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2章
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――俺、君のこと好きだよ。
思いがけない勢田の言葉が、脳裏にこびりついて離れなかった。
何のつもりで、そんなことを言ったのかは分からないが、冗談を言っているようには見えなかった。
「勢田先生、昨日の代わりに今日お見えになる予定だったんだけど、体調不良でお休みですって。風邪でも流行ってるのかしら?」
――まさか、雨に打たれたせい?
翔は、担当の藤木美奈穂に電話した。勢田の症状を聞いたが、よく知らないようだった。勢田の住所を教えてほしいと頼んでみた。当然のように一蹴されたが、しつこく食い下がると、面倒くさそうに教えてくれた。美奈穂は母に対しては異様に丁寧な態度で接するが、翔に対してはぞんざいだった。
「ちょっと出かけてくる」
翔は母に行き先を聞かれる前に、家を飛び出した。
教えられた住所に建っていたのは、人間が住んでいるとは思えない、いつ倒壊してもおかしくなさそうな老朽化したアパートだった。コンクリートの壁には、無数の亀裂が走っている。建物内に入ると、悪臭が漂ってきて、吐き気がした。
そんなアパートなのに、洗濯物が干されている部屋がいくつも存在するという事実が、翔には信じられなかった。
翔は臭いを堪え、崩れそうな階段を上り、勢田の部屋であるという三〇三号室に辿り着いた。
ドアをノックをしたものの、部屋の中からは何の反応もなかった。試しにドアノブを捻ってみると、鍵が掛かっておらずドアが開いた。
三和土に足を踏み入れると、かび臭い匂いが鼻を衝いた。
部屋の中は、まだ日が落ちていないのに薄暗かった。かび臭いのは、日当たりが悪いせいだろう。翔は、何度も瞬きをして、目を凝らして薄暗い部屋の中を探った。
殺風景な六畳間の畳の隅で、勢田がひっくり返っていた。
「先生?」
翔の声に反応して、勢田がのっそりと起き上がった。昨日の服と同じだった。
「ごめん、今日、無理……」
勢田はふらりと立ち上がったが、すぐにその場に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
翔は慌てて勢田に駆け寄った。
勢田の肩に触れたとたん、翔は思わず手を引いた。あまりにも熱かった。
勢田は翔から顔を背けたと思えば、苦しげに咳き込んだ。
「布団、どこですか?」
「うつる……」
「はい?」
「早く帰れ。うつる……」
勢田は自分の口許を押さえながら、くぐもった声で訴えた。翔に風邪をうつすことを懸念しているらしい。
「そんなことより、自分のこと心配してくださいよ。濡れたまま寝たんですか? 風邪ひくに決まってるじゃないですか」
翔は勝手に押入れを開き、布団を引っ張り出した。適当に布団を敷くと、勢田は素直に布団の中に入った。
だが、この後どうしたらいいのか、翔には分からなかった。
――とりあえず、汗を拭かなきゃ……。
部屋にあったハンドタオルで、翔は勢田の汗を拭き取った。勢田は意識が朦朧としているのか、翔のなすがままになっていた。
一通りの作業を終えた時、卓袱台の上に置かれた数枚の写真が目に付いた。
盗撮写真だろうか、女子高校生と援助交際をする男の姿が写っていた。公園で際どい行為にまで及んでいる写真や、ラブホテルに入ろうとする時の写真があった。翔は思わず眉を顰めた。
――この人が、まともなことをしてないってことくらい、僕だって分かってるし……。
翔は溜息を漏らした。
その時、さっきまで静かに眠っていたはずの勢田が、呻き声を漏らした。翔は慌てて勢田に駆け寄った。
「どうしたんですか?」
問いかけても、もちろん答えはなく、ただうなされているだけだった。
「……きょろたん」
「はい?」
「……」
どうやら、寝言のようだ。勢田はまた穏やかな寝息を立て始めた。
――チョコレート菓子のキャラクターの名前? この人、チョコ好きだもんな。
翔は苦笑するしかなかった。
――そうだ。何か食べやすい物でも……。
冷蔵庫を開けてみたが、ものの見事に空だった。あるのは、ケチャップとマヨネーズだけだ。
近くにスーパーマーケットがあったことを思い出し、翔は財布を持って飛び出した。
――風邪薬、ペットボトル入りのスポーツドリンクに、水くらいか。
その程度しか思いつかないが、ないよりはましだろう。弁当コーナーにも足を向けたが、食べやすそうなものは見当たらなかった。
そういえば、昔、翔が風邪で寝込んだ時、母はパン粥を作ってくれた。食欲がない時でも、ほんのりとした甘さが口当たりがよかったような気がする。
――そうだ、パン粥なら……。
食パンも買って、翔は急いで勢田のアパートに戻った。
――どうやって作るんだ?
