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番外編
待ち合わせ
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冷たい強い風に、噴水の水が煽られて、水飛沫が飛んできた。
傍らに佇んでいた翔は、肩を竦めた。
ひどく冷え込んでいるせいか、まだ日が落ちていないというのに、公園の中には人の姿が全く見えない。
――先生、まだかな?
腕時計を見たが、待ち合わせ時間までにはまだ1時間以上あった。吹きさらしの公園の中で、1時間以上待たなければならない。
それでも、久しぶりに勢田に会えると思うと、自然と顔がほころんだ。
数日前に、第一志望の大学に合格したことを報告すると、勢田はとても喜んでくれた。翔としては、大学に合格したことよりも、また勢田と会えることの方が嬉しかった。
受験前は、気遣っているのか、あまり連絡をくれなかった。翔の方から電話をしても、受験勉強に差し障りがあってはいけないからと言って、用件が済むとすぐに切られてしまった。
――僕に飽きたってわけじゃないよな……?
脳裏を掠めた不安を振り払うように、翔は頭を横に振った。
――だめだ。何か違うことを考えなきゃ。
そういえば、冬になると火事が増えるせいか、最近、消防車やら救急車のサイレンの音をよく聞くような気がする。暇つぶしに、サイレンカーの通る回数を数え始めた。
3回目を数えたところで時計を見ると、そろそろ待ち合わせ時間だった。
「あの……、もしかして、成島君?」
振り向くと、常緑樹の木陰から同年代の女性が現れた。ミニスカートを履き、安っぽいハート形のペンダントを首からぶら下げている。明るく染められた髪の毛の根元は黒く、少しだらしない印象だった。
――こんな知り合い、いたっけ?
翔は女の顔をまじまじと見つめた。だが、誰なのか分からなかった。
女は眉根を寄せると、寂しげに笑った。
「あの頃とはだいぶ変わっちゃったから、分からないよね。中学時代に同じクラスだった、田中恵」
「えっ、恵さん?」
翔は頓狂な声を上げた。
思わず姓ではなく名のほうで呼んでしまったが、特段親しかったわけではない。同じクラスにもう一人、田中姓がいたため、「恵さん」と呼ばれていただけだ。
確か、地味でおとなしい子だったはずだ。
だが、事情は知らないが、いつの頃からか登校しなくなり、そのまま退学したと記憶している。
「良かった、名前は覚えててくれたんだ」
恵は嬉しそうに微笑んだ。
「あたしが中学を辞めた理由、聞いてるよね?」
噂はあったのかもしれないが、翔の耳には届かなかった。翔は当時から、クラスで孤立していた。
「……いや、その……」
どう返事したらいいのか分からず、翔は困惑した。
「クラスのみんなが、あたしに対して急に態度を変えたのに、成島君だけ変わらなかったよね。あたし、すごく嬉しかったんだ」
恵は恥ずかしそうに視線を逸らして、微笑んだ。
――そりゃ、知らないんだから、態度を変えようがないよな。それ以前に、恵さんと特に接触した覚えがないけど……。
だが、そんなことを口にできる雰囲気ではなかった。
「ママがデート商法に引っかかって散財させられた挙句、パパまでその男の持ちかけて来た投資詐欺に引っかかって、自己破産に追い込まれて……。みんなに白い眼を向けられて、すごく辛かったの」
翔の通っていた中学校では、金持ちの子弟ばかりが集まっていたためか、親の職業がなぜか皆に知られていた。恵の父は、確かメガバンクに勤務していたのではなかったか。
――メガバンクの行員が自己破産なんかしたら、職場に居づらそうだけど……?
翔は恵の父親の進退について少し気になったが、そんなことを訊ねるわけにはいかない。
「大変だったんだね」
翔は、無難な感想を述べるしかなかった。
「あたしね、成島君のこと、好きだったんだ」
恵の呟きに、翔は耳を疑った。
あり得なかった。あの頃、すでに翔はクラスメイトに忌み嫌われ、孤立していた。好意を持って接してくれた相手がいたとすれば、強く印象に残るはずだが、そんな記憶は全くなかった。
「恵さんも、僕を避けていたんじゃないの? あ、別に非難してるわけじゃないんだ。『イーヴィルアイ』のことを思えば、みんなの態度は当然だと思ってるし」
恵が翔の言葉を遮るように言い募った。
「成島君が怖かったんじゃないの。ただ、なんというか……、みんなの目が怖かったの。成島君に声なんか掛けたら、他の子たちからどんな目を向けられるかと思うと……」
翔は恵の弁明を聞き流した。
気づけば、すでに日が落ちていた。傍らの噴水は、いつの間にか止まっていた。街灯の周りだけは明るいものの、辺りは真っ暗だった。鬱蒼とした木々に囲まれ、公園の外の光は届かない。
待ち合わせ時間から、二時間以上が経過していた。
――先生、まだなのか?
翔は思わず辺りを見回したが、やはり人影はなかった。
――すっぽかされた?
