだ小さかったお母さんを、苦渋の決断でおじいちゃんの所へ預けに行ったんだと思う」
「でも、おじいさんはみずえさんと一緒に暮らしていたんだよね?」
突然、子供を預かって欲しいと言われて受け入れられるものだろうか。
「うん。でも、結局は三人で暮らすことになったって」
オレンジジュースのグラスを握りしめていた私を見て、誠也君はにこりと笑った。
「ごめん、ジュース飲んでよ」
「ごめんなさい。何だかドラマみたいな話で」
ジュースの味はいまいち分からなかった。
「僕も初めて経緯をお母さんから聞いた時はポカーンだったよ」
誠也君のお母さんは、五歳の頃に遠い親戚に引き取られて大学を卒業するまで親戚の元で育った。それから会社で知り合った男性と結婚して、二十五歳の時に誠也君が生まれたのをきっかけに地元へ帰って来たという。
「今、おばあちゃんは介護施設にいるんだ。みずえさんもね、同じ敷地内の病院に通っていて、お母さんとお見舞いに行った時に偶然再会したんだ」
「すごい偶然」
「お母さんは、ちょっと嫌そうだったけど」
溶けた氷で薄くなったコーラをストローでかき回した。
「僕が小学生の高学年になった頃は、一人で自転車に乗っておじいちゃんの家に遊びに行ってたんだ」
「みずえさんは優しかった?」
「もちろん。本当のおばあちゃんみたいに、優しくしてくれたよ。カレーライスを一緒に作ったり、花火してくれたり」
誠也君にとって身近なおばあちゃんは、みずえさんの方だった。それはみずえさんにとっても同じで、家族同然になっていたのかもしれない。
「そっかあ。オムライスも作って貰った?」
誠也君はちょっと驚いた顔をした。
「みずえさんから何か聞いてるの?」
「えっと、オムライスは思い出の料理だって。大事な人と一緒に食べたって聞いたから、誠也君とも食べたかなって」
「そっか。だから、僕には作ってくれなかったのかな」
「えっ?」
誠也君は傷ついたような顔をした。触れてはいけない部分だったのかもしれない。
「君の伯父さんのお店の——窓際の席に座っておじいちゃんとみずえさんが楽しそうにしているのを見たことがあるんだ」
誠也君の曇った表情に胸騒ぎがして、この先を聞くのが怖かった。
「ちょうど店を出る所だったから、出て来たところを驚かせようと思って待ち伏せしてたんだ。おじいちゃんって声をかけたら少し驚いた顔をしたけど、すぐにいつもの優しい顔で家に来るかって言ってくれた。みずえさんも一緒に行こうって笑ってくれたから、ちょっと調子に乗ってたのかも」
「誠也君……」
「何を食べたのって二人に聞いたら、おじいちゃんがオムライスだよ。今度は一緒に食べに来ようって。だったら、今度作ってよって何も考えずに言っちゃったんだ。そしたら、みずえさんは悲しい顔をして、ごめんね。オムライスは作れないのよって」
「でも、本当に作れないとか。うちのお母さんなんて、天ぷらはお店で食べるもの! とかよく言うよ」
明るく言ってみると、誠也君はちょっと笑ってくれた。
「みずえさんにね、一口ちょうだいって言うと、綺麗なスプーンに取り替えて小皿に載せてくれるんだ。僕は自分の皿に直接、載せて欲しかったんだけど。やっぱり、赤の他人だと思われてるのかなあ」
「うーん」
「ごめん。子供っぽいよね。母親があまりそういうことしない人だからさ、他の家族が分け合って食べているのを見て羨ましかったんだよね」
「やっぱり、みずえさん本人に聞いてみたいよね? 絶対に来てね、誕生日」
「うん。ああ、暗くなって来ちゃったね」
「えっ? ああ、何時だろ」
携帯電話を見ると、四時半を過ぎていた。
「そろそろ帰ろうか。今なら次のバスに乗れそうだ。今日は突然声かけたのに、話を聞いてくれてありがとう。おかげで、少しすっきりした」
「ううん。こちらこそ、色々聞いちゃってごめんね」
ただの好奇心で聞いてしまった自分を恥ずかしいと思った。何か自分に出来ることはあるだろうか。
次の土曜日は、みずえさんは来なかった。私は誠也君に会って聞いた話を伯父さんに言えずにいた。そのこともあり、みずえさんに対してどういう顔をすればいいか分からず、少しほっとしてもいた。
「彩美、ぼうっとして疲れたか?」
「ごめんなさい。みずえさんの誕生日のこと考えてた。もう掃除、終わるから」
「そうだな。そろそろ決めなきゃだな」
「——伯父さん」
「ん? なんだ。出来たぞオムライス」
まかないのオムライスをカウンターに載せた。用事があるという晴樹君が先に帰ったので、伯父さんと久々の二人きりのご飯だった。
「デミグラスソースだ。子供の頃、初めて食べて、大人の味だって思ったんだっけ」
「ああ、苦味が少しな」
「美味しい。あ、ニンジンみっけ」
少し大きめのニンジンがオムライスの中から転がるように出てきた。子供の頃、苦手なニンジンが食べられるようになったのも、伯父さんのおかげだった。
「何か話があるんじゃないのか」
伯父さんにはお見通しだったらしい。先週の出来事を吐き出すように話した。
「よく今まで黙っていられたなあ」
伯父さんが感心するように言うのを見て、肩の力が抜けた。
傍目にはみずえさんと誠也くんは祖母、孫の関係に見えていた。
「みずえさんは、誠也君が言いたい事を分かっていてそれを拒否してるんだろうな。誠也君のおばあさんとお母さんに遠慮しているのかもしれない。本人は口が裂けても言わないだろうがな」
みずえさんは未婚の母になってしまった元恋人とその娘の事があって、最後まで籍を入れなかったと伯父さんは考えているらしい。
「それ、みずえさんのせいじゃないよ」
「きっとご主人と一緒に過去を背負おうとしたんじゃないかな」
「でも、誠也君はみずえさんのことをおばあちゃんって呼んでた。本当に大好きなんだよ」
「うーん」
叔父さんは黙り込んでしまい、私も仕方なく黙々とオムライスを食べた。この重い空気の中で、ラジオから流れる流行歌だけが優しく響いていた。
次の日の日曜日、誠也君が母親らしき女性を連れてやって来た。その女性は晴樹君が案内した窓際の席を嫌がり、奥の席を希望した。
「八番さん、ランチプレートとCランチ、食後にホットコーヒーとコーラです」
「はいよ」
「誠也君、オムライス頼んだんだ」
「ん? オムライスが何?」
「えっ。あ、いいえ」
誠也君はデミグラスソースがかかったオムライスを半分程食べたところで女性にも美味しからと勧めていた。
「うん。美味しいわ」
水のお代わりを注ぎに行くと、女性は先程より表情が柔らかくなっていた。
