8 / 21
第1章
6
しおりを挟む
須藤が研究室から立ち去った後、蘇芳は研究室に戻っては来なかった。
――機嫌を損ねてしまったか……。
紺野は蘇芳に電話を掛けた。だが、蘇芳は出なかった。何度掛けても、呼び出し音が虚しく鳴り続けるばかりだ。
紺野はため息まじりに、携帯電話をポケットにしまった。
――まあ、いいか。そのうち、来るだろう。
蘇芳は、輸血用血液欲しさに紺野にすり寄っている。血液が欲しくなれば、また現れるに違いない。
だが、1週間過ぎても2週間過ぎても、蘇芳は現れなかった。連絡の一つも寄越さず、これほど長期に亘って姿を見せなかったのは、初めてだった。
すでに夏期休暇は終わり、後期の授業が始まっている。生真面目な蘇芳は、大学には来ているに違いない。それなのに、紺野のもとにはやってこない。
紺野は、焦りと不安を覚えた。
――あの時の私の態度が、気に障ったのか?
硫酸を被れと命じたのは、紺野自身、さすがにやり過ぎたと感じていた。だが、蘇芳は紺野の横柄な態度を好んでいる節がある。あの時の蘇芳は、困惑した様子は見せたが、怒りは覚えているようには見えなかった。
――もしかして、須藤の存在が気に入らなかったのか?
そんな考えが一瞬、紺野の脳裏を掠ったが、紺野は一笑に付した。
蘇芳にとって紺野は、血液を提供できるという点にしか価値を見出せない存在のはずだ。須藤の存在など、蘇芳にとっては何の関心もないことに違いない。
そして、まるで蘇芳と入れ替わったかのように、須藤が頻繁に紺野の研究室を訪れるようになった。
須藤はよほど焦っているのか、しつこく言い寄ってきた。何度追い返しても、何事もなかったかのように現れては、助けて欲しいと厚かましく頼んでくる。
――全く……。鬱陶しいにも程がある。
須藤になど、もう拘わる気は一切ないが、百歩譲って多少の助言をしてやろうにも、担当している卒論生の指導に手を焼いているこの時期に、そんな余力はなかった。
――そろそろ、卒論生の指導の時間か。
蘇芳や須藤のことに意識を奪われ、自身の研究がほどんど進んでいないことに気づき、紺野は小さく溜息を洩らした。
紺野は理工学部棟に向かう途中に、校内のハンバーガーショップに入った。学生たちへの差し入れのためだ。
なじみの店員が駆け寄ってきた。
「紺野先生、今日も差し入れですか? ナゲットも一緒にいかがですか?」
「任せるよ」
どうやら販売ノルマがあるらしく、店員は積極的に売り込んでくる。紺野は自分が食べるわけでもないから、大抵、店員に頼まれるままに購入していた。そのおかげか、店員たちは妙に愛想が良い。
注文を終え、カウンターの脇で商品の受け取りを待っていると、聞き覚えのある声がした。
「ミルクシェイクください」
奥のカウンターで、蘇芳が注文していた。
店員は紺野の視線に気づいたのか、商品を差し出しながら紺野に囁いた。
「あの子ですか? いつもミルクシェイクを注文するんですよ。あたしたちの間で、シェイク君って呼んでるんです。男の子では、珍しいですね」
「……そうなんだ」
「先生もいかがですか? すごく甘いですよ」
「遠慮しとくよ」
「ですよねー。いつも、ありがとうございます。また来てくださいね」
紺野は商品を受け取りながら、横目で蘇芳を見た。蘇芳はミルクシェイクを受け取ると、テーブル席のほうに向かっていく。
紺野は迷いながらも、蘇芳の後を追った。
テーブル席に腰を下ろした蘇芳に、紺野が声を掛けようとしたその時、蘇芳の顔がぱっと明るくなった。
「美鶴さん、こっちです」
蘇芳が手を大きく振ったその先には、大島美鶴の姿が見えた。
美鶴は小走りで駆け寄ってきて、当然のように蘇芳の向かいの椅子に鞄を置いた。
「ちょっと待ってて。あたしも注文してくる。あれ? 飲み物だけ? ちゃんと食べなきゃ、身体もたないわよ。なんか買ってきてあげる」
美鶴は一方的に話すと、カウンターに向かった。
どうやら、二人は待ち合わせをしていた様子だった。
――そういえば、前にもこんなことがあったな。
蘇芳を化学研究会の合宿から連れ戻した翌日のことだ。あの時、蘇芳は偶然会っただけだと言い張ったが、本当は約束していたのかもしれない。
なぜあの時、紺野は蘇芳を問い詰めなかったのか。
蘇芳が血を欲している限り、そう簡単に自分から離れて行くことはないだろうと、楽観視していたからだろう。
――そうか……。もしかすると、血が要らなくなったのかもしれない。
だとすれば、蘇芳が紺野から離れて行くのは当然だった。
蘇芳は焦点の合わないような虚ろな眼で、ぼんやりと宙を見ていた。
――血を欲している時の眼に似ている気もするが……。
注文を終えた大島美鶴が、蘇芳の席に向かって歩いてくるのが見えた。紺野は慌てて、ハンバーガーショップを出た。
幸い、蘇芳にも大島美鶴にも、気づかれずに済んだようだ。
大島は椅子に座ると、蘇芳に話しかけている。蘇芳ははにかむような笑みを浮かべながら、頷いている。
紺野は足早に理工学部棟に向かって歩き出した。
――機嫌を損ねてしまったか……。
紺野は蘇芳に電話を掛けた。だが、蘇芳は出なかった。何度掛けても、呼び出し音が虚しく鳴り続けるばかりだ。
紺野はため息まじりに、携帯電話をポケットにしまった。
――まあ、いいか。そのうち、来るだろう。
蘇芳は、輸血用血液欲しさに紺野にすり寄っている。血液が欲しくなれば、また現れるに違いない。
だが、1週間過ぎても2週間過ぎても、蘇芳は現れなかった。連絡の一つも寄越さず、これほど長期に亘って姿を見せなかったのは、初めてだった。
すでに夏期休暇は終わり、後期の授業が始まっている。生真面目な蘇芳は、大学には来ているに違いない。それなのに、紺野のもとにはやってこない。
紺野は、焦りと不安を覚えた。
――あの時の私の態度が、気に障ったのか?