それなら、まだましだ。
――もしかすると、行方をくらましてしまったのかもしれない。
勢田は翔と付き合うことに承諾してくれたものの、まだ翔に対して何かを隠しているような気配を感じられた。携帯電話の番号は教えてくれたものの、どうやらその携帯電話は、いわゆる「飛ばし携帯」のようだ。住んでいる場所も一応教えてはくれたが、どうもそこに定住しているわけではなさそうだった。突然姿を消されたとしても、翔には勢田の行方を追う術がなかった。
「もしかして、誰か待ってるの?」
腕時計を睨むように見つめている翔に、恵が訊ねてきた。
「こんなところで待ち合わせ? 夜の公園で待ち合わせだなんて、ちょっと危ないんじゃないの?」
「……6時だったんだけど」
今の時刻は、8時15分だった。
「すっぽかされたのかな?」
恵に指摘される前に、翔は口早に呟いた。恵は媚びるようなアヒル口で小首を傾げた。その口元に、徐々に笑みが浮かぶ。
「じゃあ、私と行かない? ここ、寒いし、ずっと立ってしゃべってたら、足が痛くなっちゃった。二人きりでゆっくり話せるところに行きたいな」
恵は甘えるように、翔に腕を搦めてきた。
翔は面食らった。中学時代の恵しか知らない翔にとっては、彼女がこんなに積極的なふるまいをするとは、想像もつかなかった。
「いや、でも……」
やんわりと腕を解こうとしたが、恵は翔を掴んだまま離れようとはしなかった。よほど手が冷えているのか、掴まれた右腕がじわりと冷たくなってきた。急に背筋がぞくりとした。
「ねえ、行こうよ」
上目遣いに翔を見つめる恵の瞳に、獰猛な色が走った。
翔の心臓が跳ね上がった。本能的な恐怖を感じた。できることなら、一目散に逃げ出したかった。だが、どういうわけか、まるで蛇に睨まれた蛙のように、身体が動かなかった。
その時、葉擦れの音がした。
「遅くなってごめん」
木陰から突然現れたのは、勢田だった。
「来てくれたんだ……」
翔は全身から力が抜けるほどの安堵を覚えた。そんな翔をよそに、恵の表情は凍り付いていた。
「岸崎……」
恵が、勢田を真っ直ぐに見据えながら、震える声で呟いた。
「岸崎って?」
思わず翔は勢田に目を遣った。勢田は例によって、軽薄そうな笑みを浮かべていた。
――先生の偽名か。……いや、「勢田」のほうが偽名だったりして……。あ、松井さんが嘘を言ってなければ、多分、勢田のほうが本名だよな。
高校の同級生に、勢田の妹がいることを思い出し、翔は胸を撫でおろした。いくらなんでも、偽名を名乗られたまま付き合っていたとすれば、あまりにも惨めだった。
「やあ、恵ちゃん。元気にしてた?」
唇を戦慄かせながら、恵は勢田を睨みつけた。
「あんた、どの面下げて……」
動物のような唸り声を上げたかと思うと、恵が突然、勢田に駆け寄った。
「あんたのせいで、うちは滅茶苦茶になったのよ」
叫びながら、恵が拳を振り上げた。勢田は振り下ろされた手首を軽々と掴むと、余裕の笑みを浮かべた。
「元気そうで、何よりだ」
恵は悔しそうに唇を噛み締めると、勢田の手を振り払った。
「えっと……、二人は、知り合いなの?」
翔がおずおずと訊ねると、恵は我に返ったように翔を振り返った。
「この男が、ママとパパを嵌めたのよ」
勢田を指さして、恵が叫んだ。
そんな剣幕には慣れているのか、勢田は飄々とした態度を崩すことなく、のらりくらりと躱す。
「菊美さんに似合いそうなアクセサリーをお勧めしただけで、詐欺呼ばわりされても困るなぁ。菊美さん、喜んでくれてたと思うんだけど」
勢田は、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「それに、俺が菊美さんのご主人にお会いしたの、一回だけだよ? 知り合いの投資コンサルタントに儲けさせてもらったって話をしたら、紹介して欲しいって頼まれたから、そのコンサルタントを紹介しただけ。だいたい、エリート銀行員様なんだから、本職じゃないの? 俺が紹介した投資コンサルタントが本物か偽物かくらい、見分けがつけられるだろ」
恵は悔しそうに俯いた。固く握った拳が、ぶるぶると震えていた。
――まさか恵さんのご両親が、先生に騙されてたなんて……。
勢田のことだから、証拠を残すようなへまはしていないだろうが、恵の両親をペテンに掛けたのは、おそらく事実なのだろう。メガバンクの行員なら、投資詐欺に引っかかったことを表沙汰にできないと踏んで、あくどい手を使ったのかもしれない。
「……先生、あまり刺激しないでくださいよ」
翔は居たたまれなくなって、小声で制した。
翔の母親も、もしも勢田から貴金属の購入を勧められたら、どんな粗悪品であったとしても、喜んで購入していただろう。恵の母親も似たような状態だったのかもしれない。勢田には、そんな魅力がある。
――そうだ。僕もそんな魅力の虜になっているのかもしれない。
翔が勢田に視線を送ると、勢田はさっと翔から目を逸らせた。どうやら、恵の両親をペテンに掛けたことを後ろめたく思っているらしい。
だが、勢田は恵に対する攻撃的な姿勢を崩そうとはしなかった。
勢田は恵に視線を戻すと、挑発するような目で見据えた。恵は俯いたまま、涙を堪えているようだ。
「で、恵ちゃんは、翔に気があるんだ?」
勢田は鋭い視線のまま、口の端を歪めて笑った。恵は弾かれたように顔を上げた。
