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31.わかりづらい
しおりを挟む瞼を持ち上げると、もう見慣れた部屋の天井が映った。
どうやら明け方のようで、薄い光が室内を照らしている。
大変なことがあった後で、沢山気掛かりなことがあるのに、頭はまだ靄がかかったように上手く働かない。
「…っ!?」
しかし何と無しに首を倒せば、視線の先にヨシュア様がいて悲鳴を上げそうになった。
起き掛けで喉が掠れていたお陰で騒がずに済んだけれど──
ベッドサイドの椅子に腰掛け、腕を組んだまま眠っている彼をまじまじと凝視してしまう。そのうちぴくりと瞼が動き、美しい瞳が顔を出した。
「──体調はどうだ」
起き掛け数秒で随分と意識がはっきりとしている彼は、多分本格的に寝入ってなどいなかったのだろう。
私が起きるまで傍にいてくれた? 都合がいいかもしれないけれど、そうとしか思えない…そういえば、窮地を救ってくれたのも彼だった。
体を起こした後、自分の手を眺める。
強く押さえつけられて痣になっていてもおかしくなかったのに、そんな名残は少しもなかった。
べったりと張り付いていた赤も、
「思い出そうとするな」
「ひっ」
覗き込んでいた手のひらを隠すように手が重ねられた。
反射的に肩が飛び上がり、今度こそ小さな悲鳴を上げてしまった。
私自身そんな自分に驚いてしまって、そのまま迷子のような心地で彼を見上げれば、彼もまた微かに目を見開いていた。
「──気が回らなくてすまない。女性の使用人を傍に控えさせよう」
「ぁ、ち、ちが、」
遠のいていく手に心苦しくなって、気が付けば引き留めるように彼の袖口を掴んでいた。
彼がまた目を丸めている。珍しい表情だけれど、そんなものを気にしている余裕もなくて、ハッとなって、手を離した。
「………特に体に異常も見られませんし、こんな朝早くから人を呼んでいただかなくとも、大丈夫です…」
バツが悪く、彼から視線を逸らす。
こんな事が言いたいんじゃない。
言いたいことが沢山あるような気がするのに、上手く言葉にできない。……私は、いつもこうだ。
『手を伸ばしもしない人間が何かを得られると思っているの?』
その言葉だけは逃れようもなく、正しく私を突き刺した。
針を飲まされたかのように体の内側が痛む心地がする。
「レネ」
俯く私の名を、彼が呼んだ。
「いてもいいか」
静寂をそっと揺らすような凪いだ声。
「君が許してくれるのなら、傍にいたい」
ゆっくりと顔を上げ、ぼうっと彼を見つめた。
本当は、不安で不安で仕方が無くて、傍にいてほしかった。
心の内を見透かされたようで居たたまれないけれど、力無く頷けば、彼はベッドの縁に腰を下ろした。
「君の友人たちと傭兵についてだが、大事は無い。二人については君の治癒のおかげで全くの健康状態を取り戻している。傭兵も適切な処置を受け、命に別状はない」
「……そう、ですか…」
よかったと、息を吐きながら、私はやっと自分の腕に繋がっている管の存在に気付いた。どうやら長らく眠っていたらしい。あれからどのくらい経ったのだろう。
しかし精神的な疲労で頭がどこかぼんやりとすること以外、体は万全を取り戻しているようで頗る元気だった。
ぽかぽかと暖かくて、何なら普段以上に体調が良いような気さえして不思議だった。点滴が高級な魔法薬物か何かだったのだろうか。
「少しだけ、触れてもいいか?」
え、と戸惑ってしまうけれど、彼の瞳は真剣で、
「少しだけだ」
そう言って伸びてきた手が首元に触れ、私がガチガチに固まっている間に彼は「熱は無いな。脈拍は…少し早いか?」などと呟いていた。
口調も表情もいつも通り素っ気ないのに、やっぱりヨシュア様の手は暖かくて、壊れ物を扱うかのように私に触れてくる。その指先の感触で、ただただ、心配を掛けていたのだと感じ取れてしまう。
言葉の通り少し触れて離れていく手を、今度ははっきりとした意思を持って引き留めた。
情けなく震えそうになる指先に、きゅっと力を込める。
思えばこんな風に自分から彼に触れた事などあっただろうか。それなのに触れてほしいとだけは望んでいたなんて、我ながら図々しい。
「助けてくださり、ありがとうございました」
こんな風に彼の目を真っ直ぐ捉えて口を利いたのさえ、久しぶりかもしれない。
だからなのか、彼は私に手を握られたままピタリと静止して、仄かに目を見開いて驚いた様子でいた。
普通にお礼を告げただけでこんな反応を返されると、私の彼への態度も大概のものだったのかもしれないと、若干の後ろめたさを感じる。
「あの…」
