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第1章
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九月に入ったとはいえ、うだるような熱気が立ち込めていた。暴力的なまでの鋭い日差しが、砂利道を照りつけている。一歩進むたびに砂埃が舞い上がり、蘇芳は何度もむせた。
昌泰大学の湖西セミナーハウスは、小高い丘の上にあった。
化学研究会の研究合宿に参加したことを、蘇芳は早くも後悔し始めていた。
「蘇芳、大丈夫かよ? やっぱ文学部は、体力ねえな。持ってやるよ」
山田が、蘇芳の手から買い物袋を奪い取った。袋の中には、今晩の宴会用の缶ビールやおつまみなどが入っていた。
蘇芳と山田が昌泰大学のオープンキャンパスに参加してから、約二年が経っていた。
蘇芳は文学部に、山田は理工学部に無事合格した。
他学部に進学した二人には接点はないはずだったが、高校時代の同級生の誼なのか、山田は何かと蘇芳に絡んでくる。山田が所属する化学研究会の研究合宿に強引に参加させられることになったのも、そのせいだ。
研究合宿という名称だが、研究とは名ばかりで、実際には日中は京都観光をして、その後セミナーハウスに向かい、夕食後に宴会をするという流れだ。研究など、全くしていない。
「ちょっと、山田君。文学部が体力ない、ってのは、聞き捨てならないわね」
4年生の大島美鶴が、口を挟んだ。
「いや、美鶴さんは、元理工学部ですから、蘇芳なんかとは格が違いますよ」
山田が慌てて弁明した。
「えっ、大島さんって、文学部だったんですか? 僕と一緒だったんですね。てっきり、理工学部だと思ってました」
思いがけない事実を知って、蘇芳は思わず、大声を上げた。
オープンキャンパスの時、確かに美鶴は、理工学部の学生だと自己紹介していたはずだ。
化学研究会のメンバーの視線が一斉に蘇芳に注がれたが、次の瞬間、見てはいけないものから目を背けるように、全員の視線が蘇芳から離れていった。
――あ、なんか、まずいこと聞いちゃった……?
「おまえの飼い主に散々いびられて、転部する羽目になったんだよ」
全員の思いを代弁するかのように、山田が低い声で呟いた。
――飼い主って……。
言うまでもなく、紺野弘樹を指していた。
紺野とは、オープンキャンパスで会って以来、毎週1回、ほぼ欠かさず会っている。紺野から与えられる血液バッグは、蘇芳にとってもはやなくてはならないものだった。
――そうだ。今日、血を貰えるはずだったのに……。
本来ならば、今日、紺野の研究室を訪ねるはずだった。だが、化学研究会の合宿に参加することになったとは言いにくくて、やむなく急用ができたと紺野にメールで伝えた。
紺野は特に詮索しようとはせず、「了解した」とだけ返信してきた。
「おっ、着いたぞ。うわー、けっこう人が多いな」
先頭を歩いていた4年生の石川が、声を上げた。
セミナーハウスは、学生たちで賑わっていた。夏休み期間中は、様々なクラブやサークルなどが合宿で利用して、連日満員状態だという。
夕食が終わると、談話室を陣取って飲み会が始まった。
飲み会と言っても、近所のスーパーで買ってきたものを広げて飲み食いするだけの企画だった。
山田は慣れた様子で、次々とスナック菓子を開け、飲み物を配っていく。蘇芳も手伝ったが、どうも周りのテンションについていけない。普段なら、それなりに合わせられるはずなのに。
――やっぱり、血が欲しい……。
無性に血を啜りたくなってきた。そうなると、血のこと以外には、何も考えられなくなってしまう。
できることなら、自分の手首を切って血を舐めたかった。だが、蘇芳はリストカットをしないことを紺野に誓っていた。
やむなく蘇芳は頬の内側を噛み、わずかに口の中に広がる血の味を堪能した。
――でも、こんなのじゃ、全然足りない……。
「蘇芳君、全然飲んでないじゃない。どうかしたの?」
美鶴が蘇芳の顔を覗き込んだ。
