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本編 2
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◇
フォートスターの一室、イーリヤ公爵は各所からの報告を具に耳にしては何が起ころうとしているのかを注視していた。そこへ白いドレスを着たマリアがやって来る。
「お邪魔だったでしょうか」
少しだけ表情を曇らせてしまうが「そんなわけないだろ。さあこっちへ」順番待ちをしている者らを全て退けてしまい、部屋で二人になる。優先順位には大きな大きな壁がある、娘がもっとも上位であることに疑いなど無い。
「王都を出てきてかなり経ちましたけれども、何もないのでしょうか?」
追放されて出て来たけれども、その後のいざこざは全然マリアには届かない。心労にならないようにと箝口令を敷いているせいで、何事も無かった、そういうことにされている。
「そうだな、これといって大した変化はない」
サラッと応じてしまう。じっと公爵の目を見てから、彼女は小さくため息をつく。
「お父さまのお気持ちは受け取りますわ。皆の様子がおかしいと思いましたら、そういうことですの」
顔を見たら何を考えているか分かるのは親の特権などではない。子供からしてみたら逆で、親が何を思っているかなど隠せるものではない。ただ子供のそれと違い、親は常に子の為だけを想っているという部分が強い事実はあった。
「まあ、そうなるよな」
微笑して隠しごとがあるということを認めてしまう。落ち着きを取り戻すまで、元からずっとそうしようと考えていたわけではない、ここらが潮時と公爵も感じていた。執務用の椅子と机から離れて、隣の休憩室へと場所を移した。
「使者が来ていたよ。追放令は解いて、王都へ戻るようにってな」
「そう……ですの。それでワタクシはどうしたら?」
娘の顔色を見て軽く笑い「マリアのしたいようにすればいい。使者はフォートスターに留め置いているし、娘の所在は不明だと言ってある」こうやって目の前に居るのに平然と言ってのけた。世の中に真実など必要ないと言わんばかりの態度だ。
「王都には戻りたくありません」
「そうか。なら行く必要はない」
小さく頷いて娘の意思を尊重する。大まかな方針が一つ決まった瞬間だ。ではどうして戻りたくないのか、或いは何かしらの考えがあるのかが気になる。
「王子と結婚もしたくありません。ワタクシ、暫くはここに居たいです。ダメ……でしょうか?」
「ダメなわけないだろう、ここはマリアの家なんだ」
申し訳なさそうな娘に対して精一杯の笑顔で全てを肯定する。
「わがままばかりでごめんなさい」
「謝ることなんて何一つない、それでいいんだ」
あまりにも子に対して甘すぎる、親馬鹿と言われても反論は出来ないだろう。
「ですけど、きっと王国からの圧力がありますわ」
懸念はいつか現実になる、国の面子、王の威厳、秩序とはそういう馬鹿げた何かが積みあがって出来ている。公爵は首を左右に振って笑顔のまま断言する。
「王国がどういって来ようと関係ない。何があろうと、世界が敵になろうと私はマリアの味方だ」
「お父さま、ありがとうございます。お母さまともお話をしてきますね」
嬉しそうな笑みを残して娘が部屋を出て行く。後ろ姿が消えても暫く扉を見詰めていた。
「王子との婚礼は無し、王都にも行かない、使者への手土産はどうしたものか」
別室で待たせている報告者、一時間だろうと一日だろうと待たせておけばよいと少し考え事をする。ノックをする音が三度聞こえて来た。
「入れ」
それが誰かは知らないが、ただの報告者ではないことは解っている。やって来たのは黒い肌の男、真剣で鋭い目つきで部屋にずかずかと入って来た。厚い胸板、盛り上がった筋肉、短い髪、事務仕事をしてきたものではないのは見た目から直ぐに解る。
「セニャール、ご報告が」
「どうした」
公爵をセニャールと呼ぶ男、ありていに言えばご主君といったところだろうか。他の有象無象とは違う、彼の役職は秘書官。秘書と副官を兼ねている側近中の側近、いわゆる腹心といわれる存在。
「領内に密偵が多数放たれております。監視をつけて泳がせてあります」
「だろうな。調べているのはマリアと俺の動向だな」
肯定はしない、言葉にせずとも当然の成り行きだから。問題はどういう事実を流布するかというところ。情報を逆流させる機会が出来たと捉えるべきなのだ。
「ニース伯爵がフォートスターへ向かったのは既に明らかになっております」
ニース伯爵アンリ、その後帰郷していったが恐らくグロッカス侯爵領にも密偵が多数入り込んでいるはずだ。
「マリアを見失ったのを報告に来ていた、とでも噂を流しておけ。グロックに迷惑はかけれん」
そうしておけばアンリが行動を起こす時まではこれといった非が見受けられない。一方でグロック侯爵は好きなタイミングで動けるはず、と。もっともグロック侯爵も、アンリも迷惑などとは思っていないはずだが。
「了解です。ディエールには待機を発令しております」
ディエール伯爵エーン、秘書官の外向きの立場はこうなっていた。ここエトワール公爵領内にある一つの都市が彼の封地になっている。とはいえ順番は逆で、かの地から支配者を選出させたのが正しい。
「そうか。何事も無く終わるとは思えん、悪いがエーンの力を貸して欲しい」
「何なりとご命令下さい。我等はただセニャールの為だけに在ります!」
かつてディエールは王国から孤立し、見捨てられた都市と化していた。治安は悪化し、餓死する者が多く、病気が蔓延し、酷吏が牛耳っていた。民は明日どころか今すらを諦め、瞳は絶望のみを映し出してた。
そんな街にある日、四つ星の軍旗を翻してイーリヤ公爵――当時のイーリヤ大佐が現れ、自ら矢面に立ってみるみるディエールを回復させたのだ。各地を転戦し爵位を上げ続け、昨今公爵になると持っていた都市の爵位を領民らの推薦する人物に与えた、それがディエール伯爵エーン・プレトリアス。
プレトリアス一族を筆頭に、在地の者が神として崇める人物がイーリヤ公爵、そしてその娘、マリアだ。巫女としての素質に加え、なんと個人的な信仰まで集めていたのが神に通じたのかどうか。狂信的なまでの忠誠心がエーンという存在を動かしている。
コツコツと足音を鳴らして部屋にやって来る者が居た「ボス、コロラドでさぁ」その声に「入れ」即答すると、薄汚いコートを着た中年男性が入って来る。髪はボサボサでよれた服、あちこちが汚れていてとてもではないがここに居るべきではない雰囲気の男だ。
「何を掴んできたんだ」
微笑でコロラドを歓迎する、相手がどうであっても決して見た目で態度を変えない。イーリヤ公爵はテーブルに置いてあるビールを手にすると、グラスに注いでやりコロラドへと渡した。それを一気に飲み干すと、歪んだ笑みでグラスを突っ返す。
「ピレネー王国が騒ぎを聞きつけて、国境に兵を進めるつもりってことで」
ピレネー王国はステア王国と南西で国境を接している国で、互いに非常に仲が悪い。かれこれ百年以上も争い続けている宿敵のようなもの。十年に一度は戦争をしないとうっぷんがたまるのか、些細なことで競り合いを始めてしまう過去があった。
イーリヤ公爵もここ二十年前後で二度戦争を経験している、最初は兵士として、二度目は司令として、もし三度目があるならば今度は司令長官として対峙することになりそうだ。
「時期的にそろそろだな。お前がそう言うなら早晩侵入して来るだろう」
コロラドの情報は早い、そしてどこをどうしたのか核心を突いたものばかりを集めて来る。ただこの見た目に態度だ、その上腕っぷしは弱いのでどこに居ても蔑まれて人間扱いすらされないことばかりだった。そんな彼と対等に人として向き合ってくれた人物、イーリヤという存在に全てを捧げると決めたのは十年ほど前のこと。
権力者は都合の悪い約束など反故にするし、言葉では表面上うまい対応をすることがある、だが心の奥底では絶対に他者を馬鹿にしているものだ。そんなコロラドの言葉を全面的に信じ、全てを賭けて危険を顧みずに進み、功績にきっちりと報いた。
望みの報酬を与えると言われた時に彼が口にしたのは「部下にして欲しい」それだけだった。以来、どこに居ようとフリーパスでコロラドは傍で話をし、好きな時に好きなところで情報を集めては報告するという仕事を得た。危険に見合わない報酬でしかないが、反面で青天井の軍資金を自由に使える唯一の存在として認められても居る。
「で、それだけじゃないんだろ」
