上 下
2 / 38

しおりを挟む
 王太子ジョナタと侯爵令嬢エヴェリーナの婚約が破談になったとの報せは、瞬く間に王都を駆け巡った。

 二人は幼い頃より婚約者同士だったが、彼ら自身が直接関係しているわけではない諸問題が重なり、正式な結婚が先延ばしになっていた。
 昨今、それが片付き、ようやく結婚式を間近に控えたところであった。
 それが、突然にして白紙になったのである。

 この唐突な婚約解消劇は、ジョナタとエヴェリーナについて様々な憶測を呼んだ。しかし続くによって、王都は更に噂と憶測の嵐が飛び交うこととなった。

 王太子ジョナタは侯爵令嬢エヴェリーナを捨て、平民の女マルタと婚約したのである。

 ――では、そのマルタとはいったいどのような女なのか?

 絶世の美女であるとか、実はさる高貴な方のご落胤らくいんであるとか、さまざまに噂がささやかれ、その噂がまた別の噂を呼び、しばらく都を騒がしくしていた。



「あーっ、もう! なんなのこの裾! 動きにくいったらありゃしない!」

 怒れる猫を思わせる声が、エヴェリーナの耳をつんざいた。
 この王太子の別邸でこのように声を荒らげるものは、他に誰一人としていない。
 応接間の一室に、エヴェリーナとマルタはいた。

 怒れる猫に似たマルタは、繊細な刺繍と真珠の縫い付けられたドレスをさも鬱陶うっとうしそうに持ち上げ、怒りの声をあげている。
 そしておもむろに、エヴェリーナに振り向いた。

「ねえ! 他の服はないの!?」
「……それが一番、装飾が少なく動きやすいものです」
「はあ!? 信じらんない! あなたたち、よくこんな衣装で毎日生活できるわね!」

 マルタは高くたたみかけるような調子で叫んだ。
 エヴェリーナは答えられなかった。圧倒されるような思いで言葉を失っていた。

 王太子ジョナタに、マルタの教育係を頼まれたのは一週間ほど前のことだ。

『マルタは……野良猫のような女だ。王宮の作法をまるで知らない。このままではたいそう困ったことになる。そこで、あまりにも図々しいとはわかっているが、あなたに教育係を頼みたいのだ。あなたほど完璧な淑女はいない。それに……あなたに、マルタを知ってもらえればと思う』

 ジョナタは少し歯切れ悪く、エヴェリーナに言った。
 けれどエヴェリーナは見た。
 野良猫、と表現しながらも、かつての婚約者の目元が柔らかく和むのを。
 その声に温かな愛情が滲むのを。

 元婚約者に、新たな婚約者の教育を頼む――エヴェリーナの侍女や親類の者は怒ったが、エヴェリーナ自身は拒めなかった。

 はい、殿下。お望みのままに。
 いつものように、そう言ったのだ。

 あるいは――マルタという女がどういう人間であるか、確かめてみたいという気持ちがあったのかもしれない。

「……お立ちください。そのように勢いよく椅子に腰掛けてはなりません。衣装にも皺ができてしまいます」
「座り方までいちいち決まってるの!? はあーっもう! 貴族ってほんと……! あ、ああ、別にあなたに悪く思っているとこがあるわけじゃなくて!」

 マルタは遅れて気づいたとばかりに少々慌てた。
 エヴェリーナは目を伏せ、気にしておりません、とだけ言った。

 ――マルタ。平民の女。
 粗野で粗暴な、と侍女たちは眉をひそめたが、エヴェリーナの理性は、それも平民出身なら仕方のないことだと認める。住む世界が違うのだ。たとえば陸の生き物を、海の世界に連れてきたらまったく異なる振る舞いになるだろう。

 あまりにも人種が違うので眉をひそめはしたが、不思議と醜女だとは思わなかった。
 肩につかないほど短く切りそろえられた暗褐色の髪。
 薄茶の目は少し大きめで、眉には気の強さが見てとれる。
 小さめの鼻や血色の良い頬には、王宮に仕える人間にはない生命力が感じられた。どこかたくましさもあり、愛想の良さが魅力的に映る人種だろう、とエヴェリーナは思う。
 ――それでも。

(……なぜ)

 どうして、この女性なのだろう。たとえ平民でも他にいくらでも別の女性がいたのではないか。
 自分の何が、この女性に劣っているのだろう。

 エヴェリーナは矢車菊を思わせる碧眼に、金褐色の長い髪をもっている。
 純粋な金髪ではないところに欠点はあるかもしれないが、マルタと比べれば断然美しいとされる色だった。