「やっぱり紺野先生に黙って参加したことが、気になってるんですよ。な、蘇芳」
山田が茶化すような口調で言い放った。
「そんなに気になるなら、ちゃんと言ってから参加したら良かったのにさ」
――言えるものなら、言っていたよ。でも……。
「あ、言えるわけないか。紺野先生、化学研究会を目の仇みたいにしてるからな。俺らが高3の時のオープンキャンパスで、美鶴さんが怪我しただろ。あの時、公認を取り消すべきだと主張したらしいんだ。あの当時は紺野先生、まだ院生だったけど、それでもあの人、高坂教授から絶大な信用があるだろ。高坂教授も若干動かされたみたいで、マジでやばかったんだって」
山田は肩を竦めて見せた。
高坂教授は、紺野の所属する研究室のボスであり、その研究成果は世界的にも評価が高く、昌泰大学理学部内では絶大な発言力を持っていた。
化学研究会は大学の公認サークルだが、高坂教授が一言でも苦言を呈しようものなら、非公認になってしまうことも充分に考えられた。もしも非公認になってしまうと、活動補助費が出なくなるし、使える部屋や施設も限られてくる。さらに高坂教授の心証を害しては、進学にも就職にも支障をきたす恐れがあるため、サークルを辞める学生が続出するだろう。
化学研究会の幹部にとって、紺野は疎ましい存在なのは当然とも言えた。
「紺野先生みたいな昔ながらのクソまじめな研究者から見たら、このサークルは、飲みサーと同レベルにしか見えないんだろうな。でもさ、だからって、おまえが参加するのは自由じゃないのか?」
「そうよ。どうして言いなりにならなきゃいけないの? そんなに紺野先生が怖いわけ?」
美鶴が、強い口調で言い放った。酔っているのか、若干目が座っている。
「……美鶴さんだって、怖かったから、転部したんじゃないですか?」
蘇芳の言葉に、美鶴の顔が引き攣った。
「おい、蘇芳。言いすぎだぞ」
山田が蘇芳の頭を小突いた。
「いいのよ、山田君」
美鶴は無理やり笑顔を作った。
「紺野先生の圧力のかけ方は、怖いというよりも、陰湿だったわ。紺野先生があたしの研究をやんわりと批判したら、周りはそれに同調して、酷評し始めるの。同調しないといけないような雰囲気を、紺野先生が作り出してるの。いじめと同じ構造よ。いじめっ子が名指しした相手が、いじめの対象になるのと同じ」
蘇芳は小さく溜息を吐いた。
紺野に対する中傷は、これまでも嫌というほど聞かされてきた。紺野のせいで大学を中退した者や、鬱病になった者までいるという。
だが、紺野は確かに厳格で融通の利かない面があるが、蘇芳から見ると、化学研究会のメンバーが言うほど酷薄な人物とは思えなかった。
中退したという学生や、鬱病になったという学生のほうにも、落ち度があったのではないかと思えた。実際、オープンキャンパス時の美鶴の怪我に関しては、美鶴たちに落ち度があったのは確かだろう。
「なあ、なあ、蘇芳。紺野先生って、ゲイなのか?」
突然、4年生の石川が乱入してきた。
「え?」
蘇芳は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「石川さん、直球すぎますよ。蘇芳がびっくりしてるじゃないですか。でも、確かに、蘇芳への執心ぶりは変ですよねぇ。それに、噂もありましたよね」
山田が妙に嬉しそうに捲くし立てた。
「おいおい、声がでかいよ。実は、ここだけの話だけど、紺野先生が修士課程2年の時、4年生の男子学生にずいぶんテコ入れしてたらしいんだよなぁ。蘇芳、おまえも、狙われてるんじゃねえの?」
石川がわざとらしく声を低くして囁いた。
「変な冗談はやめてください。紺野さんは、一度もそんなそぶりを見せたことありません」
「えー、マジかよ? きっと、まだ猫を被ってんじゃね? 気をつけた方がいいぞー」
――気をつけろって言われても……。
蘇芳は苦笑を浮かべた。
紺野と出会ったのは、高校3年の秋だから、もう2年近くも経つ。もし紺野にそんな気があれば、何らかのアプローチがあってしかるべきだろう。
――でも、もしあったとしたら、僕はどうするんだろう?