ニヤリとしてイーリヤ公爵がその先にあるだろう何かを催促する。こんな他愛もないやり取りが出来ることが嬉しくて、コロラドはいつもより以上を用意してやって来る。そんな彼を公爵の配下は避けようとする、彼の忠誠は公爵であろうとなかろうと関係なく、イーリヤ個人へ向けられているので最早何も思っていないが。
「へっへっへ、実はソーコル帝国も南下の動きを」
北にあるソコール帝国、それこそ砂漠の先に在るのはその領地なので、ここエトワール公爵領が狙われる可能性を示している。目を細めてイーリヤ公爵は未来を想像した。手に持っていたビール瓶の残りをコロラドに渡し「とても参考になった、ありがとうコロラド、感謝する」ゆっくりと頷く。
この言葉だけで心が満たされた。豪奢な屋敷も、沢山の部下も、権力も金も何も要らない、ただこうやって頼りにされたい、感謝されたい、その一心でやり遂げたのみ。じんわりと広がって行く暖かさを得たくて、この先も彼は動き続けるだろう。
「エーン、トゥツァに連絡をつけるんだ」
「ヤ!」
ソーコル帝国内、ここから北に行ったところにあるディジョン伯爵トゥツァ、彼もまたイーリヤ公爵を崇拝する人物の一人。国をまたいでこういった者が沢山いる、それだけ公爵が今に至るまで無茶をして険しい道を進んできた証左でもある。
エーンが部屋をでて行く、その背を見詰めて「辿り着く答えが無かったとしても、俺は歩み続けるしかない」何かしらの決意を口にした。ステア王国とイーリヤ公爵は協力関係であり、立場の上下はあっても決して君主と臣下ではない。
◇
平和というのはある日突然失われてしまう、どれだけ尽力してもだ。執務室で様々処理をしているところへノックも無しで入って来る人物が一人、それに遅れて入って来るのがもう一人いた。最初のは女性で、褐色の肌に茶色のカールしたロングヘア、左瞼は縦に傷がついていて、赤いインナーに黒いジャケットを着崩している。弾け飛びそうな程大きな胸をしていて、くびれが対照的に映る。
ついてきた男は黒いスーツ姿で、目つきは鋭いが冷静沈着。感情むき出しの女性とは正反対の気性をしているように見える。報告で順番待ちしていた者らが一斉に注目した。
「おいお前、わかってんだろうね!」
開口一番イーリヤ公爵をお前呼ばわりする。ふぅ、と小さく息を吐くと報告者らを全員退室させて別室待機と命令した。十秒程してから女性と視線を合わせてようやく話を始める。
「レティアが言いたいだろうことは大体わかっているつもりだよ」
叱責するわけでなく、己の考えを述べるわけでもなく、そう受け止める。彼女はレティシア・レヴァンティン・イーリヤ、要はイーリヤ公爵の妻だ。あるいはイーリヤ公爵が彼女の夫とも言われる。
エーンと黒スーツの男が並んで脇に起立したまま、黙ってやり取りを見ていた。共に腹心であり、互いの主が違うだけでやっていることはほどんど一緒、公私ともに主を支えるのみ。最早目で会話する間柄とも言える。
「じゃあ話は簡単だ、戦争だよ!」
ふぅ、また息を吐くと席を立って彼女の目の前にゆっくりと歩いていく。
「マリアは静かにここで暮らしたいと思っているんじゃないのか」
娘のことでこうも荒れているのは百も承知で、なだめるよりも別のところに興味を持っていくべきだと感じて話題を変えようとする。他者にも自分にも厳しいが、やはり彼女もマリアにだけはこれ以上ない位甘かった。両親ともに溺愛する娘が、真っすぐに育ったのは神の奇跡の賜物だろう。
「ふん、マリアは望み通りにそうすればいいさ。でもね、あたしゃ許さないよ」
ギロリと睨んで眉を寄せる。口うるさいだけならイーリヤ公爵が話を聞いてやれば済むが、そうではないから道を選ばなければならない。彼女は彼女で勢力を抱えているから。互いの主が争う時にはエーンと黒スーツのゴメスは敵同士警戒していたが、こうして一組の夫婦になると苦労話を交わす仲になった。
そしてある時に奇妙な関係が一歩進んだ。エーンがレティシアの配下への、ゴメスがイーリヤの配下への臨時代理指揮権を得たことがあった。それが不思議とうまく行く、何せ二人とも主らのことを最優先に考えて命令を下すものだから自然と馴染んだから。
「どうするつもりなんだ」
「はっ、決まってるだろ、王子を叩きのめして埋めるんだよ!」
過激を通り越してしまっている発言にも「そうか」小さく応じるだけで止めようとしない。それが彼女は不満だったらしく「文句あるのかい!」声を荒げる。よくもまあこの性格で公爵夫人になれたものだと陰口をたたく者が居たが、最近はどこで何をしているやら姿を見なくなってしまった。
「レティアは相変わらずだな」
馬鹿にしているわけでもなく、呆れているわけでもない、イーリヤ公爵の表情には優しさと笑みがあった。
「何が言いたい!」
取り敢えず大声で反抗するスタイルを貫こうとする。レティシアの肩に手をやり、引き寄せると耳元で囁く。
「レティアは優しいな、マリアが悲しまないようにそうするつもりなんだろ」
「ちょ、馬鹿なことを言うな!」
動揺して突き放そうとするが、腰に手を回している力が思いのほか強くてはなせなかった。別に嫌なわけではないのでそれで少しトーンが落ちてしまう。その先がこの夫婦といったところだろうか。
「俺ならステア王国を無くしてしまうな。けれどもひとりじゃ出来そうに無い、レティアの助けが必要なんだ」
国を無くしてしまう、荒ぶっていた心に冷静さが戻って来て、表情が穏やかになって行く。
「お前はいつもあたしの想像を越えて来る」
「そうか。飽きられてないようで安心したよ」
「これからも努力しな」
暫しの沈黙があり、二人が抱き合っているだけの時間が流れた。その間も起立している二人は微動だにしない。
「で、どうしたらいい?」
「……そうだな、ある時海沿いにあるピレネーの首都に、多数の武装船団が現れたら我に返ると思わないか?」
海岸線西側にある港町がピレネー王国の首都リスボンだ。海洋国家が陸を侵食していった、順番としてはこうなる。
「必要になる二週間前に言え」
「ああ、そうする。ところで、今夜三人で食事に行かないか? 実は予約してあるんだ」
ここにきてようやく腕を緩めて顔を見て話をする。
「解った、マリアを呼びに行って来る」
ゴメスを引き連れて嵐のようにやって来た彼女が去って行った。壁際に立っているエーンを振り返り「大至急予約をとってくれ」そうだろうなと思っていた彼は、にこやかに「ヤ!」全てを承知で返答し、速やかに部屋を出て行くのであった。
秘書官は公私ともに支えるのが職務だ。
フォートスターの一室、イーリヤ公爵は各所からの報告を具に耳にしては何が起ころうとしているのかを注視していた。そこへ白いドレスを着たマリアがやって来る。
「お邪魔だったでしょうか」
少しだけ表情を曇らせてしまうが「そんなわけないだろ。さあこっちへ」順番待ちをしている者らを全て退けてしまい、部屋で二人になる。優先順位には大きな大きな壁がある、娘がもっとも上位であることに疑いなど無い。
「王都を出てきてかなり経ちましたけれども、何もないのでしょうか?」
追放されて出て来たけれども、その後のいざこざは全然マリアには届かない。心労にならないようにと箝口令を敷いているせいで、何事も無かった、そういうことにされている。
「そうだな、これといって大した変化はない」
サラッと応じてしまう。じっと公爵の目を見てから、彼女は小さくため息をつく。
「お父さまのお気持ちは受け取りますわ。皆の様子がおかしいと思いましたら、そういうことですの」
顔を見たら何を考えているか分かるのは親の特権などではない。子供からしてみたら逆で、親が何を思っているかなど隠せるものではない。ただ子供のそれと違い、親は常に子の為だけを想っているという部分が強い事実はあった。
「まあ、そうなるよな」
微笑して隠しごとがあるということを認めてしまう。落ち着きを取り戻すまで、元からずっとそうしようと考えていたわけではない、ここらが潮時と公爵も感じていた。執務用の椅子と机から離れて、隣の休憩室へと場所を移した。
「使者が来ていたよ。追放令は解いて、王都へ戻るようにってな」
「そう……ですの。それでワタクシはどうしたら?」
娘の顔色を見て軽く笑い「マリアのしたいようにすればいい。使者はフォートスターに留め置いているし、娘の所在は不明だと言ってある」こうやって目の前に居るのに平然と言ってのけた。世の中に真実など必要ないと言わんばかりの態度だ。
「王都には戻りたくありません」