「彩美さん。今日は母と食べに来ました」
やはり母親だったその女性は、ショートカットの髪を揺らして頭を下げた。
「こんにちは。息子がお世話になったそうで、有り難うございます」
「いえ、そんな。こちらこそ……」
慌てて頭を下げると、女性はくすりと笑った。
「お料理、とっても美味しいわ。そういえば今度、みずえさんのお誕生日のお祝いをこちらでするそうですね。息子も参加したいそうなので、どうぞ宜しくお願いします」
「有り難うございます。あの、もし宜しければ、お母様もご一緒に如何ですか?」
「私が? それは遠慮します」
ぴしゃりと言われ、返答につまる。
「事情を息子から聞いてらっしゃるのよね? ならお分かりでしょう。私はあちらと仲良くする気はないんです。でも、息子には自由にさせてますから」
「母さん。もう良いよ、分かってるから。ごめんね。彩美さん」
「いえ、私こそすみません」
私はすごすごとその場を離れた。余計な一言で、一気に空気を変えてしまった。でも、みずえさんを話題にしたのは向こうなのにあんな言い方するなんてと、やり場のない怒りに似た気持ちが湧いてくる。
「大丈夫?」
「晴樹君、またやっちゃった」
「猫背にならない! はい、深呼吸! もうすぐ莉子さんが来るからそれまで頑張ろう」
「はい」
晴樹君の言う通りに深呼吸を繰り返す。
「二人共、お疲れ様!」
莉子さんの明るさにも助けられ、どうにかランチタイムを乗り切った。常連さん達がみずえさんの誕生日の話をし出すと、誠也君の母親は居心地悪そうに珈琲のおかわりを断って、誠也君を連れて帰って行った。帰り際の誠也君の何とも切なげな表情が、胸を苦しくさせた。
ディナータイムの仕込みをしていると、ドアベルが鳴った。
「すみません。ランチタイムは終了して——みずえさん!」
「みずえさん。顔を見せなかったから心配してましたよ」
「ごめんなさいね。あのね、私の誕生日のことだけど、やっぱり遠慮しようと思ってるの」
病院の帰りに寄ったのか、すっとアルコールのような匂いがした。
「みずえさん、とにかくこちらへ座ってください」
いつもの窓際の席に座らせた。
「ありがとう。何だか色々疲れてしまって」
病院での治療に加え、最近の出来事に心が弱ってしまっているという。
「みずえさん。俺達にまで遠慮なんかしなくていい。こっちが勝手にやりたいと思ってることなんだから。でも、もしそれが負担になっているのなら、もちろん中止にしたっていい」
みずえさんは、違うのと首を振った。
「でもね、私なんか年寄りに手間をかけることないのにって……ご迷惑じゃないかって」
「迷惑なんて、誰も思ってないです。それに誠也君も楽しみにしてるんですよ!」
思わず口を挟む。
「誠也君が?」
「そうです。誠也君はみずえさんと一緒にオムライスを食べたいんだと思います」
「オムライスを?」
「誠也君は自分も大事な人だと思って欲しいんじゃないかと——すみません。想像ですけど」
「そう、そうだったのね」
「どうぞ」
晴樹君が紅茶を勧めると申し訳なさそうに一口飲んだ。
「そう。あの子、覚えてたのね。小さい時にオムライスを作って欲しいってねだられて断ってしまったこと」
佐倉洋食軒でオムライスに感動したみずえさんを見て喜んだ両親が、誕生日やお祝い事は必ずここで過ごす様になった。そして、ホワイトアスパラガスのソースがかかったオムライスが好きだった母親が、みずえさんに提案をした。
「『二分の一オムライス、なんてどう?』と言って、半分空いたスペースに母の食べていたオムライスを載せてくれたの。とろりとしたホワイトソースが甘いトマトソースに混じって、ぱっと、まろやかなソースの味に変わったの」
みずえさんはその時の味を思い出したらしく、頬を触った。
「その二分の一オムライスには、大事な思い出が詰まっているのよ」
友達同士や恋人、そして一生涯の伴侶とのかけがえのない時間そのものだった。
「あの子が家族として接してくれるのが分かっていて、ずっと気持ちをはぐらかしていたの。だけど、孫と料理をしたり、花火大会に行ったりすることがこんなにも幸せなことなんだって知ってしまった。それが続くと信じていたの。でもある日、誠也君の母親に誠也の祖母は貴方じゃないって言われてしまったのよ。会うのは許すけど、それだけは勘違いしないでって」
「じゃあ、誠也君の気持ちはどうなるんです? 自由って、何なんですか」
「——そうね。大人が勝手に決めるものではないのよね」
「みずえさん。ちゃんと誠也君の口から本心を聞いて受け止めて欲しい」
「昌孝君。ごめんなさいね。こんな個人的なことに巻き込んで」
「だから、それを水臭いと言ってるんです」
「……昌孝君」
「大声出してすみません」
伯父さんは頭を下げた。
「ありがとう」
「いえ。私にとってみずえさんは大事な幼なじみなので、元気でいてほしいんです」
「誕生日、来てくださいね」
「昌孝くん。皆さんも、ありがとう……あら、お迎えが来たみたい。そろそろ帰らなきゃ」
「お迎え?」
戸口の向こうで誠也君が手を振った。
「一緒に映画を観て、一緒にご飯を食べる。孫とおばあちゃんじゃなくても出来るのよね。一番それにこだわってたのは私なのかもしれないわ」
誠也君はみずえさんに寄り添うようにして、歩いて行った。
みずえさんの誕生日当日のランチタイムは、沢山のお客さんで賑わっていた。
「すみませんでした!」
驚いたのは、映画の半券を当日のものと偽っていた三人客が謝りに来たことだ。どうやら他のお店でも同じことをしようとしたところを、常連客の田中さんが諭して止めさせたらしい。
「田中さん、素敵すぎます!」
「当然のことをしたまでさ。それより、あの二分の一オムライスって何?」
田中さんが黒板の文字を指さした。
「本日限定メニューで、オムライスのソースを二種類お選び頂けます。おすすめは、甘口トマトソース&ホワイトアスパラガスのソースです。程よい甘味と酸味のあるトマトソースと、滑らかで口当たりの良いホワイトアスパラガスのソースが混ざり合うのをお楽しみください」
「長台詞、よく覚えたな――それ、美味そうだな」
「はい、是非ご賞味下さいませ。こちら、サービスのシャンパンでございます」
「おお、梅の香りがする。みずえさん達も楽しそうで良かったね」
「はい。まさか、誠也君のお母さんも来てくれるとは思わなかったですけど」