「でも、君じゃあ、翔を満足させられないと思うよ。彼、見かけによらず結構Mっ気あるから」
「ちょっと、先生?!」
翔が慌てて遮った。いくら何でも、異性の元同級生に、性的な話をされたくなかった。
だが勢田は翔を背後から抱きすくめると、翔の首筋に唇を押し当てた。ぬるりとした舌がゆっくりと頸動脈の上を這う。くすぐったいような感触に、身体に熱が籠った。
嬌声が漏れそうになるのを、翔は必死で堪えた。
勢田は舌先で敏感になった皮膚を刺激しながら、無骨な指先で翔の頬のラインを撫でた。指は滑るように下に下りていき、喉元を撫で上げ、鎖骨をなぞる。指の動きに合わせるように、翔の身体に甘い痺れが走った。
勢田の指先が、翔の胸元で止まったかと思うと、服の上から乳首を摘まみ上げた。
「ひっ……」
鋭い痛みに、思わず声を漏らしてしまった。
だが、感じたのは痛みだけではなかった。下腹部が熱を帯び、激しく脈打っている。ブリーフの中で、じわりと体液が漏れ出すのを感じた。
「何するのよ? やめなさいよ。成島君が嫌がってるでしょ」
ヒステリックな金切り声に、翔は我に返った。だが、その声がするほうに目を向ける勇気はなかった。
「へえ、恵ちゃんには、嫌がってるように見えるんだ? 翔だって、本気で嫌ならおとなしく抱かれているわけないだろ。なあ、翔?」
勢田はからかうような目で翔の顔を覗き込んだ。翔は縋るような目で勢田を見つめ返した。勢田に身体を弄ばれるのは嫌ではないが、場所をわきまえて欲しかった。公共の場所で、しかも目の前には同級生だった女性がいる。
勢田の言う通り、本気で嫌なら、勢田の腕を振り払うべきなのかもしれない。だが、勢田に煽られて熱く滾ってしまった身体は、思うように力が入らなかった。頭がくらくらして、呼吸が荒くなっている。
「成島君!」
非難するような恵の叫び声に、翔は目を瞑った。できることなら、耳を塞ぎたかった。
「恵ちゃんに聞かせてあげなよ、君の可愛い喘ぎ声を」
勢田は翔の耳元で、扇情的な掠れ声で囁いた。
「えっ、そんな……っ。先生、何考えてるんですか?」
翔は慌てて首を大きく横に振った。
だが勢田は翔の反応になど構う様子はなく、指先で硬くしこった突起を擽った。指の動きに合わせて、翔の肩がびくびくと何度も跳ねた。
乳首を弄びながら、もう一方の手が、翔の下腹部を掠めた。
「あっ……」
翔は思わず腰を揺らした。すでに下腹部は、痛いくらいに張り詰めていた。
勢田はスラックスの上から、ゆっくりと翔の下腹部を揉みしだいた。勢田の指の動きに合わせて、ペニスがぴくぴくと震え、透明な蜜を吐き出した。
「あっ…ぁ、ん……」
腰を揺らしながら、甘い吐息が漏れた。布越しの愛撫は、焦らされているようで、もどかしかった。
「聞こえる? 濡れた音がする」
勢田が翔の下腹部を弄びながら囁いた。言われるまでもなく、翔にも卑猥な水音が聞こえていた。もう下着の中は、びしょびしょだった。
「締め付けられて、痛そうだね」
勢田は甘く囁くと、翔のスラックスと下着を膝近くまで一気に引き摺り下ろした。
足の間に、外気の冷たさを感じた。
恐る恐る視線を落とすと、勃起した性器が震えていた。
「もうぐちゃぐちゃじゃないか」
勢田が揶揄するように笑うと、先端を指で弾いた。性器がドクンと脈打ち、透明な蜜が吹きこぼれた。
「恵ちゃん、これが見たかっただろ? 最初で最後のチャンスだから、じっくり拝んでおきなよ」
「ち…違うわよっ、そんなもの……」
恵は泣きそうな声で喚きながら、眉根を寄せて、翔の下腹部を上目づかいで凝視していた。冷たい視線に晒され、羞恥心に頭が真っ赤に染まった。
――先生、こんなことして、ひどいじゃないですか……。
だが、声を上げれば泣き声になってしまうような気がして、声を上げられなかった。
「外野の視線が、まだ気になるんだ?」
勢田の笑いを含んだ声が、耳朶を打った。
「そんなもの、すぐに気にならなくしてあげるよ」
勢田はそそり立った翔の性器を掴むと、裏筋を人差し指でなぞり上げた。小刻みに扱きながら、鈴口の切れ目に親指を這わせて擦られる。敏感な個所を刺激され、翔の身体が仰け反った。
「あっ…ああっ……」
足ががくがくと震え、腰が勝手に揺れてしまう。自力で立っていられず、勢田に身体を預けた。勢田は当然のように翔の身体を支えてくれた。
恵の視線が遠くに感じられた。だが、もはやどうでもよかった。そんなものを意識する余裕などなかった。今はただ、達したいという思いで一杯だった。
勢田は翔の性器を愛撫しながら、もう片方の手で乳首を弄った。
乳首とペニスを同時に刺激され、頭がおかしくなりそうだった。
開きっぱなしになった口から、訳の分からない喘ぎ声と共に、涎が零れ落ちていた。激しい絶頂感に、頭が真っ白になった。
翔は射精していた。
途端に全身から力が抜けて、地面に崩れ落ちた。
萎えた性器の先端から、白濁の滴が零れ続けている。
目の前に佇んでいたはずの恵は、いつの間にかいなくなっていた。
――当たり前か……。
「立てるか?」
翔が顔を上げるよりも早く、勢田が片膝をついて翔の顔を覗き込んできた。全く悪びれる様子のない表情を前に、血が一気に頭に昇った。気づけば翔は、勢田の顔面に向かって腕を大きく振り上げていた。
バチンと、小気味のよい音が響いた。