「そうか。なら行く必要はない」
小さく頷いて娘の意思を尊重する。大まかな方針が一つ決まった瞬間だ。ではどうして戻りたくないのか、或いは何かしらの考えがあるのかが気になる。
「王子と結婚もしたくありません。ワタクシ、暫くはここに居たいです。ダメ……でしょうか?」
「ダメなわけないだろう、ここはマリアの家なんだ」
申し訳なさそうな娘に対して精一杯の笑顔で全てを肯定する。
「わがままばかりでごめんなさい」
「謝ることなんて何一つない、それでいいんだ」
あまりにも子に対して甘すぎる、親馬鹿と言われても反論は出来ないだろう。
「ですけど、きっと王国からの圧力がありますわ」
懸念はいつか現実になる、国の面子、王の威厳、秩序とはそういう馬鹿げた何かが積みあがって出来ている。公爵は首を左右に振って笑顔のまま断言する。
「王国がどういって来ようと関係ない。何があろうと、世界が敵になろうと私はマリアの味方だ」
「お父さま、ありがとうございます。お母さまともお話をしてきますね」
嬉しそうな笑みを残して娘が部屋を出て行く。後ろ姿が消えても暫く扉を見詰めていた。
「王子との婚礼は無し、王都にも行かない、使者への手土産はどうしたものか」
別室で待たせている報告者、一時間だろうと一日だろうと待たせておけばよいと少し考え事をする。ノックをする音が三度聞こえて来た。
「入れ」
それが誰かは知らないが、ただの報告者ではないことは解っている。やって来たのは黒い肌の男、真剣で鋭い目つきで部屋にずかずかと入って来た。厚い胸板、盛り上がった筋肉、短い髪、事務仕事をしてきたものではないのは見た目から直ぐに解る。
「セニャール、ご報告が」
「どうした」
公爵をセニャールと呼ぶ男、ありていに言えばご主君といったところだろうか。他の有象無象とは違う、彼の役職は秘書官。秘書と副官を兼ねている側近中の側近、いわゆる腹心といわれる存在。
「領内に密偵が多数放たれております。監視をつけて泳がせてあります」
「だろうな。調べているのはマリアと俺の動向だな」
肯定はしない、言葉にせずとも当然の成り行きだから。問題はどういう事実を流布するかというところ。情報を逆流させる機会が出来たと捉えるべきなのだ。
「ニース伯爵がフォートスターへ向かったのは既に明らかになっております」
ニース伯爵アンリ、その後帰郷していったが恐らくグロッカス侯爵領にも密偵が多数入り込んでいるはずだ。
「マリアを見失ったのを報告に来ていた、とでも噂を流しておけ。グロックに迷惑はかけれん」
そうしておけばアンリが行動を起こす時まではこれといった非が見受けられない。一方でグロック侯爵は好きなタイミングで動けるはず、と。もっともグロック侯爵も、アンリも迷惑などとは思っていないはずだが。
「了解です。ディエールには待機を発令しております」
ディエール伯爵エーン、秘書官の外向きの立場はこうなっていた。ここエトワール公爵領内にある一つの都市が彼の封地になっている。とはいえ順番は逆で、かの地から支配者を選出させたのが正しい。
「そうか。何事も無く終わるとは思えん、悪いがエーンの力を貸して欲しい」
「何なりとご命令下さい。我等はただセニャールの為だけに在ります!」
かつてディエールは王国から孤立し、見捨てられた都市と化していた。治安は悪化し、餓死する者が多く、病気が蔓延し、酷吏が牛耳っていた。民は明日どころか今すらを諦め、瞳は絶望のみを映し出してた。
そんな街にある日、四つ星の軍旗を翻してイーリヤ公爵――当時のイーリヤ大佐が現れ、自ら矢面に立ってみるみるディエールを回復させたのだ。各地を転戦し爵位を上げ続け、昨今公爵になると持っていた都市の爵位を領民らの推薦する人物に与えた、それがディエール伯爵エーン・プレトリアス。
プレトリアス一族を筆頭に、在地の者が神として崇める人物がイーリヤ公爵、そしてその娘、マリアだ。巫女としての素質に加え、なんと個人的な信仰まで集めていたのが神に通じたのかどうか。狂信的なまでの忠誠心がエーンという存在を動かしている。
コツコツと足音を鳴らして部屋にやって来る者が居た「ボス、コロラドでさぁ」その声に「入れ」即答すると、薄汚いコートを着た中年男性が入って来る。髪はボサボサでよれた服、あちこちが汚れていてとてもではないがここに居るべきではない雰囲気の男だ。
