彼女の中指が勃たない。

坪庭 芝特訓

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『活字中毒』 ~アナログデジタル、アナログデジタル、更新更新、貸出、更新

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 そろそろ20分経つな、と思っていると鹿乃(かの)が、うわ、おもしろと呟いた。
 当然ラップで頭をターバンのようにぴっちりぐるぐる巻きにしている私を見てではない。
 素敵に髪をカラーリングするためとはいえ、なんとも間抜けな姿を自宅リビングで晒している私が面白いのではない。
 鹿乃の視線は文庫本に向けられている。
 表紙とタイトルからして時代小説のようだ。
 おそらく王道歴史ものではなく、忍者とか飛脚とか、歴史に残らない市井の人々の営みとかを描いたもの。
 おもしろ、とはその本に対してつい出てしまった感想だろう。
 ページの進み具合は半分を過ぎたくらい。
 本の厚さからして今日中には読み終わるだろうか。
 でも、そうしたらまた図書館で借りてきた新しい本に移る。
 今週中にあと三冊読まないといけないと言っていた。
 じゃなきゃ返却期限に間に合わないと。
 人んちの家のソファにどっかり寝転がり、人んちのお犬様をお腹あたりに乗せて。
 近くのテーブルには紅茶とクッキー。
 日曜の昼下りの、そんな過ごし方。なんとも優雅だ。
 それに比べて、私は。
 髪を奇抜な色に染め上げ、どうにか見れる風貌にしている。

「そろそろ20分経つんじゃない?」

 リビングにある時計を見ながら鹿乃が急にそう言い、

「ああ、うん」

 洗面所へ向かうため、私は立ち上がる。
 だが鹿乃は動かない。
 カラーリングを手伝うだけでもう役目は終わった。あとは自分で出来る。
 だからまた文庫本に視線を戻し、お腹の上にいるうちの犬を優しく撫でる。
 うちの犬、クリオはすっかりその身を委ねている。
 全く持ってくつろいでいる。知的に、優雅に。
 何でこんな自己完結女を好きになったんだろうと思ったが仕方ない。
 私は、彼女の本を読んでる姿を好きになったのだ。


 元は美人の部類なのだろう、彫りの深い顔に短めの髪で、鹿乃は美少年というか美青年のような雰囲気を醸し出していた。
 髪を染めて、一重を毎朝二重にして、薄いのっぺらぼうみたいな顔に盛々に化粧を施してやっと人前に出れる私とは違う。
 そんな子が、何やら真剣に本を読んでいた。
 昼休みの教室で。
 表紙を見ると昔話題になった凶悪事件について取材した本だった。
 なぜ今更、と私は笑ったのだが、いやずっと読んでみたかったんだけど、この前急に思い出して、と話すのももどかしいと言った雰囲気で、視線を私と本と交互に向けて鹿乃は答えた。
 それがなぜか引っかかった。
 学校で本を読んでるのなんて友達がいない子くらいの印象だった私は、なぜかそれにショックを受けたのだ。
 本に没頭し、自己完結的で、かといって周りを遮断しているわけでもなさそうだ。
 まるで登校拒否児が向かう図書館のような、誰が来てもいいように居場所を開けておいてくれるような。
 その証拠に、鹿乃は本の虫でもクラス内で孤立することはなかった。
 話してみるときちんと受け答えも出来、落ちついている。
 何よりそのカリスマ性溢れる風貌。
 そして、おそらくは読んでいる本の内容も。
 表紙を見ればどんな本を読んでいるのかおのずとわかる。
 鹿乃は本を読むが、文学少女では決して無い。

 外国の朝食に関するエッセイ。
 女芸人のリレー小説。
 うどん屋の二代目と蕎麦屋の三代目のBL小説。
 AV女優の詩集。
 壮絶なひよこ雌雄鑑定士のルポ。
 刑務所の食事レシピ集。
 泡盛に関するエッセイ。
 大人気幼女アニメのその後を描いた小説。
 劇場版幼女アニメのノベライズ。
 トイレで読むべき短編集。
 年代別クラッシュジーンズカタログ。
 擦り切れ、なぜか微かにチョコレートのような甘い匂いを放つ海外小説。
 マニアに絶大な人気を誇ったゲーム機の開発記。
 聞いたこともない剣客小説家の遺作。
 世界の絵描き歌本。
 アイドルプロデューサーの懺悔録。
 超多子若齢化社会を描いた近未来ディストピア小説。
 ブログ発の競馬場清掃員の日記。
 世界のガスライターカタログ。
 大正時代のカツカレー屋が主人公のタイムスリップ小説。
 貧乏ゆすり探偵が主人公の推理小説。

