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アニラジを聴いて笑ってる僕らは、誰かが起こした人身事故のニュースに泣いたりもする。(下り線)

30、職人のオンステージ

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「えと、れいちゃん、さん?」

  なぜか並々ならぬ雰囲気に、響季が敬語になる。
  だが今日ばかりは彼女から放たれる想いを受け止めたかった。
  この天才は、好きだなんて感情に溺れたりしない。ちゃんと面白さを保てる。
  それがわかってるからこそ、もっと距離を詰めたかった。

 「れい、じ」

  乾いた声で名前を呼ぶと、零児が身体をびくっとさせる。
  慣れない呼び方。しかし身体は、耳はもっと欲しがっていた。声を、名前を。

 「零児」

  再度名前を呼ぶと、零児がベッドに乗り、半身だけを起こした響季の方へ猫のようににじり寄ってきた。
  体格は響季の方がいいが、ずっと入院してた者と通常生活を送っている者とでは体力に差がある。いつものようにマウントを取り、力で抑えこんでしまえばどうとでもなる。
  おそらく、互いにそんなことを期待していた。
  無理矢理にでも奪ってしまいたい、奪われてしまいたいと。
  見つめ合ったまま零児が身体を寄せ、お互いしか見えなくなる。
  耳はオルゴール調の曲を捉えていたが、その奥に互いの鼓動音を聴いた。
  薄く開いたままだった唇を零児が引き結ぶと、響季の喉がこくっ、と物欲しそうに鳴った。
  かつて指先や頬で触れ合ったそこに自分の唇を重ねたい。
  自分に委ねて欲しい、委ねてしまいたい。

  だが大丈夫だろうか、という声が響季の頭をよぎる。
  せっかく命の瀬戸際で、権利を保ったままでいられたのに。
  粘膜を通し、体液を交換したらもう清らかな血ではいられないかもしれない。
  熱い血液が身体を駆け巡るのがわかった。今、まさにこの時、血が変化していると。
  零児が身体を寄せてくるたび、温度の低い甘い香りが強くなる。
  クールなアーモンドアイが細く、切なく閉じられていく。熱さと冷静さが入り混じった目に取り込まれていく。
  抗えない誘惑の中で、響季の最後の理性がこの清らかさは誰のためのものだと訊いてきた。
  上の世代、誰かを助けるため。幾ばくかの謝礼と引き換えの、そんな大義名分のため。
  ならばそんなもの、もうどうでもよかった。
  もっと我儘に、シンプルに、今欲しいものが欲しかった。自分達はそうして良いはずだった。
  たとえ血が使い物にならなくなっても構わない。そう思った時。

「はいっ!面会時間終わりだよゴラァー!ちちくりあってないでとっとと帰んなさいよ!!」
「うわああ!!」
「んぶ」

  閉めた時より更に勢い良くカーテンが開けられ、そこに鬼のような形相と声の看護師さんがいた。
  だらだら居座る見舞客を追い出す役目を担った鬼看護師が。
  声に驚いた響季は悲鳴を上げ、零児はバランスを崩して響季の首元に頭突してしまう。
  頭突された方は自然と相手を抱き締める形になり、

 「ほらもう、発情してんじゃないわよ!!」
 「し、してないし!」

  目の前の身体に腕を回したまま看護師さんの言葉を否定するが、説得力がなかった。

 「はあ?キスしてたでしょーが!」
 「だからまだしてな、ぃ」

  そして尚も否定しようとした瞬間。
  唇の端に、響季は濡れた感触を捉えた。
  反対側の頬には手が添えられ、温度の低い甘い香りを一際強く感じた。
  何をされたのか一瞬理解できない。

キス、された。
いや、されていない。
された気がする。
いやされてない。
いや、ギリギリのところにされた?
 唇の端のあたりに。
おべんとつけてどこいくの?のあたりに。

  それを理解し、みるみる響季の顔が赤らんでいく。

 「あっ!言ってるそばからしてんじゃないわよ!!」
 「してな、ていうか近っ!ニアピン賞過ぎますよおねーさん!なにっ、もうっ、ええっ!?なんやの!!」

  看護師さんの指摘を否定しつつ、響季は目の前の可愛い子ちゃんにクレームをつけるが、びっくりし過ぎて変な関西弁も交えてわあわあ騒ぐだけになる。
  だが騒ぐ響季の頭を零児がポンと叩くと、

 「だっ…、う」

  それだけで、静かになった。
  冷たい手のひらからふつふつとした熱が吸われ、動揺と興奮、戸惑いなどが一緒くたになって出て行く。
  魔法のように呼吸と血が落ち着いていく。
  それを確認すると、零児が今度はぺちぺちと頬を叩いた。痛くない程度に。
  そのぺちぺちに、響季はむにゃむにゃとした困ったような嬉しそうな顔をするが、

 「はぁーやぁーくぅーかぁーえぇーれぇー」

  甘い痛みを与え続ける零児の背中に、低く恐ろしい看護師さんの声が刺さる。
  お互いもっと触れていたいのに、声を聴いていたいのに、それを鬼看護師は許さない。

 「ほらはやくっ!」
 「あ」

  首根っこを捕まれ、零児が無理やり引き剥がされる。離れていく体温に響季が悲しそうな声を上げるが、

―ニャー。

 「ぶふっ!!」

  引き剥がされる零児を見て口元を抑える。正確には笑い声を。
  零児は両拳を猫手にして、口は猫口、アーモンドアイは猫っぽく細めて首根っこを掴まれる猫の真似をしていた。
  いつもはこんな単純な物真似なんてしないのに、聞こえないはずのにゃんこ声すら響季には聞こえた。

 「なに?」

  響季の反応を見て鬼看護師が零児の顔をのぞき込むが、そこにあるのはすんとしたクールガールな表情だった。目もいつものアーモンドアイで、崩した猫手は鎖骨のあたりになんとなく置かれるだけになっている。

 「なによ」
 「いや、ぐふっ」

  鬼看護師が響季の方に顔を向けると、また零児がこっそりンニャーンと猫の真似をし、唯一の観客である響季が吹き出す。

 「なにっ?」

  響季の反応に、鬼看護師がまた零児の顔を覗き込むが、そこにあるのはすんとしたクールフェイス。

 「なによっ!ぐっ!!」

  自分にわからないところで何をしているのかと、また鬼看護師が響季の方を向く、と見せかけて今度こそ零児の顔を見てやった。
  だがそんなフェイントを予想して、零児は白目を剥き、口を真四角くに開け、顎をはふーんとしゃくれさせたしゃくれフェイスを作っていた。
  可愛い猫顔なんて微塵もない。可愛くて面白いのは響季にしか見せてやりたくなかった。

 「もうっ、いいから早く帰れっ!!」

  なんだか馬鹿にされたようなしゃくれフェイスに鬼看護師が語気強く言い、おふざけもここまでかと零児は酷使した顎関節の合わせを手で触れて確認すると、

 「では、我は帰るぞ。外に馬を待たせておる」

  なぜか荘厳な態度と声でそう告げる。
  マフラーを首に巻き、ツンと顎を上げ、見えない帽子を手で直し、バッグを手にさっさと帰り支度をして病室を出ようとする。

 「あ、はい」

  小芝居にも満たないその態度に、響季が了承すると、

 「あーもう、帰りな帰りな。ほら早くっ」

  パンパンと急かすように手を叩いて、鬼看護師さんが腕組みをする。
  それを一瞥すると零児はその横をすり抜けて帰る、と見せかけて、

 「お菓子はいいから!!」

  すぐに踵を返して残ってる客人用のお菓子を鷲掴みしに、ガサゴソと服のポッケに詰め込めるだけ詰めた。先程までの荘厳な態度など欠片もない。
  鬼看護師はその背中にそんなのいいから早く帰りなさいよ!!と言うが、響季は大口を開けて笑い、

 「いや、荷物少ないほうが明日助かるし、食べきれないから持って返ってもらった方がいいですよ」

と、笑い過ぎて出た涙を拭いながら一応フォローしておく。
  当然零児はがめついわけではない。ただ面白いからやっただけだ。
  目の前の入院患者を笑わせようとしてやっただけ。
  それを、響季もわかっていた。

 「じゃあ」
 「うん」

  今度こそバイバイだと目で言う零児に、響季がひとしきり笑った後の顔で頷く。
  零児が満足そうにそれを見て目を伏せると、一転しておじゃま虫たる鬼看護師さんをじろっと悪そうなアーモンドアイで睨みつけた後、

 「あいたっ!」

  べしっと腕組みした腕を叩いた。

 「ちょ、」

  流石にこれには響季も慌てるが、

 「このっ、ていっ!」
 「いっ!」

  いきなりの狼藉に負けじと鬼看護師さんも手刀で零児の脳天を叩き、応戦する。院内暴力には慣れていた。
  叩かれた方は頭を押さえるが、すぐに中腰姿勢でおケツを向けると、プリプリプリプリッとおケツで押して反撃する。

 「うおわっ」

  鬼看護師さんはケツ圧と勢いに押し出され、中途半端に開けられたカーテンと響季の視界から二人してフェードアウトしていった。

 「いっ!ケツを叩くなコラっ!ゴラァッ!」!

  更にぱんっ、ぱんっという何か、というか明らかに臀部を叩く音と鬼看護師さんの声。そして、

 「ご自愛くださいっ」
 「廊下走んなコラアー!!」

  ばたばたばたという廊下を駆ける音と零児の声、看護師さんの怒声がカーテン越しに聞こえた。
  声だけで聞こえる攻防はあっけなく終わった。
  笑いをかっさらい、待ち焦がれた見舞客は唐突に帰っていった。

 「あ…、あははは、アハハハハッ!ああーっ」

  お腹を抱えて響季がベッドの上で笑う。笑い過ぎてお腹が痛い。また出てきた涙を、なんなんだよもう、と笑顔で拭う。
  全力で笑わせてくれる。全然飽きない。予測がつかない。
  あんな楽しいコ、どこ探したっていない。
  楽しくて、やっぱり大好きだった。
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