「何を掴んできたんだ」
微笑でコロラドを歓迎する、相手がどうであっても決して見た目で態度を変えない。イーリヤ公爵はテーブルに置いてあるビールを手にすると、グラスに注いでやりコロラドへと渡した。それを一気に飲み干すと、歪んだ笑みでグラスを突っ返す。
「ピレネー王国が騒ぎを聞きつけて、国境に兵を進めるつもりってことで」
ピレネー王国はステア王国と南西で国境を接している国で、互いに非常に仲が悪い。かれこれ百年以上も争い続けている宿敵のようなもの。十年に一度は戦争をしないとうっぷんがたまるのか、些細なことで競り合いを始めてしまう過去があった。
イーリヤ公爵もここ二十年前後で二度戦争を経験している、最初は兵士として、二度目は司令として、もし三度目があるならば今度は司令長官として対峙することになりそうだ。
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コロラドの情報は早い、そしてどこをどうしたのか核心を突いたものばかりを集めて来る。ただこの見た目に態度だ、その上腕っぷしは弱いのでどこに居ても蔑まれて人間扱いすらされないことばかりだった。そんな彼と対等に人として向き合ってくれた人物、イーリヤという存在に全てを捧げると決めたのは十年ほど前のこと。
権力者は都合の悪い約束など反故にするし、言葉では表面上うまい対応をすることがある、だが心の奥底では絶対に他者を馬鹿にしているものだ。そんなコロラドの言葉を全面的に信じ、全てを賭けて危険を顧みずに進み、功績にきっちりと報いた。
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「で、それだけじゃないんだろ」
ニヤリとしてイーリヤ公爵がその先にあるだろう何かを催促する。こんな他愛もないやり取りが出来ることが嬉しくて、コロラドはいつもより以上を用意してやって来る。そんな彼を公爵の配下は避けようとする、彼の忠誠は公爵であろうとなかろうと関係なく、イーリヤ個人へ向けられているので最早何も思っていないが。
「へっへっへ、実はソーコル帝国も南下の動きを」
北にあるソコール帝国、それこそ砂漠の先に在るのはその領地なので、ここエトワール公爵領が狙われる可能性を示している。目を細めてイーリヤ公爵は未来を想像した。手に持っていたビール瓶の残りをコロラドに渡し「とても参考になった、ありがとうコロラド、感謝する」ゆっくりと頷く。
この言葉だけで心が満たされた。豪奢な屋敷も、沢山の部下も、権力も金も何も要らない、ただこうやって頼りにされたい、感謝されたい、その一心でやり遂げたのみ。じんわりと広がって行く暖かさを得たくて、この先も彼は動き続けるだろう。
「エーン、トゥツァに連絡をつけるんだ」
「ヤ!」
ソーコル帝国内、ここから北に行ったところにあるディジョン伯爵トゥツァ、彼もまたイーリヤ公爵を崇拝する人物の一人。国をまたいでこういった者が沢山いる、それだけ公爵が今に至るまで無茶をして険しい道を進んできた証左でもある。
エーンが部屋をでて行く、その背を見詰めて「辿り着く答えが無かったとしても、俺は歩み続けるしかない」何かしらの決意を口にした。ステア王国とイーリヤ公爵は協力関係であり、立場の上下はあっても決して君主と臣下ではない。
◇
平和というのはある日突然失われてしまう、どれだけ尽力してもだ。執務室で様々処理をしているところへノックも無しで入って来る人物が一人、それに遅れて入って来るのがもう一人いた。最初のは女性で、褐色の肌に茶色のカールしたロングヘア、左瞼は縦に傷がついていて、赤いインナーに黒いジャケットを着崩している。弾け飛びそうな程大きな胸をしていて、くびれが対照的に映る。
ついてきた男は黒いスーツ姿で、目つきは鋭いが冷静沈着。感情むき出しの女性とは正反対の気性をしているように見える。報告で順番待ちしていた者らが一斉に注目した。
「おいお前、わかってんだろうね!」
開口一番イーリヤ公爵をお前呼ばわりする。ふぅ、と小さく息を吐くと報告者らを全員退室させて別室待機と命令した。十秒程してから女性と視線を合わせてようやく話を始める。