玄関口に申し訳程度に備え付けられているガスコンロを前に、翔は途方に暮れた。
食パンを適当にちぎって、なべに入れ、水を加えてみた。
――何かが違う……。絶対違うよな。
完成品を前に、翔は頭を抱えた。これでは、ドロドロに溶けたパンに過ぎない。
――ないよりはましだよ、きっと。
殆ど自棄になりながら、不気味なパン粥風味の物体と、水と薬を枕元に置いた。静かに置いたつもりだったが、振動を察知したのか、勢田がうっすらと瞼を開いた。
「食べられそうですか? 食べられるようだったら、ちょっとでも食べてください。あと、食べ終わったら、風邪薬飲んでくださいね」
勢田は物言いたげな目を翔に向けた。焦点の合っていない眼差しで、眉根を寄せている。
不快だったのだろうか。
翔は不安になった。確かに、単に家庭教師をしているだけの生徒に、勝手に家に入り込まれた挙句、あれこれと口を出されては、迷惑以外の何物でもないだろう。勢田は飄々としているが、自分の領域に他人が踏み込んでくることを嫌うタイプのように思えた。
「……ご迷惑…でしたか?」
勢田は一瞬、目を見開いた。目を細めると、小さく首を横に振った。
「……ありがと」
掠れた声で呟いたきり、ぐったりと意識を失うように眠ってしまった。
「せんせ……」
かさかさに乾いた勢田の唇を、翔はそっと指で撫でた。勢田の反応がないのをいいことに、翔は段々と大胆になり、気づけば自分の唇を、勢田の唇に押し付けていた。
半開きの口に、舌を差し入れてみた。焼けるような口腔を舌で探っていると、熱い舌が絡まってきた。
翔は我に返って、慌てて勢田から唇を離した。
――何してるんだ、僕?
高熱で意識のない勢田に、自分からキスしてしまった。そんな自分の行動が、信じられなかった。
翔は弾かれたように勢田から身を離すと、逃げるように瀬能のアパートを飛び出した。
思いがけない勢田の言葉が、脳裏にこびりついて離れなかった。
何のつもりで、そんなことを言ったのかは分からないが、冗談を言っているようには見えなかった。
「勢田先生、昨日の代わりに今日お見えになる予定だったんだけど、体調不良でお休みですって。風邪でも流行ってるのかしら?」
――まさか、雨に打たれたせい?
翔は、担当の藤木美奈穂に電話した。勢田の症状を聞いたが、よく知らないようだった。勢田の住所を教えてほしいと頼んでみた。当然のように一蹴されたが、しつこく食い下がると、面倒くさそうに教えてくれた。美奈穂は母に対しては異様に丁寧な態度で接するが、翔に対してはぞんざいだった。
「ちょっと出かけてくる」
翔は母に行き先を聞かれる前に、家を飛び出した。
教えられた住所に建っていたのは、人間が住んでいるとは思えない、いつ倒壊してもおかしくなさそうな老朽化したアパートだった。コンクリートの壁には、無数の亀裂が走っている。建物内に入ると、悪臭が漂ってきて、吐き気がした。
そんなアパートなのに、洗濯物が干されている部屋がいくつも存在するという事実が、翔には信じられなかった。
翔は臭いを堪え、崩れそうな階段を上り、勢田の部屋であるという三〇三号室に辿り着いた。
ドアをノックをしたものの、部屋の中からは何の反応もなかった。試しにドアノブを捻ってみると、鍵が掛かっておらずドアが開いた。
三和土に足を踏み入れると、かび臭い匂いが鼻を衝いた。
部屋の中は、まだ日が落ちていないのに薄暗かった。かび臭いのは、日当たりが悪いせいだろう。翔は、何度も瞬きをして、目を凝らして薄暗い部屋の中を探った。
殺風景な六畳間の畳の隅で、勢田がひっくり返っていた。
「先生?」
翔の声に反応して、勢田がのっそりと起き上がった。昨日の服と同じだった。
「ごめん、今日、無理……」
勢田はふらりと立ち上がったが、すぐにその場に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
翔は慌てて勢田に駆け寄った。
勢田の肩に触れたとたん、翔は思わず手を引いた。あまりにも熱かった。
勢田は翔から顔を背けたと思えば、苦しげに咳き込んだ。
「布団、どこですか?」
「うつる……」
「はい?」
「早く帰れ。うつる……」
