イーヴィルアイに宿る色は

早之瀬雫

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1章

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 それ以降、勢田は翔の部屋に来るたびに、半ば当然のように翔の身体を弄ぶようになった。
 瀬田自身は着衣を乱すことなく、ただ翔の身体を執拗にいじり回して、翔が乱れるのを観察するだけだった。自分だけが裸体でみっともない姿を晒すことは、屈辱以外の何物でもなかった。
 勢田の余裕に満ちた顔を歪めてやりたい、そんな思いで、「イーヴィルアイ」を発動させようとするが、例によってかすり傷一つ負わせることができなかった。
 ――でも、今日こそは……。
 気合いを入れれば入れるほど、翔は自分の部屋を破壊していく羽目になった。
 ボロボロになった部屋と、呆れ顔の勢田を前に、翔はベッドの上にぐったりと横たわったまま、起き上がれずにいた。疲れ果てて、無様に開かれた足を閉じるどころか、指一本動かすことすら、億劫だった。
「ついにクローゼットが崩壊か……。どこ狙ってんだよ? もっといじって欲しくて、わざと外してるわけ?」
 勢田は口の端だけで笑うと、翔の下腹部に手を伸ばした。だが、勢田の指先は後孔を掠めるだけで、触れてはくれない。襞が物欲しげにヒクヒクと震えた。
「んっ……」
 思わず喘ぎ声を上げたその時、ノックの音がした。
「あの……、先生……? さっき、すごい音が……」
 母の訝しげな声に、思わず勢田と翔は顔を見合わせた。
 勢田が、早く服を着るように顎で指図する。翔は跳ね起きると、脱ぎ捨てた服を急いで手に取った。顎で指示されたことに対して、怒りを感じる余裕すらなかった。
「ああ、お母様、申し訳ありません。ちょっと悪ふざけをしてしまって……」
 勢田は、翔が服を着終えたのを確認してから、ドアを開いた。
 部屋の中を見た途端、母が悲鳴を上げた。
 そんな反応も、無理はなかった。クローゼットが真っ二つに割れ、耐荷重が20kgはありそうなハンガーバーはぐにゃりと波状に折れ曲がっている。壊れた扉からはみ出した服は、無残に引き裂かれていた。
「ちょっと……、何をなさっていたんですか?」 
「すみません。ゴルフクラブなんて、初めて見たから、つい興奮して……」
 勢田は照れ笑いを浮かべながら、頭を掻いた。
「え? 部屋の中でクラブを振り回したわけ? ……危ないじゃないですか。翔くんが怪我でもしたら、どうしてくれるんですか?」
 母は翔と視線が合うと、慌てて目を伏せた。
「あまり妙なことばかりなさるようなら、藤木さんに相談して、先生を替えてもらいますからね」 
 母は捨て台詞のように言い捨て、逃げるように立ち去った。
「俺が怒られちゃったじゃないか。クビになったら、君のせいだぞ」
 勢田は、悪戯っぽく肩を竦めてみせた。
「……今のは、ただの八つ当たりですよ」
 翔が溜息混じりに呟いた。
 ――誰が見ても分かるじゃないか。ゴルフクラブで、服を引き裂くことなんか、できるわけがない。
 母は、翔の「イーヴィルアイ」を直視するのが怖くて、勢田の言い分を信じ込もうとしたのだろう。勢田に対して怒っているふりをしながらも、安堵を覚えていた様子が、翔にははっきりと見て取れた。
「……先生は、どうやって僕の『イーヴィルアイ』を躱しているんですか?」
「イーヴィルアイ」を発動させたい相手であるはずの勢田に聞くべきことではなかったが、なぜか自然と訊ねてしまっていた。
「そんなこと聞いてきたの、初めてだよね。もしかして、俺に興味持った?」
 勢田が嬉しそうに笑った。翔が慌てて否定しようと口を開く前に、勢田が哄笑した。
「なーんて、冗談だよ。君が本気で『イーヴィルアイ』をコントロールしたいと考えるようになったら、きっと訊ねてくるだろうな、と思ってただけだよ」
 翔が訊ねてくるのを待っていたかのような口ぶりに、翔は勢田の顔をまじまじと見つめた。
 ――この人の観察力、すごいよな。もしかすると、この人、本当に「イーヴィルアイ」をコントロールする術を知っている……?