二人は口喧嘩するみたいに言い合いをしている。何をもめているのかと思ったら、みずえさんが誠也君の皿に自分のオムライスを載せようとするのを、母親が止めようとしていたのだ。
「私のをあげるんですって」
小競り合いしながらも、顔は笑っている。
「ほら、笑ってないで食べてよ誠也」
「そうよ誠也君。私のもあげるから」
自分のオムライスを載せようと構えている。
「もう。良いから、二人も落ち着いて食べなよ。子供じゃないんだから」
そう諭されて、二人は渋々オムライスを食べ始めた。思っていた以上に賑やかな誕生日会になったみたいだ。
「ほら、僕達もやらない? 二分の一オムライス」
晴樹君がオムライスをニ皿カウンターに乗せた。
「僕達も食べて良いって」
伯父さんはオムライスを作り続けて汗だくだが、とても嬉しそうだ。
「半分こにするの、聞いた時からやってみたかったんだよね」
「私もです」
二人は二つのオムライスにそれぞれ一つずつソースをかける。
「じゃ、分けるね」
晴樹君がスプーンでオムライスを割る。
「あっ、ニンジン。彩美ちゃんにあげる」
ころりと大きめに切ったニンジンの他、玉ねぎや豚の角煮が出て来た。
「余り物、増し増しだね」
「でも美味しそう!」
「はい、交換ね」
二人はオムライスの半分を皿に載せ合った。トマトソースとホワイトソースが溶け合う。
「真ん中から食べよう」
「んー! 美味しい」
「角煮とクリームソースも合うんだね」
二人はオムライスをあっという間に食べてしまった。
「バースデーケーキも楽しみです」
「うん。喜んでくれるといいな」
晴樹君は伯父さんと二人でランチタイムの仕込み前にケーキを焼いたらしい。
みずえさん達が食べ終わったのを見計らって、バースデーソングを流す。
「あらあら、まあ。これは照れるわね」
特大ケーキを持つ私と晴樹君に、頬を赤らめた。お客さん達はノリノリで歌う。
「ばあちゃん、火を消して」
誠也君も嬉しそうだ。
何度か吹いても消えず、最後は誠也君と母親も混ざって火を消した。
「お誕生日おめでとうございます!」
「有り難う。本当に嬉しいわ。これでもう——」
「これで何も思い残すことない、なんて言わないで下さいね。口喧嘩出来るひと、いなくなっちゃったらつまらないですから」
「貴女も言うわねえ。私は長生きしますよ」
「望むところです」
「もう。二人ともなんなの」
誠也君は二人から離れ、ケーキを配る私のところへ来て手伝い始めた。
「ありがとう。でも、お客さまなのに」
「いいんだ。もう、二人で喧嘩してくれって感じ」
「でも、本音で言い合えて良かったじゃない」
「そうだね。僕の願いも叶ったし」
「うん」
「今度はさ、僕とオムライス食べてくれない?」
「えっ」
「嫌じゃなければね。ケーキも美味しそう。ここで食べても良い?」
「もちろん!」
カウンター席に座ってケーキを三人並んで食べる。
「僕もアルバイト、雇ってくれないかなあ」
「三年生ってことは受験勉強大変だろう?」
晴樹君がちょっと意地悪な顔をした。
「まあ、そうですけど」
「見つめ合ってどうしたの? 早く食べようよ」
「彩美ちゃんって鈍感だよね」
「だな」
今度は仲良く話し始めてる二人を交互に見て、思わず首を傾げる。
「彩美ちゃん、イチゴ食べる?」
「僕のもあげるよ」
私のケーキはあっという間にイチゴまみれになった。
「んー、幸せっ」
いつか私もこんな風に誰かと幸せを半分こ出来たら良いなと思いながら、甘酸っぱいイチゴを口いっぱいに頬張った。
春の風が、賑やかな店内を羨むように窓を鳴らして去って行った。
了
「みずえさん、いらっしゃいませ」
「彩美ちゃん。こんにちは」
常連客のみずえさんは窓際のバス停がよく見える席がお気に入りだった。人通りを眺めるのが好きなのと、バスの時間を忘れない為らしい。
「みずえさん、お冷のおかわり如何ですか?」
「ありがとう。頂くわ」
みずえさんが好んで食べるランチプレートは、小ぶりのオムライスとサラダにミニグラタンがセットで、女性や学生に人気のメニューだ。
「お父様の代の頃と変わらず美味しいわ」
子供の頃から両親に連れられ度々来ていたみずえさんと、店で宿題をしていた伯父さんとお父さんはここで出会い、姉弟の様に育った。伯父さんより十歳年上のみずえさんは、伯父さんの宿題を見ることもあったという。
「ありがとうございます」
伯父さんが嬉しそうに頭を下げた。
店が暇な時は二人で思い出話をしていて、私が話に加わると冗談を交えて、色々と話してくれる。でも、今現在のみずえさんの話を聞くと、途端に口が重くなった。時折見せる暗い表情に何か事情があると察した伯父さんが、それとなく聞いてみたが、何でもないと笑うだけだった。
「そうだ、みずえさん。来月の二十日はみずえさんのお誕生日だそうですね。おもてなしするので是非来てください」
みずえさんは来月の三月で七十になる。
「ありがとう。祝ってくれるひとがいないから嬉しいわ」
その提案に、ぱっと表情を明るくしたのを見て、伯父さんもほっとした顔をした。
みずえさんにはとても仲の良いご主人がいたが、一昨年亡くなってしまったそうだ。闘病の末のことだからと気丈にも微笑んで見せた。
「その時は、特別なオムライスでお祝いしましょうね!」
「あら、そうなの? 楽しみにしているわ」
みずえさんにはオムライスに特別な思い入れがあるのだと前に話してくれた。
「彩美ちゃんは高校何年生だったかしら? ちゃんと手伝っていて偉いわね。昌孝君は結構、厳しいでしょ」
「春で高校二年です。父に言わせれば、甘すぎだそうです」
「そうなの。彩美ちゃんを見ていると、娘がいたらなって思うことがあるのよ。ただ子供がいない分、新婚気分でいれたのは良かったんだけどね」
「ずっと新婚気分ですか……それは素敵ですね」
「そうね。今思えば、幸せな日々だったわ」
みずえさんとご主人が、お互いを支えるようにして歩いているのを見たことがある。それは寒い冬の日だった。突風でみずえさんの解けたマフラーをご主人が直してあげて、それに微笑みで返す、そんな二人の関係は見ていると心が温かくなるほど素敵だった。
「今日はゆっくり出来るんですか?」
「残念ながら午後から病院なのよ」
バス停をちらりと見た。病院は佐倉洋食店前のバス停から数えて七つ目、そこから徒歩五分の所にある。
「みずえさん、どこか悪いのか」
「昌孝君、そんな顔しないで。最近、ちょっと忘れっぽいの。お医者様には軽度の認知症って言われてしまったの。大事な思い出ほど、忘れたくないものね」
