彼女の中指が勃たない。

坪庭 芝特訓

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『下顎水平埋伏智歯抜歯 4顎目』

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 翌朝。
 というより数時間後。

「ぐっ」
 
 また痛みとともに亜衣は目覚めた。
 頬に貼ったシートはペロンと剥がれ、半分引っかかるようにくっついてるだけだった。
 もう一度貼り付けてみるが、すでに粘着が弱まっていて剥がれてしまう。ひんやり感も薄い。
 まあ夜中ほどの痛みはないのでいいかとゴミ箱に放った。
 今日は休みを取ったので一日ゆっくりすることにしたが、

「そうか、ご飯」

 買っていなかった抜歯後食事を思い出す。
 時間を見ると8時半。
 近所のドラッグストアは9時開店だ。

「ああ、どうしよう。っていうか面倒くさいな」

 着替えるのも億劫だし、顔が腫れてるのでマスクをしなくては恥ずかしい。
 メイクも出来ないのですっぴんだ。
 マスクの買い置きはあっただろうか、無ければ昨日病院で貰ったのを使えばいいが、と考えながらスマホをチェックすると、多恵からメッセージが届いていた。

『そういえばバナナとリンゴ買っておいた。野菜室にあるの気づいた?一緒に置くとリンゴの成長ガスで傷み早いから離して置いてね』

 スマホを手に冷蔵庫の野菜室を開けてみると、確かにほとんどガラガラの上の段にリンゴが、同じくガラガラの下の段にはバナナが入っていた。

『バナナはそのまま舌で潰すようにして食べたらいいよ。栄養価高いしお腹にたまるし。リンゴはすりおろしてヨーグルトと一緒に食べたらいいよ。ヨーグルトも買っておいたから』

 酒と調味料くらいしか入ってない冷蔵室にプレーンヨーグルトが入っていた。

「ありがてえ」

 数時間前と同じ言葉をつぶやく。
 気の利く恋人に向かって。
 まるでおかあさん、いや、そっと栗を置いといてくれるきつねのような優しさだった。

 とりあえずバナナを適当に輪切りにし、器に盛ったプレーンヨーグルトに投入した。
 昨日より更に開かない口に無理やりバナナヨーグルトを入れる。
 バナナが大きくて上手く口に入らないので、スプーンで更に細かく切った。
 ズズズ、ぐにに、ズズズ、ぐににとヨーグルトを口に入れ、アドバイス通り舌でバナナを押しつぶすようにして食べた。
 経ったこれだけの量の食事なのに、やたら時間がかかる。
 一人で食べてるからわからないが、おそらく食べ方も汚らしいだろう。
 気力と体力を使い、ようやく食べ終えたところで、

「さて。薬、くすり」

 お待ちかね、かはわからないが薬だ。
 が、今更ながら副作用が気になった。
 抗生物質とロキソニン。
 諸先輩方によれば、腸内の菌に作用するのか下痢をしたり便秘になったりするらしい。
 おまけにこの薬二種の合わせ技を試したことがなかった。
 男性陣は下痢になったケースが多く、女性陣は便秘になりがちだと言っていた気がする。
 持って生まれた性差だろうか。
 なので先輩の一人に言われた通り抗生物質とロキソニンに加え、家に常備していた整腸剤も加える。
 あまり食べてないから便通は期待できないが、普通食に戻った時に出ないと厄介だ。 
 飲み合わせはまあ大丈夫だろうと、すべての錠剤を水で飲み込んだ。
 一仕事終えた感覚でふーっと息をつき、いつもやってる食後の習慣を思い出す。

「歯ぁ、磨きたいな」

 寝起きではあるし、食べたのはバナナヨーグルトだけだが気になる。
 仕方なく、しゃこしゃこと縫った部分を避けながら、歯磨き粉もつけずに撫でるように全体を磨く。
 あまり気を遣って重点的に磨くと血餅が取れたり炎症を起こすらしい。
 大体一週間後に抜糸というのがネットや諸先輩方から聴いた情報だ。
 仮に虫歯があったとしてそれが急速に進行することもないだろう。
 歯を磨き、頬が痛いので顔もきちんと洗えない。
 昼はまたバナナヨーグルトかすりおろしりんごヨーグルトでいいだろう。
 となるとやることがない。
 録画したテレビ番組も見る気はせず、