 肌の色も、マルタが無造作に陽に焼けているのに対し、エヴェリーナの肌は処女雪のような白さだった。
 鼻はマルタより細長く高く、穏やかな目元はよく高貴だと謳われる。唇はもとより赤く、花にしばしば喩えられる。

 酒場の看板娘、働きものであったというマルタは体も引き締まっている――やせ気味である。
 対してエヴェリーナは肉付きがよく、豊満といえる体つきだった。

 宮廷人の美の基準からすれば、エヴェリーナがマルタに劣っているところは一つもない。
 外見だけではない、家柄も、育ってきた環境も教養も、何もかもがこれといって劣っているとは思えなかった。

(私に、何が足りないの?)

 マルタという女を目の前にして、エヴェリーナの疑問は深まるばかりだった。
 そしてその疑問の分だけ、胸をじりじりと焼かれるような苦痛があった。

 ジョナタは決して激情家というわけではない。感情が豊かだが穏やかさも持ち合わせている。
 立場をかんがみて理性的に考えるなら、たとえマルタという女を愛していたとしても、エヴェリーナを正妃とし、マルタを愛妾とするのが普通だ。それでも反発は起こっただろう。

 だが、ジョナタはわざわざエヴェリーナとの婚約を解消した。
 ――正妃にしたい、と言った。

 ジョナタを溺愛している国王夫妻もさすがに驚いてはじめは止めたと聞いた。しかしそれでも結局折れたのは、ジョナタのほうが決して折れなかったからだという。
 それだけ、マルタという女を深く愛しているのだ。

 考えるほど、エヴェリーナの胸に重く暗い澱がたまってゆく。
 エヴェリーナのそんな思いにも気づかず、マルタは入室するところから椅子に腰掛けるという他愛のない動作に何度も格闘していた。王太子妃ともなれば、一挙手一投足が女性の模範とされる。
 エヴェリーナがようやく及第点を出すと、マルタは椅子に座ったまま、深々と溜息をついた。

「はあもう、前途多難だわ」

 言葉とは裏腹に、マルタはさほど落ち込んでいなかった。
 エヴェリーナは礼儀正しく、批評の言葉を慎んだ。けれど、胸に澱んでいたものが言葉になって浮かび上がるのは止められなかった。

「……一つ、うかがってもよろしいですか」

 マルタは大きな目をエヴェリーナに向けた。

「何? って、ああ……何ですの? って聞かなきゃいけないんだっけ? ううん。あなたも、そんな大仰な言葉じゃなくて普通に喋ってくれたらいいのに」
「……これが、わたくしの普通ですわ」
「そ、そう。そうよね、侯爵家のご令嬢だもの……」

 マルタはばつの悪そうな顔をした。
 エヴェリーナはぼんやりとそれを見つめていた。

「どのようにして……ジョナタ殿下とお知り合いになったのですか?」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄してくださって結構です

二位関りをん
恋愛
伯爵家の令嬢イヴには同じく伯爵家令息のバトラーという婚約者がいる。しかしバトラーにはユミアという子爵令嬢がいつもべったりくっついており、イヴよりもユミアを優先している。そんなイヴを公爵家次期当主のコーディが優しく包み込む……。 ※表紙にはAIピクターズで生成した画像を使用しています

そう言うと思ってた

mios
恋愛
公爵令息のアランは馬鹿ではない。ちゃんとわかっていた。自分が夢中になっているアナスタシアが自分をそれほど好きでないことも、自分の婚約者であるカリナが自分を愛していることも。 ※いつものように視点がバラバラします。

婚約破棄されたショックですっ転び記憶喪失になったので、第二の人生を歩みたいと思います

ととせ
恋愛
「本日この時をもってアリシア・レンホルムとの婚約を解消する」 公爵令嬢アリシアは反論する気力もなくその場を立ち去ろうとするが…見事にすっ転び、記憶喪失になってしまう。 本当に思い出せないのよね。貴方たち、誰ですか? 元婚約者の王子? 私、婚約してたんですか? 義理の妹に取られた? 別にいいです。知ったこっちゃないので。 不遇な立場も過去も忘れてしまったので、心機一転新しい人生を歩みます! この作品は小説家になろうでも掲載しています

