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暗殺剣同門始末
龍 毒牙に墜つ
しおりを挟む総髪の男、大倉十兵衛は半左衛門の住む離れの裏に回り込もうとした。
わざわざ正面の渡廊下で、用心棒に出会す必要もない。
しかし、そこで、半左衛門という男の狡猾さに、舌を巻いた。
離れの裏側には濡れ縁も窓もない。
そもそもが塀との隙間は一尺(三十センチ)足らずである。
これは別に変わった作りというわけでもないのだが、建物内に侵入可能な経路は全て、渡廊下の中央、用心棒の居座るところから丸見えなのである。
もともと、用心棒を殺す算段ではあったので、舐役達の話を聞いても、大倉は問題視していなかった。
今、予定外の見知らぬ剣客の参戦によって、用心棒とやり合うのを避けられるものなら避けたいと考えたのだ。
そこで半左衛門の巧妙さを初めて理解したのである。
殺るしかない。
刺客の仕事は、時間との戦いである。
本来なら用心棒と同時に的を仕留め、奉公人が気付く前に立ち去るのが定石である。
しかし、用心棒ともう一人、同人数の敵を倒さねば、的にたどり着けないとあれば、出来るだけ早くこれらを始末するしかない。
あの、町人姿の剣客も、大声を上げて他の奉公人や、客達を起こそうとはしなかった。
穏便に済ませたいと言う思いは、商売をする者にはあることだろう。
あの男を次郎左が倒し、自分が用心棒を殺る。
先に終わらせた方が半左衛門を仕留める。
それしかないのだ。
十兵衛は走り出した。
本来この男は、こうした出たとこ勝負は好まない。
甲州流軍学を真兎田流と共に修め、一味の中でも俊才として頭角を表した自分が、次郎左のような剣術狂いに振り回されている。
納得は行かぬが、今は認めざるを得なかった。
篠塚は無言で走り出した。
こちらに向けて駆けてきた者が、刺客であることは疑いない。
自分の雇い主が、何者かに狙われていることは勘づいているが、それを問いただしたことも一度もない。
ただ、守るべき者を守るだけ。
剣客が、殺人の技を鍛錬する者が、胸を張ってその技を役立てることがあるとしたなら、それしかないのだ。
二人が交錯した。
全速力で正面から衝突するかに見えたが、直前で抜刀し、すれ違った。
「ちぃっ、浅いっ!」
二人が抜刀したのはほぼ同時であった。
しかし、傷ついたのは、篠塚の方である。
通常、抜刀術では、左手で鞘を持ち、右手で刀を抜く。
その際、左手の鞘は動かさない、固定するものとされる。
しかし、真兎田流『抜刃』では、むしろ柄を持つ右手よりも、左手を動かす。
鞘を動かし、柄頭あたりに置いた右手のあたりまで、鍔を持ち上げる。
次の刹那には、右手で刀を動かすと同時に、左手の鞘も後ろに引いて一気に抜く。
威力なら、腰のあたりで鞘を固定し、そのまま抜く方が、鞘の中で加速した斬撃となるので強い。
だが、こと接近戦、脇差の間合いにおいては、斬撃の威力よりも動き始めから抜刀するまでの速さが重要、真兎田流ではそう考える。
大倉の『抜刃・駆首」は、篠塚の抜刀よりも明らかに速かった。
普通なら、篠塚の首筋の動脈を切り裂き、大量の血が吹き出していたはずである。
篠塚は、遅れて刀を抜いた刹那、抜いた刀を振るのとは逆方向に体をずらしたのである。
『一寸の見切り』
二天一流を修めた篠塚であるから、当然、宮本武蔵の神技については知っている。
だが、その後の二天一流で、この技を使えるようになった者はいない。
しかし、一寸まで見切れなくとも、その修行によって、人の動きに関する洞察を得ることができる。
わずかな筋肉の動き、目線、着物のひだの揺れ。
そうしたわずかな変化から相手の太刀筋を見る、見切るとまではいかなくとも、予想することはできる。
篠塚はもちろん、『抜刃・駆首』の技を知らない。
だが、自分より早く抜刀が終わるということだけは理解した。
よって、直前で突進の角度を変えることで、致命傷を避けることができたのである。
十兵衛は、冷や汗をかいてた。
この男は思っていたより強い。
舐役の話だけでは、わからないこともある。
彼らの話では、膂力と脚力が優れていることしかわからない。
その証言からは、剣術家としての腕まではわからなかった。
しかし、実際には初見で真兎田の技をかわした。
真兎田流は、諸流にはない意表をつくような変わり技が多い。
それが強みであると、十兵衛は考えていた。
だが、それでもかわされる。
自分の腕が不十分なのか。
もともと、理屈っぽい十兵衛は考え込んでしまう。
簡単なことである。
目の前の用心棒、篠塚龍右衛門は、考えているのではなく、剣客としての勘で、真兎田の技に対応している。
十兵衛の思考を巡らす一瞬の差が、結果の違いに現れているのだ。
再び篠塚は踏み込んだ。
右からの逆袈裟、下から力強い一撃が来る。
