イーヴィルアイに宿る色は

早之瀬雫

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3章

12

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 翔は、ちょうど停まっていた路線バスに飛び乗った。
 発車したバスの中で、翔は安堵とも失望ともっかない、溜息を凝らした。
 ――これでもう、勢田先生も追い掛けては来ない……。いや、その前に、追いかける気なんか、なかったかもしれないな……。今頃、松井さんと二人でほっとしてたりして。
 バスに揺られながら、翔はぼんやりと物思いに耽った。
 ――どうして、好きになったんだっけ?
 窓の外の風景を眺めていると、遠くに、ライトアップされた観覧車が見えた。いつだか、勢田に無理やり連れて行かれたベイエリアの大観覧車だった。
 もう少し観覧車を眺めていたくて、翔はふらりとバスを降りた。
 バス停からのある大通りから一本入った小道をあてもなく歩いていたが、疲れて足を止めた。ちょうど近くにあった、汚れたビルの壁に寄り掛かると、翔は観覧車をぼんやりと眺めた。
 眺めているうちに、色鮮やかな電飾の光が、じわりと滲んできた。
 勢田は高い所が苦手だと言ってた。それなのに、なぜあの時、勢田は翔と観覧車に乗る気になったのだろうか。
 ――人生で一度くらい、やってみたいと思ってたんだ。
 観覧車の頂上で、いきなり翔にキスをした勢田は、くだらない台詞を吐いた。
 ――一生で一度……か。なのに、相手は誰でも良かったわけ?
 翔の目から、涙が溢れ出した。
 ――先生は、あのビジネスホテルで、僕に殺される気だったのか?
 だからこそ勢田は、翔と一緒にホテルに入らず、シングルルームに泊まったのだろう。監視カメラのない出入り口を指示したのは、勢田を殺した後に、翔がホテルから逃亡することを念頭に置いていたのだろう。
 勢田なりの優しさだったのかもしれない。
 ――そうだ。あの人は僕を甘やかしてはくれなかったけど、すごく優しかったんだ……。
 勢田の望みを、叶えてあげたかった。だが皮肉にも、翔の「イーヴィルアイ」は、勢田に対してだけは発動しなかった。
 ――もしかして僕は、初めからあの人に惹かれていたのかも……。
 そうだとすれば、勢田にだけ「イーヴィルアイ」が発動しなかった理由がつく。翔の本能が、発動を止めたのだろう。
 ――初めて、人のことを好きだと思えた……。
 耳をつんざくような、けたたましい悲鳴が響き渡った。うるさいな、と思ったが、どうやら自分が発している悲鳴のようだ。目の奥に、熱した鉄棒を突き立てられるような激痛が走った。それと同時に、轟くような金属音が頭蓋に鳴り響いた。
 翔の頭上で、壊れかけた建物の壁面が、ぐらりと揺れた。音を立てて剥がれ、白い塊が、真っ直ぐに翔に向かって近づいてくる。翔はただ、見上げることしかできない。
 ――ああ、やっちゃったか……。
 どうやら、例の「イーヴィルアイ」を発動させてしまったらしい。今まで幾度も見てきた光景だったこともあり、翔はさほど動揺を覚えなかった。
 翔は自分の頭上に落ちてこようとしているコンクリートの塊を、ぼんやりと見つめた。
 幻聴なのか、どこか遠くから勢田の叫び声が聞こえたような気がした。だが、頭蓋に響く耳障りな金属音が大きすぎて、よく聞き取れなかった。
 コンクリートの塊は、速度を増しながら翔に向かって、真っ直ぐに落ちてくる。
 ――これでよかったんだよ、これで。
 何かの間違いで手に入れてしまった能力は、所詮、人間一人が抱え込むには大きすぎた。
 翔は静かに目を閉じようとした。
 ――これで、終わりにできる……。
 だが、突然強い衝撃とともに、翔の身体が突き飛ばされた。地面に尻餅をついた瞬間、地面に大きな振動が走った。
 何が起こったのか分からず、翔は慌てて身体を起こした。翔が立っていたはずの場所には、勢田が佇んでいた。
「……勢田先生?」
 勢田が、翔の身体を突き飛ばしたらしい。