「出来ることがあるなら言ってください」
「大丈夫。あなたはここで美味しい料理を作ってくれるだけでいいの。あなたの料理を食べている時は昔のままでいられるから」
「じゃあ、少し顔を見せるだけでもいいからもっと来てくださいよ」
伯父さんも無茶を言っていると自覚しているのだろう。
「嬉しいこと言ってくれるのね。本当にそう出来たら……そろそろ行かないと。じゃあまた、来週ね」
そう言ってバス停にゆっくりと歩いて行った。散歩が趣味だというだけあって、歩調はしっかりしていた。でも、一人で歩く姿はどことなく寂しげだ。
「ねえ、みずえさんって、伯父さんとお父さんの初恋のひとだっけ?」
ごほんと咳払いをして、「テーブルの上を片付けなさい」と言った。二人でお酒を飲んだ時にぽろりとこぼしてしまったのを後悔しているのだ。
「みずえさん。今日も綺麗に食べてくれたね」
「食が細くなってきたけど、これなら全部食べられるって言っていたが」
みずえさんは大事な人とオムライスを半分ずつ分けて食べるのが好きだった。甘いトマトソースのオムライスとアスパラガスのクリームソースをかけたオムライスを、半分ずつ取り分けて一緒にお皿に載せて食べるのが幸せだと言った。
『二つのソースが混じったところが最高に美味しいの!』
伯父さんに話すみずえさんを見て、胸がキュッとなってしまった。みずえさんにとって、それが出来る相手がもういなくなってしまったから。
「みずえさんの誕生日には、ホワイトアスパラガスのソースを作る。彼女にとっての思い出の味だからな」
ホワイトアスパラガスの出荷時期は短く、ホワイトアスパラガスのオムライスは五月から六月の期間限定の人気メニューだ。
「でも、大丈夫なの?」
「実は三月頃から佐賀県や九州でも採れるんだ。知り合いに頼んで仕入れることにした」
「そこまでするのは、初恋の相手だから?」
「こら、良い加減にしつこいぞ。ほら、皿洗いやってくれ」
伯父さんはわざらしく仏頂面で言った。
「はーい」
「いいよ。彩美ちゃんはオーダーとって来てくれる?」
見習いの晴樹君が食洗機に皿を詰め込む。
「分かりました。お願いします」
晴樹君は高校卒業したあと調理師専門学校へ進み、三年間学んだ後に縁あってこの店に来た。穏やかな性格で、年上なのに気さくに話しかけてくれるから、たまに敬語を使うのを忘れてしまう。
「お待たせ致しました。ご注文お伺い致します」
「今日はBランチだったな。飲み物は食後にホットコーヒーで」
常連客の田中さんは大きな手で、メニュー表を指さした。近所の不動産屋で働いていて、A、B、C、本日のおすすめの順番に注文する。一種の験担ぎだと前にこっそり教えてくれた。そんな風に、少しずつ自分のことを話してくれるお客さん達との時間が好きだった。
「はい。Bランチ、食後にホットコーヒーですね。少々お待ちくださいませ」
怪しげな敬語で注文を取る。最初は緊張も相まって常連のお客さんに笑われたものだ。ほとんどの常連のお客さんは私が小さい頃からの知り合いで、優しく見守ってくれているのだが、それがちょっと恥ずかしい。
「すみませーん。三人なんですけど、入れますか?」
「はい。今すぐ片付けますので少々お待ちくださいませ」
テーブルの上を台拭きで丁寧に拭く。カトラリーを確認して、三人のお客さんを席に案内した。
「本日のおすすめはビーフシチューのサラダセットです。パンかライスをお選び頂けます。こちらランチメニューです」
「有難うございます。あの、映画の半券でミニデザートプレゼントってあるんですけど、大丈夫ですか?」
「はい。アイスクリームかミニプリンをサービスいたします。どちらがよろしいですか?」
三人は本日のおすすめと、A 、Bランチそれぞれ選んだ。Aランチはハンバーグ、Bランチはカツレツ、Cランチはオムライスだ。
「彩美ちゃん、サラダお願い」
「はい」
サラダとドリンクを三人客のテーブルに運ぶと、三人は観たばかりの映画の話で盛り上がっていた。私もアルバイト代が入ったら観に行きたいと思っていた映画だった。ネタバレされる前にそそくさとテーブルを離れたが、一歩遅かった。
「聞きたくなくても耳に入っちゃうことってあるよね」
「犯人、分かっちゃいました。でも仕方ないですよね。注文が終われば店員はお客さまにとっては空気のような存在だし。お店としてはその方が良いですよね」
「まあね。でも話に夢中になりすぎて、料理に手をつけてないのを見ると、『早く食べてくれ! 美味しい時間を逃すぞー!』って念を送ることにしている」
「何をあほなことを言ってんだ。手が止まってるぞ」
「すみません」
伯父さんは困ったように笑ったけど、本心は嬉しいんじゃないかと思う。
「彩美ちゃん、三番さんにホットコーヒー出して」
「はい」
今日も新旧のお客さんが入れ違いにやって来て、会話と料理を楽しんで帰っていった。
「あっ。これ、映画の半券——」
晴樹君が床に落ちていた半券を拾う。
「三人客の誰かが落としたんでしょうか」
「これ、今日の日付じゃないな」
「嘘、確認しましたよ」
「日付まで、ちゃんと見た?」
言われてみたら、最初の一人は日付を確認したけど、あとの二人は同タイトルだった為にちゃんと日付まで見てなかった。
「伯父さん、ごめんなさい」
「いいよ。次はちゃんと確認してくれ」
「だけど、せこいことするなあ」
楽しそうに映画の話をしながら食事をする三人からは、そんなことをする人達には見えなかった。
「元気出して片付けよう。ほら、今日のまかないは何かな。楽しみだね」
「——はい」
気を取り直して掃除機のスイッチに手を伸ばす。こういう時にすぐフォローしてくれる晴樹君の存在は有り難かった。
「伯父さん、今日のまかないは何?」
「オムライスだ」
「やったあ! もしかして、ホワイトアスパラガスのソース?」
「まかないでは出さないよ」
「……ちょっと言ってみただけ」
隅々まで掃除機をかけ、トイレチェックをする。トイレットペーパーを補充して戻ってくると、晴樹君が窓の外を見つめていた。
「どうしたんですか?」
「今ね、外を歩いてるみずえさんらしき人を見た気がするんだけど、気のせいかな?」
「えっ。もう十時になるし、本人だったらこんな遅くに珍しいですね。一人でした?」
晴樹君は声のトーンを落として、伯父さんを気にするように見た。
「若い男と一緒だったんだよ。高校生くらいかな?」
「それは、ますますあり得ない気がします」
「だよね。親戚とか全然いないって前に言ってたし」