蘇芳には、同性に性的感情を抱く趣味はなかった。だが、もし紺野がそういった関係を望んできたら、どうするのか、自分でも分からなかった。
「そろそろ俺、眠くなってきた」
山田は欠伸をしながら、その場で横になった。畳敷きの部屋なので、寝てもさほど問題はないかもしれないが、寝るなら部屋に戻った方がいいだろう。
「部屋で寝ろよ」
蘇芳は山田の身体をゆすったが、山田は起きようとはしない。
周りを見ると、何人か雑魚寝していた。人数が減っているから、何人かは部屋に戻ったのだろう。
美鶴は缶ビールを片手に、石川と盛り上がっている。
蘇芳はそっと、談話室から出た。
しばらく廊下を歩いていると、遠くから仄かな香りが漂ってきた。常人では分からない程度の、ほんのわずかな血の匂いだった。
蘇芳は血の匂いに誘われるままに、ふらりと匂いがする方向へ足を進めた。
――ここだ……。
まだ灯りのともった部屋があった。「第3実験室」と書かれている。ドアの傍らに、段ボールが置かれていた。
部屋の中からも僅かに血の匂いがするが、濃厚に香るのは、段ボールの中からだった。蘇芳は恐る恐る、段ボールを開いた。
入っていたのは、ビニール袋に入った、血塗れの犬の死骸だった。ビニール袋の底に溜まっている血を前に、蘇芳は生唾を呑み込んだ。
頭がくらくらして、心臓が激しく脈打っていた。身体が、血を欲しているのが分かる。
蘇芳は犬の死骸を床に放り投げると、ビニール袋に手を突っ込み、底に溜まった血を掌で掬った。血の香りにうっとりとしながら、掌を自分の唇に当てたその時だった。
「蘇芳君」
聞きなれた声に、蘇芳は弾かれたように顔を上げた。
「……紺野さん……」
瞬時に、酔いから醒めた。
醒めた途端、自分が犬の血で汚れていることに気づいた。
「ビニール袋を段ボールの中に戻して、こっちにおいで」
紺野は普段と変わらない口調で、蘇芳に命じた。蘇芳の頭の中は真っ白だったが、気が付くと、紺野に命じられたとおりに、手にしていたビニール袋を段ボールの中に戻していた。
「紺野先生? どうかしまし……」
部屋の中から現れた白衣姿の男が、蘇芳を見るなり、引き攣った声を上げた。その声に、部屋の中にいた数人の学生が顔を出した。
「どうしたん……、うわっ!」
学生たちは、悲鳴とともに顔を引っこめた。薄暗い廊下に、顔面と服を血で汚した人間が立っていたのだから、驚くのも無理はなかった。
悲鳴が響いたのか、数人の学生が様子を見にきた。化学研究会のメンバーも、駆け付けた。その中に、山田と美鶴の姿もあった。
辺りは物々しい雰囲気に包まれた。
「蘇芳君、こっちにおいで」
もう一度言われて、ようやく蘇芳は紺野のほうに歩いていった。よろめきながらも、なんとか紺野の手が届くあたりにまで辿り着けた。
紺野は蘇芳の肩を抱くと、あやすようにその背中を撫でた。その優しい掌の温もりに、昂っていた蘇芳の情念が、徐々に鎮まっていった。
「申し訳ない。犬の死骸に傷をつけたわけではなさそうだから、大目に見てやってもらえないか? 後片付けは、私がやるから」
蘇芳は白衣姿の男に、周りの野次馬には聞き取れないであろう小声で告げた。
「え、あ、いえ、後片付けなんて、私がやりますよ。犬のことは、お気になさらず。多少傷ついたところで、骨格標本にするのに問題はありませんから」
白衣の男も状況を悟ったのか、声のトーンを落とした。