勢田の頬には、翔の手形の痕が赤くついていた。だが勢田は何事もなかったかのように、翔の着衣を整えると、立ち上がった。
「あの子、君のこと本気で好きだったみたいだね」
勢田は緩慢な動作で、恵が立っていたあたりの地面に転がっている物体を拾い上げた。
「何ですか、それ?」
「恵ちゃんがつけてたペンダント」
勢田が手にしているのは、鎖がちぎれた、ハート形のペンダントだった。そういえば、恵はそんなペンダントをしていたような気がした。
「今どきロケットペンダントだなんて、ずいぶんと古風なお嬢さんだ」
勢田は苦笑を浮かべながら、ペンダントに嵌め込まれた写真を、翔に翳して見せた。
街灯の明かりが少し遠くて薄暗い上に、小さくて分かりにくいが、目を凝らして見ると、集合写真を切り抜いたものだと分かった。
「ちょうど俺たちが待ち合わせてた時間、救急車のサイレンの音を聞かなかったか? この公園の向かいのビルから飛び降り自殺があったんだ」
「ああ、そういえば……」
確かに、サイレンの音を聞いたような気がした。
「俺が通りかかった時は、野次馬が何人かいただけで、まだ警察も来ていなかったから、至近距離で見れたんだ。知った顔だったことと、彼女の傍に落ちていたロケットペンダントが開いてて、翔の写真だったから、びっくりしたんだ」
では、翔の前に恵が姿を見せた頃、すでに恵は死んでいたということか。そして勢田は、翔と、死んだはずの恵が話している姿を見て、様子を窺っていたということらしい。
――そういえば恵さん、二人きりになりたいとか言って、どこかに僕を連れて行こうとしてたけど……。
そこまで考えた時、翔の背中に悪寒が走った。
「僕が一緒に連れて行かれるのを、阻止してくれたんですね?」
「まあね」
勢田は曖昧に頷いた。
「……でも、だからって、どうしてこんなところで行為に及んだんですか?」
翔は怒りを抑えながらも、詰問口調で問いかけた。
「いや、恵ちゃんが君を連れて行こうとしてたように見えたから、ヤバいのかな、と思ったんだけど、どうやって止めたらいいのか分からなくて……。それで、急に思い出したんだ、前に知り合いから聞いた話。胡散臭かったけど、その話に賭けてみるしかないと思って……」
そこまで言って、勢田が言いにくそうに口を噤んだ。
「どんな話ですか?」
「うーん、なんというか……、エロDVDで除霊できるって話……」
「は? 今、なんて言いました?」
あまりの突拍子もない言葉に、翔は思わず訊き返した。勢田は慌てて言い募った。
「知り合いのエセ霊能者と呑んでた時、奴が酔った勢いで『除霊なんかエロDVDで一発だ』って豪語してたんだよ。そいつは元々、裏DVD販売業者だったけど、今はエセ霊能者のほうが儲かるとか何とか言って、そっちを本業にしてるらしいんだ」
――勢田先生の知り合いって、怪しげな人ばかりなのか?
だが今は、エセ霊能者について、どうこう言っている場合ではなかった。
「清めの塩とか、そういったものなら分かるんですが……。エロDVDを、幽霊が嫌うってことですか?」
「そいつの言うことを信じるなら、そういうことだな。エロDVDを嫌うなら、実演されても嫌がるんじゃないかな、と思ったんだ。確証はなかったけど、恵ちゃんも君のこと諦めて消え去ったみたいだから、効果あったんじゃない?」
翔は大きな溜息をついた。
――もし恵さんが生身の人間だったとしても、好きな男に告白したら、突然別の男が出てきて、そいつらの濡れ場を見せつけられたんじゃ、呆れて立ち去るしかないんじゃないか?
とはいえ、結果的には勢田のおかげで翔は無事だったのかもしれない。
「分かりました。その話はもういいです。それより、今日は僕の合格祝いをしてくれるんですよね? 早く行きましょうよ」
翔が歩きだそうとすると、勢田が翔の腕を掴んだ。
翔は何となく嫌な予感がして、恐る恐る振り向いた。
「恵ちゃんが言ってたこと、多少の語弊はあるにしても、だいたい事実だよ」
勢田は真顔で言った。
「俺が恵ちゃんの両親をペテンに掛けなかったら、多分、恵ちゃんは自殺してなかったと思う。……俺は、そんな人間だ。そんな人間と拘わっても、君にとってデメリットしかない」
翔の胸の奥から、沸々と怒りに似た苛立ちが湧き上がってきた。
――この人は、すぐにどこかに行こうとする……。
勢田が根っからの詐欺師であることは、承知していた。そのうえで付き合って欲しいと頼んだのだから、骨の髄までしゃぶられて、利用価値がなくなったら叩き捨てられる日が来るかもしれないことは理解しているつもりだった。
「ペテン師が、騙した相手の末路なんか、気にしなくていいんじゃないですか。僕はあなたがペテン師であることを承知の上で、付き合って欲しいと頼んだんです。好きなだけ搾取してください」
挑むような目で見据えると、勢田は口の端だけで笑った。
「後で泣きを見ても、知らないからな」
突き放すような言葉にも拘わらず、その口調は柔らかかった。
勢田が翔の手を握った。
じわりと、手に温もりが伝わってきた。翔は強く手を握り返した。
「先生、好きです」
肩を並べて歩きながら、翔が小声で呟いた。
勢田は返事をする代わりに、儚げな笑みを浮かべた。
傍らに佇んでいた翔は、肩を竦めた。
ひどく冷え込んでいるせいか、まだ日が落ちていないというのに、公園の中には人の姿が全く見えない。
――先生、まだかな?
腕時計を見たが、待ち合わせ時間までにはまだ1時間以上あった。吹きさらしの公園の中で、1時間以上待たなければならない。
それでも、久しぶりに勢田に会えると思うと、自然と顔がほころんだ。
数日前に、第一志望の大学に合格したことを報告すると、勢田はとても喜んでくれた。翔としては、大学に合格したことよりも、また勢田と会えることの方が嬉しかった。
受験前は、気遣っているのか、あまり連絡をくれなかった。翔の方から電話をしても、受験勉強に差し障りがあってはいけないからと言って、用件が済むとすぐに切られてしまった。
――僕に飽きたってわけじゃないよな……?
脳裏を掠めた不安を振り払うように、翔は頭を横に振った。
――だめだ。何か違うことを考えなきゃ。
そういえば、冬になると火事が増えるせいか、最近、消防車やら救急車のサイレンの音をよく聞くような気がする。暇つぶしに、サイレンカーの通る回数を数え始めた。
3回目を数えたところで時計を見ると、そろそろ待ち合わせ時間だった。
「あの……、もしかして、成島君?」
振り向くと、常緑樹の木陰から同年代の女性が現れた。ミニスカートを履き、安っぽいハート形のペンダントを首からぶら下げている。明るく染められた髪の毛の根元は黒く、少しだらしない印象だった。
――こんな知り合い、いたっけ?
翔は女の顔をまじまじと見つめた。だが、誰なのか分からなかった。
女は眉根を寄せると、寂しげに笑った。
「あの頃とはだいぶ変わっちゃったから、分からないよね。中学時代に同じクラスだった、田中恵」
「えっ、恵さん?」
翔は頓狂な声を上げた。
思わず姓ではなく名のほうで呼んでしまったが、特段親しかったわけではない。同じクラスにもう一人、田中姓がいたため、「恵さん」と呼ばれていただけだ。
確か、地味でおとなしい子だったはずだ。
だが、事情は知らないが、いつの頃からか登校しなくなり、そのまま退学したと記憶している。
「良かった、名前は覚えててくれたんだ」
恵は嬉しそうに微笑んだ。
「あたしが中学を辞めた理由、聞いてるよね?」
噂はあったのかもしれないが、翔の耳には届かなかった。翔は当時から、クラスで孤立していた。
「……いや、その……」
どう返事したらいいのか分からず、翔は困惑した。
「クラスのみんなが、あたしに対して急に態度を変えたのに、成島君だけ変わらなかったよね。あたし、すごく嬉しかったんだ」
恵は恥ずかしそうに視線を逸らして、微笑んだ。
――そりゃ、知らないんだから、態度を変えようがないよな。それ以前に、恵さんと特に接触した覚えがないけど……。
だが、そんなことを口にできる雰囲気ではなかった。
「ママがデート商法に引っかかって散財させられた挙句、パパまでその男の持ちかけて来た投資詐欺に引っかかって、自己破産に追い込まれて……。みんなに白い眼を向けられて、すごく辛かったの」
翔の通っていた中学校では、金持ちの子弟ばかりが集まっていたためか、親の職業がなぜか皆に知られていた。恵の父は、確かメガバンクに勤務していたのではなかったか。
――メガバンクの行員が自己破産なんかしたら、職場に居づらそうだけど……?
翔は恵の父親の進退について少し気になったが、そんなことを訊ねるわけにはいかない。
「大変だったんだね」
翔は、無難な感想を述べるしかなかった。
「あたしね、成島君のこと、好きだったんだ」
恵の呟きに、翔は耳を疑った。
あり得なかった。あの頃、すでに翔はクラスメイトに忌み嫌われ、孤立していた。好意を持って接してくれた相手がいたとすれば、強く印象に残るはずだが、そんな記憶は全くなかった。
「恵さんも、僕を避けていたんじゃないの? あ、別に非難してるわけじゃないんだ。『イーヴィルアイ』のことを思えば、みんなの態度は当然だと思ってるし」
恵が翔の言葉を遮るように言い募った。
「成島君が怖かったんじゃないの。ただ、なんというか……、みんなの目が怖かったの。成島君に声なんか掛けたら、他の子たちからどんな目を向けられるかと思うと……」
翔は恵の弁明を聞き流した。
気づけば、すでに日が落ちていた。傍らの噴水は、いつの間にか止まっていた。街灯の周りだけは明るいものの、辺りは真っ暗だった。鬱蒼とした木々に囲まれ、公園の外の光は届かない。
待ち合わせ時間から、二時間以上が経過していた。
――先生、まだなのか?
翔は思わず辺りを見回したが、やはり人影はなかった。
――すっぽかされた?