【完結】転生したら少女漫画の悪役令嬢でした〜アホ王子との婚約フラグを壊したら義理の兄に溺愛されました〜

まほりろ
恋愛
ムーンライトノベルズで日間総合1位、週間総合2位になった作品です。 【完結】「ディアーナ・フォークト! 貴様との婚約を破棄する!!」見目麗しい第二王子にそう言い渡されたとき、ディアーナは騎士団長の子息に取り押さえられ膝をついていた。王子の側近により読み上げられるディアーナの罪状。第二王子の腕の中で幸せそうに微笑むヒロインのユリア。悪役令嬢のディアーナはユリアに斬りかかり、義理の兄で第二王子の近衛隊のフリードに斬り殺される。 三日月杏奈は漫画好きの普通の女の子、バナナの皮で滑って転んで死んだ。享年二十歳。 目を覚ました杏奈は少女漫画「クリンゲル学園の天使」悪役令嬢ディアーナ・フォークト転生していた。破滅フラグを壊す為に義理の兄と仲良くしようとしたら溺愛されました。 私の事を大切にしてくれるお義兄様と仲良く暮らします。王子殿下私のことは放っておいてください。 ムーンライトノベルズにも投稿しています。 「Copyright(C)2021-九十九沢まほろ」 表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。

罠にはめられた公爵令嬢~今度は私が報復する番です

結城芙由奈 
ファンタジー
【私と私の家族の命を奪ったのは一体誰?】 私には婚約中の王子がいた。 ある夜のこと、内密で王子から城に呼び出されると、彼は見知らぬ女性と共に私を待ち受けていた。 そして突然告げられた一方的な婚約破棄。しかし二人の婚約は政略的なものであり、とてもでは無いが受け入れられるものではなかった。そこで婚約破棄の件は持ち帰らせてもらうことにしたその帰り道。突然馬車が襲われ、逃げる途中で私は滝に落下してしまう。 次に目覚めた場所は粗末な小屋の中で、私を助けたという青年が側にいた。そして彼の話で私は驚愕の事実を知ることになる。 目覚めた世界は10年後であり、家族は反逆罪で全員処刑されていた。更に驚くべきことに蘇った身体は全く別人の女性であった。 名前も素性も分からないこの身体で、自分と家族の命を奪った相手に必ず報復することに私は決めた――。 ※他サイトでも投稿中

【コミカライズ決定】地味令嬢は冤罪で処刑されて逆行転生したので、華麗な悪女を目指します!~目隠れ美形の天才王子に溺愛されまして~

胡蝶乃夢
恋愛
婚約者である王太子の望む通り『理想の淑女』として尽くしてきたにも関わらず、婚約破棄された挙句に冤罪で処刑されてしまった公爵令嬢ガーネット。 時間が遡り目覚めたガーネットは、二度と自分を犠牲にして尽くしたりしないと怒り、今度は自分勝手に生きる『華麗な悪女』になると決意する。 王太子の弟であるルベリウス王子にガーネットは留学をやめて傍にいて欲しいと願う。 処刑された時、留学中でいなかった彼がガーネットの傍にいることで運命は大きく変わっていく。 これは、不憫な地味令嬢が華麗な悪女へと変貌して周囲を魅了し、幼馴染の天才王子にも溺愛され、ざまぁして幸せになる物語です。

公爵令嬢の辿る道

ヤマナ
恋愛
公爵令嬢エリーナ・ラナ・ユースクリフは、迎えた5度目の生に絶望した。 家族にも、付き合いのあるお友達にも、慕っていた使用人にも、思い人にも、誰からも愛されなかったエリーナは罪を犯して投獄されて凍死した。 それから生を繰り返して、その度に自業自得で凄惨な末路を迎え続けたエリーナは、やがて自分を取り巻いていたもの全てからの愛を諦めた。 これは、愛されず、しかし愛を求めて果てた少女の、その先の話。 ※暇な時にちょこちょこ書いている程度なので、内容はともかく出来についてはご了承ください。 追記  六十五話以降、タイトルの頭に『※』が付いているお話は、流血表現やグロ表現がございますので、閲覧の際はお気を付けください。

婚約破棄された令嬢が呆然としてる間に、周囲の人達が王子を論破してくれました

マーサ
恋愛
国王在位15年を祝うパーティの場で、第1王子であるアルベールから婚約破棄を宣告された侯爵令嬢オルタンス。 真意を問いただそうとした瞬間、隣国の王太子や第2王子、学友たちまでアルベールに反論し始め、オルタンスが一言も話さないまま事態は収束に向かっていく…。

処理中です...