彼女の中指が勃たない。

坪庭 芝特訓

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『下顎水平埋伏智歯抜歯 3顎目』

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 あっけないほどの手術に、なぜかこのまま帰るのも癪だなと、亜衣は歯医者と家の間にあるコンビニでいつも読んでる雑誌を立ち読みした。
 まだ痛みはない。
 体力の面も、立ち読みくらいなら大丈夫だった。
 だが、ガーゼを噛むように言われていた時間はとうに過ぎ、そろそろ帰るかと店を出た。
 そこでようやく思い出した。
 食べるものをどうするか。
 休みを取るため、仕事をやっつけ、プライベートの諸々も片付け、ずっとバタバタとしていた。
 結果用意すべき食べやすい食事をすっかり忘れていた。知識はあれほど入れたのに。
 薬を飲むためにも何か食べなくては。
 今出たコンビニに食べるものは山程あったが、戻るのが面倒なのでとりあえず家のすぐ近くのドラッグストアに向かった。
 食べるのに楽だと言われていたゼリー飲料コーナーに寄るが、欲しい味がない。
 ビタミン系、エナジードリンク味、カルシウム豊富味。
 色々あるがカロリーゼロを買った。
 いつもより食べれないのだからむしろカロリーは取る方向にしなくてはならないのだが、欲が出た。
 食べれないから痩せるよ、という諸先輩方のアドバイスが頭をよぎったのだ。


 せっかく早く抜歯が終わったのに、ぶらぶらしたせいでもう7時だった。
 お腹はまだ空いていない。
 出かける前に最後のまともな食事をと、家に残っていたミニあんぱんを2個食べたからか。

「あ、そうだ」
 
心配はしてないだろうがとりあえず多恵に連絡してみた。

「もしもし、たーぼう?」
「おお、歯抜いてきたんでしょ?どうだった」

 思ったより早く終わり、傷みもないことを話す。
 コンビニで立ち読みし、ドラッグストアでの会計の時に袋がいるか訊かれたが、マスクをして更にガーゼを噛んだままだったので発音が不明瞭で戸惑ったことも。
 話しながら少し興奮してるのが亜衣にはわかった。
 自分でも思った以上に初体験を報告したくてしかたなかったようだ。
 だが、あれ?と気付く。
 少し痛みが出てきた。
 ズキズキではないズクズクといった感じの。
 口内を縫っているのに喋りすぎたのか、麻酔が切れてきたのか。
 まさか、糸が切れたのでは。 
 血の蓋が取れたのでは。
 なんだか急に怖くなってきた。

「ごめん。ご飯食べて薬飲まなきゃいけないからそろそろ切るね」
「ああ、うん。そっか。お大事にね」
「ありがとう」
「お酒のんじゃダメだよ?若くないんだからね」
「飲まねーよ」

 軽口にツッコミで返し、電話を切った。
 痛みにそわそわとしながらゼリー飲料を薄く開けた口内にびゅっと噴射し、軽く上を向いて飲み込む。
 そして、あっ、と気付く。
 明日の分がない。
 なぜ今日、一食分しか買わなかったのか。
 なんてバカなんだと考えるが、それより薬だとバッグを開く。
 しかし抜いた歯が出てきて、つい五分ほどまじまじと見てしまう。
 完全に歯茎に埋まっていたわりに溝の部分が少し黒ずんでいるのは、流れ込んだ唾液による歯石か。
 あるいは流れ込んだ酸による虫歯か、などと考えるが

「はっ、違う。薬、くすり」

 自分の身体から取れた貴重なサンプルは置いといて、薬袋を開く。
 痛み止めは普通にドラッグストアでも買えるロキソニン。
 それとありきたりな抗生物質。
 こんなので大丈夫なのかと不安になるが、水と一緒に、形成されつつある血の蓋とやらが剥がれないよう気を遣って飲み込む。

「あとは、」

 風呂か、と考えるが歯医者に行く前にすでに入っていた。
 抜歯当日は入浴出来ないと諸先輩方に言われ、事実受付でも言われた。
 シャワーを浴びるかと思ったが家との往復だけで汗もかいてないので、メイクだけ抜いた側の頬に気を使いながらシートで落とし、そのまま寝る格好に着替えた。

「歯磨きは…」

 一応歯医者に行く前に徹底的に歯は磨いておいた。
 歯医者に行くからというより、口が開かずろくに磨けなくなるからだ。
 歯を磨いてから食べたのは先程のゼリー飲料だけ。
 なら磨かなくてもいいかと思うが、毎日してることをしないとどうしても気になる。
 仕方なくゆすぐだけにした。
 しかしそれもなかなか難しい。
 いわゆるブクブクうがいをすると水圧で血の蓋が取れるらしい。
 コップで水をそろりそろりと口に含み、首を左右に振って水を口内に行き渡らせ、静かに洗面台にだばばーっと吐いた。
 それで終わり。
 あまり満足がいかないが良しとした。

 その間にもズクズクした痛みは少し強くなってきた。
 薬が効いてないのか、いや効き始めるまで時間がかかるのだろうと亜衣は自分に言い聞かせる。
 加えてなんだかドキドキしてきた。
 もし痛みが食い止められなかったら?
 追加で飲んでいいのか。
 その場合何時間おきに飲むのか。
 不安に駆られ、ネットでロキソニンの説明を見る。