「水道を借りていいか? とりあえず、手洗いとうがいだけでもさせたい」
「あ、はい、もちろんです。まあ、その犬は飼い犬なので、野生動物ほど妙な細菌は持っていないでしょうど」
白衣の男は追従するような笑みを浮かべると、実験室のドアを開いた。
紺野は白衣の男とともに、蘇芳を連れて、室内に入っていった。それを見届けると、集まっていた野次馬たちは互いに顔を見合わせていたが、やがて興味を失ったように、立ち去って行った。
「紺野さん、どうしてここに……」
手洗いを終えた蘇芳が、小声で訊ねた。紺野は特に声のトーンを落とすことなく答えた。
「動植物研究会と化学研究会が、同じ日にセミナーハウスを利用するようだったから、気になって来てみただけだ。動植物研究会は、よくセミナーハウスで骨格標本を作っているんだ」
紺野に促されて、蘇芳はその場にいた動植物研究会のメンバーに詫びた。彼らの困惑した空気を痛いほど感じたが、紺野に遠慮しているのか、誰一人蘇芳を責めることはなかった。
実験室を出ると、廊下の少し離れたところで山田と美鶴が佇んでいる姿が見えた。
「蘇芳君、怪我したの? 大丈夫?」
美鶴が駆け寄りかけたその時、紺野が鋭い眼差しを美鶴に向けた。
「私の実験動物を、私の承諾なしに持ち出さないでもらいたい」
紺野は静かだが凄みのある声で言い放った。その剣幕に、山田と美鶴は石のように固まっている。
紺野は蘇芳の腕を掴むと、硬直する二人の前を足早に通り過ぎた。紺野に引きずられるようにして小走りで歩く蘇芳には、山田や美鶴と言葉を交わす暇もなかった。
二人の冷たい視線を背中に感じながら、蘇芳はセミナーハウスを後にした。
昌泰大学の湖西セミナーハウスは、小高い丘の上にあった。
化学研究会の研究合宿に参加したことを、蘇芳は早くも後悔し始めていた。
「蘇芳、大丈夫かよ? やっぱ文学部は、体力ねえな。持ってやるよ」
山田が、蘇芳の手から買い物袋を奪い取った。袋の中には、今晩の宴会用の缶ビールやおつまみなどが入っていた。
蘇芳と山田が昌泰大学のオープンキャンパスに参加してから、約二年が経っていた。
蘇芳は文学部に、山田は理工学部に無事合格した。
他学部に進学した二人には接点はないはずだったが、高校時代の同級生の誼なのか、山田は何かと蘇芳に絡んでくる。山田が所属する化学研究会の研究合宿に強引に参加させられることになったのも、そのせいだ。
研究合宿という名称だが、研究とは名ばかりで、実際には日中は京都観光をして、その後セミナーハウスに向かい、夕食後に宴会をするという流れだ。研究など、全くしていない。
「ちょっと、山田君。文学部が体力ない、ってのは、聞き捨てならないわね」
4年生の大島美鶴が、口を挟んだ。
「いや、美鶴さんは、元理工学部ですから、蘇芳なんかとは格が違いますよ」
山田が慌てて弁明した。
「えっ、大島さんって、文学部だったんですか? 僕と一緒だったんですね。てっきり、理工学部だと思ってました」
思いがけない事実を知って、蘇芳は思わず、大声を上げた。
オープンキャンパスの時、確かに美鶴は、理工学部の学生だと自己紹介していたはずだ。
化学研究会のメンバーの視線が一斉に蘇芳に注がれたが、次の瞬間、見てはいけないものから目を背けるように、全員の視線が蘇芳から離れていった。
――あ、なんか、まずいこと聞いちゃった……?
