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3章
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うっすらと重たい瞼を開くと、見知らぬ白い天井が目に映った。
「翔くん、気づいたのね。良かった。このまま目が覚めなかったら、どうしようかと……」
母の甲高い泣き笑いのような声が、室内に響き渡った。翔は声のするほうに目を向けた。母は翔の手を掴むと、その手に自分の額に当て、むせび泣き始めた。
「君ね、過換気症候群で失神したのよ。よほど衝撃を受けたのか、丸一日意識を失ったままだったの」
母の傍らで何やら作業をしていた看護師が、苦笑まじりに説明してくれた。
――それって、過呼吸のことだよな? 過呼吸で気を失っただけだったなんて……。
急に息苦しくなったとき、もしかして勢田の身代わりになれるのではないかと本気で思った。だが冷静に考えれば、そんなことはあり得ないだろう。
――じゃあ、勢田先生は……。
勢田は、下半身にコンクリート塊の直撃を受けたのではないか。腰から足にかけて、ひどく出血していた光景を思い出した。
勢田がどうなったのか、知りたかった。看護師に聞けば、教えてもらえるかもしれない。だが、確認するのが怖かった。最悪の結果を聞かされたら、翔は生きてはいけないだろう。
「翔? どこか苦しいのか?」
父の声に、翔は驚いて目を見開いた。父は確か、アメリカにいるはずだ。母の背後に立っていた父は、翔の枕元に近づいた。
「おまえが意識不明の重症だって聞いて、慌てて帰ってきたんだよ」
その言葉に、看護師が忍び笑いを噛み殺している。
――ただの過呼吸を、意識不明の重症って……。母さんが錯乱して、騒ぎ立てたんだろうな。
常に愛人を作っている父に対する嫌悪感は強いものの、それでもこうして翔のために帰ってきてくれたのかと思うと、少し嬉しかった。
だが父は、翔と目が合うと慌てて視線を逸らせた。どうやら、翔の左目を見るのが耐えられないらしい。
――僕を車で轢いた事実を思い出したくないのかな? それとも、違法に角膜を入手したって噂が事実なのか……。まあ、どっちでもいいけど。
そんなことよりも、勢田のことのほうが重大だった。無意識にスラックスのポケットに手を伸ばしていた。
――え?
お守り代わりにいつもポケットにしまっていたガラス玉が、真っ二つに割れていた。
翔の背筋に悪寒が走った。
――どうして? いつ割れたんだ?
不吉な気がして、恐怖と焦りを覚えた。もはや現実から目を背けているような場合ではない。翔は覚悟を決めて、看護師に訊ねた。
「あの……、僕と一緒に倒れてた人がいたと思うんですが……」
「その人なら、骨盤骨折で重傷だけど、手術は成功したから、大丈夫」
看護師は口早に答えた。それ以上聞くなといわんばかりの態度だった。そんな態度に疑問は感じたものの、とりあえずは安堵に胸を撫でおろした。
だが、やはり不安は徐々に膨らんでいった。
――大丈夫って……。手術は成功しても、後遺症が残る……とか?
そんな可能性があるとすれば、このガラス玉は、割れてしまったとはいえ、勢田が持った方がいいような気がしてきた。
「まだ会えませんよね……? 勢田先生に渡したいものがあるんですが……」
割れたガラス玉を差し出そうとしたが、看護師は受け取るのを拒否するように手を振った。
「実は私、勢田さんから、伝言を預かってるの」
「え? 僕にですか?」
看護師は頷くと、翔の顔を見ずに口早に呟いた。
「もう二度と、拘わらないで欲しい、って」
それだけ言うと、看護師は逃げるように病室から出て行った。
それから一時間も経たないうちに、翔の退院の手続きは終わった。
病院の建物から出たところで、翔は振り向いて、さっきまでいた建物を見上げた。窓が太陽光を反射して、眩しく光っていた。
――この建物のどこかに、勢田先生がいる……。
勢田のことを思うだけで、胸に熱いものが込み上げてきた。
できるものなら、会いたかった。生きている姿を、自分の目で確認したかった。
だが勢田は、翔と拘わることを拒んだ。
そのこと自体には、胸を引き裂かれるような痛みを感じずにはいられなかった。だが、死を望んでいたはずの勢田が、生への執着を覚え、それが翔への嫌悪感に繋がっているとすれば、むしろ喜ぶべきことかもしれない。
――だって僕、勢田先生には生きていて欲しいから。たとえ二度と逢えないとしても……。