「レティアが言いたいだろうことは大体わかっているつもりだよ」
叱責するわけでなく、己の考えを述べるわけでもなく、そう受け止める。彼女はレティシア・レヴァンティン・イーリヤ、要はイーリヤ公爵の妻だ。あるいはイーリヤ公爵が彼女の夫とも言われる。
エーンと黒スーツの男が並んで脇に起立したまま、黙ってやり取りを見ていた。共に腹心であり、互いの主が違うだけでやっていることはほどんど一緒、公私ともに主を支えるのみ。最早目で会話する間柄とも言える。
「じゃあ話は簡単だ、戦争だよ!」
ふぅ、また息を吐くと席を立って彼女の目の前にゆっくりと歩いていく。
「マリアは静かにここで暮らしたいと思っているんじゃないのか」
娘のことでこうも荒れているのは百も承知で、なだめるよりも別のところに興味を持っていくべきだと感じて話題を変えようとする。他者にも自分にも厳しいが、やはり彼女もマリアにだけはこれ以上ない位甘かった。両親ともに溺愛する娘が、真っすぐに育ったのは神の奇跡の賜物だろう。
「ふん、マリアは望み通りにそうすればいいさ。でもね、あたしゃ許さないよ」
ギロリと睨んで眉を寄せる。口うるさいだけならイーリヤ公爵が話を聞いてやれば済むが、そうではないから道を選ばなければならない。彼女は彼女で勢力を抱えているから。互いの主が争う時にはエーンと黒スーツのゴメスは敵同士警戒していたが、こうして一組の夫婦になると苦労話を交わす仲になった。
そしてある時に奇妙な関係が一歩進んだ。エーンがレティシアの配下への、ゴメスがイーリヤの配下への臨時代理指揮権を得たことがあった。それが不思議とうまく行く、何せ二人とも主らのことを最優先に考えて命令を下すものだから自然と馴染んだから。
「どうするつもりなんだ」
「はっ、決まってるだろ、王子を叩きのめして埋めるんだよ!」
過激を通り越してしまっている発言にも「そうか」小さく応じるだけで止めようとしない。それが彼女は不満だったらしく「文句あるのかい!」声を荒げる。よくもまあこの性格で公爵夫人になれたものだと陰口をたたく者が居たが、最近はどこで何をしているやら姿を見なくなってしまった。
「レティアは相変わらずだな」
馬鹿にしているわけでもなく、呆れているわけでもない、イーリヤ公爵の表情には優しさと笑みがあった。
「何が言いたい!」
取り敢えず大声で反抗するスタイルを貫こうとする。レティシアの肩に手をやり、引き寄せると耳元で囁く。
「レティアは優しいな、マリアが悲しまないようにそうするつもりなんだろ」
「ちょ、馬鹿なことを言うな!」
動揺して突き放そうとするが、腰に手を回している力が思いのほか強くてはなせなかった。別に嫌なわけではないのでそれで少しトーンが落ちてしまう。その先がこの夫婦といったところだろうか。
「俺ならステア王国を無くしてしまうな。けれどもひとりじゃ出来そうに無い、レティアの助けが必要なんだ」
国を無くしてしまう、荒ぶっていた心に冷静さが戻って来て、表情が穏やかになって行く。
「お前はいつもあたしの想像を越えて来る」
「そうか。飽きられてないようで安心したよ」
「これからも努力しな」
暫しの沈黙があり、二人が抱き合っているだけの時間が流れた。その間も起立している二人は微動だにしない。
「で、どうしたらいい?」
「……そうだな、ある時海沿いにあるピレネーの首都に、多数の武装船団が現れたら我に返ると思わないか?」
海岸線西側にある港町がピレネー王国の首都リスボンだ。海洋国家が陸を侵食していった、順番としてはこうなる。
「必要になる二週間前に言え」
「ああ、そうする。ところで、今夜三人で食事に行かないか? 実は予約してあるんだ」
ここにきてようやく腕を緩めて顔を見て話をする。
「解った、マリアを呼びに行って来る」
ゴメスを引き連れて嵐のようにやって来た彼女が去って行った。壁際に立っているエーンを振り返り「大至急予約をとってくれ」そうだろうなと思っていた彼は、にこやかに「ヤ!」全てを承知で返答し、速やかに部屋を出て行くのであった。
秘書官は公私ともに支えるのが職務だ。
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