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34.これから
しおりを挟む最近困ったことがある。
この静かな森に嵐のような喧騒が舞い込んだ事件からまたしばらくが経ち、そんな事など忘れたかのように、変わらず森は凪いでいる。
わたしの暮らしも相変わらずで、森の奥地でひっそりと生きる日々。
相変わらずシオンさんは朝が弱くて、
相変わらずワーカーホリックで。
でもそれが移り気味なわたしと、お互いを注意し合いながら比較的健康な暮らしを目指しているところ。
──と、これまでとそう変わりないのだけれど。
早朝の農園へと足を運べば、遠くに一つの影。
木漏れ日が降り注ぐ下で、欠伸をしながら片手をスイと動かして魔道具を操作し、土に水をやるアロイス様がいた。
いつもの上等な服は脱ぎ去って平民のような簡素な格好をしているにも拘わらず、彼は相変わらずの煌びやかさである。
ふいにこちらに気付くと眠たげだった瞳をぱちりと瞬かせて、小走りにやってくる。
「おはよ」
早いね、と微笑む貴方にそっくりそのままの言葉を返したい。
「水やり終わったよ。あと21番が熟れすぎるところだから採っておいた。朝食に出そうか」
言いながら果実を乗せた籠を引き寄せて、研究所への道を歩き出す。
わたしは手持無沙汰にその後を追う羽目になった。
彼が来てからというもの作業効率が格段に良くなっていて、とても助かっているのでぐうの音もでない。
そんなこんなで、この森に彼がいる、ということにはまだ少し慣れない。
あの後アロイス様はシオンさんへ深い謝罪をし、もうレグニア領には足を踏み入れないと告げ、それはもう…それはもう名残惜しそうに、見納めだからと言って長らくわたしをじっと眺め(とても恥ずかしかったしちょっと怖かった)、やっとのことで帰路についたのだが、
そんな彼の背に、シオンさんが、
「土産を持って出直してこい」
そう声を掛けたのだ。
そしてわたしに、「これから一生こき使ってやろう」と耳打ちをした。
このままもう二度と会えなくなるというのは、何だか複雑な気持ちだったから、そんな心の内を見透かされたのだと思う。少し恥ずかしくなった。
渋るアロイス様に、わたしも了承の意味を込めて頷いて見せた。
仲を修復できるのならそれに越したことはない。きっとそれが可能だと、感じられたから。
変わることのない過去があっても、変わる今と未来があるのなら、見もしないで捨てるなんてしたくはない。
そうして時折、アロイス様は森へと訪れるようになった。
ナーチさんと、言われた通りお土産を持って。
シオンさんは言葉の通りアロイス様をこき使っていて(気が気じゃない)、でも如何せん仕事のできるアロイス様は問題なく研究業務に力を奮い、多大なる貢献を果たしている。
シオンさんもこれにはニッコリ(比喩)のようだ。
「おはようございますレグニア卿、朝です。起きてください」
淡々と言いながらブランケットを攫って、特にしつこく声を掛けることもなく通り過ぎてキッチンへと向かうアロイス様。
シオンさんと、一緒に眠っていたナーチさんが唸りを上げているのを気にしていたら、
「朝食の匂いにつられてそのうち起きてくるよ」
とあっさりと言ってコンロに火を掛けている。
色んな意味で手際がいい。
言われるがままに大人しくダイニングテーブルに掛けていれば、目の前にてきぱきと朝食が並べられる。
アロイス様がいる朝はいつもこんな感じだ。
何だかんだで責任感の強い彼は、研究に関与するようになってから自ずと長居することが増え、最近は一、二週間はざらにいる。
森で採れたものだけを食べていたわたしたちの食卓を見て愕然とし、「栄養が偏る」と彼は食材を持ってくることが増え、彼自らキッチンに立つことも若干日常化している今日この頃。
おかげで今朝もスクランブルエッグやベーコンなど並んでいて豪華だ。
これにはわたしもニッコリ(こっそり)していたりする。
こんな風に同じテーブルについて同じものを食べるなんて想像もつかなかったけれど、存外アロイス様は物静かで、ナーチさんに聞くところによると、
