彼女の中指が勃たない。

坪庭 芝特訓

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『顎関節症』 ~明日の運勢は噛み殺すが吉。

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「ふあーあ」

 午前3時。
 茅春(ちはる)はさっきからあくびが止まらなかった。
 彫刻刀で彫ったような鋭い目にはあくびのせいで涙が滲んでいる。
 最初こそ噛み殺していたが、今は素直に大口を開けて出してしまった方がストレス解消にもなった。
 高校に向けての受験勉強に加え、空気も読まず大量に出された夏休みの課題。
 毎日こんな時間まで起きてないと片付かなかった。
 そして勉強、課題のお供といえば。

「あっ、と。次はー」

 見ていた動画が終わってしまい、茅春がケータイを手に取る。
 彼女は好きなアーティストが出たテレビ番組の動画やライブ映像を作業用のお供にしていた。
 それを勉強机に置いたケータイで、動画サイトで再生して見ていた。
 勉強のお供といえばラジオだが、現代っ子はそんな旧時代のメディアには手を出さない。
 しかし一本辺りの動画が短過ぎ、終わればまた新たな動画を探さなくてならない。
 本来の目的をこなすよりもお供を探し出すことに時間を割いていた。
 効率は恐ろしく悪い。
 が、そんなことは気にならなかった。
 恐らく、勉学のために遅くまで起きているということが楽しかったのだ。
 いかにも学生らしくて。

「ふあーあ。ああ、もう空明るいなあ」

 何十発目かのあくびと伸びと共に窓を見ると、もう空が明るくなっていた。
 真夏ということで夜が明けるのが早い。
 こんな生活をし始めてから朝日も何度も拝んだ。
 そして朝日を見てからようやくベッドに潜り込むのも楽しかった。
 どうせ昼前には目が覚めてしまうだろうが、受験生なんてそれでいい。
 効率の悪い徹夜、夜更かしが楽しかった。
 だが、


「……ふあ、うぐっ?」

 いつものように茅春はあくびとともに目覚めた。しかし今日は違った。
 ズキンとした耳の痛みがあった。
 右耳の奥に、刺さるような痛みが。
 ドキドキしながら痛みが気のせいか、本物か確かめる。が、

「っぐ!!」

 やはり痛い。
 断続的に、耳の奥がズキンズキンと痛む。

「ふ、うううっ」

 まだ出るあくびのために口を開けると鼓膜付近がひどく傷み、どうにかして噛み殺す。
 なんだこれはと状況を確認しようと、ベッドに横たわったまま茅春が目線を忙しく動かす。
 しかし、この痛みには経験があった。
 そのことに、顔が真っ青になる。
 とりあえずベッドから起き、リビングへ向かうと、

「あら。ちいちゃん起きたの。早いわね」

 朝食を作っていた母親が起きてきた娘を見て声をかけてくる。
 夏休みの中学生にしては起きるのが早い。
 といっても寝てから数時間しか経っていないのだが。

「なに?どうしたの?」

 神妙な顔で立ち尽くす娘を見て母親が訊いてくる。

「……耳が痛い」
「ええっ?」

 比喩的表現ではなく、本当に痛いというのは茅春が耳を手のひらで抑えているのでわかった。
 そして、

「また?」

と、母親は言ってきた。
 また耳を患ったのかと。
 母親だけあって娘の特性は理解していた。
 茅春は耳の病気になりやすかった。
 今までに外耳炎、中耳炎、内耳炎とやらかしている。
 そのため茅春にとって耳鼻科は恐ろしい場所だった。
 自分からは見えない場所を弄くられ、よくわからない治療をさせられた。
 幼稚園に入る前に行った時は、痛くて怖い思いをしたがあまり記憶にない。
 逆に一番生々しい記憶は小学生の時の、耳の中に出来た膿を割られた時だ。
 痛みと恐怖で、大人でも泣き出すという治療だった。
 ずずっ、ずずっと何か尖った器具が耳に入れられ、ぷちゅんと耳の中にある何か、おそらく膿を割られた。
 更に餅を食べてはいけないという謎の諸注意を受けたのも怖かった。
 そんな経験があるからだろう、耳の痛みを感じた時に最初に浮かんだのが耳鼻科だった。
 そして同時に、あんな場所二度と行きたくない!とも思ったのだが、