「おまえの飼い主に散々いびられて、転部する羽目になったんだよ」
全員の思いを代弁するかのように、山田が低い声で呟いた。
――飼い主って……。
言うまでもなく、紺野弘樹を指していた。
紺野とは、オープンキャンパスで会って以来、毎週1回、ほぼ欠かさず会っている。紺野から与えられる血液バッグは、蘇芳にとってもはやなくてはならないものだった。
――そうだ。今日、血を貰えるはずだったのに……。
本来ならば、今日、紺野の研究室を訪ねるはずだった。だが、化学研究会の合宿に参加することになったとは言いにくくて、やむなく急用ができたと紺野にメールで伝えた。
紺野は特に詮索しようとはせず、「了解した」とだけ返信してきた。
「おっ、着いたぞ。うわー、けっこう人が多いな」
先頭を歩いていた4年生の石川が、声を上げた。
セミナーハウスは、学生たちで賑わっていた。夏休み期間中は、様々なクラブやサークルなどが合宿で利用して、連日満員状態だという。
夕食が終わると、談話室を陣取って飲み会が始まった。
飲み会と言っても、近所のスーパーで買ってきたものを広げて飲み食いするだけの企画だった。
山田は慣れた様子で、次々とスナック菓子を開け、飲み物を配っていく。蘇芳も手伝ったが、どうも周りのテンションについていけない。普段なら、それなりに合わせられるはずなのに。
――やっぱり、血が欲しい……。
無性に血を啜りたくなってきた。そうなると、血のこと以外には、何も考えられなくなってしまう。
できることなら、自分の手首を切って血を舐めたかった。だが、蘇芳はリストカットをしないことを紺野に誓っていた。
やむなく蘇芳は頬の内側を噛み、わずかに口の中に広がる血の味を堪能した。
――でも、こんなのじゃ、全然足りない……。
「蘇芳君、全然飲んでないじゃない。どうかしたの?」
美鶴が蘇芳の顔を覗き込んだ。
「やっぱり紺野先生に黙って参加したことが、気になってるんですよ。な、蘇芳」
山田が茶化すような口調で言い放った。
「そんなに気になるなら、ちゃんと言ってから参加したら良かったのにさ」
――言えるものなら、言っていたよ。でも……。
「あ、言えるわけないか。紺野先生、化学研究会を目の仇みたいにしてるからな。俺らが高3の時のオープンキャンパスで、美鶴さんが怪我しただろ。あの時、公認を取り消すべきだと主張したらしいんだ。あの当時は紺野先生、まだ院生だったけど、それでもあの人、高坂教授から絶大な信用があるだろ。高坂教授も若干動かされたみたいで、マジでやばかったんだって」
山田は肩を竦めて見せた。
高坂教授は、紺野の所属する研究室のボスであり、その研究成果は世界的にも評価が高く、昌泰大学理学部内では絶大な発言力を持っていた。
化学研究会は大学の公認サークルだが、高坂教授が一言でも苦言を呈しようものなら、非公認になってしまうことも充分に考えられた。もしも非公認になってしまうと、活動補助費が出なくなるし、使える部屋や施設も限られてくる。さらに高坂教授の心証を害しては、進学にも就職にも支障をきたす恐れがあるため、サークルを辞める学生が続出するだろう。
化学研究会の幹部にとって、紺野は疎ましい存在なのは当然とも言えた。
「紺野先生みたいな昔ながらのクソまじめな研究者から見たら、このサークルは、飲みサーと同レベルにしか見えないんだろうな。でもさ、だからって、おまえが参加するのは自由じゃないのか?」
「そうよ。どうして言いなりにならなきゃいけないの? そんなに紺野先生が怖いわけ?」
美鶴が、強い口調で言い放った。酔っているのか、若干目が座っている。
「……美鶴さんだって、怖かったから、転部したんじゃないですか?」
蘇芳の言葉に、美鶴の顔が引き攣った。