「6時間…、か」

 6時間おきに服用。
 つまり6時間経てば次の痛み止めを飲んでいいということらしい。
 今が7時半だから6時間後だと何時だろうと考え、

「もう寝た方がいいのかな」

 もうこの後はやることがなかった。
 痛みを感じる中することもなく動き回るのも嫌だった。
 こういう時は早く寝るに限る。
 諸先輩方も寝てた方が治りが早いと言っていた。
 飲みに行ったり普通に出かけた人達もいたらしいが、そういう人たちは普通の抜歯だと思い込むことにした。
 何しろこちらは一番難しく痛いと言われる下顎水平埋伏智歯の、30歳オーバーの一本目なのだ。
 これ以上痛くならないようにと、8時前にはもう床についた。
 こんな早くに寝れるかなと思いつつ、朝からの緊張もあってか、痛みの中でもしばらくするとスッと眠りにつけた。



「っぐう」
 だが、それは来た。
 深夜。口内が脈打つような痛みに、亜衣が暗闇の中でカッと目を見開く。

「うっうっう」

 ズクズンズクズンとした今まで体験したことのない痛み。
 なんだこの痛みはと考え、そうだ昨日抜歯したのだということをすぐ思い出す。
 同時に、よりにもよって自分が抜いた側の頬を下にして寝ていたことも。
 仰向けだったのにいつの間に、と自分の寝相を呪う。
 半身を起こしてみるが、前を向いても下を向いても痛い。
 スマホで時間を確認すると深夜2時前。

「ええっと」

 7時から何時間経ったか指折り数えるが、痛みでそれすら計算出来ない。
 おそらく6時間は過ぎている、だろう。
 過ぎているということにした。
 これはとても薬なしでは乗り越えられなかった。
 リビングテーブルの薬袋からロキソニンを取り出し、水も用意する。
 何か食べないと胃に良くないかという考えが一瞬よぎるが、もうそんなことは言ってられない痛さだった。
 薄く開けた口に薬を放り込み、水でごくんと飲み込む。
 頼む、効いてくれと願いながら。
 そして横になるが、痛くてとてもじゃないが眠れない。
 いや寝なくても横になって安静にするだけでもいいのだ。
 諸先輩方も言っていた。
 しかし薬は一向に効かない。
 怖くなってきて時間を確認する。
 まだ2時を少し過ぎたくらい。
 またしてもネットで飲んでからどれぐらいで効くか調べると、30分ほどかかるとあった。

「30分も?」

 仕方なく、気持ちと痛みをまぎらわすためにネットで抜歯後の過ごし方や注意点について調べるが、

「…そうか、痛くなる前に」

 痛み止めは痛みが切れる前、6時間後の少し前に飲んでのりしろ部分で途切れること無く効くようにするのがいいらしい。
 これは盲点だった。
 痛くなってからでは遅いのだ。
 ズクズンズクズンは収まらない。
 耐えらないほどの痛みではない。
 しかし痛みでの体力消耗が激しい。
 夕飯もロクに食べていない。

「…あれ?なんか、熱い?」

 ふと思い立って熱を測ってみると、

「……高いな」

 微熱程度だが少し高い。
 腫れてるのだから熱は出るだろう。
 いや、寝起きだと体温は高かったか。
 寝起きといっても結構時間が経ってないか。

「どっちだ…」

 痛みで一人会議がまとまらない。
 薬以外で抑える方法はないかと更にネットで調べると、

「冷却シート…」

 子供がお熱を出した時などにおでこに貼る冷却シート。
 あれを抜いた側の頬に貼るといいとあった。

「ホントに?あ、でも」


 あまりにお痛みがひどいようでしたら濡らしたタオルなどを当ててください。でも凍らせたタオルなどで冷やし過ぎたりはしないようにしてください。患部の治りが遅くなりますから。


 受付でそう言われた気がした。
 濡れタオルはいいのか。じゃあ冷却シートは?
 更に調べると、積極的に使え派とやはり治りが遅くなるから使うな派で意見が割れていた。
 しかしあまりに痛みが酷いなら体力を消耗するため、逆に治りが遅くなるから使えという意見もあった。
 痛みが酷いのラインがよくわからないが、それにかけることした。しかし、

「うち、あったっけ」

 果たして冷却シートなるものがうちにあっただろうか。
 自分で買った記憶はない。
 だが、キッチンの薬などを置いてある場所を探すと、

「あれ?ある」

 使いかけの冷却シートがあった。
 箱の中に未開封のシートがいくつかと、一つ封を開けたものがあった。
 その開け口はきっちり折りたたまれていた。

「そうか。たーぼうだ」

 多恵が家に来た時に熱っぽいと近所のドラッグストアで買ってきたことがある。それの残りだ。
 熱出た時に使えばいいよと置いていったのだ。

「ありがてえ」

 熱ではないが使わせてもらうことにした。
 そっと頬に触れ、腫れている部分と痛い部分の境目を探す。
 痛くて腫れてる部分に貼ると冷やし過ぎてしまうらしい。
 顎のラインに沿って、患部ギリギリの部分に貼り、外側から熱を吸収することにした。

「あ、すごい」

 貼ってベッドに横になると、冷やすだけで痛みはだいぶ和らいでいった。
 おかげで誘われるように眠りにつけた。

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