 翔は呆然と勢田を見つめた。勢田と視線が交錯すると、勢田の瞳が悪戯っぽく光り、口許に笑みが浮かんだように見えた。
 だが、それは一瞬のことだった。
 次の瞬間、勢田は口から血を吐き出し、ふらりと前屈みに地面に倒れ込んだ。
 勢田の倒れた付近には、血がついたコンクリート片が飛び散っていた。何が起こったのか、咄嗟に理解できなかった。
 翔は呆然と、地面に散らばった、血に染まったコンクリート片を見つめていた。
「……早く行け」
 勢田の掠れた声が、耳朶に届いた。
 翔はようやく我に返った。慌てて勢田に駆 け寄り、傍らに片膝をついた。勢田の腰のあたりから足にかけて、鮮血で染められていた。
 只事ではないことは、翔にも見て取れた。 だが、どうしたらいいのか、分からなかった。
 混乱する中、ようやく救急車を呼ぶことを思いついた。
 ポケットから携帯電話を取り出そうとした。だが、手が激しく震えているせいか、思うように取り出せない。何度も試みて、ようやく携帯電話を手にすることができた。
 だが、今度は掛けるべき電話番号が、思い出せなかった。小学生でも知っているはずの番号が、なぜか思い浮かばない。
 ――あ、そうだ。119だ。
 ようやく思い出した番号だったが、ボタンを押そうとしたところで、血塗れの手に弾かれ、携帯電話は地面に転がり落ちた。
「何するんですか?」
 翔は慌てて携帯電話を拾おうとしたが、先に手に取ったのは勢田だった。
「通報なんか、しなくていい」
「え? どうして?」
 勢田は答えようとはせず、ただぼんやりと虚空を見つめていた。
「……まさか、死亡給付金……」
 勢田が、翔に視線を向けた。
「冗談でしょう? そんなこと、本気で考えたりしませんよね?」
 必死で畳み掛ける翔を見つめながら、勢田は口の端を僅かに吊り上げた。その冷やかな笑みを前に、訳の分からない怒りが込み上げてきた。
 翔は勢田から強引に電話を奪い返すと、119番通報をした。気が急いてうまく話せなかったものの、何とか伝わったようだ。
「……泣くほど怒ってるわけ?」
 電話を終えた翔に、勢田が声を掛けてきた。指摘されて初めて、翔は自分が泣いている事実に気がついた。涙で濡れた頬に、勢田の血塗れの指が触れた。
 勢田は、指先で涙をそっと拭ってくれた。だが、なぜかかえって涙が溢れ出た。堪えようとしても、次から次へと流れ落ちた。
「ガキみたいに号泣するなよ。みっともない」
 勢田は例によって、軽薄な口調で言い放った。
 声だけを聞けば、普段とさほど変わりがないような気がした。だが勢田の指先は、こんなに冷たくはなかった。
「なあ、翔……、頼みがあるんだ」
 勢田は薄笑いを引っ込めて、縋るような目で翔を見つめていた。そんな弱々しい目をした勢田を見たのは、初めてだった。
「何ですか? 僕にできることなら、何でも……」
 翔は急き込んで訊ねた。
「恭子のこと、許してやってくれないか?」
 ――なんだ、松井さんのことか……。
 急き込んだのが、気恥ずかしかった。
 ――許すも許さないも……、僕はただ、松井さんのことが羨ましかっただけです。勢田先生に、全身全霊で愛されていることが。
 翔は胸の内で呟いた。だが、あえて口にせず、黙って頷いた。
 勢田は安堵した様子で、柔らかい微笑みを浮かべた。その微笑に、翔の胸が痛んだ。
 ――そんな似合わない顔しちゃって……。やっぱり、松井さんのこと、大事なんですね。僕なんかより、ずっと……。
 妹を大切に思うのは普通のことだと、頭の中では解っていた。だが、やはり嫉妬せずにはいられなかった。
「俺のことは、思う存分憎んでいいからさ」
 勢田はいつものように、悪戯っぽく笑った。
 それにしても、119番通報してから、かなり経っているような気がするが、辺りは静まりかえっていた、通行人もいなければ、救急車のサイレンも開こえではこない。
 勢田は閉じかけていた目を、薄く開いた。
「せっかく救急車を呼んでくれたけど、来るまで持ちそうもないな」
「無理にしゃべらないでください」
 翔は慌てて遮った。そんな言葉を聞きたくなかったし、勢田が刻一刻と衰弱していく事実は、翔もはっきりと感じ取っていた。
