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蟷螂闇始末
隅田の川遊び
しおりを挟む深川から逃亡した次郎左は半左衛門一派の襲撃は受けなかったが、佃島の関係者には、仕込みの監視がつくようになった。
昨日夜からの損害は、半左衛門側が仕込みが四名に、用心棒の篠塚龍右衛門。
敵方は、赤首の勘兵衛配下の盗人が七名に、勘兵衛本人、真兎田の剣客である大倉十兵衛。
また、生き残った窪塚次郎左衛門も、当面使い物になるまい。
特に赤首の勘兵衛の死は重要であった。
凶賊の組織を握っていた勘兵衛がいなくなると、敵方は組織の立て直しの為に、しばらくは動けなくなる。
これが、蟷螂による報復の効果であった。
冬吉はなかなか寝付けなかった。
僧侶と寺男の手伝いで、死体の処理を終えてからも、半左衛門には何も聞くことはできなかかった。
いや、いくつかの想像はできるのだ。
それは、想像もしたくないことである。
本来、冬吉の知る限り、真兎田流の使い手はこの世に三人しかいない。
三人のうち自分以外の二人は行方不明である。
そのどちらかが、刺客の技を複数の剣客に伝授した。
さらにもう一つのことに気づいている。
半左衛門が、手負いとは言え真兎田の剣客を殺せるはずがない。
普通なら気付かないが、冬吉は大倉十兵衛の足の、ごく小さな傷に気付いていた。
打針の傷だ。
あの総髪の男を殺したのも、真兎田の剣客と見て間違いない。
分からないのは、なぜ半左衛門が真兎田の刺客に狙われているのか、そして、おそらく一人は、味方につけているのか。
これは考えてもわかるものではなかった。
半左衛門の持つ闇、それを聞くことをできないでいる。
何かあるとは思っていたが、それに真兎田が関わっているとは思っていなかった。
だからこそ、聞けないのだ。
あまり寝ていないが、仕事には影響はなかった。
若く、人並み以上に体力のある冬吉は、一日二日の寝不足では仕事に影響はない。
包丁人としての仕事を始めてしまえば、余計なことは考えなくなり、悩みは消えていく。
昨夜の冬吉の冷や汁は、なかなか評判だった。
今日はそれを、さらに改良している。
涼しげな風情をさらに強調することを目指すことにした。
昨日より大きめに切った豆腐の入ったざるを揺さぶりながら、チラリと銀次郎の様子を見る。
今日の銀次郎は、昨日とは違う。
集中している、というよりも、どこかうきうきしている。
なにやら素麺のようなものを、干瓢か何かで縛っているが、鼻歌が聞こえてきそうなぐらい、機嫌が良い。
自分のこさえている物が、どんな姿になるのか、楽しみでしょうがない、そんな気持ちが伝わってくる。
考えてみれば、銀次郎は真面目な料理人であるが、楽しそうには仕事をしていなかった。
ひょっとすると、今、初めてこの仕事の地味を味わっているのかもしれない。
うまいものをこさえるのは楽しい。
人に喜んでもらえるのは特に楽しい。
だが、さらに自分で工夫を加え、まだ世になかった物を作り上げるのは、さらに楽しい。
冬吉も楽しかった。
この、天才と競ってうまいものを作れる。
そう思えば、昨夜の事件の屈託など、些細なことに思えてくる。
いつのまにか、冬吉の口元は緩んでいた。
包丁の仕事はいい。
いや、料理に限らない。
工夫すること、技を磨くこと、何かを改善すること、そうした、何かを前に進めることが楽しいのだ。
あらゆる問題は簡単ではなくとも、完全ではなくとも、工夫を重ねることでいくらかマシにできる。
そうであれば、今、冬吉がぶち当たった問題も、工夫を重ねることで、いくらかマシにできるはずである。
悩む必要などないのだ。
塞ぎ込む必要も、逃げ出す必要もない。
何もできなくなるほどには、自分はまだ疲れてはいないのだから。
「ほう、まさしく雪。なんとも涼しげ。出汁もさらに工夫しましたね?」
「やはり、少しだけ、昆布も使ったほうが良かったようです」
「うーむ、昨晩はずいぶん評判になりましたが、さらにそれを高めることができるとは。驚きました」
夕刻が近づき、椀の味くらべの場でのことである。
冬吉の椀には、まさしく雪玉のような、丸い豆腐が入っていた。
賽の目に切った豆腐を、ザルの上で転がすことで、角が削れて球になる。
これが舌の上に乗せると、とろけるように柔らかいのだ。
冷たい葛の汁も、昨日よりさらに味わい深く、洗練されている。
次は銀次郎のものであるが、蓋を取る前に、まず、器を見て半左衛門は驚いた。
椀、つまり漆器ではなく陶器の、碗なのである。
それも、店にあるものの中で、最も高価な黒塗りのものである。
『わん』は、木製の漆器の場合は『椀』、茶碗のように陶器の場合は『碗』と書く。
椀方というぐらいだから、本来なら漆器を使うのが普通である。
とは言え、今回は冷や汁なのであるから、陶器を使っても、よりひんやりして悪くない。
漆の椀は、熱い汁を入れても火傷するほど熱くないから使うのであって、冷たいものを楽しむなら、陶器でも良いかもしれない。
とは言え、陶器の碗は揃いの蓋はないので、小さい釜に使う木製の蓋が乗っていた。
それを、そうっとのける。
半左衛門も正三郎も、言葉を失った。
碗の中には、無色の出汁が張られ、素麺が入っている。
それが小さく束ねられ、花のように開いていた。