「二人とも、終わったんなら食べるぞ」
「はーい」
慌てて掃除用具を片付けた。
「美味しそう」
甘いトマトソースとカリカリに焼いたベーコンの匂いが食欲をそそる。
「いただきます!」
オムライスの卵は、少し厚みがあって食べ応えがある。スプーンで端っこをすくうと、バターの香りがした。
「みずえさんの誕生日のオムライスはトマトソースとホワイトソースを用意して、食べる時にかけてもらうの?」
「うーん」
伯父さんは食べながら頷いた。考えている時の癖だ。
「ミニオムライスを二つなんていうのはどうです?」
「うーん」
「もしかして……みずえさんは誰かと半分こにして食べたいのかな?」
「単純に味のことだけなら、ソースを二つ付ければ良いんだが」
オムライスにソースが二つ。最も現実的だが、それでみずえさんは喜ぶのだろうか。
「友人や家族と分け合う行為がしたい相手に、ソースを二つ付けるだけじゃ、かえって寂しい思いをさせてしまうかもしれない」
「ねえ、伯父さんが半分こしたら良いんじゃない? シェフじゃなくて、幼なじみとして」
「それは俺も考えたんだが、ここではあくまでもただの料理人だからな」
「本当に親しい親戚とかは誰もいないんですかね?」
「晴樹君?」
「——ああ。そう聞いている」
晴樹君は何かを考えているようで、黙り込んでいた。
「さあ、食べたら帰るぞ。日曜日も忙しいぞ」
「はーい」
二人は残りのサラダを口に押し込んだ。
日曜日も昼前から徐々にお客さんでいっぱいになった。もう一人の大学生アルバイトの莉子さんが、臨機応変にテキパキと対応してくれるおかげで、パニックにならずに済んだ。一度、SNSで『古き良き洋食屋』と紹介されてから、新規のお客さんが訪れるようになり、週末は常連さんが遠慮するようになってしまった。
『皆さんの事も大事だからお店のことを考えてくれているのなら、気にしないで来て欲しい』
そう伯父さんが常連さん達に頭を下げて、それならばと週末にも顔を出してくれるようになった。
「一過性の流行りだったら、つぶれてしまうよ」
謙遜して言うけど、伯父さんの料理は色んな人に食べて欲しいと思ってしまう。
「五番さん、本日のランチセット、アイスティー」
「はい」
五番テーブルに料理を運び終わると、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ……あれっ」
勢いよくみずえさんが飛び込んできて、苦しそうに咳き込んだ。
「みずえさん! どうしました?」
慌てて駆け寄ると、みずえさんが腕にしがみついてきた。
「ちょっと、匿って!」
ドラマでしか聞いたことのないセリフに度肝を抜かれていると、もう一度ドアベルが鳴る。飛び込んできた人物に身構える私の側に、異変を感じた常連さん達が集まってきた。
「ばあちゃん! ちゃんと話を聞いて!」
私と同じ年頃の青年が、同じく息を切らせて走り込んできた。
「お、おばあちゃん?」
「——見つかっちゃった」
みずえさんは、ふうっと息を吐いた。
「お孫さん、いらっしゃったんですか?」
窓際の一番端、バス停が見えるいつもの席に二人を案内した。
「強いて言えば……血の繋がらない孫?」
みずえさんは首を傾げて言う。
「意味分からないわよね。でもこの話、長くなるのよ」
お孫さんは誠也君というらしい。伯父さんを見ると、事情を知っているようで顔色を変えずにいつも通りにフライパンをふるっている。
「……そうなんですか」
「せっかくだからランチをいただきましょう」
みずえさんはいつものランチプレート、誠也君はAランチのハンバーグを注文した。その場を離れてそれとなく見たが、切羽詰まった二人は何処へやら、落ち着いた表情で会話をしていた。
「三番さん、ランチプレート、Aランチです」
「はいよ」
注文表を確認して取り掛かる。
「何だったの?」
ロングの髪の毛を一つに束ねた姿がいつも凛々しい莉子さんには珍しく、興味津々といった表情だった。
「さあ。程よくあしらわれました」
伯父さんが吹き出して、それを誤魔化すように咳払いした。
「気になるわね」
そう言い残し、呼ばれた席にメニュー表を持って行った。
直接関わり合いにならない莉子さんですら、テーブル席を気にしているのに、伯父さんは素知らぬ顔だ。後で聞いたら教えてくれるだろうか。
ランチタイムが落ち着いて、晴樹君と私は休憩に入る。まかないのカレーを食べ終わった晴樹君が、やっと喋れると言わんばかりに口を開いた。
「あのお孫さんは、半分この相手にならないのかな?」
「でも晴樹君。みずえさんは彼から逃げていたんですよ?」
「でも、普通に話してたし」
「うーん」
伯父さんの真似をして考えてみるけど、良い考えは浮かんでこなかった。
「いっそのこと、オムレツ半分こパーティーとかにする?」
「それ良いかもしれない!」
盛り上がっていると、莉子さんが休憩変わって欲しいと入ってきた。晴樹君と一緒に食器を抱えてスタッフルームを出る。
「伯父さん、みずえさん達は?」
「帰った」
「えっ」
「話は後で。ラストオーダーだってお客様達に伝えてきて」
「はい」
佐倉洋食軒は十時から三時までのランチタイムと五時から九時までがディナータイムだ。
「皆まで言うな。おかわりの珈琲飲んだら帰るよ」
常連さんたちはおどけながら、珈琲のおかわりを催促する。それくらいは許容範囲で、順にテーブルを回った。
三時を少し過ぎた頃には、皆、重い腰を上げて帰って行った。伯父さんと晴樹君はディナータイムの仕込みを始め、私と莉子さんは掃除や備品チェック等を手分けして作業する。
「何かみずえさんのこと、聞きにくい雰囲気ね」
莉子さんがこそっと私に耳打ちする。
「はい。話は後でって言う時の大人って、大体話してくれないですよね」
「よく分かってるじゃない」
「伯父さんとお父さんって、顔を合わせたら口喧嘩ばかりなのに、口癖とか笑い方がそっくりなんですよ」
「家族ってそんなものじゃない?」
「そっか、そうですよね」
「何? 悩みでもあるの?」
「何もないです、すみません」
「本当? 何かあれば話くらい聞くからね」
「ありがとうございます」
私がここでアルバイトをしているのを、お父さんは快く思っていないのが悩みだなんて、この場では言いにくかった。それが、心配性の父親としての意見だということも分かっていたから余計だ。
「彩美、それが終わったら今日は上がっていいぞ」
見透かしたようなタイミングで伯父さんからの声がかかる。