「翔、何してるんだ? 行くぞ」
「あ、うん……」
翔は未練を断ち切るように、病棟に向かって一礼してから、父の後を追った。
「翔くん、気づいたのね。良かった。このまま目が覚めなかったら、どうしようかと……」
母の甲高い泣き笑いのような声が、室内に響き渡った。翔は声のするほうに目を向けた。母は翔の手を掴むと、その手に自分の額に当て、むせび泣き始めた。
「君ね、過換気症候群で失神したのよ。よほど衝撃を受けたのか、丸一日意識を失ったままだったの」
母の傍らで何やら作業をしていた看護師が、苦笑まじりに説明してくれた。
――それって、過呼吸のことだよな? 過呼吸で気を失っただけだったなんて……。
急に息苦しくなったとき、もしかして勢田の身代わりになれるのではないかと本気で思った。だが冷静に考えれば、そんなことはあり得ないだろう。
――じゃあ、勢田先生は……。
勢田は、下半身にコンクリート塊の直撃を受けたのではないか。腰から足にかけて、ひどく出血していた光景を思い出した。
勢田がどうなったのか、知りたかった。看護師に聞けば、教えてもらえるかもしれない。だが、確認するのが怖かった。最悪の結果を聞かされたら、翔は生きてはいけないだろう。
「翔? どこか苦しいのか?」
父の声に、翔は驚いて目を見開いた。父は確か、アメリカにいるはずだ。母の背後に立っていた父は、翔の枕元に近づいた。
「おまえが意識不明の重症だって聞いて、慌てて帰ってきたんだよ」
その言葉に、看護師が忍び笑いを噛み殺している。
――ただの過呼吸を、意識不明の重症って……。母さんが錯乱して、騒ぎ立てたんだろうな。
常に愛人を作っている父に対する嫌悪感は強いものの、それでもこうして翔のために帰ってきてくれたのかと思うと、少し嬉しかった。
だが父は、翔と目が合うと慌てて視線を逸らせた。どうやら、翔の左目を見るのが耐えられないらしい。
――僕を車で轢いた事実を思い出したくないのかな? それとも、違法に角膜を入手したって噂が事実なのか……。まあ、どっちでもいいけど。
そんなことよりも、勢田のことのほうが重大だった。無意識にスラックスのポケットに手を伸ばしていた。
――え?
お守り代わりにいつもポケットにしまっていたガラス玉が、真っ二つに割れていた。
翔の背筋に悪寒が走った。
――どうして? いつ割れたんだ?
不吉な気がして、恐怖と焦りを覚えた。もはや現実から目を背けているような場合ではない。翔は覚悟を決めて、看護師に訊ねた。
「あの……、僕と一緒に倒れてた人がいたと思うんですが……」
「その人なら、骨盤骨折で重傷だけど、手術は成功したから、大丈夫」
看護師は口早に答えた。それ以上聞くなといわんばかりの態度だった。そんな態度に疑問は感じたものの、とりあえずは安堵に胸を撫でおろした。
だが、やはり不安は徐々に膨らんでいった。
――大丈夫って……。手術は成功しても、後遺症が残る……とか?
そんな可能性があるとすれば、このガラス玉は、割れてしまったとはいえ、勢田が持った方がいいような気がしてきた。
「まだ会えませんよね……? 勢田先生に渡したいものがあるんですが……」
割れたガラス玉を差し出そうとしたが、看護師は受け取るのを拒否するように手を振った。
「実は私、勢田さんから、伝言を預かってるの」
「え? 僕にですか?」
看護師は頷くと、翔の顔を見ずに口早に呟いた。
「もう二度と、拘わらないで欲しい、って」
それだけ言うと、看護師は逃げるように病室から出て行った。
それから一時間も経たないうちに、翔の退院の手続きは終わった。
病院の建物から出たところで、翔は振り向いて、さっきまでいた建物を見上げた。窓が太陽光を反射して、眩しく光っていた。
――この建物のどこかに、勢田先生がいる……。
勢田のことを思うだけで、胸に熱いものが込み上げてきた。
できるものなら、会いたかった。生きている姿を、自分の目で確認したかった。
だが勢田は、翔と拘わることを拒んだ。
そのこと自体には、胸を引き裂かれるような痛みを感じずにはいられなかった。だが、死を望んでいたはずの勢田が、生への執着を覚え、それが翔への嫌悪感に繋がっているとすれば、むしろ喜ぶべきことかもしれない。
――だって僕、勢田先生には生きていて欲しいから。たとえ二度と逢えないとしても……。
「翔、何してるんだ? 行くぞ」
「あ、うん……」
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