彼女の中指が勃たない。

坪庭 芝特訓

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『味覚障害』 4こねこね目

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 予想に反してゾノコはんが向かったのは駅ビルの地下だった。
 そこにある鮮魚コーナーへ向かう。
 新鮮な魚を吟味するように、商品が並べられたケースの間を歩き、魚ではなく海藻や貝類などが売ってるコーナーへ。

 早くも値引きシールが貼られているあさりのパックを手に取ると、

「おじさん、これ砂抜きしてる?」
「あいよっ!砂抜きっ?ああ、してるしてるっ。なんだいお使いかいっ?今日は鯖が安いよっ!」
「あー、はい」

 いや、今日はこれだけでいいと適当にあしらい、ゾノコはんはあさりを手にレジへと向かうが、

「うわっ、鯖のみりん干しか…」

 ある商品を見つけて立ち止まる。

「これ好きなんだけどなあー。家に買って帰って…、でも…」

 みりん干しを手に取り、考え込んでしまう。買おうか買うまいか。
 それを見ながら、悩むなら買えばいいのに、安くなってるのだからとあやべェは思った。
 鯖のみりん干し。
 食べたことあるだろうが、どんな味かと考えても思い出せなかった。
 最早、興味もなかった。

「よし、急ごう」

 会計を済ませると、ゾノコはんはすぐにあやべェの家へと向かった。

「味噌汁作るお鍋これ?」

 家に着くなり、テレビでも見ててと言われあやべェはそうしていたが、台所に向かったゾノコはんが持った片手鍋を見せながら訊いてきた。

「うん、そう」

 見せられた鍋にあやべェが頷く。
 確かにその通りだった。母親はいつもその鍋で味噌汁を作る。
 なぜわかるのだろうと考え、ああ、ゾノコはんはおうちで料理をする子なのだとわかった。

「お湯、使っていいけど。ポットのやつ」

 母親はいつも時短のために電気ポットのお湯を使って味噌汁を作るので、あやべェがそう言うが、

「ううん。あさりは水から煮る。そうした方が出汁がよく出るから。コレ使っていい?」

 ゾノコはんは冷蔵庫から水の入った大きい透明のボトルを取り出す。
 母親が近所のスーパーで汲んできた無料のボトル水だ。使っていいよと言うと、

「あやべェんち、夜、味噌汁飲む?」
「飲まない」

 不思議なことを訊くなと思いつつそう答える。

「朝しか飲まない?」
「…うん」

 そういえば、味噌汁は朝だけで夜は飲まない。なぜだろうとあやべェは考えるが、

「じゃあ飲んでもらおう。多めに作って残しておくから」

 答えが出る前にゾノコはんがそう言い、調理に取り掛かった。

「なんで味噌汁あるか訊かれたら、ちゃんと答えて。味覚障害だったからだって。それ友達に言ったら治すために作ってもらったって」

 火の強さを調節しながら、少し怒ったようにゾノコはんが言う。
 それは、娘の異変に気づかない家族への怒りだった。


 台所からぶぐぶぐという鍋が煮える音が聞こえてくる。
 テレビを見ながら微かに聞こえてくる音を、あやべェは何故か不思議な気持ちで聞いていた。
 味噌汁を作る音で目覚めるのが理想、俺のために味噌汁を一生作ってくれ。
 なぜか、そんなベタな情景や台詞が思い浮かんできた。

 あさりがぱくぱくと開き出すと、ゾノコはんは冷蔵庫から味噌を出し、メーカー名や減塩かだし入りかを確認するようにパッケージを見る。
 味噌をお玉ですくい、鍋の中で溶かす。
 それをひと煮立ちさせると、

「出来たよー」

 汁物椀二つを台所から食卓テーブルへと運ぶ。

「お箸、お箸っ」

 そしてまた忙しなく台所に戻り、お箸を二膳持ってくる。
 その間にあやべェは席に着き、あさりが沈むお椀を見てみた。
 海底の砂が巻き上がったように、味噌の溶けたやや灰色がかった汁が、もやもやとお椀の中で揺らいでいる。
 その中には美味しそうに開いたあさり。
 ぷっくりとして、恐らく大粒の。
 見慣れた景色だ。味も想像出来る。
 それが、今の自分にはわからないことも。
 それでもあやべェはずずっとそれを啜ってみた。
 申し分ないと思いながら。
 どうせわからないのに、味覚なんて戻らないのにと思いながら。しかし、

「……美味しい」

 一口飲んで、汁にほろ苦さを含むあさりの風味、海の塩気を感じた。
 そこに加わる芳醇な味噌の旨味。
 それが、少し熱いくらいの温度で舌の上を流れていく。
 それらを確認し、あやべェはあさりの身も食べてみた。
 きゅっ、とした食感といっしょに貝の旨味が口に広がる。つまり、

「美味しいっ」

 味がわかる。
 味噌のぼやけた茶色が舌を刺激する。あさりから出た灰色の出汁を感じる。
 味にちゃんと色がある。
 あさりの、普段は意識ない滋味といわれるものが体に染み渡る。

「美味しいっ!」

 三度言い、

「おいしい?」
「美味しいっ!」

 改めてゾノコはんに訊かれ、そう答えた。

「あ」

 そして気付く。
 頬を、涙が伝っていた。
 心の底では求めていたのだ。味わうという楽しみを。
 いらない、必要ないと思っていたのに。
 同時に、人が作ってくれた味噌汁の旨さに感動していた。
 それを見てフッと笑い、ゾノコはんも自分の分の味噌汁を飲んでみる。
 おっ、うまっ、と自画自賛し、それにあやべェが小さく笑う。
 ゾノコはんもつられて笑う。
 そうして、互いに味噌汁を飲んでいたが、

「でもなんで」
「ん?」
「なんで、味、戻ったの?」

 味覚が戻った理由についてあやべェが訊いてみるが、喋り方が覚束ない。
 脳に栄養が行き渡っている途中だからか。

「ああ、亜鉛だよ。あえん」

 そう言いながらゾノコはんが自分の舌を指差す。

「あえん?」

 あやべェも聞いたことはある。
 不足すると身体に良くない程度の情報だが。

「亜鉛が不足すると味覚がわからなくなるんだって。だから亜鉛を取れば味覚が戻るらしいんだけど、亜鉛が豊富で簡単に摂取しやすいのがあさりの味噌汁で」

 そう説明してくれる。
 自分に起きた症状を判断し、それに合う対処法を導き出し、美味しく解決してくれた。
 あやべェが呆然と、名医の如き友人の姿を見ていると、

「なんかさ、食べない?味噌汁だけってのもあれだから。軽くなんか作っていい?」

言ってゾノコはんが立ち上がる。

「え…、うん」

 こんな変な時間に食べるのも、とあやべェは思ったが、ここ数日まともに食べていなかった。
 断食状態からの食事の辛さも知っている。
 いきなりきちんと食べるより、軽く食べて慣らしていった方がいいかもしれない。

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