「明日からまた学校なんだから早く帰って明日に備えなさい」
伯父さんは私を遠ざけようとしてる気がして、素直に頷けなかった。
「彩美ちゃん。その方が良いよ。何かあったらメールするからさ」
「はい。分かりました。お疲れ様でした」
「はい、お疲れさん」
伯父さんは学業優先だと、土日や長期休暇にしかアルバイトをすることを許してくれなかった。アルバイト代が魅力なのもあるけど、何より伯父さんのお店が大好きだったから、もっとお店の役に立ちたかった。
店を出てすぐ、映画館のポスターを見て足が止まる。
「この映画……」
それは三人のお客さんにネタバレされた映画だった。
「その映画、先に原作を読んだ方が分かりやすいと思うよ」
声に驚いて振り向くと、みずえさんの『血の繋がらない孫』、誠也君が笑顔で近づいてきた。
「その制服、ウチの」
「やっぱり同じ高校なんだ。俺、二年。そっちは?」
「——一年です。何で制服なんですか?」
「ああ、これ? 補習だったんだよね。家でちょっと色々あって学校に行けなかったから。多分、春休みも潰れそう」
「そうなんですか」
みずえさんの事を聞きたかったけど、そこに大変な事情がありそうだ。
「お茶でもする?」
誠也君がファーストフードのお店を指さした。
「はい、ぜひ」
思わず食い気味で返事をしてしまった。
「昨日はびっくりさせたよね」
「——はい。あっ。すみません」
「ううん。そりゃ、びっくりするよね」
誠也君は、皮付きポテトフライにケチャップをたっぷりつけてもぐもぐと頬張った。
「あの。みずえさんのこと、聞いても良いですか?」
「うん。みずえさんはね、僕のおじいちゃんの内縁の妻だったんだって」
「……内縁の妻って」
高校生の会話としては刺激の強いワードではないか。思わず周りを見てしまったが、誰もこちらを気にする様子はなかった。
「順番に話すね。詳しい事情は分からないんだけど、みずえさんではなくて、本当のおばあちゃんね。おばあちゃんが、おじいちゃんと別れてから一人で産んだのが僕の母さんなんだ」
「えっ」
「おばあちゃんは、ずっとおじいちゃんに話すかを迷ってたんだって。でも自分から別れを告げておいて虫が良過ぎるって——だから結局、言えなかったって」
「でも、一人で子育てって……」
子供の私には想像出来ないけど、とても大変な思いをしたのではないだろうか。
「おじいちゃんは、おばあちゃんと別れた後で出会ったみずえさんと結婚することを考えたらしいんだ」
淡々と話す誠也君は、自分よりずっと年上に見えた。
「おばあちゃんはお母さんが三歳まで、何とか一人で育てて来たんだけど、出産後に無理して働いたせいで身体を壊して、自分で育てられなくなっちゃったんだって」
みずえさんはどんな思いで、娘でもいたらだなんて話してくれたのだろう。
「おばあちゃんはまだ小さかったお母さんを、苦渋の決断でおじいちゃんの所へ預けに行ったんだと思う」
「でも、おじいさんはみずえさんと一緒に暮らしていたんだよね?」
突然、子供を預かって欲しいと言われて受け入れられるものだろうか。
「うん。でも、結局は三人で暮らすことになったって」
オレンジジュースのグラスを握りしめていた私を見て、誠也君はにこりと笑った。
「ごめん、ジュース飲んでよ」
「ごめんなさい。何だかドラマみたいな話で」
ジュースの味はいまいち分からなかった。
「僕も初めて経緯をお母さんから聞いた時はポカーンだったよ」
誠也君のお母さんは、五歳の頃に遠い親戚に引き取られて大学を卒業するまで親戚の元で育った。それから会社で知り合った男性と結婚して、二十五歳の時に誠也君が生まれたのをきっかけに地元へ帰って来たという。
「今、おばあちゃんは介護施設にいるんだ。みずえさんもね、同じ敷地内の病院に通っていて、お母さんとお見舞いに行った時に偶然再会したんだ」
「すごい偶然」
「お母さんは、ちょっと嫌そうだったけど」
溶けた氷で薄くなったコーラをストローでかき回した。
「僕が小学生の高学年になった頃は、一人で自転車に乗っておじいちゃんの家に遊びに行ってたんだ」
「みずえさんは優しかった?」
「もちろん。本当のおばあちゃんみたいに、優しくしてくれたよ。カレーライスを一緒に作ったり、花火してくれたり」
誠也君にとって身近なおばあちゃんは、みずえさんの方だった。それはみずえさんにとっても同じで、家族同然になっていたのかもしれない。
「そっかあ。オムライスも作って貰った?」
誠也君はちょっと驚いた顔をした。
「みずえさんから何か聞いてるの?」
「えっと、オムライスは思い出の料理だって。大事な人と一緒に食べたって聞いたから、誠也君とも食べたかなって」
「そっか。だから、僕には作ってくれなかったのかな」
「えっ?」
誠也君は傷ついたような顔をした。触れてはいけない部分だったのかもしれない。
「君の伯父さんのお店の——窓際の席に座っておじいちゃんとみずえさんが楽しそうにしているのを見たことがあるんだ」
誠也君の曇った表情に胸騒ぎがして、この先を聞くのが怖かった。
「ちょうど店を出る所だったから、出て来たところを驚かせようと思って待ち伏せしてたんだ。おじいちゃんって声をかけたら少し驚いた顔をしたけど、すぐにいつもの優しい顔で家に来るかって言ってくれた。みずえさんも一緒に行こうって笑ってくれたから、ちょっと調子に乗ってたのかも」
「誠也君……」
「何を食べたのって二人に聞いたら、おじいちゃんがオムライスだよ。今度は一緒に食べに来ようって。だったら、今度作ってよって何も考えずに言っちゃったんだ。そしたら、みずえさんは悲しい顔をして、ごめんね。オムライスは作れないのよって」
「でも、本当に作れないとか。うちのお母さんなんて、天ぷらはお店で食べるもの! とかよく言うよ」
明るく言ってみると、誠也君はちょっと笑ってくれた。
「みずえさんにね、一口ちょうだいって言うと、綺麗なスプーンに取り替えて小皿に載せてくれるんだ。僕は自分の皿に直接、載せて欲しかったんだけど。やっぱり、赤の他人だと思われてるのかなあ」
「うーん」
「ごめん。子供っぽいよね。母親があまりそういうことしない人だからさ、他の家族が分け合って食べているのを見て羨ましかったんだよね」
「やっぱり、みずえさん本人に聞いてみたいよね? 絶対に来てね、誕生日」
「うん。ああ、暗くなって来ちゃったね」
「えっ? ああ、何時だろ」
携帯電話を見ると、四時半を過ぎていた。