それなら、まだましだ。
――もしかすると、行方をくらましてしまったのかもしれない。
勢田は翔と付き合うことに承諾してくれたものの、まだ翔に対して何かを隠しているような気配を感じられた。携帯電話の番号は教えてくれたものの、どうやらその携帯電話は、いわゆる「飛ばし携帯」のようだ。住んでいる場所も一応教えてはくれたが、どうもそこに定住しているわけではなさそうだった。突然姿を消されたとしても、翔には勢田の行方を追う術がなかった。
「もしかして、誰か待ってるの?」
腕時計を睨むように見つめている翔に、恵が訊ねてきた。
「こんなところで待ち合わせ? 夜の公園で待ち合わせだなんて、ちょっと危ないんじゃないの?」
「……6時だったんだけど」
今の時刻は、8時15分だった。
「すっぽかされたのかな?」
恵に指摘される前に、翔は口早に呟いた。恵は媚びるようなアヒル口で小首を傾げた。その口元に、徐々に笑みが浮かぶ。
「じゃあ、私と行かない? ここ、寒いし、ずっと立ってしゃべってたら、足が痛くなっちゃった。二人きりでゆっくり話せるところに行きたいな」
恵は甘えるように、翔に腕を搦めてきた。
翔は面食らった。中学時代の恵しか知らない翔にとっては、彼女がこんなに積極的なふるまいをするとは、想像もつかなかった。
「いや、でも……」
やんわりと腕を解こうとしたが、恵は翔を掴んだまま離れようとはしなかった。よほど手が冷えているのか、掴まれた右腕がじわりと冷たくなってきた。急に背筋がぞくりとした。
「ねえ、行こうよ」
上目遣いに翔を見つめる恵の瞳に、獰猛な色が走った。
翔の心臓が跳ね上がった。本能的な恐怖を感じた。できることなら、一目散に逃げ出したかった。だが、どういうわけか、まるで蛇に睨まれた蛙のように、身体が動かなかった。
その時、葉擦れの音がした。
「遅くなってごめん」
木陰から突然現れたのは、勢田だった。
「来てくれたんだ……」
翔は全身から力が抜けるほどの安堵を覚えた。そんな翔をよそに、恵の表情は凍り付いていた。
「岸崎……」
恵が、勢田を真っ直ぐに見据えながら、震える声で呟いた。
「岸崎って?」
思わず翔は勢田に目を遣った。勢田は例によって、軽薄そうな笑みを浮かべていた。
――先生の偽名か。……いや、「勢田」のほうが偽名だったりして……。あ、松井さんが嘘を言ってなければ、多分、勢田のほうが本名だよな。
高校の同級生に、勢田の妹がいることを思い出し、翔は胸を撫でおろした。いくらなんでも、偽名を名乗られたまま付き合っていたとすれば、あまりにも惨めだった。
「やあ、恵ちゃん。元気にしてた?」
唇を戦慄かせながら、恵は勢田を睨みつけた。
「あんた、どの面下げて……」
動物のような唸り声を上げたかと思うと、恵が突然、勢田に駆け寄った。
「あんたのせいで、うちは滅茶苦茶になったのよ」
叫びながら、恵が拳を振り上げた。勢田は振り下ろされた手首を軽々と掴むと、余裕の笑みを浮かべた。
「元気そうで、何よりだ」
恵は悔しそうに唇を噛み締めると、勢田の手を振り払った。
「えっと……、二人は、知り合いなの?」
翔がおずおずと訊ねると、恵は我に返ったように翔を振り返った。
「この男が、ママとパパを嵌めたのよ」
勢田を指さして、恵が叫んだ。
そんな剣幕には慣れているのか、勢田は飄々とした態度を崩すことなく、のらりくらりと躱す。
「菊美さんに似合いそうなアクセサリーをお勧めしただけで、詐欺呼ばわりされても困るなぁ。菊美さん、喜んでくれてたと思うんだけど」
勢田は、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「それに、俺が菊美さんのご主人にお会いしたの、一回だけだよ? 知り合いの投資コンサルタントに儲けさせてもらったって話をしたら、紹介して欲しいって頼まれたから、そのコンサルタントを紹介しただけ。だいたい、エリート銀行員様なんだから、本職じゃないの? 俺が紹介した投資コンサルタントが本物か偽物かくらい、見分けがつけられるだろ」
恵は悔しそうに俯いた。固く握った拳が、ぶるぶると震えていた。
――まさか恵さんのご両親が、先生に騙されてたなんて……。
勢田のことだから、証拠を残すようなへまはしていないだろうが、恵の両親をペテンに掛けたのは、おそらく事実なのだろう。メガバンクの行員なら、投資詐欺に引っかかったことを表沙汰にできないと踏んで、あくどい手を使ったのかもしれない。
「……先生、あまり刺激しないでくださいよ」
翔は居たたまれなくなって、小声で制した。
翔の母親も、もしも勢田から貴金属の購入を勧められたら、どんな粗悪品であったとしても、喜んで購入していただろう。恵の母親も似たような状態だったのかもしれない。勢田には、そんな魅力がある。
――そうだ。僕もそんな魅力の虜になっているのかもしれない。
翔が勢田に視線を送ると、勢田はさっと翔から目を逸らせた。どうやら、恵の両親をペテンに掛けたことを後ろめたく思っているらしい。
だが、勢田は恵に対する攻撃的な姿勢を崩そうとはしなかった。
勢田は恵に視線を戻すと、挑発するような目で見据えた。恵は俯いたまま、涙を堪えているようだ。
「で、恵ちゃんは、翔に気があるんだ?」
勢田は鋭い視線のまま、口の端を歪めて笑った。恵は弾かれたように顔を上げた。