勢田は自分の口許を押さえながら、くぐもった声で訴えた。翔に風邪をうつすことを懸念しているらしい。
「そんなことより、自分のこと心配してくださいよ。濡れたまま寝たんですか? 風邪ひくに決まってるじゃないですか」
翔は勝手に押入れを開き、布団を引っ張り出した。適当に布団を敷くと、勢田は素直に布団の中に入った。
だが、この後どうしたらいいのか、翔には分からなかった。
――とりあえず、汗を拭かなきゃ……。
部屋にあったハンドタオルで、翔は勢田の汗を拭き取った。勢田は意識が朦朧としているのか、翔のなすがままになっていた。
一通りの作業を終えた時、卓袱台の上に置かれた数枚の写真が目に付いた。
盗撮写真だろうか、女子高校生と援助交際をする男の姿が写っていた。公園で際どい行為にまで及んでいる写真や、ラブホテルに入ろうとする時の写真があった。翔は思わず眉を顰めた。
――この人が、まともなことをしてないってことくらい、僕だって分かってるし……。
翔は溜息を漏らした。
その時、さっきまで静かに眠っていたはずの勢田が、呻き声を漏らした。翔は慌てて勢田に駆け寄った。
「どうしたんですか?」
問いかけても、もちろん答えはなく、ただうなされているだけだった。
「……きょろたん」
「はい?」
「……」
どうやら、寝言のようだ。勢田はまた穏やかな寝息を立て始めた。
――チョコレート菓子のキャラクターの名前? この人、チョコ好きだもんな。
翔は苦笑するしかなかった。
――そうだ。何か食べやすい物でも……。
冷蔵庫を開けてみたが、ものの見事に空だった。あるのは、ケチャップとマヨネーズだけだ。
近くにスーパーマーケットがあったことを思い出し、翔は財布を持って飛び出した。
――風邪薬、ペットボトル入りのスポーツドリンクに、水くらいか。
その程度しか思いつかないが、ないよりはましだろう。弁当コーナーにも足を向けたが、食べやすそうなものは見当たらなかった。
そういえば、昔、翔が風邪で寝込んだ時、母はパン粥を作ってくれた。食欲がない時でも、ほんのりとした甘さが口当たりがよかったような気がする。
――そうだ、パン粥なら……。
食パンも買って、翔は急いで勢田のアパートに戻った。
――どうやって作るんだ?
玄関口に申し訳程度に備え付けられているガスコンロを前に、翔は途方に暮れた。
食パンを適当にちぎって、なべに入れ、水を加えてみた。
――何かが違う……。絶対違うよな。
完成品を前に、翔は頭を抱えた。これでは、ドロドロに溶けたパンに過ぎない。
――ないよりはましだよ、きっと。
殆ど自棄になりながら、不気味なパン粥風味の物体と、水と薬を枕元に置いた。静かに置いたつもりだったが、振動を察知したのか、勢田がうっすらと瞼を開いた。
「食べられそうですか? 食べられるようだったら、ちょっとでも食べてください。あと、食べ終わったら、風邪薬飲んでくださいね」
勢田は物言いたげな目を翔に向けた。焦点の合っていない眼差しで、眉根を寄せている。
不快だったのだろうか。
翔は不安になった。確かに、単に家庭教師をしているだけの生徒に、勝手に家に入り込まれた挙句、あれこれと口を出されては、迷惑以外の何物でもないだろう。勢田は飄々としているが、自分の領域に他人が踏み込んでくることを嫌うタイプのように思えた。
「……ご迷惑…でしたか?」
勢田は一瞬、目を見開いた。目を細めると、小さく首を横に振った。
「……ありがと」
掠れた声で呟いたきり、ぐったりと意識を失うように眠ってしまった。
「せんせ……」
かさかさに乾いた勢田の唇を、翔はそっと指で撫でた。勢田の反応がないのをいいことに、翔は段々と大胆になり、気づけば自分の唇を、勢田の唇に押し付けていた。
半開きの口に、舌を差し入れてみた。焼けるような口腔を舌で探っていると、熱い舌が絡まってきた。
翔は我に返って、慌てて勢田から唇を離した。
――何してるんだ、僕?
高熱で意識のない勢田に、自分からキスしてしまった。そんな自分の行動が、信じられなかった。
翔は弾かれたように勢田から身を離すと、逃げるように瀬能のアパートを飛び出した。
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