 ちゃんとした本、タイトルのものもあるが、なんでそんなの読んでるの?というものが多かった。
 ツッコまずにはいられない、話しかけずにはいられない。それ面白い?と訊きたくなってしまう。
 面白いかと訊かれれば、鹿乃は必ずうん、面白いと言い、多くは語らない。
 それで、じゃあ読んでみようかと思う子はいない。
 たぶんみんなちょっとだけ邪魔したいのだ。
 ちょっかいを出したいのだ。
 本に没頭する綺麗な顔を、こちらに振り向かせたいのだ。
 それでも鹿乃は邪険には扱わない。
 クラスメイトからは何かと話しかけられ、構われ、その相手をしてあげ、嵐のようなコミュニケーションが去るとまた本に没頭。
 コミュニケーションの合間合間、隙間隙間で本を読んでいた。
 お昼は大概クラスメイトと食べるが、ちょっと本読んじゃいたいからと一人で食べていることもある。
 が、それを周囲も受け入れている。
 なぜか鹿乃は特別だった。
 そんな人に、私はうっかり惚れてしまった。


「綺麗に染まったー」

 カラーリング剤を洗い流し、乾かした髪で私はリビングに戻ってきた。
 明るい可愛いらしい声を出して。
 しかし、鹿乃はあらぬ方向を見て固まっていた。
 身体をソファから起こし、睨みつけるでもなくどこかを見ていた。
 細身のジーンズを履いた足を片方だけ立て、読みかけの文庫本を持った手が膝に引っかかっている。
 その姿は、そのまま石膏で固めて永遠のものにしておきたいくらいに麗しい。
 クリオもどうしたんだろうとその顔を見上げている。
 しかし私は、今が何の時間かわかる。
 反芻しているのだ。
 鹿乃がフリーズし、あらぬ方向を睨みつけているのを見て訊いたことがある。
 どうしたの?と。
 すると鹿乃は反芻していると答えた。
 牛がよくやるアレらしいが、アレがよく私にはわからない。
 鹿乃のそれは、本を読んでいて何かすごい表現に触れたり、すごい展開になってきた時のインターバル的なものらしい。
 あるいは単純にものすごく面白いものを読んでしまった時の、心を落ち着かせる時間。
 反芻している時の鹿乃は読書をしている時と違って、無防備かつ、誰も寄せつけない、誰も入れない雰囲気を出している。
 実際のところ、反芻はしょっちゅう起こる。
 主に悲惨な事件を扱ったルポなんかを読んでる時に多い。
 書かれていることが受け止めきれず、消化してるのだろう。
 その横顔や視線はたまらなく美しい。
 真剣な表情で反芻し、そこには当然私なんて存在は映っていない。
 たまに外で反芻が起き、視線の先に女の人がいたりすると、この見目麗しい美青年のような子から熱い眼差しを送られていると勘違いし、ドギマギしているのをよく見かける。
 あんたじゃないんだよ、と思わず言いたくなる。

 いわゆるノってる時の鹿乃の目の動きは早い。
 本人曰く、本は文節で読むのだ、と言っていた。
 急な「のだ」口調が可愛かった。
 いや、読むものなのだ、だったか。
 とにかくそれが、ノってるともっと早くなる。
 トン、トン、トントントン、というリズムに乗った目の動きではなく、シューッとページの上を降りては昇り、降りては昇りで休みなく視線が上下する。
 立て板に水とはこのことか、と思ったがもしかしたら使い方が違うかもしれない。
 そんな読み方をしていると読むのは早いが、疲れてしまうのかよく反芻が入る。
 いや、休憩か。
 そしてその休憩姿か反芻姿を私は堪能する。
 そんな時間が好きだった。
 彼女の真剣さをじっくり堪能出来る時間が。
 当然、今もだ。

 ようやく私に気づき、ああ可愛いね、と言って鹿乃が微笑んでくれた。
 見上げているクリオの頭も優しく撫でてくれる。
 それだけで、私は彼女の側から離れたくないと思ってしまうのだ。


 
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