「そろそろ帰ろうか。今なら次のバスに乗れそうだ。今日は突然声かけたのに、話を聞いてくれてありがとう。おかげで、少しすっきりした」
「ううん。こちらこそ、色々聞いちゃってごめんね」
ただの好奇心で聞いてしまった自分を恥ずかしいと思った。何か自分に出来ることはあるだろうか。
次の土曜日は、みずえさんは来なかった。私は誠也君に会って聞いた話を伯父さんに言えずにいた。そのこともあり、みずえさんに対してどういう顔をすればいいか分からず、少しほっとしてもいた。
「彩美、ぼうっとして疲れたか?」
「ごめんなさい。みずえさんの誕生日のこと考えてた。もう掃除、終わるから」
「そうだな。そろそろ決めなきゃだな」
「——伯父さん」
「ん? なんだ。出来たぞオムライス」
まかないのオムライスをカウンターに載せた。用事があるという晴樹君が先に帰ったので、伯父さんと久々の二人きりのご飯だった。
「デミグラスソースだ。子供の頃、初めて食べて、大人の味だって思ったんだっけ」
「ああ、苦味が少しな」
「美味しい。あ、ニンジンみっけ」
少し大きめのニンジンがオムライスの中から転がるように出てきた。子供の頃、苦手なニンジンが食べられるようになったのも、伯父さんのおかげだった。
「何か話があるんじゃないのか」
伯父さんにはお見通しだったらしい。先週の出来事を吐き出すように話した。
「よく今まで黙っていられたなあ」
伯父さんが感心するように言うのを見て、肩の力が抜けた。
傍目にはみずえさんと誠也くんは祖母、孫の関係に見えていた。
「みずえさんは、誠也君が言いたい事を分かっていてそれを拒否してるんだろうな。誠也君のおばあさんとお母さんに遠慮しているのかもしれない。本人は口が裂けても言わないだろうがな」
みずえさんは未婚の母になってしまった元恋人とその娘の事があって、最後まで籍を入れなかったと伯父さんは考えているらしい。
「それ、みずえさんのせいじゃないよ」
「きっとご主人と一緒に過去を背負おうとしたんじゃないかな」
「でも、誠也君はみずえさんのことをおばあちゃんって呼んでた。本当に大好きなんだよ」
「うーん」
叔父さんは黙り込んでしまい、私も仕方なく黙々とオムライスを食べた。この重い空気の中で、ラジオから流れる流行歌だけが優しく響いていた。
次の日の日曜日、誠也君が母親らしき女性を連れてやって来た。その女性は晴樹君が案内した窓際の席を嫌がり、奥の席を希望した。
「八番さん、ランチプレートとCランチ、食後にホットコーヒーとコーラです」
「はいよ」
「誠也君、オムライス頼んだんだ」
「ん? オムライスが何?」
「えっ。あ、いいえ」
誠也君はデミグラスソースがかかったオムライスを半分程食べたところで女性にも美味しからと勧めていた。
「うん。美味しいわ」
水のお代わりを注ぎに行くと、女性は先程より表情が柔らかくなっていた。
「彩美さん。今日は母と食べに来ました」
やはり母親だったその女性は、ショートカットの髪を揺らして頭を下げた。
「こんにちは。息子がお世話になったそうで、有り難うございます」
「いえ、そんな。こちらこそ……」
慌てて頭を下げると、女性はくすりと笑った。
「お料理、とっても美味しいわ。そういえば今度、みずえさんのお誕生日のお祝いをこちらでするそうですね。息子も参加したいそうなので、どうぞ宜しくお願いします」
「有り難うございます。あの、もし宜しければ、お母様もご一緒に如何ですか?」
「私が? それは遠慮します」
ぴしゃりと言われ、返答につまる。
「事情を息子から聞いてらっしゃるのよね? ならお分かりでしょう。私はあちらと仲良くする気はないんです。でも、息子には自由にさせてますから」
「母さん。もう良いよ、分かってるから。ごめんね。彩美さん」
「いえ、私こそすみません」
私はすごすごとその場を離れた。余計な一言で、一気に空気を変えてしまった。でも、みずえさんを話題にしたのは向こうなのにあんな言い方するなんてと、やり場のない怒りに似た気持ちが湧いてくる。
「大丈夫?」
「晴樹君、またやっちゃった」
「猫背にならない! はい、深呼吸! もうすぐ莉子さんが来るからそれまで頑張ろう」
「はい」
晴樹君の言う通りに深呼吸を繰り返す。
「二人共、お疲れ様!」
莉子さんの明るさにも助けられ、どうにかランチタイムを乗り切った。常連さん達がみずえさんの誕生日の話をし出すと、誠也君の母親は居心地悪そうに珈琲のおかわりを断って、誠也君を連れて帰って行った。帰り際の誠也君の何とも切なげな表情が、胸を苦しくさせた。
ディナータイムの仕込みをしていると、ドアベルが鳴った。
「すみません。ランチタイムは終了して——みずえさん!」
「みずえさん。顔を見せなかったから心配してましたよ」
「ごめんなさいね。あのね、私の誕生日のことだけど、やっぱり遠慮しようと思ってるの」
病院の帰りに寄ったのか、すっとアルコールのような匂いがした。
「みずえさん、とにかくこちらへ座ってください」
いつもの窓際の席に座らせた。
「ありがとう。何だか色々疲れてしまって」
病院での治療に加え、最近の出来事に心が弱ってしまっているという。
「みずえさん。俺達にまで遠慮なんかしなくていい。こっちが勝手にやりたいと思ってることなんだから。でも、もしそれが負担になっているのなら、もちろん中止にしたっていい」
みずえさんは、違うのと首を振った。
「でもね、私なんか年寄りに手間をかけることないのにって……ご迷惑じゃないかって」
「迷惑なんて、誰も思ってないです。それに誠也君も楽しみにしてるんですよ!」
思わず口を挟む。
「誠也君が?」
「そうです。誠也君はみずえさんと一緒にオムライスを食べたいんだと思います」
「オムライスを?」
「誠也君は自分も大事な人だと思って欲しいんじゃないかと——すみません。想像ですけど」
「そう、そうだったのね」
「どうぞ」
晴樹君が紅茶を勧めると申し訳なさそうに一口飲んだ。
「そう。あの子、覚えてたのね。小さい時にオムライスを作って欲しいってねだられて断ってしまったこと」
佐倉洋食軒でオムライスに感動したみずえさんを見て喜んだ両親が、誕生日やお祝い事は必ずここで過ごす様になった。そして、ホワイトアスパラガスのソースがかかったオムライスが好きだった母親が、みずえさんに提案をした。
「『二分の一オムライス、なんてどう?』と言って、半分空いたスペースに母の食べていたオムライスを載せてくれたの。とろりとしたホワイトソースが甘いトマトソースに混じって、ぱっと、まろやかなソースの味に変わったの」