「アロイスは普段はわりとこんな感じナ」
とのこと。
思い返してみれば、彼は静かな場所を好む人だった。それはもう変わってしまったものとばかり思っていたけれど。
とにもかくにもアロイス様はとても穏やかになられた。
しかし、困ったことというのはこれなのだ。
「リリ、もしかして口に合わない?」
「え、あ、そんなことはありません! とても美味しいです!」
「ならよかった」
「………」
この蜂蜜に砂糖を溶かしてドロドロに煮込んだかのようなあまーい視線が、とにかくむず痒い。
居た堪れなくて一心に食事と向き合えば、
「リリ」
名を呼ばれて顔を上げる。彼が自身の唇の横をトントンと叩いて見せた。
慌てて口元を拭うけれど、
「こっち」
アロイス様は可笑そうに笑ってナフキンでわたしの口元をそっと拭った。
呆然とするわたしを他所に、彼は自分の食事を再開しつつ植物の管理表を横目で確認している。
アロイス様にとっては自然なことなのかもしれないけれど、人付き合いに慣れていないわたしからするとこういった扱いを頻繁に受けるのは、どうしていいかわからなくなるのだ。
最初は彼の些細な挙動ひとつに一々びくついていたけれど、最近では怯えるだけ無駄だとも感じる。
いくらかしたら飽きるだろうと甘やかしが終わることを想定していたのだけれど、何故だかその時が一向にやってこない。
「ねえ」
「ハッ! ななななんでしょうか」
「やっぱり何かあった? なら遠慮せず言って」
カップを置いてこちらをじっと見つめてくるアロイス様に思わずたじろぐ。「俺また何かやらかした…?」と顔色を悪くし始めるものだから慌てて首を横に振った。
「違うんです…あ、あの、もう何度もお伝えしましたが、そんなにお気を遣っていただかなくても結構です……」
「いや気を遣ってるっていうか、ただ俺はリリのことが好きだから気になるってだけで」
あの一件以来こうしてアロイス様は当たり前のように、これまで口にしなかったようなことを平然と言ってのけるようになった。
アロイス様、本当は頭を強く打ったとか、そういうことなのではないだろうか。
「そっか、これがキモイってこ「い、いえ! 大丈夫です! ごめんなさい! 何でもないので忘れてください!」
どうやらわたしがとやかく言う方が面倒なことになりそうだ。
今は大人しく、アロイス様がこんなにも優しいことを喜んでおくべきだろう。
「おはようふたりとも……」
「おはよナー……」
「食事の前に顔を洗う」
ピッ、とバスルームの方角を指差しながら言うアロイス様に従って、二人は返事をしながらのろのろとUターンしていく。
微笑ましくて自然と笑みが零れた。
ただ、幸せを感じれば感じるほどに、また突然に失われたらという恐怖も募る。
そんな風に考えたせいか吐く息が少し溜め息地味てしまった。
こんな気持ちでは、美味しい朝食が勿体ない。
ふいにアロイス様がまたわたしの名前を呼んだ。
視線を向ければ、少し困ったような笑みを浮かべた彼が、パチンと指を鳴らした。
瞬間、わたしの触れているところを覗いて部屋中一帯に、花が咲き乱れた。
驚きでパチパチと瞬きだけを繰り返していれば「アリッサム好きだったよね」と一輪差し出される。
戸惑いの目を向ければ頷かれたので、恐る恐る受け取る。
わたしが触れた瞬間それは小さく弾けて星屑のように輝きながら散った。
「これはこれで、綺麗でしょ」
彼の言葉通り、アロイス様の魔力はとてもあたたかく美しかった。
そして寄り添うように優しい。幼い頃わたしが大好きだった魔法。
「アロイスー! 何か風呂場まで花だらけなんだけどナーー!!」
「ごめーん」
やりすぎた、と眉を寄せて笑う彼の表情はいつもより少し子どもっぽく、失礼かもしれないが可愛らしいと思った。わたしも笑顔を返す。
願わくばこの幸せが永遠に続きますように。
(──それが願うまでもないことだと彼女が気づけるのは、まだもう少し先のお話)
了
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