「寝るかあ」
 
 一応怪我人なのだ。ならば寝るに越したことはない。
 テレビを見て無駄な体力を使うのももったいない。
 深夜のドッタンバッタンでロクに寝れなかった。
 しかし横になっても痛みが気になって寝れない。

「うーん…」

 薬がそろそろ効いてくるはずだが、のりしろがないのでうまくいかない。
 ジワジワズクズクとした痛みが鬱陶しい。
 起きていた方がむしろ楽か、いや身体を横にすることに意味があるのか。
 抜いた方は下に出来ないので、仰向けになったり無事な方を下にしたりと落ち着く姿勢を探して寝返りを打つ。
 だが眠れない。
 読書はと思ったが痛みが気になって集中出来そうもない。
 なるべく体力は使わないようにしたい。
 安眠用音楽でも聴けばあるいは、と動画サイトで探してみる。
 以前不眠症だった時にお世話になった曲もあった。
 適当に探していると関連動画で鎮痛作用のある曲というのがヒットした。
 ゆっくり目を閉じていき、音だけに集中する。
 そのまま眠りに落ちた。


 目を覚ますと昼の2時を回っていた。
 だいぶ寝てしまった。

「早く治すためにはいいか」

 10時くらいに寝て、薬を飲んだのがと逆算する。
 痛みは相変わらずある。
 ズクンズクンという、まあ仕方ないかというほどの痛み。
 しかし憂鬱にはなる程度。
 とりあえず薬を飲むためには何か食べなくてはと起き上がり、本当に食べて寝てるだけだなと苦笑した。


 頑張ってリンゴの皮を剥き、頑張ってすりおろす。
 器に盛ったプレーンヨーグルトにそれを投入。
 汁を絞ってないのでかなり水っぽいが、今はむしろそっちの方が食べやすい。
 全部食べても物足りない感じがして、バナナヨーグルトもおかわりした。
 痛いが食欲はあるらしい。
 いい傾向だ、と頷く。
 頬がじいんと痛かった。

 一仕事終えた気分で食べ終わり、薬どもを飲む。
 するともうやることがない。
 また寝るかと思ったが、少し身体が動かせるので、録画していたテレビ番組を少し見てみる。
 痛みをまぎらわせられるくらいの効果はあった。
 口を開けて笑うことは出来ないが。

 テレビを見るのにも疲れ、ふと外を見ると天気が良かった。

「買い物でも行くか」

 買うのはすでにもう無くなりそうなヨーグルトと、あった方が良さそうなゼリー飲料だ。
 バナナも安くなっていたら買うことにした。

 散歩と買い物を済ませ、家につく。
 買ったものはヨーグルトと、食べやすそうだからと豆腐。
 家にあるポン酢で食べればそれなりに食えるだろうと。
 バナナは高いので買わなかった。
 買ったものを冷蔵庫に入れていると多恵からメッセージが届いた。

『抜いたとこどんな感じ?』
『まだ痛い』

 少し盛って返した。
 痛いが我慢出来ないほどではない。
 薬ののりしろ読みがうまくいってるのか、ズウンという痛みの山もない。

『熱は?』
『昨日測ったら少しあった』
『夜が結構痛みのピークだから、そこ超えちゃえば楽よ。日中とかも。あと冷凍庫に食パンあるの気づいた?ヨーグルトとかばっかだと味気ないからパン粥にして食べたらいいよ。適当にちぎってお鍋でコンソメと牛乳でぐつぐつに煮るの』

 パンなんてあったか、と冷凍庫を開けてみると、あった。
 かなり霜がついた魚などと一緒に、確かに8枚切りのパンがあった。
 自分が買うなら四枚切りのふわふわパンなので、明らかに多恵が買ったものだ。
 コンソメも、確かあった。
 これも過去に多恵が買ったものが。

「ありがてえ」

 三度目のありがてえを言い、

『ありがとう』

 そう本人にも文章で伝えた。


 言われた通り夕飯は適当にパン粥を作ってみた。
 休みなのだしお風呂にゆっくり浸かりたいが、念には念をで我慢する。
 おそらく大丈夫なのだろうが、まだ不安が残る。
 シャワーを浴び、髪を洗う。
 頬をなぞるお湯すら気になる。
 そしていつもより早めに床につく。
 昨日見つけた鎮痛作用の曲をイヤホンで聴きながら。
 今日一日あまり身体を動かしてないが、まあ横になってればそのうち、と思ってるうちに眠りについた。
 だが、


「ぐうっ」

 深夜。
 また痛みが襲ってきた。
 口内に小さな心臓が出来て、それが脈打つような生々しい痛み。
 抜いた夜がピークではないのか、夜は常にその日のピークなのか。
 多恵が言っていたことを思い出しつつ、痛みに本物の心臓をドキドキさせながら、亜衣が時計を見る。
 夕飯が早かったので痛み止めはもう切れている時間だ。
 すぐに水と共に飲み、冷却シートも用意する。二回目ともなると行動が早い。しかし、

「…やっばいな」

 痛み止めが無くなりそうだった。
 朝昼晩にプラスして、深夜にも一錠飲んでいるのだ。
 貰ったのは3日分。
 翌朝も当然飲むだろう。
 となると明日の深夜痛くなった時の分がない。
 すぐ近くのドラッグストアにも売っているが。
 というよりもこんなに痛くて大丈夫なのか。こんなに痛いものなのか。
 もしかして血餅とやらが取れたのではと不安になる。
 同時に、諸先輩方の言葉を思い出す。
 同じ水平埋伏を抜いた女性がいた。
 痛がるのは男だけ。痛みに弱いから大袈裟に言うだけ。
 女は痛みに強いから大丈夫。
 そう言っていた。
 じゃあこの痛みは大したことないのか。
 自分が大袈裟なのか。
 痛みでぐるぐるとそんなことを考える。
 だから他のことを、と明日のことを考えた。
 明日は歯医者で消毒だ。
 というかもう今日か。
 久しぶりにちゃんと出かけ、人に会う。
 朝食はどうするか。
 出来る範囲で歯を磨き、家から近く、5分10分の診察だろうし化粧はファンデだけでいいか。
 それがある意味一番難しいが。
 鼓動に合わせての痛みは冷却シートで徐々に吸収される。
 薬は効いてきたのかまだわからない。
 そういえば痛み止めには眠くなる作用などは入ってるのだろうか。
 だとしたらいいのだが、と思ってるうちにまた眠りにつけた。


「うああ」

 翌朝、また油断ならない痛みとともに目覚めた。
 痛みはまだ微かにあった。
 深夜に比べたらだいぶ引いたが。
 口内に確かに傷口があるな、という相変わらず生々しい痛みだ。
 それでも一日を通してたっぷり寝たのだから、回復には向かってるだろうと自分に言い聞かせる。
 今日は歯医者に行く日なので、そのための気合い入れも込めて。
 朝イチの予約なので諸々準備しているとメッセージが届いていた。

『卵買っといたからパン粥に入れたらいいよ。卵入れたほうが栄養価高いよ。』

 冷蔵庫の卵ポケットを見ると6個入りパックがまたしても確かにあった。
 どうせ使い切れないだろうと思ってのこの数だ。

「ありがてえなあ」

 また同じ言葉を亜衣が呟く。



 昨日作ったのが美味しかったのでまたパン粥にし、言われた通り卵も入れた。
 また少し食べ足りない感じがして、すりおろしリンゴ入りヨーグルトも食べた。
 食べるのに難儀するが食欲はある。
 いいことだった。
 そして食べ終えたらすぐに薬の時間だ。
 抗生物質と痛み止めと整腸剤。
 深夜に飲んだのは何時だったか、と一応考えるが面倒くさくてやめた。
 薬を飲んでしばらくすると、

「ん?」

 のりしろは出来てなかったが、薬が効いてきたのが実感出来た。
 食事をきちんと取って寝ているのがやはりいいのか。
 うまく痛みを抑えこめているな、と感じた。

 着替えて出来る範囲で簡単にメイクをし、腫れてるかわからないが一応マスクもする。
 そして徒歩五分の歯医者へ。

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