素麺は桃色や橙の色付きのものが使われ、一つは大きく、他に二つ、小さなものがある。
両端近くと真ん中を干瓢で縛り、茹でた後で、両端から少し内側で斜めに切ったのだ。
大きなものはそれを半分に折り畳むようにして、さらに縛り、中央が短くなるようにして広げる。
大輪の花火だ。
小さなものはそのまま開いたのであろう。
一度開いて儚く消えていく前の花火のようだ。
碗ごとに、色の組み合わせは変えてある。
そして、店で一番高価な黒塗りの碗の内側には、今日ではラスターとも呼ばれる、『星』が浮いている。
焼き締めた際に、できた光沢が虹色に輝く現象で、だからこそ高価なのだが、それにより、気づいた。
これは、夜空に打ち上がった花火だ。
あるいは、それが水面に映ったものかもしれない。
上品で風流な料理こそが銀次郎の父、宗兵衛の持ち味であったが、この銀次郎の碗は、目の覚めるような華やかさであった。
冬吉の涼やかな椀とも違う。
日の照りつける昼が終わり、夏ならではのエネルギッシュな夜を楽しむ碗である。
さらに驚いたのは、碗の底が透き通って見える透明の出汁。
口にしてみれば、塩のみで味をつけたのであろうが、それだけでうまい。
僅かに柚子の香りがした。
「これは隅田川の夏。『隅田の川遊び』だ」
半左衛門はその場でこの碗に命名した。
「冬吉さんの椀も素晴らしいが、今日はこちらで行きましょう。夏の暑さの憂さを晴らす、艶やかな素麺です」
半左衛門は興奮していた。
自身、冬吉同様に屈託を抱えていたのだ。
用心棒、篠塚龍右衛門の死を悼みつつ、己の闇について、おそらくは冬吉に感づかれたことに、悩むとまではいかないが、憂鬱にはなる。
その憂さを晴らすような、見事な碗を銀次郎はこさえたのであった。
冬吉と銀次郎は頭を下げて、半左衛門の評価を聞いた。
二人とも笑みを浮かべていた。
冬吉にとっては、終生、切磋琢磨すべき好敵手を得ることができた瞬間であった。
銀次郎にとっては偉大な父の殻を破った瞬間であった。
「いったい、どうしてこんなのが思いついたのだね?」
正三郎の問いに、銀次郎は照れ臭そうに頭をかいた。
「昨日、初めて花火を見たんです」
「は、初めてっ?」
正三郎も、半左衛門もハッとした。
幼少の頃より、宗兵衛は銀次郎に包丁のことをひたすら仕込んでいたのだ。
物心がついたときには、同じ年頃の子供たちが遊んでいるところを、包丁を持たされ、大根の桂剥きをひたすら、毎日やらせされたりしていたのである。
銀次郎の子供時代、青春は全て厨房の中でのことだったのだ。
昼間は外に出ることはあっても、夜は常に厨房である。
花火を見たこともなかったのは驚きだが、それでは何が美しいのかを知ることもできない。
銀次郎にとって、美しいとは、宗兵衛や正三郎の作る料理のことであって、それ以外には知らないのだから、自分なりに作ってみろと言うのは無理があったのである。
「昨日、冬吉さんに屋根の上に連れて行ってもらわなければ、私は一生花火を知らずに生きたかも知れません。いや、花火だけではないですね。これからは、時々外に出て、もう少し見聞を広げとうございます」
半左衛門は迂闊であったと思った。
いや、一番迂闊だったのは、息子を一流の包丁人に鍛えようとするあまり、二十七年も厨房に押し込めてしまった宗兵衛なのだが、それにしても、そのやりすぎに気づかなかった自分も迂闊である。
一瞬、『すまなかった』と口から出そうになるが、そう簡単にそんなことは言えない。。
このような話で、主人が頭を下げてしまっては、他の若い奉公人も、妙な勘違いを起こしかねないのだ。
詫びは、今後の店の工夫によって入れることにするしかない。
「しかし、冬吉さんの椀もいい。今年はこの二つで、勝負しましょう。お客に選んでもらってもいい」
パンと手を叩いて半左衛門は言った。
正三郎も、興奮した様子で何度も頷いている。
「銀次郎、この素麺を作りながらで大変かもしれないが、冬吉さんがいる間に、こちらの椀の作り方を教わっておきなさい」
「他の者に手伝わせてもいい。どちらも仕込みが大事だ」
半左衛門の言葉に正三郎が続けた。
正三郎としても感無量である。
あの銀次郎が、確かに父親を超えてみせたのだ。
「で、冬吉さんの椀にも名が欲しい。何か腹案はありますか?」
半左衛門はちょっとだけ意地悪な顔で問うた。
冬吉はぎくりとする。
実は冬吉は、名付けが下手くそなのである。
自分の店の名は、実家の家名をそのままつけることで凌いだが、例えば、『風割り蒸し』は最初は『割玉蒸し』と言う、なんとも締まりの悪いものだったのを、お夏が見かねて考えてくれたのだ。
元は士分であるから、読み書きはできるし本も読むが、冬吉の『読む』は知識を得るために読むのであって、文章や表現を楽しむと言うところには欠けている。
完璧な人間などいないのだ。
「では、そうですね、『夏の白雪』でどうですか?」
「はっ、ありがとうございます」
自分で考えずに済んだ冬吉は、平伏してほっとしながら感謝した。
『隅田の川遊び』と『夏の白雪』は、この夏から柏屋の名物となり、花火の季節を彩ることとなった。
そうして、銀次郎は名実ともに、煮方として厨房を統括するようになり、江戸屈指の料理人として名が知られることとなる。
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