呼べば、彼は瞬きの間にいつもと変わらない表情に戻り、するりと撫でるようにして手を握り直された。
そのまま持ち上げて……彼は私の手に頬を寄せた。
突然のことにギョッとするけれど、目を閉じて重い息を吐き出した彼の手を、振り払うことなんてできなかった。
こんな風に項垂れている彼を私は──多分国中の誰だって、見たことがないと思う。
私よりもずっとずっと大きな背丈の彼が、何故だか少し小さく見えた。
「頭がおかしくなるかと思った」
ぼそりと、覇気の籠らない声で呟かれた言葉に首を傾げれば、瞼を持ち上げた彼と近い距離で視線が合わさる。
恐ろしくて、いつも逃げるように逸らしていたのに、今は目が離せない。
手が降ろされるが、離れることなく私たちの間で繋がれている。
ドクドクと指先まで鼓動しているような感覚が、彼に伝わってしまっているかもしれない。
「万が一にも、君を失う想像をしただけで気が触れそうになる」
だからこうして触れていると酷く安心するのだと、彼の指が私の手の甲を撫でた。
私は言葉の意味を理解するのに精いっぱいだった。
「怖い思いをさせてしまってすまなかった。クリスティナ・ハリスがあそこまでの行動に出るとは、流石に想定外だった。事前に注意を促すべきだったが、それを俺は意図的に怠った。君に無駄な憂いを与えたくなかったからだが、俺から離れようとばかりする君に、上手く言葉を掛けられなかったというのもある」
唐突につらつらと言葉を並べ始めた彼に一層驚く。
というか、『君が出向けば厄介事が起きかねない』──もしあの言葉が今回の件のような事を案じてだったのなら、全然、全く、伝わらない。伝わらないです、ヨシュア様……
(だけど……)
そもそもわかりづらい人なんだって、そんなこと私はずっと昔から知っていたはずだったのに。
「君のことを大切にしたいんだが、どうにも上手くいかない。これまで言葉が少なかったという自覚は得たんだ。だから改善を図っているつもりだったんだが…今回の件を思うと、やはり上手くいっていないようだ」
「…………いえ、以前より沢山話してくださるなと…思っていました」
彼が離宮に現れるようになった時から、随分と口数が増えたものだと思ってはいた。
「俺は元々無口というわけじゃない」
「ええ…? そうでしょうか?」
彼の自分への不理解が何だか面白くて小さく笑えば、ずいと詰め寄られた。相変わらず終始真顔のままだけれど、不思議と怖いと思わない。
「何が可笑しかったんだ? 教えてほしい」
だってこんなことを大真面目に聞いてくるのだから。
「なんですか、その質問」クスクスと笑いながら問い返せば、ヨシュア様は何故か私の手を握っていない方の手で自分の胸を押さえた。どうしたのかと問う前に、何でもないと返ってくる。
「──君は俺の前では笑わなくなってしまった」
「……そう、でしたか…?」
「ああ」
彼相手に笑い掛けるような気になれなかったのは確かだけれど、そもそも王宮に来てからはあまり余裕がなかったから、関係が拗れる前から私は彼に自然に接することが出来なくなっていたのかもしれない。
でもそんなこと、ヨシュア様は微塵も気にしないものだと思っていた。
「なのに俺以外には平気で笑い掛けるだろう。生まれて初めて、悋気という感情を知った。情けない男だと思うだろう。君に嫌われても仕方がない」
別に嫌いというほどでは……と思わず否定したくなったけれど、止めた。
否定したところで、手放しに好意を伝えられる程、私は確かな気持ちを持ち合わせてはいない。
意外な事に、彼はどうやら人並みの感情を持て余し、常時の鋭い洞察力や明敏さを失い、迷いや憂いを抱えているらしい……おそらく……だけれど。
あのヨシュア様が、と未だに信じ難い。でもそうして彼を雲の上の人と決め付けて、対話自体を拒んでいた節が、私にはある。
もしかして、もしかすると………
「……あの…ヨシュア様は、私のことが……好きなのですか…?」
まさかこんな頓珍漢な問い掛けをすることになるとは思いもしなかった。
今度は彼が首を傾げ、無表情ながらに不思議がっている様子だった。
途端に私の中でじわじわと恥ずかしさが湧き上がってくる──なのに、
「愛していると、以前も伝えた筈だが」
さも当然のように。何故そんな分かりきったことを聞くのか分からない、とでも言いたげに、彼はいつもと特段変わらない調子で言う。
違う意味の羞恥で顔が熱くなる感覚がした。
質問をすれば、彼は大抵のことは答えてくれる。
そんなことさえ私は忘れてしまっていた。
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