「おい、蘇芳。言いすぎだぞ」
山田が蘇芳の頭を小突いた。
「いいのよ、山田君」
美鶴は無理やり笑顔を作った。
「紺野先生の圧力のかけ方は、怖いというよりも、陰湿だったわ。紺野先生があたしの研究をやんわりと批判したら、周りはそれに同調して、酷評し始めるの。同調しないといけないような雰囲気を、紺野先生が作り出してるの。いじめと同じ構造よ。いじめっ子が名指しした相手が、いじめの対象になるのと同じ」
蘇芳は小さく溜息を吐いた。
紺野に対する中傷は、これまでも嫌というほど聞かされてきた。紺野のせいで大学を中退した者や、鬱病になった者までいるという。
だが、紺野は確かに厳格で融通の利かない面があるが、蘇芳から見ると、化学研究会のメンバーが言うほど酷薄な人物とは思えなかった。
中退したという学生や、鬱病になったという学生のほうにも、落ち度があったのではないかと思えた。実際、オープンキャンパス時の美鶴の怪我に関しては、美鶴たちに落ち度があったのは確かだろう。
「なあ、なあ、蘇芳。紺野先生って、ゲイなのか?」
突然、4年生の石川が乱入してきた。
「え?」
蘇芳は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「石川さん、直球すぎますよ。蘇芳がびっくりしてるじゃないですか。でも、確かに、蘇芳への執心ぶりは変ですよねぇ。それに、噂もありましたよね」
山田が妙に嬉しそうに捲くし立てた。
「おいおい、声がでかいよ。実は、ここだけの話だけど、紺野先生が修士課程2年の時、4年生の男子学生にずいぶんテコ入れしてたらしいんだよなぁ。蘇芳、おまえも、狙われてるんじゃねえの?」
石川がわざとらしく声を低くして囁いた。
「変な冗談はやめてください。紺野さんは、一度もそんなそぶりを見せたことありません」
「えー、マジかよ? きっと、まだ猫を被ってんじゃね? 気をつけた方がいいぞー」
――気をつけろって言われても……。
蘇芳は苦笑を浮かべた。
紺野と出会ったのは、高校3年の秋だから、もう2年近くも経つ。もし紺野にそんな気があれば、何らかのアプローチがあってしかるべきだろう。
――でも、もしあったとしたら、僕はどうするんだろう?
蘇芳には、同性に性的感情を抱く趣味はなかった。だが、もし紺野がそういった関係を望んできたら、どうするのか、自分でも分からなかった。
「そろそろ俺、眠くなってきた」
山田は欠伸をしながら、その場で横になった。畳敷きの部屋なので、寝てもさほど問題はないかもしれないが、寝るなら部屋に戻った方がいいだろう。
「部屋で寝ろよ」
蘇芳は山田の身体をゆすったが、山田は起きようとはしない。
周りを見ると、何人か雑魚寝していた。人数が減っているから、何人かは部屋に戻ったのだろう。
美鶴は缶ビールを片手に、石川と盛り上がっている。
蘇芳はそっと、談話室から出た。
しばらく廊下を歩いていると、遠くから仄かな香りが漂ってきた。常人では分からない程度の、ほんのわずかな血の匂いだった。
蘇芳は血の匂いに誘われるままに、ふらりと匂いがする方向へ足を進めた。
――ここだ……。
まだ灯りのともった部屋があった。「第3実験室」と書かれている。ドアの傍らに、段ボールが置かれていた。
部屋の中からも僅かに血の匂いがするが、濃厚に香るのは、段ボールの中からだった。蘇芳は恐る恐る、段ボールを開いた。
入っていたのは、ビニール袋に入った、血塗れの犬の死骸だった。ビニール袋の底に溜まっている血を前に、蘇芳は生唾を呑み込んだ。
頭がくらくらして、心臓が激しく脈打っていた。身体が、血を欲しているのが分かる。