「どうする?病院行く?保険証、」
「いいっ!行かない!」

 病院に行くなら、と母親が保険証を出してくれようとするが、それを茅春が断固として拒否する。

「だって、」
「行かない!」
「耳痛いんでしょう?」
「いかないっ!」
「行かないって、じゃあどうするの」

 病院には行きたくない。しかし痛いまま放置も出来ない。茅春が考えを巡らし、

「薬…、くすりっ!」
「薬ったって」

 行きたくないあまり、子供のようにほとんど単語で話していた。
 それでも母親は薬箱を漁ってくれ、

「ああ、これ。耳痛って書いてあるから」

 出してきたのはポピュラーな痛み止めだった。効く症状は頭痛、生理痛、発熱、関節痛など。そこに耳痛、耳の痛みも含まれていた。

「それ、それのむっ!」

 耳の痛みに効くなんて初めて知ったが、地獄に仏とばかりに茅春がそれをねだるが、

「でも、お薬飲むならご飯食べなきゃ」

 用法用量に従えばすぐには与えられない。
 まだ朝食も出来上がっていない。
 それをどうにか待って、茅春が食べだすが、

「っぐう!」

 耳の痛さで口が大きく開けられない。
 ズキンという痛みに、ミシっという異音と痛みも加わる。
 あまりの痛さと恐怖で顔が歪む。それを見て、

「やっぱり病院、ああでも土日は」
「だいじょおぶ!」

 母親がやっぱり病院にと言うが、今日は日曜なのでやっていない。
 そんなことも茅春にとっては幸いした。
 どうしても耳鼻科には行きたくないのだ。

  固形物が食べられないため、仕方なく味噌汁だけを食事とし、薬を飲んだ。
 水を飲むのもやっとだった。
 いっそストローでと思ったが、そんなことをすればそんなに痛いのかとますます母親に病院を勧められる。
 最悪休日診療もあるのだ。
 効け、効いてくれという願いを込めて茅春は薬を飲み込み、

「ちょっと、ねる」
「痛み引かなかったら病院行くのよ?」

 部屋に戻ろうとする娘の背中に、母親が声をかける。
 効けという願いは更に強くなった。


「うううっ」

 ベッドに戻ったが痛みと恐怖でなかなか寝付けない。
 それでも、連日の受験勉強と課題のための睡眠不足で徐々にではあるが眠くなってきた。
 だが、

「だれだよ…」

 玄関のチャイムが鳴らされ、せっかくの眠気が薄れてしまった。
 宅配か何かかと思っていると、

「ああ、未希ちゃん」

 インターホンで対応した母親の声に、茅春がしまった今日だったと思い出した。
 一番面倒な美術の課題を一緒にやっつけてしまおうと、未希と約束していたのだ。
 けれど痛みとやっと訪れた眠気でそれどころではない。

「ごめんなさいね。茅春、耳が痛いって寝てるの」

 インターホンで話している母親に、そうだ、追い払ってくれと茅春が願うが、

「わかりました。おじゃましまーす」
「はい、どうぞ」
「えええっ?」

 断らず、あっさり家に上げた。


「ちは、寝てるー?」

 そして、勝手知ったるといった感じで未希が部屋にやって来たが、茅春はとっさに苦悶の表情のまま寝たふりをした。

「寝て、あ、起きてんじゃん」

 しかしあっさりとバレた。

「ねーねー、耳痛いの?」
「いたいよ」

 タオルケットを掛けられた身体を揺さぶられ、仕方なく寝たふりをやめるが、

「病院行かなくていいの?えっと耳だから、耳鼻科?」

 未希の口から出てきた単語を聞いて青ざめる。
 自分の人生において一番距離をおきたい単語だ。

「いかないっ!」
「なんで。耳痛いって結構大変じゃないの?聞こえなくなったりとか」

 茅春の顔が更に青ざめる。
 当然その可能性も考えた。

「くすりのんだからへいきだよっ」
「薬って?」

 茅春が家にあった痛み止めの名を挙げると、

「そんなの効くの?大丈夫?」
「ちょっともう、しずかにしてっ!」

 自分でも思っていたことをズバリ言い当ててくる。
 が、どうしても病院に行きたくない茅春は薬の効果を信じるしか無い。
 更に聴力、耳も使いたくなかった。
 喋ると顔の筋肉を動かすからか、耳の付近が痛くなる。
 薬の効果を狙うにしたって安静にしてた方がいいだろう。
 今日はもう帰ってくれと願うが、

「じゃあ、ちょっと」
「なんでっ」

 ちょっくらごめんなさいよといった体で未希はベッドに入り、添い寝をしだした。

「いや、よく眠れるように」

 そして手のひらで優しく身体をトントンしてくれる。
 その優しさに茅春は思わず、ぐっ、と奥歯を噛むが、耳がズキン、ミシリと痛み、力を抜く。

「寒い?あ、大丈夫か」

 茅春の部屋は狭いため、冷房があっという間に利く。
 しかし隣にある体温のおかげで今はちょうどいいくらいだ。
 寄り添う温かさにすうっとした睡魔が訪れ、

「寝た?あ、寝た」

 そんな声を最後に、茅春は深い眠りについた。

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