傷を負ったとは言え、首の皮一枚を切り裂いた程度、動きに影響はない。
篠塚はそんなものは気にしない。
大倉のその時の動きは、考えたものではなく、体が自然と動いた反射であった。
恐怖に体が反応したに過ぎない。
しかし、恐怖には立ちすくむのが、人の本能である。
恐怖した際に技が出るのは修行の賜物であろう。
大倉は左手で、腰の鞘を引き出し、逆袈裟の一撃を受けた。
鉄ごしらえの鞘は一撃でひしゃげた。
衝撃で跳ね飛ばされそうになるのを必死に堪える。
同時に反撃の技が、やはり反射的にでる。
刃が手首の捻りでくるりと周り、下から相手の左腕を、切り上げる。
さらに袈裟斬りに斬り下ろす、『筒刃・留風車』。
かつて、冬吉が辻斬りの男を仕留めたこの技は、相手の刀を鞘で受けた瞬間に、神速の斬撃を放つもので、それこそ初見ではかわしようがない。
だが、大倉が、下から腕を切り上げる直前に、体ごと吹き飛ばされた。
篠塚の左手には、太刀の鞘が握られていた。
逆袈裟が止められると同時に、腰から抜き、同時に脇腹に叩きつけたのである。
本来なら、これは鞘での一撃ではなく、脇差の抜き打ちであったはずだ。
もし、冬吉に貸した脇差が、篠塚の腰にあったなら、大倉は脇腹を深く裂かれていたに違いない。
とは言え、渾身の一撃は肋骨をへし折っていた。
大倉の顔が苦痛に歪む。
大倉の心を恐怖が支配した。
もともとこの男は自分が始末する予定であった。
真兎田流の技では次郎左には敵わないが、たかだか浪人、用心棒如きに自分が負けるとは思っていなかった。
剣では勝てない。
打針も、一撃で敵を倒すには、目を狙うしかなく、この男の異常とも思える勘の裏をかくことは難しい。
大倉は、奥の手を使うしかないと思い定めた。
これは真兎田の技ではない。
真兎田流は、刺客の剣技と言って良いものであるが、毒は使わない。
毒殺は、その入手経路を探られると足が付きやすく、所持しているだけで疑われる。
凶賊や破落戸のような、元々素性怪しい者たちならばともかく、武士が使うには便利とは言えないものだ。
しかし、背に腹は変えられない。
武家屋敷狙いの凶賊からもらった、吹き矢の毒を塗った針を着物の帯に仕込んである。
これを使うのは仲間たちからは笑われる類のものであろう。
しかし、これしかなかった。
こちらから、篠塚に向かって飛び込んだ。
大上段からの打ち込みである。
相手は獲物を二本。
これは、受けと同時にもう片方の刀で攻撃できることを意味するのだが、実際にはそう簡単ではない。
伝承に寄れは、二天一流の流祖、宮本武蔵は異常な膂力の持ち主であった。
片手でも両手と同様に力強く刀を振ったとされる。
切るだけなら、片手でも良い。
しかし、相手の斬撃を受けるとなれば、片手では普通は心許ない。
篠塚もかなりの膂力の持ち主であるが、大倉の渾身の一撃を片手で受けられるほどではない。
二天一流には、受けの奥義が存在する。
後世、杖術として今日にも残る、神道夢想流の流祖夢想権之助を退けたとされる、十字受けである。
交差させた二本の獲物で、相手の刃を受ける。
これは単に、二刀を持って両腕で防御するというだけではない。
交差させた二本の剣は、そのまま相手の獲物を挟み込み、動きを制することができる。
篠塚はもちろんそのつもりであった。
二天一流では必勝の技である。
十字で受け、獲物を挟み込んだのち、二刀が相手の刃を滑るようにして走り、斬撃を与える。
刀と鞘で大倉の脇差を受けた。
そのまま、挟み込み、捻り込むように脇差を制する。
だが、そこから篠塚は何もできなかった。
膝から崩れ落ち、痺れたように体が動かない。
大倉は、脇差を止められた刹那、腰の針を素早く抜いて、目ではなく胸に押し込んだのである。
毒は河豚と毒ゼリのものを混ぜた神経毒である。
刺したのは心臓のあたり、毒の周りも早い。
ほぼ即死であった。
はなれの屋根の上に、片手で合掌する女の姿があった。
蟷螂のお詩乃である。
冬吉に脇差を渡した時から、ずっと屋根の上に潜んで見ていたのだ。
篠塚ならば、一対一なら真兎田流の剣客といえども退けることは可能である。
しかし、二刀を使えればだ。
よって、冬吉に脇差を与えた時点で、結果は分かっていた。
それでも、もし、お詩乃が割って入れば、篠塚を救うことはできたのである。
お詩乃はそうしなかった。
半左衛門の闇と、自分の存在を篠塚に教えるわけにはいかないからだ。
お詩乃は篠塚を見捨てたのである。
屋根からは今の冬吉の様子も見えた。
お詩乃は冬吉に戦ってはほしくなかったが、こうなっては致し方ない。
半左衛門が死ぬよりはましなのだ。
冬吉の相手が、たとえ篠塚を倒した男より上手だったとしても、殺されることだけはないのだから。
お詩乃は音も立てずに、細工された屋根から、屋根裏に降りた。
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