「でも、君じゃあ、翔を満足させられないと思うよ。彼、見かけによらず結構Mっ気あるから」
「ちょっと、先生?!」
翔が慌てて遮った。いくら何でも、異性の元同級生に、性的な話をされたくなかった。
だが勢田は翔を背後から抱きすくめると、翔の首筋に唇を押し当てた。ぬるりとした舌がゆっくりと頸動脈の上を這う。くすぐったいような感触に、身体に熱が籠った。
嬌声が漏れそうになるのを、翔は必死で堪えた。
勢田は舌先で敏感になった皮膚を刺激しながら、無骨な指先で翔の頬のラインを撫でた。指は滑るように下に下りていき、喉元を撫で上げ、鎖骨をなぞる。指の動きに合わせるように、翔の身体に甘い痺れが走った。
勢田の指先が、翔の胸元で止まったかと思うと、服の上から乳首を摘まみ上げた。
「ひっ……」
鋭い痛みに、思わず声を漏らしてしまった。
だが、感じたのは痛みだけではなかった。下腹部が熱を帯び、激しく脈打っている。ブリーフの中で、じわりと体液が漏れ出すのを感じた。
「何するのよ? やめなさいよ。成島君が嫌がってるでしょ」
ヒステリックな金切り声に、翔は我に返った。だが、その声がするほうに目を向ける勇気はなかった。
「へえ、恵ちゃんには、嫌がってるように見えるんだ? 翔だって、本気で嫌ならおとなしく抱かれているわけないだろ。なあ、翔?」
勢田はからかうような目で翔の顔を覗き込んだ。翔は縋るような目で勢田を見つめ返した。勢田に身体を弄ばれるのは嫌ではないが、場所をわきまえて欲しかった。公共の場所で、しかも目の前には同級生だった女性がいる。
勢田の言う通り、本気で嫌なら、勢田の腕を振り払うべきなのかもしれない。だが、勢田に煽られて熱く滾ってしまった身体は、思うように力が入らなかった。頭がくらくらして、呼吸が荒くなっている。
「成島君!」
非難するような恵の叫び声に、翔は目を瞑った。できることなら、耳を塞ぎたかった。
「恵ちゃんに聞かせてあげなよ、君の可愛い喘ぎ声を」
勢田は翔の耳元で、扇情的な掠れ声で囁いた。
「えっ、そんな……っ。先生、何考えてるんですか?」
翔は慌てて首を大きく横に振った。
だが勢田は翔の反応になど構う様子はなく、指先で硬くしこった突起を擽った。指の動きに合わせて、翔の肩がびくびくと何度も跳ねた。
乳首を弄びながら、もう一方の手が、翔の下腹部を掠めた。
「あっ……」
翔は思わず腰を揺らした。すでに下腹部は、痛いくらいに張り詰めていた。
勢田はスラックスの上から、ゆっくりと翔の下腹部を揉みしだいた。勢田の指の動きに合わせて、ペニスがぴくぴくと震え、透明な蜜を吐き出した。
「あっ…ぁ、ん……」
腰を揺らしながら、甘い吐息が漏れた。布越しの愛撫は、焦らされているようで、もどかしかった。
「聞こえる? 濡れた音がする」
勢田が翔の下腹部を弄びながら囁いた。言われるまでもなく、翔にも卑猥な水音が聞こえていた。もう下着の中は、びしょびしょだった。
「締め付けられて、痛そうだね」
勢田は甘く囁くと、翔のスラックスと下着を膝近くまで一気に引き摺り下ろした。
足の間に、外気の冷たさを感じた。
恐る恐る視線を落とすと、勃起した性器が震えていた。
「もうぐちゃぐちゃじゃないか」
勢田が揶揄するように笑うと、先端を指で弾いた。性器がドクンと脈打ち、透明な蜜が吹きこぼれた。
「恵ちゃん、これが見たかっただろ? 最初で最後のチャンスだから、じっくり拝んでおきなよ」
「ち…違うわよっ、そんなもの……」
恵は泣きそうな声で喚きながら、眉根を寄せて、翔の下腹部を上目づかいで凝視していた。冷たい視線に晒され、羞恥心に頭が真っ赤に染まった。
――先生、こんなことして、ひどいじゃないですか……。
だが、声を上げれば泣き声になってしまうような気がして、声を上げられなかった。
「外野の視線が、まだ気になるんだ?」
勢田の笑いを含んだ声が、耳朶を打った。
「そんなもの、すぐに気にならなくしてあげるよ」
勢田はそそり立った翔の性器を掴むと、裏筋を人差し指でなぞり上げた。小刻みに扱きながら、鈴口の切れ目に親指を這わせて擦られる。敏感な個所を刺激され、翔の身体が仰け反った。
「あっ…ああっ……」
足ががくがくと震え、腰が勝手に揺れてしまう。自力で立っていられず、勢田に身体を預けた。勢田は当然のように翔の身体を支えてくれた。
恵の視線が遠くに感じられた。だが、もはやどうでもよかった。そんなものを意識する余裕などなかった。今はただ、達したいという思いで一杯だった。
勢田は翔の性器を愛撫しながら、もう片方の手で乳首を弄った。
乳首とペニスを同時に刺激され、頭がおかしくなりそうだった。
開きっぱなしになった口から、訳の分からない喘ぎ声と共に、涎が零れ落ちていた。激しい絶頂感に、頭が真っ白になった。
翔は射精していた。
途端に全身から力が抜けて、地面に崩れ落ちた。
萎えた性器の先端から、白濁の滴が零れ続けている。
目の前に佇んでいたはずの恵は、いつの間にかいなくなっていた。
――当たり前か……。
「立てるか?」
翔が顔を上げるよりも早く、勢田が片膝をついて翔の顔を覗き込んできた。全く悪びれる様子のない表情を前に、血が一気に頭に昇った。気づけば翔は、勢田の顔面に向かって腕を大きく振り上げていた。
バチンと、小気味のよい音が響いた。