みずえさんはその時の味を思い出したらしく、頬を触った。
「その二分の一オムライスには、大事な思い出が詰まっているのよ」
友達同士や恋人、そして一生涯の伴侶とのかけがえのない時間そのものだった。
「あの子が家族として接してくれるのが分かっていて、ずっと気持ちをはぐらかしていたの。だけど、孫と料理をしたり、花火大会に行ったりすることがこんなにも幸せなことなんだって知ってしまった。それが続くと信じていたの。でもある日、誠也君の母親に誠也の祖母は貴方じゃないって言われてしまったのよ。会うのは許すけど、それだけは勘違いしないでって」
「じゃあ、誠也君の気持ちはどうなるんです? 自由って、何なんですか」
「——そうね。大人が勝手に決めるものではないのよね」
「みずえさん。ちゃんと誠也君の口から本心を聞いて受け止めて欲しい」
「昌孝君。ごめんなさいね。こんな個人的なことに巻き込んで」
「だから、それを水臭いと言ってるんです」
「……昌孝君」
「大声出してすみません」
伯父さんは頭を下げた。
「ありがとう」
「いえ。私にとってみずえさんは大事な幼なじみなので、元気でいてほしいんです」
「誕生日、来てくださいね」
「昌孝くん。皆さんも、ありがとう……あら、お迎えが来たみたい。そろそろ帰らなきゃ」
「お迎え?」
戸口の向こうで誠也君が手を振った。
「一緒に映画を観て、一緒にご飯を食べる。孫とおばあちゃんじゃなくても出来るのよね。一番それにこだわってたのは私なのかもしれないわ」
誠也君はみずえさんに寄り添うようにして、歩いて行った。
みずえさんの誕生日当日のランチタイムは、沢山のお客さんで賑わっていた。
「すみませんでした!」
驚いたのは、映画の半券を当日のものと偽っていた三人客が謝りに来たことだ。どうやら他のお店でも同じことをしようとしたところを、常連客の田中さんが諭して止めさせたらしい。
「田中さん、素敵すぎます!」
「当然のことをしたまでさ。それより、あの二分の一オムライスって何?」
田中さんが黒板の文字を指さした。
「本日限定メニューで、オムライスのソースを二種類お選び頂けます。おすすめは、甘口トマトソース&ホワイトアスパラガスのソースです。程よい甘味と酸味のあるトマトソースと、滑らかで口当たりの良いホワイトアスパラガスのソースが混ざり合うのをお楽しみください」
「長台詞、よく覚えたな――それ、美味そうだな」
「はい、是非ご賞味下さいませ。こちら、サービスのシャンパンでございます」
「おお、梅の香りがする。みずえさん達も楽しそうで良かったね」
「はい。まさか、誠也君のお母さんも来てくれるとは思わなかったですけど」
二人は口喧嘩するみたいに言い合いをしている。何をもめているのかと思ったら、みずえさんが誠也君の皿に自分のオムライスを載せようとするのを、母親が止めようとしていたのだ。
「私のをあげるんですって」
小競り合いしながらも、顔は笑っている。
「ほら、笑ってないで食べてよ誠也」
「そうよ誠也君。私のもあげるから」
自分のオムライスを載せようと構えている。
「もう。良いから、二人も落ち着いて食べなよ。子供じゃないんだから」
そう諭されて、二人は渋々オムライスを食べ始めた。思っていた以上に賑やかな誕生日会になったみたいだ。
「ほら、僕達もやらない? 二分の一オムライス」
晴樹君がオムライスをニ皿カウンターに乗せた。
「僕達も食べて良いって」
伯父さんはオムライスを作り続けて汗だくだが、とても嬉しそうだ。
「半分こにするの、聞いた時からやってみたかったんだよね」
「私もです」
二人は二つのオムライスにそれぞれ一つずつソースをかける。
「じゃ、分けるね」
晴樹君がスプーンでオムライスを割る。
「あっ、ニンジン。彩美ちゃんにあげる」
ころりと大きめに切ったニンジンの他、玉ねぎや豚の角煮が出て来た。
「余り物、増し増しだね」
「でも美味しそう!」
「はい、交換ね」
二人はオムライスの半分を皿に載せ合った。トマトソースとホワイトソースが溶け合う。
「真ん中から食べよう」
「んー! 美味しい」
「角煮とクリームソースも合うんだね」
二人はオムライスをあっという間に食べてしまった。
「バースデーケーキも楽しみです」
「うん。喜んでくれるといいな」
晴樹君は伯父さんと二人でランチタイムの仕込み前にケーキを焼いたらしい。
みずえさん達が食べ終わったのを見計らって、バースデーソングを流す。
「あらあら、まあ。これは照れるわね」
特大ケーキを持つ私と晴樹君に、頬を赤らめた。お客さん達はノリノリで歌う。
「ばあちゃん、火を消して」
誠也君も嬉しそうだ。
何度か吹いても消えず、最後は誠也君と母親も混ざって火を消した。
「お誕生日おめでとうございます!」
「有り難う。本当に嬉しいわ。これでもう——」
「これで何も思い残すことない、なんて言わないで下さいね。口喧嘩出来るひと、いなくなっちゃったらつまらないですから」
「貴女も言うわねえ。私は長生きしますよ」
「望むところです」
「もう。二人ともなんなの」
誠也君は二人から離れ、ケーキを配る私のところへ来て手伝い始めた。
「ありがとう。でも、お客さまなのに」
「いいんだ。もう、二人で喧嘩してくれって感じ」
「でも、本音で言い合えて良かったじゃない」
「そうだね。僕の願いも叶ったし」
「うん」
「今度はさ、僕とオムライス食べてくれない?」
「えっ」
「嫌じゃなければね。ケーキも美味しそう。ここで食べても良い?」
「もちろん!」
カウンター席に座ってケーキを三人並んで食べる。
「僕もアルバイト、雇ってくれないかなあ」
「三年生ってことは受験勉強大変だろう?」
晴樹君がちょっと意地悪な顔をした。
「まあ、そうですけど」
「見つめ合ってどうしたの? 早く食べようよ」
「彩美ちゃんって鈍感だよね」
「だな」
今度は仲良く話し始めてる二人を交互に見て、思わず首を傾げる。
「彩美ちゃん、イチゴ食べる?」
「僕のもあげるよ」
私のケーキはあっという間にイチゴまみれになった。
「んー、幸せっ」
いつか私もこんな風に誰かと幸せを半分こ出来たら良いなと思いながら、甘酸っぱいイチゴを口いっぱいに頬張った。
春の風が、賑やかな店内を羨むように窓を鳴らして去って行った。
了
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