硫酸を被れと命じたのは、紺野自身、さすがにやり過ぎたと感じていた。だが、蘇芳は紺野の横柄な態度を好んでいる節がある。あの時の蘇芳は、困惑した様子は見せたが、怒りは覚えているようには見えなかった。
――もしかして、須藤の存在が気に入らなかったのか?
そんな考えが一瞬、紺野の脳裏を掠ったが、紺野は一笑に付した。
蘇芳にとって紺野は、血液を提供できるという点にしか価値を見出せない存在のはずだ。須藤の存在など、蘇芳にとっては何の関心もないことに違いない。
そして、まるで蘇芳と入れ替わったかのように、須藤が頻繁に紺野の研究室を訪れるようになった。
須藤はよほど焦っているのか、しつこく言い寄ってきた。何度追い返しても、何事もなかったかのように現れては、助けて欲しいと厚かましく頼んでくる。
――全く……。鬱陶しいにも程がある。
須藤になど、もう拘わる気は一切ないが、百歩譲って多少の助言をしてやろうにも、担当している卒論生の指導に手を焼いているこの時期に、そんな余力はなかった。
――そろそろ、卒論生の指導の時間か。
蘇芳や須藤のことに意識を奪われ、自身の研究がほどんど進んでいないことに気づき、紺野は小さく溜息を洩らした。
紺野は理工学部棟に向かう途中に、校内のハンバーガーショップに入った。学生たちへの差し入れのためだ。
なじみの店員が駆け寄ってきた。
「紺野先生、今日も差し入れですか? ナゲットも一緒にいかがですか?」
「任せるよ」
どうやら販売ノルマがあるらしく、店員は積極的に売り込んでくる。紺野は自分が食べるわけでもないから、大抵、店員に頼まれるままに購入していた。そのおかげか、店員たちは妙に愛想が良い。
注文を終え、カウンターの脇で商品の受け取りを待っていると、聞き覚えのある声がした。
「ミルクシェイクください」
奥のカウンターで、蘇芳が注文していた。
店員は紺野の視線に気づいたのか、商品を差し出しながら紺野に囁いた。
「あの子ですか? いつもミルクシェイクを注文するんですよ。あたしたちの間で、シェイク君って呼んでるんです。男の子では、珍しいですね」
「……そうなんだ」
「先生もいかがですか? すごく甘いですよ」
「遠慮しとくよ」
「ですよねー。いつも、ありがとうございます。また来てくださいね」
紺野は商品を受け取りながら、横目で蘇芳を見た。蘇芳はミルクシェイクを受け取ると、テーブル席のほうに向かっていく。
紺野は迷いながらも、蘇芳の後を追った。
テーブル席に腰を下ろした蘇芳に、紺野が声を掛けようとしたその時、蘇芳の顔がぱっと明るくなった。
「美鶴さん、こっちです」
蘇芳が手を大きく振ったその先には、大島美鶴の姿が見えた。
美鶴は小走りで駆け寄ってきて、当然のように蘇芳の向かいの椅子に鞄を置いた。
「ちょっと待ってて。あたしも注文してくる。あれ? 飲み物だけ? ちゃんと食べなきゃ、身体もたないわよ。なんか買ってきてあげる」
美鶴は一方的に話すと、カウンターに向かった。
どうやら、二人は待ち合わせをしていた様子だった。
――そういえば、前にもこんなことがあったな。
蘇芳を化学研究会の合宿から連れ戻した翌日のことだ。あの時、蘇芳は偶然会っただけだと言い張ったが、本当は約束していたのかもしれない。
なぜあの時、紺野は蘇芳を問い詰めなかったのか。
蘇芳が血を欲している限り、そう簡単に自分から離れて行くことはないだろうと、楽観視していたからだろう。
――そうか……。もしかすると、血が要らなくなったのかもしれない。
だとすれば、蘇芳が紺野から離れて行くのは当然だった。
蘇芳は焦点の合わないような虚ろな眼で、ぼんやりと宙を見ていた。
――血を欲している時の眼に似ている気もするが……。
注文を終えた大島美鶴が、蘇芳の席に向かって歩いてくるのが見えた。紺野は慌てて、ハンバーガーショップを出た。
幸い、蘇芳にも大島美鶴にも、気づかれずに済んだようだ。
大島は椅子に座ると、蘇芳に話しかけている。蘇芳ははにかむような笑みを浮かべながら、頷いている。
紺野は足早に理工学部棟に向かって歩き出した。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
食事届いたけど配達員のほうを食べました
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか?
そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる