彼女の中指が勃たない。

坪庭 芝特訓

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『味覚障害』 3こねこね目

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あやべェは家からすぐの商店街を彷徨い歩いていた。
 夕方過ぎの商店街。
 精肉店ではコロッケやメンチカツが並び、青果店では季節の果物が並び、丼物屋や焼鳥屋が美味しそうな匂いを漂わせている。
 そんな商店街も味覚と同様、彼女には色が無くなって見えた。
 惣菜屋も鰻屋もラーメン屋も甘味屋も今の自分の人生には一切関係ない。
 その中に、メロンパン専門店があった。
 ふわんとバターの香りが漂ってくる。
 出来たばかりの頃に一度行ったが、高くて一個360円もするので友達とお金を出し合って半分こした。
 本当は干しぶどう入りが食べたかったのだが、でもそれは400円以上もして、

「……どうでもいいや」

 今となってはどうでもいい。
 どんな味がするのか、値段に見合う味なのか。
 味がわからない今はどうでもいい。どうでもいい。

「なんで…」

 あやべェがぽつりと呟く。

「…なんで生きてんだろ」

 何が楽しくて生きてんだろう。
 そう思うほど、今のあやべェの日々は味気なかった。
 食が人生の楽しみの大半とは言わない。
 が、この空虚感はなんだ。
 食に興味がなくなるとこんなにも無味乾燥な人生なのか。
 もっとやることがあるだろうに。

「……生きてる意味、あるのかな」

 もしこのまま味覚が戻らなかったら。もしこのまま食べなかったら。
 どうなるかわかっている。
 中学の時ですでに、帰ってこれなくなる手前まで行ったことがあるのだ。
 胃が縮みこみ、食パン一枚食べきるのがやっとだった。
 ゆっくりゆっくり咀嚼し、エネルギーを取り込んだ。
 食べるのだってエネルギーがいる。
 そのためのエネルギーを残しておかないと大変なことになる。
 今の自分にはそれが残っているのか。
 すぐ家に帰り、何か口にしなくてはならない。
 家なら飴がある。いや、いっそどこかで買って。

「……ダメだ」

 考えがまとまらない。
 ずずずっ、と足を引きずるようにしてあやべェが家に向かう。
 その時、

「あやべェー!!何してんの!?」

 聴き慣れた元気な声がした。ゾノコはんだ。

「ああ…、ゾノコはん」

 やっとの思いで振り向き、あやべェがそう声を出す。

「何?買い物?あっ、ねえっ!あそこメロンパン屋さんのやつ食べた?メロン果汁入ってるとかいうやつ!」
「うん…。普通のは」

 味は思い出せないけれど、メロンの味が濃くて美味しかった、はずだ。
 しかし今はそれどころではなかった。家に帰らなくては。
 が、ゾノコはんは喋り続ける。

「あたしも普通のは食べたんだけどさあー。干しぶどう入ってる方はまだ食べて無くて」

 その言葉に、あやべェの中から半分こしない?という提案が喉元まで出かかるが、今の自分の状況を思い出す。
 味がわからないのに買っても仕方ない。
 ずっと食べたかったものの味がしないなんて嫌だった。
 だが、頭を働かせるために何か食べ無くてはならない。それなら逆に好都合かと考えていると、

「ねね、分けっこしない?」

 自分が言おうとしたことを、ゾノコはんが先に言った。
 以心伝心、好みが通じ合うことに少し嬉しくなる。
 しかしメロンパンのカロリーは?
 せっかく痩せたのにそんな高カロリーのものを口にするのか?
 だから、

「…いいや」

 断った。半分こで食べようという誘いを。

「えー?いいじゃあん。干しぶどうだいじょーぶな人っしょ?むしろ好きじゃん」

 けれどゾノコはんは尚も誘ってくれる。
 日々の情報交換で互いに食の好みを知り尽くしていた。
 ゾノコはんはシナモン系が好き、あやべェはレーズンなどが好きだが、それらを使ったパンやお菓子が少ないので、見つけた場合はその情報交換も多くしていた。

「ダイエット中、だからさ」
「そなの?んじゃあ私が買うからぁ、一口だけ食べる?一口くらいならさぁー、いいじゃあーん」

 ダイエット中の人になら悪魔の囁きだが、ゾノコはんは共有したいのだ。好みの合う友人と、味を、美味しさを。
 でも今はそれが出来ない。お誘いは苦痛でしか無い。

「いい…」
「えー?なんでぇ?」

 ゾノコはんが笑顔で、軽い調子で訊いてくる。その軽々しさにひどく腹が立ち、

「味がわからないんだよっ!」

 突然、吐き出すようにあやべェはそう言った。涙すら滲ませて。
 ほとんど最後の力のようなものを声として出し、視界がぐらつく。
 しかし、ゾノコはんは言われた意味がわからなかった。

「…なに?」

 笑顔が固まり、徐々に眉をひそめながら聞き返す。

「もう…、何食べても、味がしないんだっ!」

 涙を堪えながらあやべェはそう言った。告白した。
 誰にも言ってない、親にさえ言ってない、気づかれてないことを。

「それって…、なに、病気じゃないの?病院行った方がいいんじゃないの?」

 段々と言っていることを理解し、ゾノコはんが笑顔から心配そうな顔で言うが、

「どうせほっときゃ治るんだからいいのっ!」

 あやべェがそれを切り捨てる。
 治る保証など無い。ダメかもしれない。そんな不安があるにも関わらず。

「ほっときゃっていいって…、っていうかあやべェ最近全然お昼食べて無くない?」

 あやべェの視線が下に向き、せわしなく左右に動く。どうしよう、気づかれてしまったと。

「あやべェのグループの子達がダイエットしてるって言ってたけど、ねえそれヤバイよ?味しないから食べてないの?そのうち拒食症みたいになって、食べれなくなるよ!?」

 そして、ゾッとすることまで言い当てる。
 なぜこの子はこんなにも自分のことがわかるのか、好み以外にもとあやべェは動揺する。

「…いいんだよ」
「よくないよっ!!死んじゃうよ!?」
「死んだっていいよ!生きてる意味ない!」

 そんな物騒なことを、あやべェは夕方の商店街で叫んだ。
 周りの大人達がどうしたの?と見るが、すぐに通り過ぎていく。
 皆、見ず知らずの女子高生が生きるの死ぬのなんて構ってられない。
 唯一、ゾノコはんだけが向き合ってくれていた。

「それ…、味覚、」

 更に症状も言い当てにくる。あやべェの中では答えが出切っていることを。
 しかし、言いかけたゾノコはんは考え込むようにすると、

「……わかった。治そう」
「え?」

 そんなことを言い出した。

「わたしが、治す。治してみせるっ!」

 そう力強く宣言する。まるで名医が不治の病を治してみせるとばかりに。

「あやべェんち、ここから近い?」
「うん…。そこ、だけど」

 問われるまま、あやべェがここからでも見えるマンションを指差す。

「ってことは…。あやべェ、こっち!」

 少し考え、ゾノコはんが駅の方へと向かう。
 振り返り、こちらに手招きして。
 もしや病院に連れて行かれるのかとあやべェは一瞬恐怖したが、それでも着いていった。
 この症状が治るならと。そして、

「ゾノコはん…」
「なに」
「なんか…、飴かなんかない?」

 あやべェの申し訳なさそうな声に、状況を察知し、

「飴…、チョコしか無いけど大丈夫?」
「うん…」

 ゾノコはんは通学用バッグからチョコを出してくれた。
 よくあるファミリーパックの徳用チョコ、のうちの一つだ。
 貰ったそれをあやべェが口に入れるが、やはり味がなく喉が渇くようなぬめりしかない。
 甘さも苦さもカカオの風味もないが、頭にじわじわと糖分が補給され、もう立ってるのがやっとだった足にも力が戻ってくる。

「行くよっ」

 補給が済むと、ゾノコはんの先導で二人は歩き出した。

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