勢田の頬には、翔の手形の痕が赤くついていた。だが勢田は何事もなかったかのように、翔の着衣を整えると、立ち上がった。
「あの子、君のこと本気で好きだったみたいだね」
勢田は緩慢な動作で、恵が立っていたあたりの地面に転がっている物体を拾い上げた。
「何ですか、それ?」
「恵ちゃんがつけてたペンダント」
勢田が手にしているのは、鎖がちぎれた、ハート形のペンダントだった。そういえば、恵はそんなペンダントをしていたような気がした。
「今どきロケットペンダントだなんて、ずいぶんと古風なお嬢さんだ」
勢田は苦笑を浮かべながら、ペンダントに嵌め込まれた写真を、翔に翳して見せた。
街灯の明かりが少し遠くて薄暗い上に、小さくて分かりにくいが、目を凝らして見ると、集合写真を切り抜いたものだと分かった。
「ちょうど俺たちが待ち合わせてた時間、救急車のサイレンの音を聞かなかったか? この公園の向かいのビルから飛び降り自殺があったんだ」
「ああ、そういえば……」
確かに、サイレンの音を聞いたような気がした。
「俺が通りかかった時は、野次馬が何人かいただけで、まだ警察も来ていなかったから、至近距離で見れたんだ。知った顔だったことと、彼女の傍に落ちていたロケットペンダントが開いてて、翔の写真だったから、びっくりしたんだ」
では、翔の前に恵が姿を見せた頃、すでに恵は死んでいたということか。そして勢田は、翔と、死んだはずの恵が話している姿を見て、様子を窺っていたということらしい。
――そういえば恵さん、二人きりになりたいとか言って、どこかに僕を連れて行こうとしてたけど……。
そこまで考えた時、翔の背中に悪寒が走った。
「僕が一緒に連れて行かれるのを、阻止してくれたんですね?」
「まあね」
勢田は曖昧に頷いた。
「……でも、だからって、どうしてこんなところで行為に及んだんですか?」
翔は怒りを抑えながらも、詰問口調で問いかけた。
「いや、恵ちゃんが君を連れて行こうとしてたように見えたから、ヤバいのかな、と思ったんだけど、どうやって止めたらいいのか分からなくて……。それで、急に思い出したんだ、前に知り合いから聞いた話。胡散臭かったけど、その話に賭けてみるしかないと思って……」
そこまで言って、勢田が言いにくそうに口を噤んだ。
「どんな話ですか?」
「うーん、なんというか……、エロDVDで除霊できるって話……」
「は? 今、なんて言いました?」
あまりの突拍子もない言葉に、翔は思わず訊き返した。勢田は慌てて言い募った。
「知り合いのエセ霊能者と呑んでた時、奴が酔った勢いで『除霊なんかエロDVDで一発だ』って豪語してたんだよ。そいつは元々、裏DVD販売業者だったけど、今はエセ霊能者のほうが儲かるとか何とか言って、そっちを本業にしてるらしいんだ」
――勢田先生の知り合いって、怪しげな人ばかりなのか?
だが今は、エセ霊能者について、どうこう言っている場合ではなかった。
「清めの塩とか、そういったものなら分かるんですが……。エロDVDを、幽霊が嫌うってことですか?」
「そいつの言うことを信じるなら、そういうことだな。エロDVDを嫌うなら、実演されても嫌がるんじゃないかな、と思ったんだ。確証はなかったけど、恵ちゃんも君のこと諦めて消え去ったみたいだから、効果あったんじゃない?」
翔は大きな溜息をついた。
――もし恵さんが生身の人間だったとしても、好きな男に告白したら、突然別の男が出てきて、そいつらの濡れ場を見せつけられたんじゃ、呆れて立ち去るしかないんじゃないか?
とはいえ、結果的には勢田のおかげで翔は無事だったのかもしれない。
「分かりました。その話はもういいです。それより、今日は僕の合格祝いをしてくれるんですよね? 早く行きましょうよ」
翔が歩きだそうとすると、勢田が翔の腕を掴んだ。
翔は何となく嫌な予感がして、恐る恐る振り向いた。
「恵ちゃんが言ってたこと、多少の語弊はあるにしても、だいたい事実だよ」
勢田は真顔で言った。
「俺が恵ちゃんの両親をペテンに掛けなかったら、多分、恵ちゃんは自殺してなかったと思う。……俺は、そんな人間だ。そんな人間と拘わっても、君にとってデメリットしかない」
翔の胸の奥から、沸々と怒りに似た苛立ちが湧き上がってきた。
――この人は、すぐにどこかに行こうとする……。
勢田が根っからの詐欺師であることは、承知していた。そのうえで付き合って欲しいと頼んだのだから、骨の髄までしゃぶられて、利用価値がなくなったら叩き捨てられる日が来るかもしれないことは理解しているつもりだった。
「ペテン師が、騙した相手の末路なんか、気にしなくていいんじゃないですか。僕はあなたがペテン師であることを承知の上で、付き合って欲しいと頼んだんです。好きなだけ搾取してください」
挑むような目で見据えると、勢田は口の端だけで笑った。
「後で泣きを見ても、知らないからな」
突き放すような言葉にも拘わらず、その口調は柔らかかった。
勢田が翔の手を握った。
じわりと、手に温もりが伝わってきた。翔は強く手を握り返した。
「先生、好きです」
肩を並べて歩きながら、翔が小声で呟いた。
勢田は返事をする代わりに、儚げな笑みを浮かべた。
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