蘇芳は犬の死骸を床に放り投げると、ビニール袋に手を突っ込み、底に溜まった血を掌で掬った。血の香りにうっとりとしながら、掌を自分の唇に当てたその時だった。
「蘇芳君」
聞きなれた声に、蘇芳は弾かれたように顔を上げた。
「……紺野さん……」
瞬時に、酔いから醒めた。
醒めた途端、自分が犬の血で汚れていることに気づいた。
「ビニール袋を段ボールの中に戻して、こっちにおいで」
紺野は普段と変わらない口調で、蘇芳に命じた。蘇芳の頭の中は真っ白だったが、気が付くと、紺野に命じられたとおりに、手にしていたビニール袋を段ボールの中に戻していた。
「紺野先生? どうかしまし……」
部屋の中から現れた白衣姿の男が、蘇芳を見るなり、引き攣った声を上げた。その声に、部屋の中にいた数人の学生が顔を出した。
「どうしたん……、うわっ!」
学生たちは、悲鳴とともに顔を引っこめた。薄暗い廊下に、顔面と服を血で汚した人間が立っていたのだから、驚くのも無理はなかった。
悲鳴が響いたのか、数人の学生が様子を見にきた。化学研究会のメンバーも、駆け付けた。その中に、山田と美鶴の姿もあった。
辺りは物々しい雰囲気に包まれた。
「蘇芳君、こっちにおいで」
もう一度言われて、ようやく蘇芳は紺野のほうに歩いていった。よろめきながらも、なんとか紺野の手が届くあたりにまで辿り着けた。
紺野は蘇芳の肩を抱くと、あやすようにその背中を撫でた。その優しい掌の温もりに、昂っていた蘇芳の情念が、徐々に鎮まっていった。
「申し訳ない。犬の死骸に傷をつけたわけではなさそうだから、大目に見てやってもらえないか? 後片付けは、私がやるから」
蘇芳は白衣姿の男に、周りの野次馬には聞き取れないであろう小声で告げた。
「え、あ、いえ、後片付けなんて、私がやりますよ。犬のことは、お気になさらず。多少傷ついたところで、骨格標本にするのに問題はありませんから」
白衣の男も状況を悟ったのか、声のトーンを落とした。
「水道を借りていいか? とりあえず、手洗いとうがいだけでもさせたい」
「あ、はい、もちろんです。まあ、その犬は飼い犬なので、野生動物ほど妙な細菌は持っていないでしょうど」
白衣の男は追従するような笑みを浮かべると、実験室のドアを開いた。
紺野は白衣の男とともに、蘇芳を連れて、室内に入っていった。それを見届けると、集まっていた野次馬たちは互いに顔を見合わせていたが、やがて興味を失ったように、立ち去って行った。
「紺野さん、どうしてここに……」
手洗いを終えた蘇芳が、小声で訊ねた。紺野は特に声のトーンを落とすことなく答えた。
「動植物研究会と化学研究会が、同じ日にセミナーハウスを利用するようだったから、気になって来てみただけだ。動植物研究会は、よくセミナーハウスで骨格標本を作っているんだ」
紺野に促されて、蘇芳はその場にいた動植物研究会のメンバーに詫びた。彼らの困惑した空気を痛いほど感じたが、紺野に遠慮しているのか、誰一人蘇芳を責めることはなかった。
実験室を出ると、廊下の少し離れたところで山田と美鶴が佇んでいる姿が見えた。
「蘇芳君、怪我したの? 大丈夫?」
美鶴が駆け寄りかけたその時、紺野が鋭い眼差しを美鶴に向けた。
「私の実験動物を、私の承諾なしに持ち出さないでもらいたい」
紺野は静かだが凄みのある声で言い放った。その剣幕に、山田と美鶴は石のように固まっている。
紺野は蘇芳の腕を掴むと、硬直する二人の前を足早に通り過ぎた。紺野に引きずられるようにして小走りで歩く蘇芳には、山田や美鶴と言葉を交わす暇もなかった。
二人の冷たい視線を背中に感じながら、蘇芳はセミナーハウスを後にした。
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