 ふいに、勢田の胸に縋りつきたい衝動に駆られた。
 だが勢田はそんな翔の思いを拒むように、身を翻した。
「そろそろ時間だから、帰るよ。お疲れー。じゃ、またね」
 勢田は鞄を掴むと、さっさと翔の部屋を出て行ってしまった。
 我に返ると、翔はほっとした。
 ――僕、勢田先生に縋りつきかけた? 落ち着けよ。いつも散々僕を侮辱してくる奴だぞ。僕は何を考えてるんだ?
「翔くん。晩御飯よー」
 母の能天気な声がした。
 翔がのっそりとリビングに下りていくと、さっき帰ったはずの勢田がダイニングテーブルの椅子に腰を下ろしていた。
「今日、カレーだから、先生もご一緒にどうかしら、と思ってお誘いしたの」
「いやー、なんだかすみませんねぇ。図々しくご相伴に預かって……」
「図々しいのは、今に始まったことじゃないでしょう」
 翔が思わず口を挟むと、母と翔は、少しばつの悪そうな顔を見せた。やはり母は、勢田に対して何の怒りも覚えていなかったのだろう。
 翔は無言で勢田の隣に腰を下ろすと、カレーを口に運んだ。隣で勢田が、うまい、うまいと連呼しながら、猛烈な勢いで食べている。そんな下品な仕草を、母は嬉しそうに見ていた。
 ――全く……、何なんだよ。
 勢田と母の楽しげな様子を見ていると、なぜか苛立った。
 ふいに、勢田の手が翔の額に触れた。
「あれ? 古傷? けっこうひどい怪我だった?」
 勢田の指先が、線状に隆起した傷痕をなぞった。翔の額から左目の辺りにかけて、小学生の時に事故に遭った際に受けた傷跡が残っていた。
 翔は勢田の手を振り払うと、慌てて前髪を整えた。この傷を隠すために、翔はいつも前髪を下ろしていた。
「あ、ごめん。気に障った? でも、よほど注意して見ない限り、気づかないくらいの傷痕だと思うよ。今まで気づかなかったくらいだし」
 デリカシーのない勢田だが、翔にとって触れられたくないことだと気づいたようで、慌てて取り繕っている。
「まだ残ってるの? その傷痕、つけたのはこの子の父親なのよ」
 母の言葉に、翔は思わず舌打ちした。思い出したくもない過去の出来事を、蒸し返さないで欲しかった。
「そんな話、どうでもいいだろ」
 翔は強い口調で呟くと、カレーを口に運んだ。
「ごめんね、翔くん。不躾なこと言って。いやぁ、それにしても、お母様のカレーは最高に美味しいです!」
 勢田も懸命に話題を変えようとしてくれた。だが、それでも母は一方的に話を続けた。
「翔くんがまだ小学2年生のとき、あの人、浮気相手とカーセックスしてたのよ。信じられない!」
 あの日、普段よりも塾が終わる時間が遅かった。翔はひとりで家に帰る途中、父の車が道に停まっているのを見かけた。何気なく近づいて、中を覗き込んだ。
 父は助手席に座っている女性に抱きついていた。女性の胸がはだけ、まるで生き物のように蠢いていたことを、今でもはっきりと記憶している。
 硬直している翔の存在に気づいた父は、気が動転したのか、車を急発進させた。
「父親の車に轢かれるだなんて……。あの時翔くんは、大怪我を追ったの。胸部骨折しただけじゃなくて、倒れた時に地面に落ちてたガラス片が左目に刺さって……。角膜移植しないと失明するって言われたのよ! 私、あの人に、すぐに移植手術を受けさせてもらえるように手配してって頼んだの。あの人、医療関係のことになら顔が利くって、いつも自慢してたから。なのに、順番待ちで一年はかかりそう、とか暢気なことを言い出して……」
「……お母様、そのお話はまた次の機会にでも……」
 それでも母は構わずに、捲くし立て続けた。
「あんまりにも腹が立ったから、愛人に角膜を差し出させろ、って迫ったの。そうしたら、一週間もしないうちに、順番が回ってきたのよ。あたしが愛人のことを持ち出さなかったら、あの人、真剣に頼む気なんてなかったのよ。息子よりも愛人のほうが大事って、どういう神経をしているのかしら。それに、あの女ときたら……」
 頭の奥で、高音の金属音のような耳障りな音が鳴り響いている。音は次第に大きくなり、母の声をかき消していった。
「翔!」
 勢田の鋭い声に、翔は我に返った。
 勢田は椅子を蹴るように立ち上がると、翔の肩を掴み、自分の胸に引き寄せた。頬を勢田の胸に押し当てた翔は、一瞬、安堵を覚えた。その直後、鋭い金属音が響いた。