 勢田はゆっくりと手を動かし、翔の手を握った。思いがけない強い力に、翔は驚いた。
「ごめん」
 掠れた声が、翔の耳朶を打った。
「何言ってるんですか?」
「……俺は、君を変えられなかった……。本当は、君にこんなこと、させたくなかったのに。……ごめんな」
 息も絶え絶えになりながら言い切った途端に、勢田の身体から力が抜けた。
 翔の手を握りしめていた血塗れの手は、力尽きたように、地面にだらりと落ちた。
「勢田先生? しっかりしてください」
 翔は大声で叫んだ。だが、もはや勢田は何の反応も見せなかった。勢田は、眠るような、穏やかな表情を浮かべていた。無理やり起こすな、と言われているような気さえした。それでも翔は、喚き散らした。
「嫌です。死なないでください」
 どんなに叫んでも、勢田はびくりとも反応しない。それなのに、出血だけは続いていた。
「ずるいよ、先生……。『思う存分憎め』じゃないだろ。僕の気持ちくらい、解ってるくせに」
 好きだと告げる機会さえ、与えてはくれなかった。
「あなたを殺して、僕が平気でいられると思ってるんですか?」
 その時、青紫色に変色した唇が、僅かに動いたような気がした。翔は勢田の顔を覗きこんだ。だが、気のせいだったようだ。
「勢田先生……」
 ――俺は、君を変えられなかった。
 勢田の言葉が脳裏に過った。
 ――何を変えようとしたって言うんだ?
 何度も反芻してみたものの、意味が読み取れなかった。
 考えられることといえば、「イーヴィルアイ」に関することだろう。
 ――ちゃんとコントロールできたじゃないか。
 勢田は翔が吉田の家に見舞いに行った後、そう言って、翔を褒めてくれた。勢田は翔を散々煽ったが、今になって思えば、単に「イーヴィルアイ」を発動させようとしたというよりは、翔に「イーヴィルアイ」をコントロールする術を身につけさせようとしている節があった。
 ――なのに僕、結局暴発させてしまって……。よりによって、勢田先生を……。
「何も、変われなかったんだ……」
 思えば、翔は心の底から「イーヴィルアイ」を疎んだことは、今までなかったのかもしれない。
 もちろん翔自身、この特殊能力を疎んでいるつもりではあった。
 だが、被害に遭うのは所詮、翔に嫌な思いをさせた相手だった。「イーヴィルアイ」を持っていることに、優越感と虚栄心を持っているのではないかと問われると、翔は完全に否定する自信はなかった。
 ――僕は馬鹿だ。そんな単純なことに、一番大事な人を、こんな目に遭わせるまで気づけなかったなんて。
「先生、僕を置いて行かないで……」
 どれだけむせび泣いても、勢田の出血は止まらず、体温は下がっていく一方だった。
 今更「イーヴィルアイ」を疎ましく思ったところで、もう遅かった。
「こんな力、要らなかったのに……」
 翔は咆哮のような声を放ちながら、勢田の身体を抱き締めた。
 肌の冷たさに、翔の背筋が寒くなった。勢田の体はこんなに冷たくなかったはずだ。それでも、抱き締め続ければ、少しでも身体に温もりが戻るのではないかと願いながら、翔は体温を失っていく勢田の身体を抱きしめ、叫び続けていた。
 突然、咽喉が詰まるような感触を覚えた。
 ――息ができない……?
 何度も深呼吸を繰り返した、だが、いくら息を吸っても、なぜか空気が足りなかった。
 胸を掻き毟りたい衝動に駆られた。それでも、翔は勢田の身体から手を放せなかった。手を放せば、勢田の魂が抜けてしまうような気がした。
 翔の身体が、痙攣を起こした。翔は呻きながら、勢田の背中に顔面を押し付けた。苦しさのあまり、頭の中が真っ赤に染まっていた。このまま死んでしまうのだろうかと、意識が遠ざかる中で、何となく思った。
 ――勢田先生の命と引き換えなら、かえって嬉しいんだけど。
 どこか遠くから、サイレンの音が鳴り響いているような気がした。翔は勢田に覆い被さり、そのまま意識を手放した。
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