 ――あ……、まさか……。
 テーブルの上の花瓶が、木っ端みじんに割れていた。母が真っ青になっている様子が見えたが、直視する勇気がなくて、慌てて目を背けた。
「疲れてるんだね。少し部屋で休もうか?」
 勢田は丁寧だが、有無を言わせぬ口調で言うと、翔の腕を掴んで強引に引き上げた。翔はふらつきながらも、勢田の腕にしがみつき、何とか立ち上がった。
「あの……、先生……」
 母が縋るように勢田に声を掛けたが、勢田は母に軽く会釈しただけで、翔の背中を抱くようにして二階へ連れ去った。
 ドアを閉めた次の瞬間、勢田は翔の頬をひっぱたいた。その勢いで、翔は崩れるようにしゃがみ込んだ。
「何してんだよ。自分の親、殺す気かよ」
 勢田の罵声が、降ってくる。
 ――殺す気なんか……。でも、殺しかけたんだ……。
 全身が震え出した。翔は自分の身体を両腕で抱きしめた。全身が小刻みに震えていた。
「……殴って悪かった。わざとじゃないのは、分かってるんだ。でも……」
 勢田は困惑と苛立ちが混ざった様子で、髪を掻き上げた。
「……すみません」
「俺に謝ることじゃない」
「……こんな力、欲しくて手に入れたわけじゃないんです」
 勢田は片膝をつくと、翔と目の高さを合わせ、小さく頷いた。
「分かってるよ」
 勢田が、熱を帯びた頬をそっと撫でた。
 その指先に優しさを感じた。途端に涙腺が熱くなった。気が付いたら、翔は勢田の胸に顔を埋めていた。
「思い出したくなくて、ずっと考えないようにしていたんですが、『イーヴィルアイ』が発動するようになったのは、あの事故以降だったと思うんです……」
 勢田は小さく頷いただけで口を挟まず、翔の背中を撫でている。安堵を覚えたせいか、記憶の奥底に沈めておいたはずの忌まわしい過去が、次々と浮かび上がってきた。
「前の高校で起きた、彫刻刀がクラスメイトの足に刺さった事件……、あの事件のせいで、僕は前の学校に居られなくなったんですが、あの時、クラスメイトが僕の受けた角膜手術が違法だ、とか言って騒ぎだしたんです。それで、気が動転して……」
 勢田が翔の背中を抱きしめてくれた。
「悪かった。古傷に触れてしまって……。その時の話には触れないように、俺からもお母様には伝えておくよ。君も、あまり深く考え込むな」
 勢田は宥めるように囁いた。だが、翔は宥めて欲しいのではなく、自分に味方して欲しかった。
「考えずにはいられないんです!」
 翔は勢田の胸を引き離した。
「あの事故が起こるまで、父さんと母さんは仲が良かったんです。でもあの時から、父さんと母さんはずっと冷戦状態です。父さんは、僕の眼を見ようとはしません。もしかして父さんは、母さんに脅されて、違法なことに手を染めたんですか? ……なにもかも、僕が悪いんですか?」
 勢田は、翔を憐れむような目で見つめるだけで、肯定も否定もしようとはしなかった。
「先生……」
 翔が縋るような目で勢田を見つめると、勢田は僅かに視線を逸らした。
「君の父親が違法なことをしたかどうかは知らないし、夫婦間の亀裂も、君のせいかどうかは知らない。だが、少なくとも、今、君の母親が身の危険に晒されたのは、間違いなく君のせいだ。責任転嫁して逃げようとするな」
 勢田は突き放すように冷たく告げると、立ち上がり、翔の部屋から出て行った。
 翔は漏れそうになった嗚咽を堪えながら、勢田の後を追って、廊下に出た。
「先生、私、あの子が怖いの。いつの間に、あんなバケモノになってしまったの? 昔は良い子だったのに」
 母の声に、翔は思わず柱の陰に身を潜めながら、一階を覗き見た。
 母は勢田にしがみついて、泣いていた。
「お母様、少し休みましょう」
 勢田は母の背中を撫で、ソファに座らせた。泣き続ける母の背中を、勢田はあやすように撫でた。
 そんな様子を見ていると、翔は息が苦しくなってきた。 
 翔は足を忍ばせながら、部屋に戻った。
 ――僕の味方なんて、誰もいない……。
 ベッドの上に横たわると、翔は堪えていた涙を流した。
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